LOGINリビングに静かな空気が流れていた。
三浦が持参した資料へ目を通していた時だった。
佳苗のスマホが震える。
画面を見た瞬間、指先が止まった。
『母』
その文字に、胸の奥がざわつく。
少し迷ってから通話へ出た。
「……もしもし」
『佳苗!?』
母の声が響く。
『やっと出た! あなた今どこにいるの!?』
責めるような口調。
昔から変わらない。
佳苗は無意識に背筋を伸ばしていた。
『悟くん、すごく困ってるのよ』
「……」
『夫婦喧嘩くらいで家出なんて恥ずかしい真似やめなさい』
佳苗は静かに息を吐く。
前にも似たようなことを言われた。
その時は苦しくて、何も返せなかった。
でも今は少し違う。
「…&hel
目を覚ました佳苗は、いつもと違う天井を見つめていた。 障子越しに柔らかな朝の光が差し込み、遠くから鳥の声が聞こえる。 そうだ。温泉旅行に来ていたのだった。 寝返りを打とうとして、腰に回された腕に気づいた。「……雄吾?」 隣を見ると、雄吾はまだ眠っていた。 普段は佳苗より早く起きていることが多いから、こうして寝顔を見る機会はほとんどない。 佳苗はしばらく、その顔を眺めていた。 いつもは何でも分かっているような顔をしているのに、眠っていると少し無防備に見える。 そっと頬に触れようとしたところで、雄吾が目を開けた。「……何してる」「起きてたの?」「今起きた」「おはよう」「ああ。おはよう」 雄吾は佳苗を抱き寄せると、もう一度目を閉じた。「ちょっと、起きないの?」「まだ早い」「何時?」「知らん」「雄吾がそんなこと言うなんて珍しい」 佳苗が笑うと、雄吾は薄く目を開けた。「休みの日くらいいいだろ」「それはそうだけど」「もう少しこのままでいろ」 そう言われて、佳苗は素直に雄吾の胸へ頬を寄せた。 昨日の夜は、あんなに緊張していたのに。 朝になってみれば、同じベッドで眠ったことが不思議なくらい自然に感じられた。「ねえ、雄吾」「何だ?」「家でも、たまには一緒に寝る?」 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。 雄吾が目を開ける。「いいのか?」「嫌だったら言わないよ」「そうか」 その声が妙に嬉しそうで、佳苗は顔を上げた。「……そんなに嬉しい?」「ああ」 迷いのない返事だった。「ずっと別々だったからな」「そうだね」「俺から言って、お前に気を遣わせるのも違うと思ってた」 佳苗は少し考えた。 雄吾はいつも、佳苗の気持ちを優先してくれる。 それがありがたいと思う一方で、遠慮ばかりさせているのかもしれない。「これからは、雄吾も言ってね」「何を?」「こうしたいとか、一緒にいたいとか」 雄吾が佳苗を見つめる。「言ったら聞いてくれるのか?」「できることなら」「じゃあ、今夜も一緒に寝たい」「……早速?」「お前が言えって言ったんだろ」 佳苗は吹き出した。「分かった。今夜もね」「ああ」 雄吾は満足そうに笑うと、佳苗の額に口づけた。 ◇ 朝食を終え、チェックアウトまでの時間を使って、二
露天風呂から上がった佳苗は、用意されていた浴衣に着替え、鏡の前で髪を整えていた。 普段なら、風呂上がりはそのまま自分の部屋へ戻る。 けれど今日は、そうはいかない。 寝室には大きなベッドが一つ。 旅館へ着いたときから分かっていたことなのに、今になって妙に気になってしまう。「佳苗、まだか?」「もう出る!」 返事をしてから、佳苗は小さく息を吐いた。 何をそんなに緊張しているのだろう。 雄吾とはもう夫婦なのに。 部屋へ戻ると、雄吾はソファに座ってテレビを見ていた。「髪、乾かしたか?」「うん」「こっち来いよ」 隣を示され、佳苗は素直に腰を下ろした。 窓の外では、庭の灯りが静かに揺れている。「いい旅館だね」「ああ」「ご飯もおいしかったし、温泉もよかった」「気に入ったなら、また来ればいい」「そんな簡単に言うけど、高いでしょう?」