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失ったもの

Autor: 影畑凛星
last update Fecha de publicación: 2026-06-20 02:12:50

 協議が終わった後も、しばらく誰も口を開かなかった。

 重たい沈黙が部屋を満たしている。

 悟は俯いたまま動かない。

 握り締めた拳だけがわずかに震えていた。

 三浦が静かに資料を閉じる。

「本日の協議内容については、後日改めて書面で確認させていただきます」

 事務的な言葉だった。

 けれど、それはこの場を終わらせるための合図でもあった。

 相手方弁護士も小さく頷く。

「承知しました」

 悟だけが動かない。

 佳苗はその姿を見つめた。

 昔なら放っておけなかっただろう。

 何か声を掛けていたかもしれない。

 大丈夫かと尋ねていたかもしれない。

 でも今は違う。

 その役目はもう終わっている。

 三浦が立ち上がった。

「佳苗さん」

 促される。

 佳苗も静かに席を立った。

 その時だった。

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  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   昔の癖

     数日後。「今度の土曜日、母の付き合いで食事会がある」 夕食を終えたところで、雄吾が口を開いた。「来るか?」「お母様の?」「ああ。堅い会じゃない。母の知人が何人か集まるだけだ」「私が行ってもいいんですか?」「母が佳苗も連れてこいと言ってる」 佳苗は少し迷った。 美佐子とはもっと話をしたい。 前回はいろいろあったものの、自分を嫌っているわけではないことも分かっている。「行きます」「そうか」「はい」 雄吾が頷く。「絢子も来ると思う」 佳苗の表情がわずかに止まった。「……一条さんも」「ああ」「分かりました」「嫌なら――」「大丈夫です」 佳苗は首を横に振った。「一条さんがいるから行きたくない、とは思いません」 以前なら、自分に言い聞かせるための言葉だったかもしれない。 けれど今は少し違う。 絢子が何をするのか。 自分自身の目で見てみたい。 そんな気持ちも生まれていた。     ◇ 土曜日。 食事会が開かれたのは、ホテルのレストランにある個室だった。「佳苗さん、来てくれたのね」 美佐子が嬉しそうに迎えてくれる。「お招きいただいてありがとうございます」「今日は気楽にしてね」「はい」 すでに何人かの客が集まっていた。 そして、その中には――。「佳苗さん」 絢子もいた。「こんにちは」「こんにちは、一条さん」 久しぶりに顔を合わせる。 絢子は以前と変わらない笑顔だった。「この前はごめんなさいね」「……

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   初めて見えた本音

     その夜。「一条さんに、言いました」 夕食のあと、佳苗は雄吾にそう報告した。「何を?」「昨日のことです」 佳苗は少し緊張しながら続ける。「雄吾さんが言っていないことを、言ったように私へ伝えるのはやめてくださいって」「そうか」「……怒ってませんか?」「なんで俺が怒るんだ?」「だって、一条さんとは昔からのお友達ですし」「それとこれとは関係ない」 雄吾はきっぱりと言った。「事実と違うことを伝えられて嫌だったなら、そう言っていい」「……はい」 佳苗は少しだけ笑った。 以前なら、こんなことはできなかった。 誰かを不快にさせるくらいなら、自分が我慢すればいい。 そう思っていたから。「絢子からも電話があった」「え?」 佳苗の表情が変わる。「何て……?」「仕事の担当を外れた方がいいと思うって」「どうして?」「佳苗が嫌がっていると思うから、だそうだ」「そんなこと、私……!」「分かってる」 雄吾が遮る。「だから言った。佳苗を理由にするなって」「……」 まただった。 絢子は自分が何も言っていないことまで、自分の気持ちとして雄吾へ伝えようとしている。「私、一条さんに近づかないでなんて言ってません」「ああ」「仕事をやめてほしいとも」「分かってる」「なのに……」 佳苗はそこで言葉を止めた。 今までなら。『一条さんは私を気遣ってくれただけ』 そう考えただろう。 けれ

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   疑ってもいいの?

    「ずっと……苦しかったです」 口にしてしまうと、これまで必死に押し込めていた気持ちが、一気に溢れ出してきた。「でも、私が嫉妬しているだけだと思っていました」「佳苗」「一条さんは何も悪くないのに、私が勝手に気にしているんだって」 絢子はいつも優しかった。 謝ってくれた。 自分を気遣ってくれた。 雄吾とのことも、隠さず教えてくれた。 だから疑うこと自体が悪いことのように思えていた。「でも……今日のことは」 佳苗は雄吾の手にあるスマートフォンを見る。「違うんですよね?」「ああ」「雄吾さんは、一条さんと食事に行くって言ってない」「言ってない」「私が待っているから帰るとも」「言ってない」 雄吾ははっきり答えた。 佳苗の胸が苦しくなる。「じゃあ、どうして……」 そこから先を口にするのが怖かった。 雄吾がスマートフォンを佳苗へ返す。「俺にも分からない」「……」「ただ、少なくとも事実とは違う」 佳苗はスマートフォンを受け取った。「私……一条さんを疑ってもいいんでしょうか」 雄吾が眉を寄せる。「疑うのに許可なんていらない」「でも」「佳苗はずっと、絢子に悪意がないことを前提に考えてただろ」「……はい」「その結果、全部自分が悪いことにしてた」 佳苗は俯いた。 否定できなかった。「だったら、一度くらい逆に考えてもいいんじゃないか?」「逆に……」「絢子が、佳苗を不安にさせるためにやっていたとしたら

