ANMELDEN数日後。
雄吾は佳苗を伴い、取引先企業の創立記念パーティーへ出席していた。
「緊張してる?」
会場へ入る前、雄吾が尋ねる。
「少しだけ」
佳苗は笑って答えた。
以前ほどではない。
何度か雄吾とこうした場所を訪れるうちに、少しずつ雰囲気にも慣れてきた。
ただ――。
今日は別の意味で落ち着かなかった。
(もしかしたら、一条さんも……)
そう思った直後だった。
「榊原さん」
年配の男性に声を掛けられ、雄吾が足を止める。
「ご無沙汰しております」
雄吾が挨拶を返す。
佳苗も隣で頭を下げた。
そのとき。
少し離れた場所に、見覚えのある女性の姿が見えた。
(……一条さん)
絢子だった。
淡い色のドレスをまとい、数人の
『今ちょうど終わった。これから帰る』 雄吾から届いたメッセージを、佳苗は何度も読み返した。 そして、絢子からのメッセージを見る。『今から二人で何か食べに行くことにしたの』「……どういうこと?」 どちらかが嘘をついている。 そんな考えが浮かび、佳苗はすぐに打ち消した。 雄吾が嘘をつく理由などない。 だったら――。 スマートフォンが震えた。 絢子からだった。『ごめんなさい』『雄吾さん、やっぱり帰るって』「……」 続けて、もう一件。『佳苗さんが待ってるからって』 佳苗は息を吐いた。(そういうことだったんだ……) 自分がメッセージを送ったから、雄吾は予定を変えたのだろうか。 それなら、言葉が食い違っていたわけではない。 そう思ったのに。『昔なら、無理やりにでも連れていったんだけど』『今はもう、私がそこまですることじゃないものね』 また、昔。 佳苗の胸に小さな棘が刺さる。 返事をせずにいると、さらにメッセージが届いた。『佳苗さんがいてくれてよかった』『これからは雄吾さんのこと、佳苗さんがちゃんと見ていてあげてね』「……」 なぜだろう。 恋人である自分が、絢子から雄吾を任されているように感じる。 まるで今まで雄吾を支えてきたのは自分だとでも言うように。 佳苗はスマートフォンを伏せた。 ◇ 三十分ほどして、雄吾が帰宅した。「ただいま」「おかえりなさい」 佳苗は玄関へ向かう。「夕食、まだですよね?」「ああ」「すぐ用意しますね」
「……それは、できません」 佳苗の言葉に、雄吾は黙った。「どうして?」「一条さんから、私に話してくださったことだからです」「俺には見せられない?」「……はい」 雄吾の表情が険しくなる。 佳苗は慌てて続けた。「雄吾さんに隠し事をしたいわけじゃないんです」「でも、絢子から連絡が来るたびに佳苗は傷ついてる」「それは……」「だったら、俺にも関係があるだろ」 何も言い返せなかった。 確かにそうなのかもしれない。 けれど。『昔、雄吾さんのことが好きだったの』『好きじゃなくなったのかと聞かれたら、自信はないけれど』 あれは絢子が自分だけに打ち明けた気持ちだ。 勝手に雄吾へ見せることなどできない。「ごめんなさい」「佳苗」「これだけは……」 佳苗はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。「私から雄吾さんに話してはいけないと思うんです」「……分かった」 意外にも、雄吾はそれ以上求めなかった。「無理に見るつもりはない」「雄吾さん……」「ただ、一つ約束してくれ」「何ですか?」「絢子から何を言われても、一人で抱え込むな」「……はい」「俺に話せないことなら、話せないでいい。でも、嫌だったとか、苦しかったとか、それくらいは言ってくれ」 佳苗は少し迷ってから頷いた。「分かりました」「それと」 雄吾の声が少し低くなる。「俺のことを絢子から聞いて判断するな」「え?」「俺が何を考えてるか知りたいなら
「よかったら、一緒に行く?」 絢子の言葉に、佳苗はすぐには答えられなかった。 雄吾の会社へ。 絢子と一緒に。 行けば、二人が何を話しているのか気にせずに済む。 けれど――。(それじゃあ、まるで……) 絢子と雄吾を二人きりにしたくないから、ついていくようではないか。 仕事の話なのに。 そこまで自分が口を出していいはずがない。「……私は行きません」 佳苗はそう答えた。「そう?」「はい。雄吾さんもお仕事ですし、私がお邪魔したら申し訳ないので」「邪魔だなんてことはないと思うけれど」「大丈夫です」 佳苗は笑った。「私はこのまま帰ります」「分かったわ」 絢子も微笑む。「じゃあ、またね」「はい」 絢子が去っていく。 その後ろ姿を見送りながら、佳苗は胸の奥に残るざわつきを必死に押し込めた。(大丈夫) 仕事なのだから。 雄吾だって、自分を愛していると言ってくれている。 絢子も何もしないと言っている。 信じればいい。 ◇「来たか」 雄吾の会社へ到着した絢子は、応接室へ通された。「急に呼んで悪かったな」「いいのよ。ちょうど近くにいたから」 絢子は向かいのソファへ腰を下ろす。「そういえば、佳苗さんと会ったわ」「ああ。さっき聞いた」「一緒に来るか聞いたんだけど、帰るって」「そうか」「私と二人になるの、嫌じゃないかしら」 雄吾が眉を寄せる。「仕事だろ」「そうだけど」 絢子は少し困ったように笑う。「この前、佳苗さんを不安にさせてしまった
