تسجيل الدخول三浦に案内され、部屋へ入る。
佳苗は静かに息を吐いた。
思っていたより広い部屋だった。
中央にはテーブルと椅子が並んでいる。
まだ相手は来ていないらしい。
「こちらへどうぞ」
三浦に促され、席へ座る。
佳苗の隣には雄吾。
向かい側は空席のままだ。
緊張で喉が渇く。
だが不思議なことに。
逃げ出したいとは思わなかった。
「大丈夫ですよ」
三浦が穏やかに言う。
「今日は私がいますから」
佳苗は小さく頷いた。
その時。
廊下から足音が聞こえた。
ドアが開く。
佳苗の身体がわずかに強張る。
入ってきたのは男性二人だった。
一人は相手方の弁護士。
そしてもう一人。
悟だった。
佳苗は思わず息を呑む。
翌週の日曜日。 佳苗は約束の時間より少し早く支度を終え、リビングへ向かった。 雄吾はすでにソファへ座り、スマートフォンを眺めている。「お待たせしました」「ああ」 雄吾は立ち上がった。「行くか」「今日は教えてくれるんですか?」「昨日言っただろ」「食べる、だけですよね」「十分だ」 佳苗は苦笑する。 結局、今日も目的地は分からないままだった。 二人は電車へ乗り、三十分ほど揺られる。 降り立った駅は休日らしく、多くの人で賑わっていた。「ここは……」「商店街だ」 雄吾が歩き出す。 アーケードの下には食べ歩きのできる店がずらりと並んでいた。 焼き小籠包。 メンチカツ。 フルーツ飴。 焼きたてのクッキー。 甘い匂いと香ばしい匂いが入り混じっている。「すごい……」 佳苗は思わず辺りを見回した。「こういうところ、初めてです」「そうか」 雄吾はどこか満足そうだった。「まずはこれ」 そう言って買ってきたのは、熱々の焼き小籠包だった。「気を付けろ」「はい」 佳苗は一口かじる。「熱っ」 思わず目を丸くすると、中から肉汁が溢れ出した。「おいしい……!」 雄吾はその様子を見て小さく笑う。「予想どおりだ」「先輩!」「そんなに嬉しそうな顔するとは思わなかった」 佳苗は少し頬を膨らませる。 けれど嬉しくて仕方がない。 二人はゆっくり商店街を歩いた。 気になる店があれば立ち止まり、少しずつ買って分け合う。「
朝食を終えたあと、佳苗は食器を流しへ運んだ。「洗い物は私がやります」「いや」 雄吾は立ち上がり、食器を一枚受け取る。「今日は半分ずつだ」「半分ずつ?」「ああ」 そう言うと、ごく自然な手つきで洗い始めた。 佳苗は思わず笑ってしまう。「それ、子どもみたいですよ」「公平だろ」「そうですけど」 結局、二人で並んで洗い物をすることになった。 食器を洗う雄吾。 佳苗は隣で拭いていく。 たまに手が触れそうになって、お互い少しだけ譲り合う。「すみません」「いや」 そんな短いやり取りが何度か続き、最後の皿を棚へ戻した。「終わりましたね」「ああ」 佳苗がエプロンを外した、その時だった。「そういえば」 雄吾が思い出したように口を開く。「来週の日曜、空いてるか」 佳苗は振り返る。「来週ですか?」「ああ」 少し考える。 資格試験まではまだ少し時間がある。 会社の予定もない。「空いてます」 そう答えると、雄吾は小さく頷いた。「なら出掛けるぞ」 また説明がない。 佳苗は思わず笑った。「今度は教えてくれないんですか?」「秘密だ」「またですか」「前も文句を言ってたな」「だって、本当に何も教えてくれないじゃないですか」 佳苗が少しだけ頬を膨らませると、雄吾は珍しく声を立てて笑った。「その顔」「え?」「前はしなかった」 佳苗はきょとんとする。「そうですか?」「ああ」 雄吾は頷いた。「前のお前は、遠慮ばかりしてた」
