LOGIN翌日。
早朝から仕込みを初め、それが終わり次第、十一時の開店まで紫麻の休憩時間だ。 『夏休みの学生さんが多いですね〜 ! 最高気温も三十五度越えですよぉ〜 ! 』 『暑そうですね〜 。CMのあとは、熱中症対策グッズの紹介 ! 今年はアレが目白押し〜 ! 』 この時間に遅めの朝食を摂り、ワイドショーを観ながら新聞を読むのが日課だ。 『高齢者住宅での殺人事件』 『面識なし、押収したスマートフォンから闇バイト仲間であった可能性』 『二日前に自主した崎森被告の共犯か、捜査滞る』 『「旅行中で良かった」と家主の夫婦がコメント』 「〜〜〜♩♩〜〜っ♩」 「随分ご機嫌じゃないか」 開店前の店内。L時型カウンターの一番影になるような席に男がいた。 大通りにある教会の神父である。 老齢で白髪と無精髭。ローマンカラーを付けたままのカソック姿。 常連を極めに極めたこの男は神父でありながら、開店前から酒を浴び、趣味の春画を眺めている。 「お腹が満たされたからな。気分がいい」 紫麻は唯一、この男にだけは素で付き合える間柄だ。先に自宅で読んで来た新聞の内容を思い出し、神父は紫麻へ声をかけた。 「カシエル……どうせ食うなら綺麗に食えばいいんだ。なんで食い散らかすかねぇ。昨日ここに、刑事が来てたろ ? 」 「美味しい部分だけ食べたいんだ、ヒズキエル。それに今は紫麻と名乗っている」 「俺もその名はもう名乗れねぇんだよ。今は人間、鹿野 敦夫だ。 長いな、俺たちも。人の世界に堕ちてから……」 紫麻は紙タバコに火を付けると、紫煙をくゆらせて新聞に視線を落としたまま。 「人間のルールは守るさ。 けれどわたしはこう考える。悪質な者は滅びるべき、とな。特に海にゴミを捨てるような者は特にだ。何故なのか、ゴミの不法投棄で人を殺していい法律は無いらしい」 「当然だろうが。ポイ捨てだけで死刑にしてちゃ人間絶滅しちまう。軽犯程度のゴミの罰則はあったりするけどよ。実際、みんなやるよなぁ」 「だから自分で判断するだけ。なにも見境なく食ってやろうとは思っていない。 この身体だからな。陸にいるのはとても負担が大きいから、人を喰わない訳にはいかない……。堕天使の成れの果てだ……」 「俺も現状、神を知る元天使だぁ。人間に紛れ、神の専門家をしながら、ここで大酒を飲む。人間からすりゃあ、詐欺だよなぁ。神の存在を悪魔になった山の神が説明してるんだから。 だがこうも言える。神を本当にいると知っている、となぁ」 「物は言いようだ。ここで飲んだお金は払って貰いうからな」 「日曜礼拝の後にまとめて払うさ。それまで教会で余ったワイン持ち込みするからよ」 「……日曜礼拝で……信者が来ているのを見たことがないが。だから余るのでは ? 」 「 つまり、人間の世界で上手くやっていこうぜ元相棒、って事だ」 カシエルとシズキエルは大天使 ガブリエルに仕えた智天使である。だが今や二人はこの体たらくである。 「海の中も悪くなかった。海は全ての世界に繋がっている。だがあまりにも環境がよくないのだ……あれは耐えられん……」 「山も酷いもんだぜぇ。生活可能域が狭すぎる。どこに住めばいいのか分からん。俺も人は嫌いだが、人肉は食わん。それより酒が飲みたい」 更に人の社会生活をまだよく理解していない二人。神や天使は、即物的で古来からの固定概念が抜けきらない。 人の姿をしているだけの堕天使である。 シュボッ ! 「おい、吸うなら換気扇を付けろ。服に匂いがつく。 あと、さっきからタコ足が一本髪から出てるぞ」 「失礼。気を抜くとつい便利であちこち作業するのに腕を増やしてしまう。それで触腕をしまい忘れてホールに来てしまうんだ。 そんなことより、お酒を飲んだ神父が、誰かと会うということの方が余程不味いんじゃないのか ? 」 「特定の信者は来ねぇが、たまに変な団体が来たりすんだよ。俺のカモだ」 「向こうもカモを探しているのだ。 そろそろ暖簾を出すからな。その春画集も本棚からその席の側へ移す。人間からすると猥褻なものらしい」 「はは ! 今どきこれがエロいとは思わねぇだろ。