LOGIN翌日の夜。
夕食を終えた佳苗は、温かいお茶を淹れてリビングへ戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
雄吾は湯飲みを受け取り、ローテーブルへ置かれたノートパソコンを開く。
「今日こそ決めるか」
「旅行ですね」
佳苗は嬉しそうに隣へ腰を下ろした。
「はい」
二人は改めて候補を見比べる。
温泉地。
湖畔のホテル。
自然公園の近くにある旅館。
「ここもいいですね」
佳苗が写真を指差す。
窓の外に山々が広がる露天風呂の写真だった。
「景色が綺麗だな」
雄吾も頷く。
「でも」
佳苗は別のページを開いた。
「私はこっちも気になります」
色とりどりの花が咲く庭園と、小さな湖がある観光地だった。
「お花も見られるんですね」
「ああ」
雄吾
その夜。 佳苗はベッドに入ってからも、絢子から届いたメッセージを何度も見返していた。『私は佳苗さんと雄吾さんの邪魔をするつもりはないから』『私がいなくなれば、きっと全部うまくいくと思うの』「……」 読むたびに、胸が苦しくなる。 絢子は何も悪くない。 そう思おうとすればするほど、自分だけが悪いような気がしてくる。 雄吾と絢子は、子供の頃からの友人だった。 美佐子も絢子を娘のように可愛がっている。 それなのに自分が現れたことで、絢子は二人から離れようとしている。(こんなの……おかしいよね) 佳苗はスマートフォンを握りしめた。 自分が雄吾の恋人になったからといって、雄吾が昔から大切にしてきた人たちとの関係まで変える必要はない。 それではまるで、自分が雄吾から何もかも奪っているようではないか。 佳苗はしばらく迷ったあと、メッセージを打った。『一条さんがいなくなる必要なんてありません』 送信する。 少しして既読がついた。『でも、私がいると佳苗さんが不安になるでしょう?』『もう大丈夫です』 佳苗はすぐに返した。『私が気にしすぎていただけです』『だから、今まで通り雄吾さんやお母様と仲良くしてください』 送ってから、胸が少し痛んだ。 本当に大丈夫なのか。 自分でも分からない。 けれど、これ以上絢子に距離を置かせる方がつらかった。 しばらくして返事が届く。『ありがとう』『佳苗さんって、本当に優しいのね』 そして――。『それなら、今度おばさまに会いに行ってもいいかしら』 佳苗の指が止まった。 なぜ、自分に許可を求めるのだろう。 そんなことは、自分が決めることではない。
「絢子ちゃんと何かあったのかしら?」「……え?」 佳苗は目を瞬かせた。 まさか、初めて会った雄吾の母親からそんなことを聞かれるとは思っていなかった。「母さん」 雄吾の声が低くなる。「その話は今する必要ないだろ」「雄吾は黙っていて」 美佐子は息子を制すると、改めて佳苗へ向き直った。「責めているわけじゃないのよ。ただ、少し気になって」「……」「絢子ちゃん、帰国したらいつも顔を見せてくれるの。それなのに今回は全然来ないでしょう?」「それは絢子の自由だ」「だから雄吾は黙っていてって言ったでしょう」 美佐子は少し困ったように息を吐く。「この前、私から電話したのよ。そうしたら、あの子……あなたたちに迷惑をかけたくないから、少し距離を置くって」 佳苗の顔から血の気が引いた。(やっぱり……) 絢子は本当に、雄吾だけではなく、その家族からも距離を置こうとしている。 自分のせいで。「一条さんは、何も悪くありません」 佳苗は慌てて答えた。「私が……少し気にしてしまっただけなんです」「何を?」「それは……」 答えに詰まる。 雄吾と絢子が昔から親しかったこと。 家族ぐるみの付き合いだったこと。 周囲からお似合いだと言われていたこと。 そんな話を聞いて嫉妬した。 初対面の相手に、そんなことを言えるはずがない。「母さん、もういい」 雄吾が口を挟んだ。「佳苗に聞くことじゃない」「でも――」「絢子に俺が言ったんだ」 美佐子が驚いたように息子を見る。「あなたが?」「ああ」「どうして?」「佳苗を不安にさせるようなことを言うなって」「雄吾さん」 佳苗が思わず声を上げる。 そこまで言わなくてもいい。 そう思ったが、もう遅かった。 美佐子の表情が曇る。「……絢子ちゃんが、佳苗さんに何を言ったの?」「俺と佳苗の関係を、同情や責任感みたいに言った」「そんな……」「昔の俺と絢子の話や、母さんとの関係も何度も佳苗に話してる」 美佐子は少し考え込んだ。「でも、それは……」 そして困惑したように佳苗を見る。「昔の話をしただけなんじゃないの?」「……」 佳苗の胸が痛んだ。 その通りだ。 自分だって、何度もそう思った。「そうです」 佳苗は小さく答えた。「一条さんは、昔のお話をしてくださっただけです」「佳
