Masukその日の夕方。
恵は重い足取りで悟のマンションへ向かった。
荷物を取りに来るだけ。
そう自分に言い聞かせながら、インターホンを押す。
すぐにドアが開いた。
「来たか」
悟は淡々と言って道を開ける。
恵は無言のまま部屋へ入り、自分の荷物をバッグへ詰め始めた。
服も化粧品も、もともと"今日だけ"のつもりで持ってきたものばかりだ。
十分も経たずに荷造りは終わった。
「それだけか」
「うん」
バッグのファスナーを閉め、玄関へ向かおうとしたときだった。
「恵」
悟が静かに口を開く。
「仕事は決まったのか」
「……まだ」
「そうか」
短い沈黙が流れる。
そして悟は、まっすぐ恵を見た。
「悪いけど、もうここには泊められない」
恵の眉がぴくりと動く。<
「結婚した日と、離婚した日?」 佳苗は思わず聞き返した。「ああ。できれば日付が分かる書類も欲しいって」「……何それ」「俺だって知らねえよ。久世って男がそう言ったんだ」 悟は不機嫌そうに顔をしかめた。「昔の写真なんか、何に使うつもりなんだろうな」 佳苗には、嫌な予感があった。 結婚式の写真。二人で出かけたときの写真。そして、婚姻期間を示す日付。 それらを並べれば、佳苗と悟が夫婦だったことは簡単に証明できる。 けれど、直哉がわざわざそんなものを集める理由が分からない。「それで、悟はどうするつもりなの?」「どうするって……」「写真を渡すの?」 悟は口ごもった。「金を払うって言われてるんだよ」「いくら?」「……十万」 佳苗は呆れてしまった。「十万円で私の写真を売るつもりだったの?」「まだ売ってねえだろ!」 悟が声を荒らげた。 通りかかった女性が振り返り、佳苗は思わず周囲を見回した。「大きな声を出さないで」「悪い。でも、俺だって金に困ってるんだよ」「だからって、私に相談されても困るよ」「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」 悟は苛立たしげに頭をかいた。 佳苗は時計を見た。もう会社に戻らなければならない。「写真を渡すかどうかは悟が決めることだけど、私に何かあったら、あなたが協力したことも分かるからね」「脅すのかよ」「先に私の写真を売ろうとしてるのは誰?」 悟は黙り込んだ。「もう行くね」 佳苗は今度こそ歩き出した。 背後から呼び止める声が聞こえたが、振り返らなかった。 会社に戻ると、昼休みは残りわずかだった。 佳苗
『藤倉さんは、あなたについて随分と言いたいことがあるようですよ』 佳苗は画面を見つめたまま、眉をひそめた。 悟と直哉が接触したらしい。 以前、絢子が悟に近づいたときも、彼は簡単に話に乗っていた。お金になると思えば、今度も喜んで協力するだろう。 佳苗はメッセージを保存し、そのまま駅へ向かった。 帰宅すると、雄吾はすでにリビングにいた。「おかえり」「ただいま。ねえ、また直哉さんから連絡が来たの」 佳苗が画面を見せると、雄吾は黙って目を通した。「藤倉と会ったらしいな」「うん。あの人なら、私の悪口くらいいくらでも言うと思う」「金を要求しているかもしれないな」「悟が?」「ああ。久世から金を引き出せると思えばな」 佳苗は思わず苦笑した。「……ありそう」 以前の悟は、仕事を失ったあと、佳苗にまで金を無心してきた。 直哉のような裕福な男が現れれば、利用しようと考えても不思議ではない。「でも、二人が勝手に揉めるだけならいいんだけど」「そうもいかないだろうな」 雄吾はスマートフォンを返した。「久世の狙いは佳苗だ。藤倉の話を使って、何か仕掛けてくるかもしれない」「……そうだね」 佳苗はソファに腰を下ろした。「私、職場では普通に仕事をしていたいだけなのにな」「分かってる」 雄吾は隣に座り、佳苗の手を取った。「何かあれば俺にも知らせろ」「うん。ありがとう」 翌朝、佳苗はいつもより少し早く出勤した。 高瀬から頼まれていた資料を仕上げ、午前中は落ち着いて仕事を進めることができた。 昼休みになり、佐藤が声をかけてきた。「榊原さん、お昼どうする?」「今日は外で買ってこようかなと思ってます」「そうなんだ。じゃあ、またあとでね」 佳苗は財布を持って会社を出た。 近くのコンビニで昼食を買い、戻ろうとしたときだった。「……佳苗?」 背後から聞こえた声に、足が止まった。 振り返ると、見覚えのある男が立っていた。「……悟?」 藤倉悟だった。 以前より痩せたように見えるが、間違いない。 悟は気まずそうに笑った。「久しぶりだな」「……どうして会社の近くにいるの?」「お前に会いに来たんだよ」 佳苗は眉をひそめた。「久世直哉さんに言われて?」「……知ってたのか」 悟の表情が変わった。「私に何か用?」「いや、別に責め