男女はまだ分かるが、大蛸と女の絵はもうコメディだろ」 「何やらそう言う物好きが人にはいるらしいが……他の国では見なかったがな ? この国独自の……HENTAI ? なのかもしれんな」 紫麻が八本軒の赤い暖簾を持ち引き戸を開けると、スマートフォンを片手にした女性が立っていた。 「あ、良かった。営業時間、これからですか ? 」 紫麻の顔がスっと微笑を浮かべて、客をもてなす空気に激変する。 「はい。お待たせいたしました。どうぞ」 二十代後半程だろうか。女性は若々しく、身なりもいい。と言うのは、仕立てのいいスーツを着ている。刑事には見えないが、いかにもなホワイトカラーという出で立ちで、そのせいか地味なメイクで老けて見える──と言うのが紫麻の第一印象だった。 「もしかして休業日かと思って、今検索しようとしてて」 「そうですか。どうぞお好きな席へ。お冷はセルフでございます」 女性は入るとすぐ、人懐こく笑顔でカウンターに掛ける。 「あ、こんにちは ! 旦那さんですか ? 」 開店前にカウンターで酒を飲んでいた鹿野に気付き声をかけた。 「いや、ただの入り浸りだよ。 姉さんこそ、今日は仕事かい ? 」 「はい。大通りの市役所に勤めてて。休憩中、今日は一人になりたくて」 「市役所の方は皆さん仲がよろしいですか ? 」 「はい。すごく ! でも詮索されたくない事もあって……。 休憩中はゆっくり彼氏とやり取りしたいなって」 「まぁ、彼氏。そうですか。どうぞ気兼ねなく」 紫麻が注文を聞く前より先に、彼女はノートパソコンを広げた。 紫麻も鹿野も、それをなんでもない様子で見守るのだった。「ヘヨン、お待たせ」『全然待ってないよ ! リカコ ! 』 紫麻はメニューを開く気の無さそうなリカコをにっこりと見つめたまま。 一方、カウンターには運悪く鹿野がいるのだ。「おー ! これ、あれだろ ? なんだっけ ? つまりテレビ電話だろー ? 今は会議とかもこれでやるんだよなぁ ? 」「そうです。 あ、そうだった ! お姉さん ! 天津飯をお願い ! 」「天津飯ですね。かしこまりました、少々お待ちください」 紫麻が大きな中華鍋を火にかけ、黒くギラつく表面がチリチリと音をたてた頃、卵のジュッ ! っと言う豪快な音が店内に響く。「あんたリカコってのかァ。 ほんで、これが彼氏さんかい ? いい男じゃねぇか」 鹿野の言葉にリカコとヘヨンは満更でもなさそうだった。 鹿野は散々ヘラヘラ絡んだ後、再びお気に入りの席へ戻った。これで泥酔レベル50%だ。『綺麗な所だね ? 今どこにいるの ? BAR ? 』「職場近くの中華屋さんなの」『へ〜、なんか中華版魔法使いの部屋って感じ』 そこへ紫麻が天津飯をサーブしてきた。「お待たせいたしました。天津飯でございます」「わ、早っ ! ありがとうご……ざいます……」 リカコの視線が天津飯に釘付けになる。 リカコの挙動に気付いた紫麻が思い出したように、張り紙を指さす。「そうでした。最初に言っておくべきでした。 わたしがアレルギーでして、うちに海産物のメニューやお出汁はありません。故に……餡かけに蟹などは入れることが出来ないのです。 別なメニューを作り直しましょうか ? 」「あ、いいえ ! 大丈夫です ! お、美味しそうだし ! 」 リカコはレンゲを持つと、少し躊躇った様子でトレイを自分の方へ寄せる。 天津飯──とは言い難い。例えるなら巨大なおむすびに大きな卵焼きを乗せて餡をかけただけの……何かだ。 事実、紫麻の料理は八割が不味いのだ。