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   食い違う言葉

    『今ちょうど終わった。これから帰る』 雄吾から届いたメッセージを、佳苗は何度も読み返した。 そして、絢子からのメッセージを見る。『今から二人で何か食べに行くことにしたの』「……どういうこと?」 どちらかが嘘をついている。 そんな考えが浮かび、佳苗はすぐに打ち消した。 雄吾が嘘をつく理由などない。 だったら――。 スマートフォンが震えた。 絢子からだった。『ごめんなさい』『雄吾さん、やっぱり帰るって』「……」 続けて、もう一件。『佳苗さんが待ってるからって』 佳苗は息を吐いた。(そういうことだったんだ……) 自分がメッセージを送ったから、雄吾は予定を変えたのだろうか。 それなら、言葉が食い違っていたわけではない。 そう思ったのに。『昔なら、無理やりにでも連れていったんだけど』『今はもう、私がそこまですることじゃないものね』 また、昔。 佳苗の胸に小さな棘が刺さる。 返事をせずにいると、さらにメッセージが届いた。『佳苗さんがいてくれてよかった』『これからは雄吾さんのこと、佳苗さんがちゃんと見ていてあげてね』「……」 なぜだろう。 恋人である自分が、絢子から雄吾を任されているように感じる。 まるで今まで雄吾を支えてきたのは自分だとでも言うように。 佳苗はスマートフォンを伏せた。     ◇ 三十分ほどして、雄吾が帰宅した。「ただいま」「おかえりなさい」 佳苗は玄関へ向かう。「夕食、まだですよね?」「ああ」「すぐ用意しますね」

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   見せられない理由

    「……それは、できません」 佳苗の言葉に、雄吾は黙った。「どうして?」「一条さんから、私に話してくださったことだからです」「俺には見せられない?」「……はい」 雄吾の表情が険しくなる。 佳苗は慌てて続けた。「雄吾さんに隠し事をしたいわけじゃないんです」「でも、絢子から連絡が来るたびに佳苗は傷ついてる」「それは……」「だったら、俺にも関係があるだろ」 何も言い返せなかった。 確かにそうなのかもしれない。 けれど。『昔、雄吾さんのことが好きだったの』『好きじゃなくなったのかと聞かれたら、自信はないけれど』 あれは絢子が自分だけに打ち明けた気持ちだ。 勝手に雄吾へ見せることなどできない。「ごめんなさい」「佳苗」「これだけは……」 佳苗はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。「私から雄吾さんに話してはいけないと思うんです」「……分かった」 意外にも、雄吾はそれ以上求めなかった。「無理に見るつもりはない」「雄吾さん……」「ただ、一つ約束してくれ」「何ですか?」「絢子から何を言われても、一人で抱え込むな」「……はい」「俺に話せないことなら、話せないでいい。でも、嫌だったとか、苦しかったとか、それくらいは言ってくれ」 佳苗は少し迷ってから頷いた。「分かりました」「それと」 雄吾の声が少し低くなる。「俺のことを絢子から聞いて判断するな」「え?」「俺が何を考えてるか知りたいなら

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   行かないという選択

    「よかったら、一緒に行く?」 絢子の言葉に、佳苗はすぐには答えられなかった。 雄吾の会社へ。 絢子と一緒に。 行けば、二人が何を話しているのか気にせずに済む。 けれど――。(それじゃあ、まるで……) 絢子と雄吾を二人きりにしたくないから、ついていくようではないか。 仕事の話なのに。 そこまで自分が口を出していいはずがない。「……私は行きません」 佳苗はそう答えた。「そう?」「はい。雄吾さんもお仕事ですし、私がお邪魔したら申し訳ないので」「邪魔だなんてことはないと思うけれど」「大丈夫です」 佳苗は笑った。「私はこのまま帰ります」「分かったわ」 絢子も微笑む。「じゃあ、またね」「はい」 絢子が去っていく。 その後ろ姿を見送りながら、佳苗は胸の奥に残るざわつきを必死に押し込めた。(大丈夫) 仕事なのだから。 雄吾だって、自分を愛していると言ってくれている。 絢子も何もしないと言っている。 信じればいい。     ◇「来たか」 雄吾の会社へ到着した絢子は、応接室へ通された。「急に呼んで悪かったな」「いいのよ。ちょうど近くにいたから」 絢子は向かいのソファへ腰を下ろす。「そういえば、佳苗さんと会ったわ」「ああ。さっき聞いた」「一緒に来るか聞いたんだけど、帰るって」「そうか」「私と二人になるの、嫌じゃないかしら」 雄吾が眉を寄せる。「仕事だろ」「そうだけど」 絢子は少し困ったように笑う。「この前、佳苗さんを不安にさせてしまった

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   もう騙されない

    「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   私は、代理母だった

    「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   監視する妹

     ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」

  • 夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています   今夜だけでも、俺を頼れ

    「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は

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