LOGIN離婚協議の当日。
佳苗は朝から落ち着かなかった。
時計を見る。
まだ集合時間までは余裕がある。
それでも。
何となく座っていられなかった。
リビングを行ったり来たりする。
キッチンへ行く。
また戻る。
そんなことを繰り返していた。
「座れ」
雄吾が言った。
ソファに座りながら新聞を読んでいる。
佳苗は思わず足を止めた。
「無理です」
「そうか」
雄吾は特に驚いた様子もない。
分かっていたのだろう。
佳苗は苦笑する。
その時。
テーブルの上にマグカップが置かれた。
「飲め」
「ありがとうございます」
佳苗は受け取る。
温かい。
少しだけ肩の力が抜けた。
「先輩」
「何だ
「……榊原さんって、久世さんという方の奥様と、何かあったの?」 佳苗は一瞬、言葉に詰まった。 やはり、先ほどの電話は直哉からだったのだろうか。「どうして、そんなことを?」「ごめんなさい。変なことを聞いて」 同僚の佐藤は、気まずそうに視線を落とした。「さっき電話があってね。久世さんっていう男性からだったんだけど……」「その方、何とおっしゃっていました?」「榊原さんが奥様に近づいて、家庭を壊そうとしているって」「……えっ?」 予想していたとはいえ、あまりにもひどい言い方だった。「それから、奥様を無理やり連れ出して、ご主人に会わせないようにしているとも言ってた」「そんなこと、していません」 佳苗が答えると、佐藤は慌てて頷いた。「うん。私もおかしいと思ったの。だから、そんな話を会社にされても困りますって切ったんだけど」「そうだったんですね……」「でも、榊原さんの名前も知ってるし、何だか怖くなっちゃって」 佐藤は申し訳なさそうに続けた。「さっき田中さんに相談したのも、その電話のことなの。変な噂を広めるつもりじゃなかったんだけど……」「いえ。教えてくださってありがとうございます」 佳苗は小さく頭を下げた。 佐藤が悪いわけではない。 突然そんな電話を受ければ、誰だって戸惑うだろう。 それでも、佳苗は胸の奥が冷たくなるのを感じた。 直哉は、自分が電話を取らなくても構わないのだ。 佳苗の周囲にいる人間に、少しずつ疑いを植えつければいい。 そう考えているのかもしれなかった。「その方、また電話してくるかもしれません」 佳苗は佐藤に告げた。「実は、個人的な事情で一方的に責められていて……。高瀬課長には相談しています」「そうなの?」「はい。もしまた連絡があったら、課長に伝えていただけますか?」「もちろん。ごめんね、余計なこと聞いちゃって」「いいえ。気にしないでください」 佐藤が席に戻ったあと、佳苗はしばらく仕事に集中できなかった。 直哉は何をしたいのだろう。 絢子を連れ戻したいのなら、佳苗の職場に電話をかけたところで意味はない。 ただ、自分に逆らった人間を困らせたい。 そう考えると、結婚式での直哉の態度にも納得がいった。 あの人にとって、妻も、その周囲の人間も、自分の思い通りに動くべき存在なのだ。 退勤時間にな
「榊原佳苗さん、とね」 高瀬の言葉に、佳苗は思わず息を呑んだ。 直哉が自宅に押しかけてきたのは、つい数時間前のことだ。それなのに、もう勤務先にまで連絡してきたというのか。「……その方、お名前は名乗られましたか?」「久世と名乗っていたそうだ。心当たりはある?」「はい。知っている方です」 佳苗は膝の上で手を握った。 高瀬は椅子を勧めると、落ち着いた声で尋ねた。「差し支えなければ、事情を聞かせてもらえるかな」「実は、知人の女性がご主人との関係に悩んでいて……」 佳苗は、絢子から助けを求められ、彼女の母親に連絡したことを説明した。 ただし、絢子の私生活について必要以上に話すつもりはなかった。「そのご主人が、私が奥様をそそのかしたと思っているようなんです」「なるほど。