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第3話

作者: 迷い魚
紗和の胸が、激しく痛んだ。

莉乃が晴翔を「息子」と呼んでいるのを見ても、まだ自分をごまかすことはできた。

彩葉から、三人が親子のように過ごしていたと聞いても、莉乃が自分のすべてを奪いたがっているだけだと、そう言い聞かせることはできた。

けれど、彼が自分の口で認めた。

紗和は震えながら身を起こし、涙を止められなかった。

「怜央、どうして私にこんなことをするの?莉乃が私の子どもを奪ったって知っていながら、どうしてあの女との子どもを作ったの?」

だが怜央は、傲慢で軽蔑を含んだ声で言った。

「その件はもう蒸し返すなと警告したはずだ。もう終わったことだ。それに、莉乃はわざとやったわけじゃない」

「わざとじゃない?そんなわけないでしょう。あれは、わざとだった。私があなたの妻なのに、どうしてあの女の言うことだけ信じて、私のことは一度も信じてくれなかったの?」

紗和は感情を抑えきれず、声まで震えていた。

この結婚で、彼女はあまりにも多くの苦しみを味わってきた。子どもを失った痛みを、夫が示談書に署名した絶望を、たった一人で耐え抜いた。ようやく少し立ち直りかけたところで、また重い一撃を受けたのだ。

怜央と莉乃は、彼女が正気を失うまで追い詰めたいのだろうか。

「いいわ。あのことを持ち出さないとしても、あなたと彼女の子を家に連れてきたのはどういうつもり?私を馬鹿だと思っているの?怜央、私は馬鹿じゃない!」

紗和は声を枯らすほど、取り乱して訴えた。

怜央はただ冷ややかに紗和を一瞥した。

「あの時はお前の気持ちを考えて、その子を養子に迎えただけだ。子どもに罪はない。あの子はお前の子にもなれる。お前が産みたくないなら、あの子を大事に育てればいい」

紗和の心は、完全に砕け散った。

これは計算だった。陰謀だった。

それが彼の口にかかると、どうして彼女の気持ちを思いやったことになるのだろう。

「怜央、あなた、自分が何を言っているのか本当に分かってるの?」

いつも耐えてばかりだった紗和も、とうとう怒りを抑えられなくなった。

彼女の理解が間違っていないなら、怜央はこう言っているのだ。自分が愛人との間に隠し子をもうけたことには何の非もなく、むしろ彼女にその子を大切にしろと。

そんなこと、受け入れられるはずがなかった。

一度でも受け入れてしまえば、その子どもは堂々と、彼女が何年もかけて築いてきた成果と財産を奪っていくことになる。

どれほど惨めでも、そこまで堕ちることなどできない。

その時、怜央の声が紗和の耳に響いた。

「俺は自分が何を言っているのか、よく分かっている。分かっていないのはお前のほうだ。お前は身の程をわきまえ、御堂家の奥様らしく振る舞うべきだ。俺の隣というこの場所は、お前がずっと夢見てきたものだろう」

そうだ。

かつては確かに、そうだった。

けれど今日からは、もう違う。

紗和は冷たく笑った。

御堂家の奥様という立場には、もううんざりだった。

次の瞬間、彼女は用意しておいた離婚届と協議書を取り出した。

怜央へ差し出そうとする。

「これを見てほしいの」

その時、慌ただしい着信音が鳴り響いた。

怜央は紗和の手にある書類を受け取らず、鳴っているスマホを取って、先に海外からの電話に出た。

電話口から聞こえた内容に、彼の顔つきが険しくなる。

通話を切ると、怜央は言った。

「書類はそこに置いておけ。あとで見る。お前が作った海外向けのゲームが攻撃を受けた。起動すると血まみれの画面が表示されるらしい。すぐに海外へ行って対処しろ。でなければ配信停止になる。お前の何年もの努力が無駄になるぞ」

「お前が作った」というその一言で、紗和はようやく、自分がずっと一方通行だったのだと思い知った。

仕事でも、感情でもそうだった。彼女は、自分が設計したゲームには二人の努力が溶け込んでいると思っていた。二人で生み出した結晶であり、彼らの子どもと何も変わらない存在だと。

けれど怜央は後継者の座を手に入れると、すぐに本社へ戻り、グループのトップとして君臨した。高みから彼女の献身を利用するだけ利用し、用が済めば忘れ去った。今、ゲームに問題が起きても、それは彼女ひとりのことなのだ。

紗和は涙を拭った。

去っていく怜央の背中を見つめながら、必死に感情を落ち着かせた。

紗和は離婚届と協議書を寝室のいちばん目立つ場所に置くと、キャリーケースを引いて車に乗り込み、運転手に命じた。

「空港へ」

飛行機の中で、紗和はあまりの疲労から眠りに落ちた。

夢の中で、低く耳に心地よい声が聞こえた。

「覚えていないのか。昔もこうして、ずっと君の手を握っていた」

紗和はふと、自分の手が半ば包み込まれているように感じた。指の間に温かな流れが広がっていく。

そのぬくもりは一瞬で消え、紗和は目を覚ました。

紗和は幼い頃、事故に遭って記憶を失っていた。けれど、事故で亡くなった両親のほかにも、とても大切な誰かがいたような気がしてならなかった。その人のことだけが、どうしても思い出せないのだ。

「失礼いたします。望月さんとお呼びしてよろしいでしょうか。それとも、御堂夫人、とお呼びしたほうが?」

背筋の伸びた、秘書らしき男が彼女に声をかけてきた。

紗和は少し驚いた。

「私をご存じなんですか?」

「お噂は、少し」

紗和はその「少し」という言葉を疑わしく思った。なぜなら、彼女と怜央は表向きには結婚を公表していない。結婚後も、彼は彼女を連れてどこかの集まりに出たことなど一度もなかった。

「望月でお願いします。そのほうが落ち着きます」

「かしこまりました、望月様。こちらをお預かりしております。私の主から、あなたへ。中をご確認ください。必要でしたら、すぐにご連絡を」

相手はそう言って一通の封書を差し出すと、踵を返して去っていった。

紗和がその後ろ姿を目で追うと、秘書が向かった先には一人の男の背中があった。背が高く、冷然とした黒いスーツ姿。正面は見えなかったが、まるで一国を統べる者のような圧倒的な気配を纏っていた。

紗和がその推薦状を見ると、そこに記されていたのは、なんと機密プロジェクトだった。

国際的な航空グループへファイアウォールシステムを提供する仕事。これほどの規模の案件を握れるとなれば、相手は間違いなく、現在の国際社会でも名の知れた大物のはずだった。

しかもそこには、紗和が受け入れさえすれば、死亡を偽装して世間から姿を消すことができると書かれていた。これまでの身元は二度と使わず、そのままプロジェクト内部に入って働くのだという。

今の彼女の状況を考えれば、それもひとつの道ではあった。

けれど紗和は、すぐには決めなかった。

まだ、手放せないことが残っていた。

海外へ飛び、問題の処理を終えたあと、彼女は邸宅へ戻った。怜央と離婚について改めて話し合うつもりだった。

だが玄関を入った途端、住み込みで家の世話をしている佐伯が、二階から慌てて駆け下りてきた。佐伯は顔を青ざめさせ、何か言いたそうにしているのに、なかなか口を開けずにいる。

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