翌日。 早朝から仕込みを初め、それが終わり次第、十一時の開店まで紫麻の休憩時間だ。 『夏休みの学生さんが多いですね〜 ! 最高気温も三十五度越えですよぉ〜 ! 』 『暑そうですね〜 。CMのあとは、熱中症対策グッズの紹介 ! 今年はアレが目白押し〜 ! 』 この時間に遅めの朝食を摂り、ワイドショーを観ながら新聞を読むのが日課だ。 『高齢者住宅での殺人事件』 『面識なし、押収したスマートフォンから闇バイト仲間であった可能性』 『二日前に自主した崎森被告の共犯か、捜査滞る』 『「旅行中で良かった」と家主の夫婦がコメント』 「〜〜〜♩♩〜〜っ♩」 「随分ご機嫌じゃないか」 開店前の店内。L時型カウンターの一番影になるような席に男がいた。 大通りにある教会の神父である。 老齢で白髪と無精髭。ローマンカラーを付けたままのカソック姿。 常連を極めに極めたこの男は神父でありながら、開店前から酒を浴び、趣味の春画を眺めている。 「お腹が満たされたからな。気分がいい」 紫麻は唯一、この男にだけは素で付き合える間柄だ。先に自宅で読んで来た新聞の内容を思い出し、神父は紫麻へ声をかけた。 「カシエル……どうせ食うなら綺麗に食えばいいんだ。なんで食い散らかすかねぇ。昨日ここに、刑事が来てたろ ? 」 「美味しい部分だけ食べたいんだ、ヒズキエル。それに今は紫麻と名乗っている」 「俺もその名はもう名乗れねぇんだよ。今は人間、鹿野 敦夫だ。 長いな、俺たちも。人の世界に堕ちてから……」 紫麻は紙タバコに火を付けると、紫煙をくゆらせて新聞に視線を落としたまま。 「人間のルールは守るさ。 けれどわたしはこう考える。悪質な者は滅びるべき、とな。特に海にゴミを捨てるような者は特にだ。何故なのか、ゴミの不法投棄で人を殺していい法律は無いらしい」 「当然
「まぁ、お巡りさん」 件の事件から数日後、二人の刑事が八本軒を訪れていた。いつにも増して柔らかな口調が藍色のチャイナドレスと相まって妖艶に見える。チャイナドレスと言ってもなにかイヤらしさのないデザインだ。 「刑事課の鏡見と」 「柊と申します ! 」 どちらも若い刑事だ。有り余るエネルギーを制服で抑えているような印象。 「店主の黒月 紫麻さんで間違いないですか ? 昨日の崎森の自主の件で、もう一度経緯をお伺いしたいのですが」 「ご苦労様です。どうぞ、暑いので中に」 「あ、お気遣いありがとうございます」 警察署から近い立地だ。勿論二人もこの店を知っていた。 だが、実際に入店したのは初めてだった。 店内には客がいない。 現在は16:00。 八本軒は15:00〜17:00までは中休憩がある。 紫麻は仕込みの手を止め、鏡見と柊をテーブル席へ案内し冷水を差し出す。 「外は暑いでしょう。温暖化は深刻な問題です」 「ええ〜。もう本当に真夏は日差しが強いですね」 柊がケラケラと話す。 一方、鏡見は仕切りに指で背広の胸元を擦りながら、銀縁眼鏡の鋭い瞳で店内をチラチラと観察。神経質そうな男──というのが、世間一般での鏡見の印象だろう。 鏡見がふと、雑誌置き場にある風変わりな物に目を止めた。紫麻はそれを敏感に察知し鏡見へと話を振った。 「春画は違法ですか ? 」 「え ? あぁ、少し気になっただけです……。 あ……。まぁ。ここは食堂なので似つかわしくはないかと……見方によっては猥褻物になる可能性もありますが……。 いや、しかし春画は文化的なものですからね……どうでしょう」 「これは残念な事なのですが、この店にはお子様連れのお客様は滅多にいらっしゃらないので、つい。 配慮が足りませんでしたね。すぐ別な場所に移動しますので」 「え、ええ。でも、凄い量ですね」 「常連客の方で、お読みになる方がいますので。芸術的観点で興味があるようです」 「そ、そうですか。 ところで黒月さん、実はこの女性はご存知ですか ? 」 鏡見が懐から一つの写真を取り出す。 紫麻は即答した。 「一ヶ月程前にここへ。夜間は二十二時まで営業しています。閉店の頃、暖簾を下げようと外に出ましたら、裸足で立っていらしたので驚きました」 「