午後の仕事を終えても、佳苗の胸には小さなもやが残っていた。 美佐子と絢子。 そこへ雄吾も加わって、今頃三人で過ごしている。(別に、何もおかしくない) 雄吾は仕事が近くで終わったから、母親に呼ばれて顔を出しただけ。 絢子と二人きりでもない。 それに絢子は、自分も一緒ならよかったと言ってくれた。 頭では何度もそう考える。 それでも。 スマートフォンが震えるたび、佳苗は反射的に画面を見てしまった。 また絢子からだった。『雄吾さんも来たわ』 その下には、一枚の写真。「……」 美佐子と雄吾と絢子。 三人がテーブルを囲んでいる。 雄吾はカメラを意識していないらしく、美佐子の方を向いている。 絢子はその隣で微笑んでいた。 家族写真のようだった。『おばさまが撮ってって店員さんにお願いしたの』『昔みたいで嬉しいって』 佳苗の胸が痛む。 昔みたい。 自分と出会うよりずっと前から、この三人にはこういう時間があったのだ。『今度は佳苗さんも一緒に四人で撮りましょうね』「……はい」 誰もいないところで、佳苗は小さく返事をした。 そしてスマートフォンを伏せた。 ◇「ただいま」 夜。 玄関から雄吾の声がした。「おかえりなさい」 佳苗はいつものように迎えに出る。「今日は、お母様たちと楽しかったですか?」「ああ。少し顔を出しただけだけどな」「写真、見ました」「写真?」「三人で撮った写真です。一条さんが送ってくださって」 雄吾が眉を寄せた。「また絢子から?」「はい」「&he
その夜。「ただいま」「おかえりなさい」 帰宅した雄吾を、佳苗はいつものように迎えた。「今日は遅かったですね」「ああ。午後から会議が続いてた」「お疲れさまです」 雄吾からジャケットを受け取る。 いつもと同じ。 何も変わらない。 それなのに、佳苗は昼間に届いた絢子からのメッセージを思い出していた。『雄吾さんにお昼へ誘われて、一緒に食事をしたの』 雄吾からは、まだ何も聞いていない。(別に、わざわざ話すようなことじゃないよね) 仕事の合間に、昔からの友人と昼食を食べただけ。 雄吾にとっては、それくらいのことなのだろう。「佳苗?」「はい?」「また考え事?」「……少しだけ」「何かあった?」「いえ」 いつものように答えかけて、佳苗は口を閉じた。 また黙ってしまう。 それでいいのだろうか。「あの、雄吾さん」「ん?」「今日……一条さんに会いましたか?」「ああ」 雄吾はあっさり頷いた。「母に頼まれたものを持ってきた」「そうなんですね」「聞いたのか?」「はい。一条さんから」 佳苗は雄吾の顔を見た。「一緒にお昼を食べたって」「ああ。ちょうど昼だったからな」 やはり雄吾にとっては、それだけのことらしい。「……そうですか」「佳苗」「はい?」「嫌だった?」 不意に聞かれ、佳苗は言葉に詰まった。「それは……」「絢子と二人で食事したこと」 雄吾はまっすぐ佳苗を見ている。
昼前。 雄吾が仕事をしていると、秘書から内線が入った。「社長、一条絢子様がお見えです」「絢子が?」「はい。榊原様からお預かりしたものをお届けに来られたとのことですが」 母から。 それなら、何となく用件は想像できた。「分かった。通してくれ」 しばらくして、絢子が紙袋を手に応接スペースへ入ってきた。「仕事中にごめんなさい、雄吾さん」「いや。母から何か頼まれたのか?」「ええ」 絢子は紙袋を差し出した。「この前、雄吾さんが探していたものが見つかったから、渡してほしいって」「ああ、これか」 中を確認し、雄吾は納得する。「わざわざ悪かったな」「ちょうど近くに用事があったから、ついでよ」 絢子はにこやかに笑った。「それじゃあ、私はこれで」「もう帰るのか?」「ええ。渡すだけだから」 絢子が立ち上がる。 雄吾は時計を見た。 もうすぐ昼休みだった。「昼は?」「まだだけど」「なら、食べていけばいい」「え?」「ちょうど俺もこれから昼にするところだ」 絢子は少し驚いたあと、困ったように笑った。「でも……やめておくわ」「どうして?」「だって」 絢子は少し迷ってから口にする。「佳苗さんに悪いもの」 雄吾の眉が寄った。「昼を食うだけだろ」「そうだけど……」「仕事の合間に飯を食うくらいで、いちいち気にする必要はない」「……そうね」 絢子は少し考えたあと、微笑んだ。「じゃあ、お言葉に甘えようかしら」「ああ」 ◇
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ







