LOGIN朝食を終えたあと、佳苗は食器を流しへ運んだ。
「洗い物は私がやります」
「いや」
雄吾は立ち上がり、食器を一枚受け取る。
「今日は半分ずつだ」
「半分ずつ?」
「ああ」
そう言うと、ごく自然な手つきで洗い始めた。
佳苗は思わず笑ってしまう。
「それ、子どもみたいですよ」
「公平だろ」
「そうですけど」
結局、二人で並んで洗い物をすることになった。
食器を洗う雄吾。
佳苗は隣で拭いていく。
たまに手が触れそうになって、お互い少しだけ譲り合う。
「すみません」
「いや」
そんな短いやり取りが何度か続き、最後の皿を棚へ戻した。
「終わりましたね」
「ああ」
佳苗がエプロンを外した、その時だった。
「そういえば」
雄吾が思い出したように口を開く。
「今度こそ、私が勝手に決めつけたんじゃないものね」 絢子の言葉に、佳苗は何も返せなかった。 確かに、自分で言った。 雄吾と絢子が仕事以外で連絡を取り合うのは嫌だと。 嘘ではない。 けれど――。「佳苗さん」 美佐子が戸惑ったように口を開いた。「それは……二人に友達をやめてほしいってこと?」「違います」「でも、仕事以外で連絡するのも嫌なんでしょう?」「それは……」 どう説明すればいいのだろう。 絢子が雄吾を今も好きだから。 そう言えばいい。 美佐子も、それはもう知っている。 けれど、それだけではない。 何度も雄吾との出来事を報告されたこと。 事実とは違うことまで伝えられたこと。 雄吾に触れようとしたこと。 その積み重ねがあって、今は嫌なのだ。「母さん」 雄吾が口を挟んだ。「それで何か問題あるか?」「雄吾?」「俺も仕事以外で絢子に連絡する必要はないと思ってる」 絢子の表情がわずかに固まった。「雄吾さんまで……」「佳苗だけが決めたことじゃない」「でも」 美佐子は納得できないようだった。「あなたたち、子供の頃からずっと友達だったでしょう?」「だからって、一生同じ距離で付き合わなきゃならないわけじゃない」「そんな言い方……」「おばさま」 絢子が美佐子を止めた。「もういいんです」「絢子ちゃん」「佳苗さんの気持ちは、ちゃんと分かりましたから」 絢子は穏やかに笑う。「雄吾さんも同じなら、私が口を出すことじゃありません」「&h
数日後。 佳苗のもとへ、久しぶりに絢子からメッセージが届いた。『佳苗さん、この前は本当にごめんなさい』 佳苗は画面を見つめた。 以前のように、すぐ返事はしない。 しばらくして、もう一件。『おばさまから、二人でお話ししたって聞きました』『ちゃんと誤解が解けたみたいで安心したわ』「……」 佳苗は少し迷ってから返信した。『はい。お母様とお話しできてよかったです』 それだけ。 余計なことは書かない。 すると絢子から、『本当によかった』 と返ってきた。 それ以上、連絡はなかった。(これで終わればいいな) 佳苗はそう思った。 ◇ その週末。「母がまた食事に来ないかって」 雄吾に言われ、佳苗は少し驚いた。「またですか?」「ああ。今度は家で」「行きたいです」 美佐子とは、この前二人で話したばかりだ。 以前ほど怖くはなかった。「絢子も来るらしい」「……そうですか」「嫌なら断っていい」「大丈夫です」 佳苗は首を横に振った。「お母様と一条さんが会うことは、私もいいって言いましたから」「それと佳苗が一緒にいることは別だぞ」「分かっています」 それでも。 いつまでも絢子を避け続けるのも違うと思った。「行きます」「……分かった」 ◇ 日曜日。「いらっしゃい、佳苗さん」 美佐子は以前と変わらない笑顔で迎えてくれた。「こんにちは」「この前はありがとうね」「こちらこそ」
