LOGIN翌日の昼過ぎだった。
佳苗はリビングで仕事用の資料を整理していた。
雄吾から紹介された在宅補助の仕事。
まだ簡単なデータ整理だけだが、自分で稼げるという事実が少し嬉しい。
「……よし」
小さく息を吐いた、その時だった。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。
佳苗の肩がびくりと揺れた。
嫌な予感がする。
モニターへ目を向けた瞬間、血の気が引いた。
「……悟」
画面の向こうにいたのは、藤倉悟だった。
エントランスで警備員と揉めている。
『だから佳苗に会わせろって言ってるだろ!』
怒鳴り声がスピーカー越しにも聞こえた。
佳苗の指先が冷える。
怖い。
以前よりずっと。
すると後ろから低い声がした。
「来たか」
絢子の顔に浮かんだ苛立ちは、ほんの一瞬だった。「……ひどいわ」 次の瞬間には、いつもの柔らかな表情へ戻っている。「私が雄吾さんを試すなんて」「じゃあ、何をしたかった?」「だから、昔みたいに――」「それをやめろと言ってる」 雄吾の声は冷たい。「昔は昔だ」「……分かってるわ」「分かってないから、こんなことしてるんだろ」 絢子が黙り込む。 佳苗は物陰から、二人のやり取りを聞いていた。 本当なら、ここにいることを知らせるべきなのかもしれない。 けれど動けなかった。 さっき見た絢子の顔が、頭から離れない。(今の……) 見間違いではない。 雄吾に拒絶された瞬間。 絢子は確かに苛立っていた。「雄吾さんは」 絢子が静かに口を開く。「佳苗さんと出会ってから、本当に変わった」「そうかもな」「昔は、私が何をしてもそんな顔しなかったのに」「だから?」「……寂しいって思うくらい、いいでしょう?」 絢子の声が震えた。「ずっと友達だったんだから」「友達だからこそ、今の俺の立場を理解してくれ」「……」「俺には佳苗がいる」 はっきりと告げられる。「佳苗が嫌がるような距離で接するつもりはない」「分かったわ」 絢子は俯いた。「ごめんなさい」 その声は弱々しい。 いつもの絢子だった。 けれど佳苗には、もう以前と同じようには見えなかった。 ◇「先に戻る」「あ……」 雄吾がこちらへ歩いてくる。 まずい。 そう思ったときには遅かった。 曲がり角を曲がった雄吾と目が合った。「佳苗?」「……」「どうした?」 その声に、絢子も顔を上げる。「佳苗さん……?」 三人の間に、沈黙が落ちた。「ごめんなさい」 佳苗は小さく頭を下げた。「聞くつもりはなかったんです。でも、声が聞こえて……」「どこから?」「……途中からです」 絢子の顔がわずかに強張る。「そう……」「一条さん」「なあに?」 佳苗は迷った。 今までなら、何も言わなかっただろう。 けれど。「どうして、雄吾さんに触ろうとしたんですか?」 絢子が目を見開いた。「え?」「さっきもネクタイを直そうとしていましたよね」「それは……」「雄吾さんが嫌がったのに、どうしてまた?」「佳苗」 雄吾が何か言おうとする。 けれど佳苗は、絢
数日後。「今度の土曜日、母の付き合いで食事会がある」 夕食を終えたところで、雄吾が口を開いた。「来るか?」「お母様の?」「ああ。堅い会じゃない。母の知人が何人か集まるだけだ」「私が行ってもいいんですか?」「母が佳苗も連れてこいと言ってる」 佳苗は少し迷った。 美佐子とはもっと話をしたい。 前回はいろいろあったものの、自分を嫌っているわけではないことも分かっている。「行きます」「そうか」「はい」 雄吾が頷く。「絢子も来ると思う」 佳苗の表情がわずかに止まった。「……一条さんも」「ああ」「分かりました」「嫌なら――」「大丈夫です」 佳苗は首を横に振った。「一条さんがいるから行きたくない、とは思いません」 以前なら、自分に言い聞かせるための言葉だったかもしれない。 けれど今は少し違う。 絢子が何をするのか。 自分自身の目で見てみたい。 そんな気持ちも生まれていた。 ◇ 土曜日。 食事会が開かれたのは、ホテルのレストランにある個室だった。「佳苗さん、来てくれたのね」 美佐子が嬉しそうに迎えてくれる。「お招きいただいてありがとうございます」「今日は気楽にしてね」「はい」 すでに何人かの客が集まっていた。 そして、その中には――。「佳苗さん」 絢子もいた。「こんにちは」「こんにちは、一条さん」 久しぶりに顔を合わせる。 絢子は以前と変わらない笑顔だった。「この前はごめんなさいね」「……
その夜。「一条さんに、言いました」 夕食のあと、佳苗は雄吾にそう報告した。「何を?」「昨日のことです」 佳苗は少し緊張しながら続ける。「雄吾さんが言っていないことを、言ったように私へ伝えるのはやめてくださいって」「そうか」「……怒ってませんか?」「なんで俺が怒るんだ?」「だって、一条さんとは昔からのお友達ですし」「それとこれとは関係ない」 雄吾はきっぱりと言った。「事実と違うことを伝えられて嫌だったなら、そう言っていい」「……はい」 佳苗は少しだけ笑った。 以前なら、こんなことはできなかった。 誰かを不快にさせるくらいなら、自分が我慢すればいい。 そう思っていたから。「絢子からも電話があった」「え?」 佳苗の表情が変わる。「何て……?」「仕事の担当を外れた方がいいと思うって」「どうして?」「佳苗が嫌がっていると思うから、だそうだ」「そんなこと、私……!」「分かってる」 雄吾が遮る。「だから言った。佳苗を理由にするなって」「……」 まただった。 絢子は自分が何も言っていないことまで、自分の気持ちとして雄吾へ伝えようとしている。「私、一条さんに近づかないでなんて言ってません」「ああ」「仕事をやめてほしいとも」「分かってる」「なのに……」 佳苗はそこで言葉を止めた。 今までなら。『一条さんは私を気遣ってくれただけ』 そう考えただろう。 けれ
