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2.幸せのすぐそばで

last update publish date: 2026-09-14 07:29:26

「……これなら人前で使っても……。でも高いかなぁ……いや、もうそういう物を持つのが相応しい立場だし……」

 蓮花は一人、老舗の判子屋で高級万年筆が売られているのを目にして悩んでいた。

 持ち手が象牙で出来たシックで一点物の美麗な万年筆。

 透も最早、誰に紹介しても恥ずかしくない男になった。

 付き合いたて当時、安定した環境、収入で研究に打ち込んでいた蓮花からみて、社会人になりたてのまま彷徨っているようにみえた。

 とにかく起業に研究所を選ぶのは茨の道で、まず必要なのは金、金、金。疲弊しきった頃、最終試験のように襲ってくるのが人脈の有無。

 透は一代でそれを築き上げた成功者である。

「うん。これにしよ ! 」

 来週の結婚記念日のプレゼントとして、蓮花はこの万年筆を選んだ。

 結婚当初はマンションも無理をして買った。

 今はその分を取り戻す期間。

 あまりに無理をしたせいか、養父の治療にかかった費用の半分も蓮花は未だ貯蓄出来ていない。

 透も勿論そうだろう。

 メディア露出は多いものの、知名度が上がっても収入源の研究所は発見から開発までそう短期間とはいかないもので、更に今は最重要機密情報を有する研究所となってしまった。

 研究がどうなっているかなど、蓮花でさえ透の口から聞けないのが現状だ。

 あの未知の──後にASTERと名付けられた──謎の生命体の搬入を境に、鈴峯研究所は要塞に変貌してしまった。

 清潔感のある明るい未来をイメージしたフロント内装から一転、対爆庫のように分厚く重々しい物に取って変わった。

「ラッピングはサービスです。何か、袋にお入れしますね」

「ありがとうございます ! 」

 華やかなリボンが見え隠れする小さな紙袋を提げ、次はケーキショップへ足を運ぶ。

「透はチョコレートケーキ、お義母さんはレアチーズケーキだったわね。わたしはミルクレープがいいかなぁ」

 ショップの取っ手に指をかけた瞬間、背後を救急車が一台通過していく。ガラスに写る赤色灯の数に、蓮花は思わず振り返って路上を見る。

 遠くから、もう一台の救急車が右折していくのが見え、その後続車も緊急車両が何台も列をなし、蓮花の目の前を通っていく。荒々しいサイレンが頭の中までジリジリと揺れるような大きな音を立てていく。