「気に入った場所にまた来るくらい、別にいいだろ」 雄吾らしい答えに、佳苗は笑った。 しばらくテレビを眺めていると、雄吾が肩を抱き寄せてきた。 佳苗は抵抗せず、その胸に頭を預ける。「眠いか?」「まだ眠くない」「そうか」 雄吾の手が、佳苗の髪をゆっくり撫でた。 その心地よさに目を閉じかけたところで、ふと気づく。 こんなふうに甘えているうちに、夜はどんどん更けていく。 やがて寝る時間になれば、二人であのベッドに入るのだ。「……雄吾」「何だ?」「今日、同じベッドだね」「ああ」「気づいてた?」「気づかないわけないだろ」 あまりにも当然の返事に、佳苗は少しむっとした。「なんでそんなに平気なの?」「平気だと
旅館へ戻るころには、外はすっかり暗くなっていた。 部屋に入ると、夕食の準備が整えられている。「すごい」 佳苗は並んだ料理を見て、思わず声を上げた。「温泉まんじゅう食べなきゃよかったかも」「だから言っただろ」「一個だけだもん。これくらい食べられるよ」「無理するなよ」「しないって」 向かい合って食事を始める。 季節の料理を少しずつ味わいながら、他愛のない話をした。 仕事の話はしなかった。 どちらからそう決めたわけでもないのに、今日は自然と別の話ばかりになった。 次はどこへ行きたいとか、帰りに何を買うとか。 そんな話をしているだけで楽しかった。 ◇ 食事が終わり、しばらくして。「先に入っていいよ」 佳苗は露天風呂を指した。「佳苗は?」「あとで入る」「一緒に入らないのか?」「えっ」 あまりにも普通に聞かれて、佳苗は固まった。「……入るの?」「部屋の風呂なんだから、別にいいだろ」「いいけど!」 夫婦なのだから、おかしくはない。 分かっている。 分かっているのだが、雄吾が平然としているせいで、自分ばかり意識しているような気がして悔しい。「嫌なら別でいいぞ」「嫌とは言ってない」「じゃあ入るか?」「……入る」 言ってから、早まったかもしれないと思った。 けれど今さら撤回するのも恥ずかしい。 佳苗は浴衣を持って立ち上がった。 ◇ 湯気の向こうに夜の庭が見える。 肩まで湯に浸かりながら、佳苗はなるべくそちらを見るようにしていた。「佳苗」「何?」「さ
旅行の日は、思ったより早くやってきた。 土曜日の朝、佳苗は小さな旅行バッグを持って玄関へ向かった。「これくらいでいいかな」「一泊だろ。十分だ」「忘れ物しても知らないよ?」「現地で買えばいい」「雄吾はそう言うと思った」 結局、行き先を決めたのは雄吾だった。 都心から車で二時間ほど。山あいにある温泉地だという。「宿は?」「着いてからのお楽しみ」「またそれ?」「部屋に露天風呂があるところ、って希望は聞いた」「じゃあ期待していいんだ」「ああ」 助手席に座りながら、佳苗は笑った。 ◇ 途中で昼食を取り、温泉街へ着いたのは午後三時前だった。 車窓から古い旅館や土産物店が見える。「あとで歩きたい」「いいぞ」「温泉まんじゅうも食べたい」「夕飯食えなくなるぞ」「一個くらい平気」 そんな話をしているうちに、車が一軒の旅館へ入っていく。 派手ではないが、門をくぐった先には手入れされた庭が広がっていた。「ここ?」「ああ」 案内された部屋へ入った佳苗は、思わず足を止めた。 広い和洋室の向こうに、小さな庭と露天風呂が見える。「すごい……」「気に入ったか?」「うん。でも、これ絶対高いでしょう」「また値段を気にしてるのか」「するよ」「俺が泊まりたくて選んだんだからいいだろ」 そう言われてしまえば、それ以上は何も言えない。 佳苗は窓際まで歩き、外を覗いた。「本当に二人だけで入れるんだ」「そのための部屋風呂だろ」「そうだけど」 そこでようやく、自分の言葉の意味に気づいた。 夫婦なのだから、別におかし