「ずっと……苦しかったです」 口にしてしまうと、これまで必死に押し込めていた気持ちが、一気に溢れ出してきた。「でも、私が嫉妬しているだけだと思っていました」「佳苗」「一条さんは何も悪くないのに、私が勝手に気にしているんだって」 絢子はいつも優しかった。 謝ってくれた。 自分を気遣ってくれた。 雄吾とのことも、隠さず教えてくれた。 だから疑うこと自体が悪いことのように思えていた。「でも……今日のことは」 佳苗は雄吾の手にあるスマートフォンを見る。「違うんですよね?」「ああ」「雄吾さんは、一条さんと食事に行くって言ってない」「言ってない」「私が待っているから帰るとも」「言ってない」 雄吾ははっきり答えた。 佳苗の胸が苦しくなる。「じゃあ、どうして……」 そこから先を口にするのが怖かった。 雄吾がスマートフォンを佳苗へ返す。「俺にも分からない」「……」「ただ、少なくとも事実とは違う」 佳苗はスマートフォンを受け取った。「私……一条さんを疑ってもいいんでしょうか」 雄吾が眉を寄せる。「疑うのに許可なんていらない」「でも」「佳苗はずっと、絢子に悪意がないことを前提に考えてただろ」「……はい」「その結果、全部自分が悪いことにしてた」 佳苗は俯いた。 否定できなかった。「だったら、一度くらい逆に考えてもいいんじゃないか?」「逆に……」「絢子が、佳苗を不安にさせるためにやっていたとしたら
『今ちょうど終わった。これから帰る』 雄吾から届いたメッセージを、佳苗は何度も読み返した。 そして、絢子からのメッセージを見る。『今から二人で何か食べに行くことにしたの』「……どういうこと?」 どちらかが嘘をついている。 そんな考えが浮かび、佳苗はすぐに打ち消した。 雄吾が嘘をつく理由などない。 だったら――。 スマートフォンが震えた。 絢子からだった。『ごめんなさい』『雄吾さん、やっぱり帰るって』「……」 続けて、もう一件。『佳苗さんが待ってるからって』 佳苗は息を吐いた。(そういうことだったんだ……) 自分がメッセージを送ったから、雄吾は予定を変えたのだろうか。 それなら、言葉が食い違っていたわけではない。 そう思ったのに。『昔なら、無理やりにでも連れていったんだけど』『今はもう、私がそこまですることじゃないものね』 また、昔。 佳苗の胸に小さな棘が刺さる。 返事をせずにいると、さらにメッセージが届いた。『佳苗さんがいてくれてよかった』『これからは雄吾さんのこと、佳苗さんがちゃんと見ていてあげてね』「……」 なぜだろう。 恋人である自分が、絢子から雄吾を任されているように感じる。 まるで今まで雄吾を支えてきたのは自分だとでも言うように。 佳苗はスマートフォンを伏せた。 ◇ 三十分ほどして、雄吾が帰宅した。「ただいま」「おかえりなさい」 佳苗は玄関へ向かう。「夕食、まだですよね?」「ああ」「すぐ用意しますね」
「……それは、できません」 佳苗の言葉に、雄吾は黙った。「どうして?」「一条さんから、私に話してくださったことだからです」「俺には見せられない?」「……はい」 雄吾の表情が険しくなる。 佳苗は慌てて続けた。「雄吾さんに隠し事をしたいわけじゃないんです」「でも、絢子から連絡が来るたびに佳苗は傷ついてる」「それは……」「だったら、俺にも関係があるだろ」 何も言い返せなかった。 確かにそうなのかもしれない。 けれど。『昔、雄吾さんのことが好きだったの』『好きじゃなくなったのかと聞かれたら、自信はないけれど』 あれは絢子が自分だけに打ち明けた気持ちだ。 勝手に雄吾へ見せることなどできない。「ごめんなさい」「佳苗」「これだけは……」 佳苗はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。「私から雄吾さんに話してはいけないと思うんです」「……分かった」 意外にも、雄吾はそれ以上求めなかった。「無理に見るつもりはない」「雄吾さん……」「ただ、一つ約束してくれ」「何ですか?」「絢子から何を言われても、一人で抱え込むな」「……はい」「俺に話せないことなら、話せないでいい。でも、嫌だったとか、苦しかったとか、それくらいは言ってくれ」 佳苗は少し迷ってから頷いた。「分かりました」「それと」 雄吾の声が少し低くなる。「俺のことを絢子から聞いて判断するな」「え?」「俺が何を考えてるか知りたいなら
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。