翌朝。 佳苗は目を覚ましてから、しばらくベッドの中でぼんやりしていた。 昨夜のことを思い出す。『この子のことも、少し分かってあげてほしいの』 美佐子の言葉が胸に残っていた。(お母様……やっぱり、一条さんの方が大切なのかな) 当然なのかもしれない。 美佐子にとって、自分はまだ知り合って間もない雄吾の恋人。 絢子は幼い頃から知っている、娘のような存在。 比べること自体がおかしい。 そう分かっているのに、寂しかった。「佳苗」「……はい?」 隣から声を掛けられる。「また考えてるだろ」「少しだけ」「母のこと?」 佳苗は少し迷って、頷いた。「はい」「母が何を思うかまで、佳苗が背負う必要はない」「でも、嫌われたくないです」「分かってる」「雄吾さんの大切なお母様だから」 雄吾は少し黙ってから、佳苗の手を握った。「なら、なおさら時間をかければいい」「時間……」「母だって、昨日のことだけで佳苗を決めつけたりしない」「……はい」 佳苗はその言葉を信じることにした。 ◇ しかし、その日の午後。 美佐子は一人で考え込んでいた。 昨夜、駅で別れる直前。 絢子は笑っていた。『大丈夫です』『私が我慢すればいいだけだから』 その言葉が、どうしても頭から離れない。「……」 美佐子はスマートフォンを手に取った。 佳苗へ連絡しようとして――やめる。 何と聞けばいいのだろう。 本当は絢子と会ってほしくないの?
「佳苗さん、本当は私に消えてほしいんでしょう?」 絢子は涙を浮かべたまま、佳苗を見つめた。「雄吾さんの前からも。おばさまの前からも」「違います」 佳苗ははっきり答えた。「そんなこと、一度も思っていません」「でも、私が雄吾さんと一緒にいると嫌なんでしょう?」「二人きりで食事をしたり、必要以上に触れたりするのは嫌です」 絢子の顔が強張った。 以前なら、ここでも曖昧にしていた。 けれど佳苗はもう逃げなかった。「だって一条さんは、自分でも言いましたよね。今も雄吾さんを好きじゃないとは言い切れないって」「……」「そんな人が私の恋人に触れるのを嫌だと思うことと、一条さんに消えてほしいと思うことは同じじゃありません」「佳苗さん……」「お母様と会うことなんて、もっと関係ありません」 美佐子が黙って佳苗を見ている。「だから、私が言っていないことまで私の気持ちにしないでください」「……ごめんなさい」 絢子は俯いた。「やっぱり私、邪魔なのね」「だから!」 思わず佳苗の声が大きくなる。 絢子の肩がびくりと揺れた。 周囲の視線が集まる。「佳苗」 雄吾がそっと佳苗の肩に手を置いた。 佳苗は唇を噛んだ。「……すみません」「違う。謝らなくていい」「でも……」「同じ話を繰り返してるだけだ」 雄吾は絢子を見る。「佳苗は、消えろとは言ってない」「……」「なのに絢子は、何を言われてもそこへ話を戻す」「そんなつもりじゃないわ」「じゃあ、佳苗が言ったことだけ聞け」 絢子は何も答えなかった。 ◇「今日はもう帰るわ」 しばらくして、絢子がバッグを手に取った。「絢子ちゃん」 美佐子が心配そうに立ち上がる。「大丈夫です、おばさま」「でも……」「私がいたら、また雰囲気を悪くしてしまうから」「そんなことないわ」「ありがとうございます」 絢子は寂しそうに微笑んだ。「でも、少し一人になりたいんです」「送るわ」「大丈夫です」「こんな状態で一人にできないでしょう?」 美佐子が言う。 絢子は一度断ったものの、最後には小さく頷いた。「……じゃあ、駅まで」「ええ」 美佐子が佳苗を見る。 その表情には、先ほどまでの険しさはなかった。 けれど困惑は残っていた。「佳苗さん」「はい」「ごめんなさいね。私も少し