水族館から帰った翌日。 佳苗は昼休みにスマートフォンを開き、昨日撮った写真を見返していた。 大きな水槽、ペンギン、色鮮やかな魚。 その中に一枚だけ、雄吾の写真がある。 佳苗が何気なく撮ったもので、雄吾は水槽の前でこちらを見ていた。「榊原さん、楽しそうですね」 声をかけられて顔を上げると、高瀬が近くに立っていた。「あ、お疲れさまです」「昨日どこか行ったんですか?」「夫と水族館に行ってきました」「いいですね。休日らしい」「はい。久しぶりに一日遊びました」 答えながら、佳苗は自然と笑っていた。「じゃあ、午後もよろしくお願いします」「はい」 それだけで高瀬は離れていく。 佳苗は再び画面へ目を落とした。 少し前なら、家に帰ってから雄吾に「高瀬課長に水族館のこと聞かれたよ」と報告していたかもしれない。 けれど、さすがにこれは言わなくてもいいだろう。 別に隠すことでもない。 単に、雄吾をからかうためだけに高瀬の名前を出すのは、そろそろやめようと思った。 ◇ その夜。「雄吾、これ」 夕食のあと、佳苗は昨日買ったペンを指した。 雄吾の胸ポケットに挿さっている。「今日使ったの?」「ああ」「本当に会社に持っていったんだ」「使うって言っただろ」「そうだけど」 佳苗はなんとなく嬉しくなって、そのペンを眺めた。「会社の人に何か言われなかった?」「部下に珍しいって言われた」「何て答えたの?」「妻にもらったって」「……普通に言ったんだ」「隠す理由がないだろ」 雄吾にとっては当たり前らしい。 佳苗は少し照れながら、隣へ座った。「そういえば、次のデートは?」「もう考えてる」「早い!」「お前が楽しみにしてるって言ったからな」「どこ?」「まだ決めてない」「考えてるだけ?」「ああ」 雄吾はスマートフォンを取り出した。「泊まりでもいいか?」「え?」「次の土日。予定は?」 突然話の規模が大きくなった。「ちょっと待って」 佳苗も予定表を確認する。「今のところ何もないけど……旅行するの?」「近場で一泊くらいならいいだろ」「いいけど、急だね」「最近、まともに二人で出かけてなかったからな」 その言葉に、佳苗は少し考えた。 確かに結婚してから、生活そのものはずっと一緒にある。 朝起きて、仕
日曜日。「今日は私についてきてね」 玄関でそう宣言すると、雄吾が靴を履きながら佳苗を見る。「随分自信ありそうだな」「いっぱい調べたから」「期待していいのか?」「もちろん」 そう言い切ったものの、実は少しだけ緊張していた。 雄吾が連れていってくれた高級ホテルのような豪華さはない。 佳苗が選んだのは、少し離れた街にある大きな水族館だった。 休日らしいことをして、一緒にのんびり遊びたい。 ただそれだけで選んだ場所だ。「水族館か」 到着した雄吾が建物を見上げる。「どう?」「いいんじゃないか」「その反応、薄くない?」「まだ入ってないだろ」「そうだけど」 少し不満に思いながら中へ入ったものの、十分もしないうちに佳苗のほうが夢中になっていた。「雄吾、見て。あれすごい」「見てる」「大きい!」「佳苗」「何?」「さっきから俺より魚しか見てないぞ」 振り向くと、雄吾が呆れた顔をしていた。「水族館なんだから魚を見るでしょう?」「俺とのデートじゃなかったのか?」「雄吾も一緒に見ればいいじゃない」 佳苗は笑いながら雄吾の腕を引いた。 大きな水槽の前では、青い光の中を魚の群れがゆっくり横切っていく。 しばらく並んで眺めていると、雄吾がふいに佳苗の手を握った。「どうしたの?」「別に」「はぐれないよ?」「知ってる」 それでも離すつもりはないらしい。 佳苗もそのまま指を絡めた。 館内を一通り回ったあと、ショップへ立ち寄る。「これ、可愛い」 佳苗が手に取ったのは、小さなペンギンのぬいぐるみだった。「欲しいのか?」「見るだ
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