 蓮花はぼんやりと店の中に入ると、店員もまた目を丸くし、窓の外を見ていた。

「なんでしょう…… ? 事故とかですかね ? 」

「事故……火事じゃないですもんね。あ……いらっしゃいませ、失礼しました」

「いえ。びっくりしますよね。大きな事故や災害じゃないといいですけど」

「そうですねぇ」

「ケーキの予約をお願いします」

「かしこまりました。ではこのメニューからお選びください。お決まりになりましたらお呼びください」

 蓮花は全ての注文を終えると足取り軽く、ケーキショップを後にした。

「やだ……ドレスも忘れてた」

 ショーウィンドウに並ぶアクアマリンをイメージした水色のドレスに目が止まる。

「……綺麗……」

 そのままふらりと立ち寄りそうになるのを堪え、透の好みを思い出す。

「黒のタキシードは去年着たから今年は別の色をって言ってたし……まだ買わないほうがいいわよね」

 □□□□□

 夕刻、インターホンが鳴りドアを開けると義母である茜が立っていた。

 長いブロンドヘアーが自慢の美容師だった。透の成功と共に現役を引退し、蓮花達の別棟のマンションに住んでいる。

「お義母さん、いらっしゃい。どうぞ」

 そう言い、蓮花が笑顔で玄関へ通す。

 マンションと別棟の茜のマンションには渡り廊下があり、パスキーさえあれば行き来は自由だ。まさに現代の二世帯住宅のようで、蓮花も頭を悩ませていた。

「なんだか事故が多いみたいね。来週、記念撮影するでしょ ? ドレスを仕立てたんだけど、オーナーと連絡が付かないのよねぇ」

 茜は蓮花の靴をジッと見た後、棚の上や花瓶の花など、あらゆるところを観察していた。

「ドレスですか。お義母さんセンスがいいから ! わたしも見るの楽しみです ! 」

「まぁ、あくまで透の結婚記念日だし ? このくらい当然よ」

「あ……。ええ、本当に楽しみです」

「あなたは ? 」

「え ? 」

 どういう事かと、蓮花は目を丸くして茜に振り返る。

「あなたもドレスくらい新調するでしょ ? 結婚記念日にわたしだけ張り切ってるみたいじゃないの。

 勿論、わたしに見劣りしない程度には小綺麗にするわよね ?」

「か、考えておきます。わたしはセンスもないし、透さんと相談してから……」

「そうね ! それがいいわ ! 

 あなたが今、こんな生活できてるのも透のお陰なんだから、相談するのは当然だわ」

「はい……」

 さっさと夕飯を食べさせて帰らせたいところだが、肝心の透が帰宅していない。二人で先に箸を付けるなど、以ての外。

 蓮花はティーポットを出しお湯で温め始めた。

「今日、お墓参りに行ったの ? 透と ? 」

「はい。二人で結婚記念日三年目の報告も兼ねて」

「分かんないわぁ。滝川  丈太郎は、あなたの本当の父親でもないのに。よく熱心に死んだ後も通えること」

「透さんも優しい方なので。感謝しています」

「うちの墓には彼岸にしか来ないのに」

「すみません……」

 ティーカップを茜の前に置くと、仕方なく蓮花は向かいに座る。

「透はそれだけ忙しいのよ ? なのに自分の用事に付き合わせるなんて。

 それで、どうして一緒じゃないの ? 今日はわざわざ休みをとったって聞いたけど ? 」

「途中で研究所の方に呼ばれまして」

「ほらぁ。忙しいってのに透がいないと職場だって困ってるじゃないの。駄目よ、あなたがそんなにわがままじゃあ。

 だいたい、研究所を立ち上げる時も殆ど杏ちゃんが助けてくれたし。あなたは何もしてないんだから、せめて足を引っ張らないようにしないと」

「はい……」

 蓮花ももう茜の態度は諦めている。いちいち腹を立てたところで上手くはいかないだろう。聞き流し、微笑んで頷くのみだ。それがトラブル回避のいちばん早い手段だからだ。

「透はいつ帰るの ? 」

「そう……ですね。メッセージ入れてきます」

 蓮花は立ち上がると、バッグに入れっぱなしだったスマホの存在を思い出した。

 寝室を通りドレッシングルームへ向かう途中、透の掛けたジャケットに目が止まった。

 衣服をクローゼット以外に放ったらかしにするのは稀なことだった。

「こんな所に。疲れてるのね」

 ジャケットを手に取り、クローゼットへ掛ける瞬間。

 奥に掛かったネイビー色のジャケットから何かが下がっている事に気付いた。

「やだ、何か入ってたのね。そういえば最近この服は着てないわよね……」

 クリーニングへ出した際、業者が気付いて廃棄せずハンガーに掛けたものだった。ビニール袋の中身は、振込領収書のような柄だった。薄ら銀行の文字が透けて見える。

「探してたら大変。大事な物かな…… ? 」

 裏返してそれを見ようと手を伸ばした所へ、茜の声が飛んでくる。

「蓮花さ〜ん。なんだか外は騒がしいみたい」

「え ? あ、はい。今、戻ります」

 一度ジャケットから離れ、バッグからスマホを手にリビングへ戻った。

 茜はニュース番組の速報に釘付けになっていた。

「嫌だわぁ。集団……暴力事件 ? 野蛮ねぇ。あちこちで起きてるって。世も末ね」

「そうですね……」

 蓮花はテレビの液晶いっぱいに広がる赤色灯の群れが、昼に見た数台の救急車と重なって見えた。

 記憶の奥底に沈んでいた焦燥感と共に、蓮花の研究者としての勘が警鐘を鳴らしていた。

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