「佳苗さんを責めないでください」 絢子の言葉が、佳苗の胸に重くのしかかった。 美佐子は困惑した表情のまま、佳苗を見る。「でも……私にはよく分からないわ」「母さん」「雄吾は少し黙っていて」 美佐子は息子を制した。「佳苗さん。あなたが絢子ちゃんを嫌なのは分かるの」「嫌だなんて……」「だって、不安なんでしょう?」「それは……」 否定できなかった。 絢子が今も雄吾を好きかもしれないと知ってから、不安になったのは事実だ。「でも、それとお母様とのことは関係ありません」「だったら絢子ちゃんは、今まで通り私に会ってもいいのよね?」「もちろんです」 佳苗は即座に答えた。「私にそんなことを決める権利はありません」「ほら、絢子ちゃん」 美佐子が絢子の手を握る。「佳苗さんもこう言ってるでしょう?」「……はい」 絢子は小さく頷いた。 けれど、その表情は晴れなかった。「でも、やっぱりしばらくは控えます」「どうして?」「これ以上、誰かを傷つけたくないから」「一条さん」「佳苗さんは優しいから、きっと嫌でも嫌だって言えないでしょう?」「……え?」「だから、私がちゃんと考えないと」 佳苗は言葉を失った。 自分が「会っていい」と言っても。 それすら本心ではないことにされてしまう。「違います」 佳苗は首を横に振った。「本当に、お母様と一条さんのことは関係ありません」「ありがとう」 絢子は寂しそうに微笑んだ。「そう言ってくれるだけで十分よ」「そうじゃなくて――」「もういい」 雄吾の低い声が響いた。 佳苗が振り返る。 雄吾は絢子を見ていた。「絢子。佳苗が関係ないと言ってるんだから、それ以上勝手に佳苗の気持ちを決めるな」「……勝手に?」「ああ」「私はそんなつもりじゃ……」「さっきからそうだろ」 雄吾は淡々と続けた。「佳苗は母と会うなとは言ってない。仕事から外れろとも言ってない。なのに全部、佳苗を理由にしてる」「それは、私が気を遣って――」「頼まれてもいないのに?」 絢子が黙る。「雄吾」 美佐子が険しい顔をした。「そんな言い方しなくてもいいでしょう?」「母さんこそ、佳苗に何を聞いてた?」「何って……」「絢子と会うのが嫌なのか。母さんと絢子が会うのも嫌なのか。全部、絢子が言い出したことだろ」「
「違うって言ってるでしょう!」 絢子の鋭い声が廊下に響いた。 佳苗は息を呑む。 絢子自身も、自分の声に驚いたように目を見開いた。「……ごめんなさい」 すぐに俯く。「大きな声を出して」「一条さん……」「でも、悲しかったの」 絢子の声が震えた。「佳苗さんなら、分かってくれると思ってたから」「……」「私、確かに雄吾さんのことが好きだったわ。今だって、完全に気持ちがなくなったのかって聞かれたら……分からない」 絢子の目に涙が浮かぶ。「でも、それってそんなに悪いこと?」「悪いなんて言ってません」「だったら、どうすればよかったの?」 絢子が佳苗を見る。「私は雄吾さんに気持ちを伝えてない。二人が付き合ってから、告白しようとしたことだって一度もない」「……」「雄吾さんと会ったときも、隠したくなかったから佳苗さんにちゃんと話したわ」「でも、それが私は――」「じゃあ、黙っていればよかった?」 佳苗の言葉が止まった。「雄吾さんと二人で食事をしても、送ってもらっても、仕事で夜まで一緒にいても。佳苗さんには何も言わずにいた方がよかったの?」「それは……」「あとから知ったら、もっと嫌だったでしょう?」 返せない。 確かに、そうだったかもしれない。「だから私は全部話したの」 絢子の頬を涙が伝った。「隠れて会っているって思われたくなかったから」「……」「それなのに、全部悪意だったって言われたら……私はどうすればよかったの?」「絢子」
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。