その夜。 買ってもらったプリンを食べながら、佳苗は何度も思い返していた。 駅まで迎えに来てくれたこと。 何も聞かずにプリンを買ってくれたこと。 どちらも雄吾にとっては大したことではないのだろう。 だからこそ困る。 何気ない優しさだから。 余計に心へ残ってしまう。「何笑ってる」 食器を洗いながら、雄吾が振り返った。 佳苗ははっとする。「え?」「さっきから」 言われて初めて気付いた。 自分は笑っていたらしい。「そんなに美味しかったか」 佳苗は照れ隠しにプリンの空を見つめた。「……美味しかったです」 嘘ではない。 でも、それだけじゃなかった。 雄吾は「そうか」とだけ言って洗い物を続ける。 佳苗はその背中を見つめ、小さく笑った。 本当に。 敵わない人だ。 翌朝。 目を覚ますと、キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。 佳苗は寝ぼけ眼のままリビングへ向かう。「おはようございます」「ああ、おはよう」 雄吾はエプロン姿でフライパンを振っていた。 佳苗は目を丸くする。「先輩?」「何だ」「もう料理してるんですか?」「熱は下がった」 そう言って味噌汁の火を止める。 確かに顔色も昨日よりずっといい。 佳苗はほっと胸を撫で下ろした。「良かった……」 思わず本音が漏れる。 雄吾は苦笑した。「そんなに心配だったか」「当たり前です」 佳苗は即答してしまう。 その瞬間、自分でも少し言い過ぎたと思った。 慌てて視線を逸らす。
翌週の金曜日。 佳苗は時計を見上げ、小さく肩を落とした。 午後六時半。 普段ならもう帰り支度をしている時間だった。「ごめん、佳苗さん」 課長が申し訳なさそうに近づいてくる。「この書類、今日中に確認だけお願いできる?」「はい、大丈夫です」 佳苗は笑顔で頷いた。 入社してまだ日が浅い。 頼ってもらえるのは嬉しかった。 急いで資料を確認し、入力を終える。 気が付けば七時半を回っていた。「終わりました」「助かったよ。ありがとう」 課長に礼を言われ、佳苗はほっと息をつく。 会社を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。「遅くなっちゃった……」 スマートフォンを見る。 雄吾からメッセージが届いていた。『まだ会社か』 短い一文。 佳苗は少しだけ頬を緩める。『今終わりました。これから帰ります』 送信すると、すぐに返信が返ってきた。『駅にいる』 佳苗は思わず立ち止まった。「え?」 駅にいる。 その意味を理解するまで数秒かかった。 急いで改札へ向かう。 人混みの向こうに、見慣れた姿があった。 雄吾は柱にもたれ、スマートフォンを見ている。 佳苗に気付くと顔を上げた。「先輩?」 思わず駆け寄る。「どうしたんですか?」「迎え」 あまりにも簡潔な答えだった。 佳苗は目を丸くする。「迎えって……」「今日は遅いだろ」 それだけだった。 佳苗は胸の奥がじんわりと温かくなる。「連絡してくれれば良かったのに」「仕事中だろ」
湯気の立つ鍋を囲みながら、二人で夕食を取る。 今日の献立は、卵とじうどんだった。 食欲がない時でも食べやすいようにと、佳苗なりに考えた一品だ。「味、薄くないですか?」 佳苗がおそるおそる尋ねる。 雄吾はうどんを一口すすり、ゆっくりと飲み込んだ。「ちょうどいい」 その一言に、佳苗は胸を撫で下ろす。「良かった」 雄吾は箸を置き、佳苗を見た。「お前」「はい?」「昔からこうだったのか」「何がですか?」「人の世話を焼くのが好きなのか」 思いがけない問いだった。 佳苗は少し考える。「好き……なんでしょうか」 自分でもよく分からない。 ただ。 困っている人を見ると放っておけない。 それだけだ。「昔は」 佳苗は箸を持つ手を止めた。「家族のために何かするのは当たり前だと思っていました」 朝早く起きて朝食を作ることも。 洗濯も掃除も。 節約も。 全部、妻だから当然だと思っていた。 感謝されなくても。 気付かれなくても。 そういうものだと、自分に言い聞かせていた。「でも」 佳苗は少し笑った。「今は少し違います」 雄吾は黙って続きを待っている。「先輩が『ありがとう』って言ってくれるから」 その一言で十分だった。 誰かのためにしたことが。 ちゃんと届いている。 そう思えるだけで嬉しかった。 雄吾は照れくさそうに視線を逸らす。「礼くらい言うだろ」「悟さんは、あまり言いませんでした」 その言葉が出た瞬間。 佳苗は「あっ」と小さく声を漏らした。