「ねえ、榊原さん。あの人、どうしてそんなことまで知ってるの?」 佐藤の問いに、佳苗はすぐには答えられなかった。 直哉が自分の過去について何か知っているらしいことは、昨日のメッセージからも感じていた。 けれど、以前の結婚生活まで持ち出してくるとは思わなかった。「……何なんでしょうね、その人」「ほんと、変な電話だったよ。いきなり人の家庭の話をされても困るよね」 佐藤はそう言って肩をすくめた。「仕事に戻ろっか」「はい」 佳苗もパソコンに向き直った。 佐藤に悪気はないのだろう。突然かかってきた電話の内容を、不審に思っているだけだ。 それでも、胸の奥が落ち着かなかった。 直哉は、どうしてそこまで知っているのだろう。 以前、絢子が悟に接触していたことを思い出す。 絢子から聞いたのか、それとも直哉自身が悟に接触したのか。 どちらにしても、気味が悪かった。 昼休みになり、佳苗は給湯室へ向かった。 中から、佐藤と田中の話し声が聞こえてくる。「昨日さ、ほんと変な電話があったんだよ」「ああ、言ってたね。榊原さんのことでしょ?」「そうそう。なんか、奥さんを連れ出したとか、家庭を壊したとか。こっちは仕事中なのにさ」「何それ。痴話喧嘩?」「知らないよ。しかも、前の旦那さんとも揉めてたとか言い出して」 佳苗は足を止めた。「えっ、榊原さんって再婚なの?」「らしいよ。私も知らなかった」「そうなんだ。全然そんな話しないもんね」「まあ、普通は会社でわざわざ言わないでしょ」 二人は笑いながら、別の話題に移った。 佳苗はそのまま給湯室に入ることができず、廊下を引き返した。 佐藤たちが悪口を言っていたわけではない。 むしろ、迷惑な電話だったと話していただけだ。 それなのに、
「私宛て、ですか?」 佳苗は高瀬の差し出した封筒を見つめた。 宛名は確かに自分の名前だった。けれど、差出人の記載はない。「総務から回ってきたんだ。心当たりはある?」「……いえ」 佳苗は封筒を受け取った。 見覚えがあるように感じた筆跡も、よく見ると誰のものなのか分からなかった。「最近の件もあるから、念のため僕のところに持ってきたらしい」「そうだったんですね」「開けるなら、ここで確認する?」「はい。お願いします」 佳苗は封を切り、中に入っていた紙を取り出した。 便箋ではなく、パソコンで印刷された一枚の紙だった。『榊原佳苗様 あなたは久世絢子さんの家庭に介入し、ご主人から奥様を引き離しました。 他人の夫婦関係に口を出すことが、どれほど無責任な行為か理解していますか。 あなたがしていることを、ご主人や勤務先の方々は本当にご存じなのでしょうか』 そこまで読んで、佳苗はため息をついた。「……久世さんだと思います」「例の電話の男性?」「はい。書いてある内容が、電話でおっしゃっていたことと同じなので」 高瀬も紙に目を通し、眉をひそめた。「これは、会社に送ってくるようなものじゃないね」「すみません。何度も……」「朝倉さんが謝ることじゃないよ。むしろ、ここまでされるなら記録を残しておいたほうがいい」 高瀬は封筒を指さした。「それも捨てずに持っておいて。こちらでも、届いた日時は控えておくから」「ありがとうございます」 佳苗は紙を折り直そうとして、ふと手を止めた。 文章の最後に、もう一行あったのだ。『なお、あなたの周囲には、あなたの行動を快く思っていない方がいることもお忘れなく』 昨日のメッセージと、ほとんど同じ内容だった。 佳苗は紙を封筒に戻した。 直哉は、職場の誰かが自分に不満を持っていると思わせたいらしい。 けれど、それが事実かどうかは分からない。「課長、もしまた何か届いたら、教えていただけますか?」「もちろん。ただ、仕事中はあまり気にしないようにね」「はい」 佳苗は席に戻った。 佐藤がいつものように書類を渡してくれる。「榊原さん、これ、確認お願いしてもいい?」「はい。午後までで大丈夫ですか?」「うん、助かる!」 何も変わらない会話だった。 それなのに、佳苗は一瞬、佐藤の顔をじっと見てしまった。