それで会社に電話を?」「はい。今朝は自宅にも来られました」 高瀬は眉をひそめた。「それは困ったね」「申し訳ありません。私のことで会社にご迷惑をおかけして……」「いや、謝る必要はないよ」 高瀬は手元の紙を机に置いた。「今の説明を聞く限り、業務とは関係のない話だ。会社が責任を問われる筋合いもない」「……ありがとうございます」「また連絡が来るかもしれないから、総務にも事情を伝えておくよ。君の連絡先や勤務状況は、外部に教えないようにしておく」 佳苗は深く頭を下げた。 高瀬が事情を聞いてくれたことには安心した。 けれど、胸の奥には嫌なものが残っていた。 直哉は、佳苗が困ると分かっていて職場に電話したのだ。 しかも、自分ではなく会社に責任を問う形で。 これでは、佳苗の立場を悪くしようとしているとしか思えない。 席に戻った佳苗は、仕事を始める前に雄吾へ短い
「直哉さんが、こちらに……?」 佳苗は思わず玄関のほうを振り返った。『ええ。主人が止めたんですけれど、聞く耳を持ってくださらなくて』「分かりました。知らせてくださってありがとうございます」『本当に申し訳ありません。私たちのことで、佳苗さんまで巻き込んでしまって』「そんなことありません。絢子さんのこと、よろしくお願いします」 電話を切ると、佳苗はすぐに雄吾を呼んだ。 出勤前の雄吾は、寝室でネクタイを締めていた。「どうした?」「直哉さんが、うちに来るって」 事情を説明すると、雄吾はネクタイから手を離した。「今からか?」「うん。一条さんのお宅を出たところみたい」「分かった。今日は少し出社を遅らせる」「でも、お仕事は?」「連絡すれば済む。あいつを佳苗一人で相手にさせるつもりはない」 雄吾は会社に電話をかけ、出社が遅れることを伝えた。 佳苗も職場に連絡を入れた。 直哉が本当に来るかどうかは分からない。けれど、もし押しかけてきたら、落ち着いて出勤などできそうになかった。「雄吾、直哉さんは私が絢子さんをそそのかしたと思ってるみたい」「だろうな」「でも、離婚したいって言ったのは絢子さん自身なのに」「あいつには、それが認められないんだろう」 雄吾は腕時計を着けながら答えた。「自分の妻が、自分の意思で出ていったとは考えたくないんだ」 佳苗は眉を寄せた。 絢子を一人の人間として見ていれば、そんな発想にはならないはずだった。 それから三十分ほど経った頃、インターホンが鳴った。 モニターに映っていたのは、久世直哉だった。 上等なスーツを着て、いつもの人当たりのよさそうな笑みを浮かべている。『おはようございます。久世です』 佳苗の背筋に緊張が走った。 雄吾が
『あなたの奥さん、何かご存じじゃありませんか?』 電話越しに聞こえた直哉の声に、佳苗は思わず雄吾を見た。 雄吾は表情を変えずに答えた。「なぜ佳苗に聞く?」『妻が最近、佳苗さんと親しくしていたようなので。今日も連絡を取っていたんじゃないかと思いまして』「絢子がいなくなったなら、まず実家に確認すればいいだろう」『もちろん連絡しましたよ。でも、お義母さんは何も教えてくれないんです』 直哉は小さく笑った。『まるで、僕が何か悪いことでもしたみたいにね』「絢子が自分の意思で出ていったなら、まず本人の気持ちを尊重するべきじゃないか」『……ずいぶん事情に詳しいんですね』 直哉の声から笑みが消えた。『やっぱり、あなた方が手引きしたんですか?』「俺たちがどうこう言う話じゃない。夫婦の問題なら、絢子本人と話し合え」『その本人が逃げているんですよ!』 突然、直哉が声を荒らげた。 佳苗は肩を震わせた。 結婚式では、あれほど余裕たっぷりに振る舞っていた男だ。 その直哉が、電話の向こうで怒りを隠そうともしていない。『妻が勝手に家を出て、僕が黙っていると思いますか?』「絢子は成人した人間だ。外出にお前の許可は要らない」『……榊原さん』 低い声が返ってきた。『昔から、あなたはそうやって僕を見下してきた』「今は絢子の話をしている」『僕の妻ですよ。あなたの昔の女じゃない』 佳苗は思わず顔をしかめた。 絢子は雄吾の恋人だったことなど一度もない。 直哉は、それさえ気に入らないのだろうか。「言いたいことはそれだけか」『奥さんにも伝えてください。余計なことをしないように、と』「佳苗を脅すつもりなら、今後はその発言も記録する」 雄吾の声が一段低くなっ