昼休み。 佳苗は休憩室でスマートフォンを開いた。 雄吾から連絡はない。 それが少し気になってしまう。「寝てるのかな……」 小さく呟いて画面を閉じる。 わざわざ「熱はどうですか」と聞くのも、何だか大げさな気がした。 会社では仕事中なのだから。 心配ばかりしていても仕方がない。 佳苗はそう自分に言い聞かせると、午後の仕事へ戻った。 その日の仕事は少し忙しかった。 電話対応に、伝票の整理。 先輩社員に教わりながら、一つひとつ確認していく。「佳苗さん、助かった」 上司にそう声を掛けられ、思わず笑みがこぼれた。「ありがとうございます」 少しずつではあるけれど。 役に立てることが増えてきた。 その実感が嬉しかった。 定時を少し過ぎて会社を出る。 帰り道、スーパーへ立ち寄った。 まだ本調子ではない雄吾のために、消化の良いものを買って帰ろうと思ったのだ。 豆腐。 うどん。 りんご。 ヨーグルト。 買い物かごを見下ろしながら、佳苗は苦笑する。「お母さんみたい」 思わず自分で突っ込んでしまう。 レジを済ませ、マンションへ戻る。「ただいまです」 返事はない。 佳苗は靴を脱ぎながら首を傾げた。 リビングへ入る。「……え?」 思わず声が漏れた。 ソファには誰もいない。 代わりに、テーブルの上へ一枚のメモが置かれていた。『会社へ行ってくる』 佳苗は思わずメモを持ち上げる。「えっ?」 時計を見る。 もう夕方だ。 熱が下がったとはいえ、今日は休むと言っていたは
炎上は、すぐには収まらなかった。 翌日になっても。 その次の日になっても。 佳苗の名前はSNSへ残り続けていた。 スマホを見るたび、 胸がざわつく。 だから最近は、 できるだけ見ないようにしている。「……ここ、表現を変えた方がいいかも」 佳苗はパソコン画面を見つめながら、小さく呟いた。 雄吾の会社から回された資料。 最初は緊張していた仕事も、 少しずつ慣れてきていた。
「……これを、私が?」 佳苗はノートパソコンの画面を見つめた。 表示されているのは、商品の説明文。 雄吾の会社が運営している高級インテリアブランドの資料だった。「ああ」 雄吾は隣で淡々と答える。「誤字確認と、文章の読みやすさを見てほしい」「でも、私……」「専門知識は要らない」 低い声。「普通に読んで、分かりづらいところを直せばいい」 佳苗は不安げに画面を見る。 ずっと専業主婦だった。
悟のSNS投稿は、想像以上の速さで拡散していた。『妻が知らない男に囲われている』『離婚を迫られている』『金で脅されている』 被害者を装った内容。 だが。「……これ、信じる人いるんですか?」 佳苗が不安げに呟くと、三浦が冷静に頷いた。「一定数はいます」「え……」「感情的な話は広まりやすいですから」 佳苗の胸がざわつく。 もし雄吾に迷惑がかかった
リビングに静かな空気が流れていた。 三浦が持参した資料へ目を通していた時だった。 佳苗のスマホが震える。 画面を見た瞬間、指先が止まった。『母』 その文字に、胸の奥がざわつく。 少し迷ってから通話へ出た。「……もしもし」『佳苗!?』 母の声が響く。『やっと出た! あなた今どこにいるの!?』 責めるような口調。 昔から変わらない。 佳苗は無意識に背筋を伸ば