『その方が何を教えてくださったか、知りたくありませんか?』 佳苗はメッセージを見つめたまま、しばらく動けなかった。 職場に、自分を快く思っていない人がいる。 そんなことを言われれば、誰だって気になるだろう。 けれど、直哉が親切心で教えてくれるはずがない。 佳苗は画面を保存すると、雄吾に転送した。『久世さんからこんな連絡が来たの。返事はしてないよ』 雄吾からは、すぐに返信があった。『そのまま無視していい。今、帰宅途中か?』『うん。駅に向かってるところ』『気をつけて帰れ。俺も今日は早めに戻る』 佳苗はスマートフォンをバッグにしまった。 それでも、直哉の言葉が頭から離れない。 誰かが自分のことを話したというのは、本当なのだろうか。 佐藤は電話の内容を教えてくれた。高瀬も事情を理解してくれている。 ほかの同僚たちとも、これまで大きな問題はなかったはずだ。 だが、直哉はわざわざ「快く思っていない人がいる」と言った。 もしかしたら、何か具体的な話を聞き出したのかもしれない。「……だめだ」 佳苗は小さく呟いた。 こんなふうに疑い始めたら、きりがない。 誰が何を言ったのか分からないまま、周囲の人を疑うことこそ、直哉の思うつぼではないだろうか。 帰宅すると、佳苗は夕食の支度を始めた。 いつもどおりに過ごそうと思ったが、包丁を動かしていても、つい職場のことを考えてしまう。 やがて雄吾が帰ってきた。「ただいま」「おかえりなさい」 雄吾は上着を脱ぐと、佳苗の顔を見た。「久世からの連絡、見た」「うん。なんだか嫌な感じだよね」「ああ。相手にする必要はない」「でも、本当に誰かが私のことを話したのかな」「それは分からない。あいつが嘘をついている可能性もある」
「……榊原さんって、久世さんという方の奥様と、何かあったの?」 佳苗は一瞬、言葉に詰まった。 やはり、先ほどの電話は直哉からだったのだろうか。「どうして、そんなことを?」「ごめんなさい。変なことを聞いて」 同僚の佐藤は、気まずそうに視線を落とした。「さっき電話があってね。久世さんっていう男性からだったんだけど……」「その方、何とおっしゃっていました?」「榊原さんが奥様に近づいて、家庭を壊そうとしているって」「……えっ?」 予想していたとはいえ、あまりにもひどい言い方だった。「それから、奥様を無理やり連れ出して、ご主人に会わせないようにしているとも言ってた」「そんなこと、していません」 佳苗が答えると、佐藤は慌てて頷いた。「うん。私もおかしいと思ったの。だから、そんな話を会社にされても困りますって切ったんだけど」「そうだったんですね……」「でも、榊原さんの名前も知ってるし、何だか怖くなっちゃって」 佐藤は申し訳なさそうに続けた。「さっき田中さんに相談したのも、その電話のことなの。変な噂を広めるつもりじゃなかったんだけど……」「いえ。教えてくださってありがとうございます」 佳苗は小さく頭を下げた。 佐藤が悪いわけではない。 突然そんな電話を受ければ、誰だって戸惑うだろう。 それでも、佳苗は胸の奥が冷たくなるのを感じた。 直哉は、自分が電話を取らなくても構わないのだ。 佳苗の周囲にいる人間に、少しずつ疑いを植えつければいい。 そう考えているのかもしれなかった。「その方、また電話してくるかもしれません」 佳苗は佐藤に告げた。「実は、個人的な事情で一方的に責められていて……。高瀬課長には相談しています」「そうなの?」「はい。もしまた連絡があったら、課長に伝えていただけますか?」「もちろん。ごめんね、余計なこと聞いちゃって」「いいえ。気にしないでください」 佐藤が席に戻ったあと、佳苗はしばらく仕事に集中できなかった。 直哉は何をしたいのだろう。 絢子を連れ戻したいのなら、佳苗の職場に電話をかけたところで意味はない。 ただ、自分に逆らった人間を困らせたい。 そう考えると、結婚式での直哉の態度にも納得がいった。 あの人にとって、妻も、その周囲の人間も、自分の思い通りに動くべき存在なのだ。 退勤時間にな
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。