剥き出しの刃物に動じる事なく、店主の女は真っ赤な口紅をペロりと舐めただけだった。 微笑を浮かべたまま、静かに男の次の言葉を待つ。 「俺がよ……。食い終えたら……ちょっと電話貸してくんねぇか ? 警察呼びてぇんだ」 「自主でしょうか ? 」 「ああ。そういうことだ」 「分かりました。 どうぞ、ゆっくり召し上がって下さい。ご飯はおかわり可能です」 「あぁ……じゃあ、もう一杯頼むよ。 ……姉ちゃん、驚かねぇんだな。なんつーか、ここにパトが来られちゃ迷惑だろうに」 動じる様子の無い女店主に、男性の方が拍子抜けし気を緩めてしまう。 「ここで待たせて貰う事にしようとしてるんだが……いいのかい ? 」 「ふふ。大通りの警察署と教会、この先の国道から数キロ先には刑務所。 こういったお客様は、よくお見かけしますので」 「マジかよ。世も末だな」 「そうですね。まさに世界の終末でございますね。 人間はとても身勝手な生き物で……。しかしわたしはこうも思います。 人をそう創った神も疑問だ、と」 「ほんと。そうだよなぁ……はは。違いねぇ。だがよ。全部が全部を、神や仏のせいにしてらんねぇだろうよ。 実は俺ぁ、ここに来るまで三人殺ってんだ」 男性は下を向きながらも、血走った目をしていた。 「そうでしたか。ですが、自主の判断は素晴らしいです」 犯行後に『素晴らしい』等と言われても気休めや、気が変わらないようにする為の言葉だと、男は思わず苦笑いを女店主へ向けた。 「いやいや、素晴らしいとは言わんだろ。 でも……逃げたところで……時効が無い今、人生詰んでんだろ……」 「事情を聞いても ? 」 「なぁに簡単な事だ。歳の割にゃ釣り合わねぇ話に乗っちまったのよ。去年職場が倒産してな。SNSで『ドライバー募集』なんてDMしてくる怪しいアカウントに誘われて話に乗っちまった」 「闇バイトと言うものですか」 男性は頷くと、再び目の色が変貌する。 「奴ら…… ! 俺を消そうとしやがったんだ ! どの道共犯だってのに、強盗で押し入る先で誰が行くか揉めに揉めて。ドライバーが運転だけで、現場に行かねぇのはおかしいだろって言い出しやがった。俺が運転だけの仕事だと言い張ると、激昂して俺を殺そうとしやがった」 「では正当防衛です」 「おいおい。そん
「おい ! おめぇ、何者だ !? 」 暗い屋敷の廊下。 押し入り強盗の懐中電灯で照らされたソレは、光りに気付きゆっくり振り返る。 顔は女人。 首下も人間。振り返った拍子に、裸体の豊満な乳房が上下に弾む。 だが男はその不可解な異形に、思わず懐中電灯を落とし声を漏らした。 「ヒッ !! 」 女の瞳の瞳孔は山羊のように横長で妖しく吊り上がり、玩具のように真っ赤な唇が笑みを浮かべる。その唇は何かを咀嚼している。転がった懐中電灯が照らす女の口の端に、まだピクりと動く人の小指が引っかかっていた。 一緒に来た強盗仲間の青年に馬乗りになり、血肉を咀嚼しながら、人間とは思えぬ冷笑を浮かべる。 女の下肢は大きな蜘蛛のようで、床に粘膜を撒き散らしながら這いずる。黒々とした縞模様が蠢いて、青年の臓物を次々と口に運ぶ。 壁に当たって止まった懐中電灯が、天井にまで飛び散った血飛沫を照らした。 男は堪らず腰を抜かして尻もちを付いて命乞いをするのだった。 「頼む !! 命だけは !! 」 「……今まで老人達にそう言われた時、あなたは命を助けたか ? 藻屑め」 「……んな事、言われたって…… !! 」 「とは言え、とても美味そうだ」 □□□□□ 海の日。 七月のその日、洗ったばかりでペトペトのシャツを着た中年男性がふらふらと歩いていた。 男の背のベルトには、たった今使用したばかりの包丁が挟まれていた。 都会から程遠い田舎町だが、新幹線の駅街が出来るとたちまち人口が増えた市街地になった。 駅前通りは華やかではあるが、駅裏は些かまだ商業施設は少なく、代わりに市役所や警察署が大通りに建ち並んでいる。 交差点の教会を住宅地方面へ曲がれば、すぐに地元民しか立ち寄らないような寂れた路地裏が四方に伸びている。 男性は一度立ち止まり、辺りを見渡す。 その路地裏の一角に町中華の看板が見えたのだ。 真っ赤な下地に黄金色の筆字で書かれた『大衆中華 八本軒』という、ケバケバしくもどこかレトロな存在感。 店先に並んだプランターの朝顔が、何本も綺麗に軒先まで延びてグリーンカーテンになっている。 男性は古くても手入れの行き届いていそうな店だと思った。背の包丁を黄ばんだシャツで簡単に隠し、暖簾をくぐった。 「いらっしゃいませ」