「分かりました。絢子さん、今いるコンビニの名前と場所を教えてください」 佳苗はスマートフォンを握り直した。『駅前の……久世の家から、歩いて十分くらいのところよ』 絢子が告げた店名を、佳苗は急いでメモした。「お母様に連絡します。絢子さんは、迎えが来るまでお店の中にいてください」『でも、直哉さんが探しに来たら……』「そのときは店員さんに助けを求めてください。危険を感じたら、警察を呼んでもらって」『……分かったわ』「今は電話を切って大丈夫です。お母様が迎えに行きますから」『佳苗さん』「はい?」『……ありがとう』 その声は、今にも泣き出しそうだった。 通話が終わると、佳苗はすぐに一条夫人へ電話をかけた。『もしもし、佳苗さん?』「絢子さんが家を出ました。今、駅前のコンビニにいます!」『えっ……絢子が?』「はい。迎えに来てほしいと言っています」 場所を伝えると、夫人は声を詰まらせた。『すぐに行きます。主人にも連絡して……本当に、ありがとうございます』「気をつけてください。直哉さんが探しているかもしれません」『ええ。分かりました』 電話を切った佳苗は、続けて雄吾にも連絡した。『佳苗、どうした?』「絢子さんが家から出られたの。今、お母様が迎えに向かってる」『そうか。場所は?』 佳苗が説明すると、雄吾は短く答えた。『分かった。俺も一条さんに連絡する』「雄吾、絢子さん、大丈夫かな……」『まだ安心はできない。だが、自分の意思で家を出られたのは大きい』「……うん」『佳苗は今、会
突然切れた電話を見つめながら、佳苗はその場に立ち尽くした。 直哉が帰ってきた。 絢子は確かにそう言った。しかも、ひどく怯えた声だった。 もう一度電話をかけようとして、佳苗は指を止めた。 もし直哉が絢子の携帯を取り上げていたら、自分からの着信がかえって彼女を追い詰めるかもしれない。「……どうしよう」 佳苗は急いで雄吾に電話をかけた。『佳苗? どうした』「雄吾、絢子さんから電話があったの」 佳苗は、絢子が離婚したがっていること、直哉を怖がっていること、そして突然電話が切れたことを伝えた。 雄吾は黙って聞いていた。『今、どこにいる?』「買い物の帰り。もうすぐ家に着くところ」『分かった。まず帰れ。俺もできるだけ早く戻る』「でも、絢子さんが……」『一条さんには俺から連絡する。佳苗は久世に連絡するな』「……うん」『絢子が助けを求めたことは、誰にも知られないようにしておけ』 その言葉に、佳苗は頷いた。 電話を切ると、急いで帰宅した。 それから一時間ほどして、雄吾が帰ってきた。「絢子さんは?」 玄関まで迎えに出た佳苗が尋ねると、雄吾は首を横に振った。「まだ確認できてない」「そう……」「母親には話した。絢子から連絡があっても、直哉の前では離婚の話を出さないよう伝えてある」 雄吾は上着を脱ぎながら続けた。「一条さんは、明日にも弁護士に相談するそうだ」「よかった……」 少なくとも、絢子を助けるために動き始めている人がいる。 それだけで、佳苗は少し安心した。 けれど、その夜になっても絢子から連絡はなかった。 翌朝も、状況は変わらなかった。
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」