『……え?』 電話の向こうで、雄吾の母親――美佐子の声が止まった。「ごめんなさい。変なことを言ってしまって」『ちょっと待って。佳苗さんが、あなたに何か言ったの?』「違います」 絢子はすぐに否定した。「佳苗さんは何も悪くありません」『じゃあ、どうしてそんな話になるの?』「私が悪かったんです」 絢子は静かに答える。「佳苗さんが雄吾さんの昔のことを知りたいと言ってくださったから、嬉しくなってしまって……」『ええ』「子供の頃のことや、おばさまのことをお話ししたんです」『それだけでしょう?』「はい。でも……」 絢子は少し言いにくそうに言葉を止めた。「私たちが昔から親しかったことを、佳苗さんは気にされたみたいで」『まあ……』「仕方ありません。私が余計なことを話したから」『でも、あなたと雄吾は子供の頃からの友達でしょう?』「そうなんですけど……」 絢子は寂しそうに笑う。「雄吾さんにも、佳苗さんを不安にさせるようなことは言わないでほしいと言われました」『雄吾が?』「はい」『それで、あなたは雄吾からも距離を置いてるの?』「その方がいいと思って」『そんな……』「大丈夫です」 絢子は明るい声を作った。「私も、いつまでも子供の頃と同じではいられませんから」『絢子ちゃん……』「佳苗さんはとても素敵な方です。雄吾さんが大切にするのも分かります」 自分を傷つけた相手を庇うような言葉。 美佐子には、そう聞こえた。『……分か
パーティーからの帰り道。 車の中で、佳苗はほとんど話さなかった。「佳苗」「はい?」「さっきの話、気にしてるだろう」「……少しだけ」 嘘をついても、もう雄吾には分かってしまう。「でも、昔の話ですから」 佳苗は笑おうとした。「雄吾さんと一条さんが婚約していたわけじゃないことも、ちゃんと分かっています」「ああ。一度もない」「はい」 はっきり否定してくれる。 それだけで十分なはずだった。 それでも、胸のもやは消えなかった。 絢子だけがそう思っていたわけではない。 周囲の人たちも。 そしておそらく、雄吾の母親も。 二人がお似合いだと思っていた。「それに……」 佳苗は小さく呟く。「一条さん、本当に距離を置いていましたね」「……そうだな」「私のせいですよね」「違う」 雄吾は即座に否定した。「でも――」「佳苗が気にすることじゃない」 雄吾の声は強かった。「俺が絢子に言ったんだ。佳苗には関係ない」「……はい」 それ以上、佳苗は何も言えなかった。 ◇ マンションへ戻ってしばらくした頃。 雄吾のスマートフォンが鳴った。 画面を見た雄吾が、わずかに眉を上げる。「母さん?」 その言葉に、佳苗の身体が固まった。 雄吾は気づかないまま電話に出る。「もしもし」『雄吾? 今いいかしら』「ああ」『今日、パーティーに出ていたでしょう?』「出てたけど」『あなたに恋人がいるって聞いたのよ』
数日後。 雄吾は佳苗を伴い、取引先企業の創立記念パーティーへ出席していた。「緊張してる?」 会場へ入る前、雄吾が尋ねる。「少しだけ」 佳苗は笑って答えた。 以前ほどではない。 何度か雄吾とこうした場所を訪れるうちに、少しずつ雰囲気にも慣れてきた。 ただ――。 今日は別の意味で落ち着かなかった。(もしかしたら、一条さんも……) そう思った直後だった。「榊原さん」 年配の男性に声を掛けられ、雄吾が足を止める。「ご無沙汰しております」 雄吾が挨拶を返す。 佳苗も隣で頭を下げた。 そのとき。 少し離れた場所に、見覚えのある女性の姿が見えた。(……一条さん) 絢子だった。 淡い色のドレスをまとい、数人の招待客と談笑している。 相変わらず美しく、華やかな場所がよく似合っていた。 やがて絢子もこちらに気づいた。 目が合う。 佳苗は反射的に笑顔を浮かべた。 けれど――。 絢子は遠くから軽く会釈をしただけだった。「……」 そして、そのまま別の招待客との会話へ戻ってしまう。 胸がちくりと痛んだ。 以前なら、笑顔でこちらへ来てくれたのに。『私から少し距離を置くことにするわ』 本当に、その通りにしているのだ。 ◇ しばらくして、雄吾も絢子に気づいた。「絢子」 ちょうど近くを通りかかった絢子へ声を掛ける。 絢子が足を止めた。「雄吾さん」 以前と変わらない笑顔。 けれど、どこかよそよそしい。「久しぶりだな」「ええ」
「絢子と二人で会うのは、しばらくやめてくれ」 雄吾の言葉に、佳苗は戸惑いながら頷いた。「……分かりました」「佳苗を責めているわけじゃない」「はい」 分かっている。 雄吾は自分を心配しているのだ。 それでも、胸の奥には別の感情が生まれていた。(私が話したから……) 雄吾と絢子は、子供の頃からの付き合いだ。 家族同士も親しい。 そんな二人の関係に、自分が割って入ってしまったような気がした。「雄吾さん」「ん?」「一条さんを、あまり責めないでくださいね」 雄吾が眉を寄せる。「佳苗」「だって、本当に悪気はなかったのかもしれません」「……」「私が気にしすぎただけかもしれないから」 雄吾は何か言おうとした。 けれど結局、小さく息を吐いただけだった。「分かった」 その答えに、佳苗は少しだけ安心した。 ◇ 翌日。 雄吾は仕事の合間にスマートフォンを手に取った。 連絡先から絢子の名前を選ぶ。 電話はすぐにつながった。『もしもし、雄吾さん?』「少し話がある」『どうしたの?』「佳苗に、俺たちの昔の話をいろいろしたそうだな」 一瞬の沈黙。『……ええ』「母のことも」『もしかして、佳苗さんが気にしていたの?』「絢子」『ごめんなさい』 雄吾が続けるより早く、絢子が謝った。『そんなつもりじゃなかったの。本当に』「……」『佳苗さんが昔のあなたのことを知りたいって言ってくれたから、嬉しくなって
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫







