登入店内は静かだった。
落ち着いた照明。
窓の外に広がる夜景。
佳苗はどこか居心地悪そうにメニューを見つめる。
「……場違いじゃないですか、私」
小声で呟く。
すると。
向かい側の雄吾が淡々と言った。
「誰もお前なんか見てない」
「いや、でも……」
「気にしすぎだ」
即答だった。
佳苗は苦笑する。
雄吾は本当に、
他人の視線を気にしない。その時。
店員が料理を運んでくる。
綺麗に盛り付けられた前菜。
佳苗は少し驚いた。
「……すごい」
「食えそうか」
「はい、これなら」
少しだけ食欲が戻る。
佳苗はゆっくり料理へ手を伸ばした。
その様子を
翌週の日曜日。 佳苗は約束の時間より少し早く支度を終え、リビングへ向かった。 雄吾はすでにソファへ座り、スマートフォンを眺めている。「お待たせしました」「ああ」 雄吾は立ち上がった。「行くか」「今日は教えてくれるんですか?」「昨日言っただろ」「食べる、だけですよね」「十分だ」 佳苗は苦笑する。 結局、今日も目的地は分からないままだった。 二人は電車へ乗り、三十分ほど揺られる。 降り立った駅は休日らしく、多くの人で賑わっていた。「ここは……」「商店街だ」 雄吾が歩き出す。 アーケードの下には食べ歩きのできる店がずらりと並んでいた。 焼き小籠包。 メンチカツ。 フルーツ飴。 焼きたてのクッキー。 甘い匂いと香ばしい匂いが入り混じっている。「すごい……」 佳苗は思わず辺りを見回した。「こういうところ、初めてです」「そうか」 雄吾はどこか満足そうだった。「まずはこれ」 そう言って買ってきたのは、熱々の焼き小籠包だった。「気を付けろ」「はい」 佳苗は一口かじる。「熱っ」 思わず目を丸くすると、中から肉汁が溢れ出した。「おいしい……!」 雄吾はその様子を見て小さく笑う。「予想どおりだ」「先輩!」「そんなに嬉しそうな顔するとは思わなかった」 佳苗は少し頬を膨らませる。 けれど嬉しくて仕方がない。 二人はゆっくり商店街を歩いた。 気になる店があれば立ち止まり、少しずつ買って分け合う。「
朝食を終えたあと、佳苗は食器を流しへ運んだ。「洗い物は私がやります」「いや」 雄吾は立ち上がり、食器を一枚受け取る。「今日は半分ずつだ」「半分ずつ?」「ああ」 そう言うと、ごく自然な手つきで洗い始めた。 佳苗は思わず笑ってしまう。「それ、子どもみたいですよ」「公平だろ」「そうですけど」 結局、二人で並んで洗い物をすることになった。 食器を洗う雄吾。 佳苗は隣で拭いていく。 たまに手が触れそうになって、お互い少しだけ譲り合う。「すみません」「いや」 そんな短いやり取りが何度か続き、最後の皿を棚へ戻した。「終わりましたね」「ああ」 佳苗がエプロンを外した、その時だった。「そういえば」 雄吾が思い出したように口を開く。「来週の日曜、空いてるか」 佳苗は振り返る。「来週ですか?」「ああ」 少し考える。 資格試験まではまだ少し時間がある。 会社の予定もない。「空いてます」 そう答えると、雄吾は小さく頷いた。「なら出掛けるぞ」 また説明がない。 佳苗は思わず笑った。「今度は教えてくれないんですか?」「秘密だ」「またですか」「前も文句を言ってたな」「だって、本当に何も教えてくれないじゃないですか」 佳苗が少しだけ頬を膨らませると、雄吾は珍しく声を立てて笑った。「その顔」「え?」「前はしなかった」 佳苗はきょとんとする。「そうですか?」「ああ」 雄吾は頷いた。「前のお前は、遠慮ばかりしてた」
その夜。 買ってもらったプリンを食べながら、佳苗は何度も思い返していた。 駅まで迎えに来てくれたこと。 何も聞かずにプリンを買ってくれたこと。 どちらも雄吾にとっては大したことではないのだろう。 だからこそ困る。 何気ない優しさだから。 余計に心へ残ってしまう。「何笑ってる」 食器を洗いながら、雄吾が振り返った。 佳苗ははっとする。「え?」「さっきから」 言われて初めて気付いた。 自分は笑っていたらしい。「そんなに美味しかったか」 佳苗は照れ隠しにプリンの空を見つめた。「……美味しかったです」 嘘ではない。 でも、それだけじゃなかった。 雄吾は「そうか」とだけ言って洗い物を続ける。 佳苗はその背中を見つめ、小さく笑った。 本当に。 敵わない人だ。 翌朝。 目を覚ますと、キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。 佳苗は寝ぼけ眼のままリビングへ向かう。「おはようございます」「ああ、おはよう」 雄吾はエプロン姿でフライパンを振っていた。 佳苗は目を丸くする。「先輩?」「何だ」「もう料理してるんですか?」「熱は下がった」 そう言って味噌汁の火を止める。 確かに顔色も昨日よりずっといい。 佳苗はほっと胸を撫で下ろした。「良かった……」 思わず本音が漏れる。 雄吾は苦笑した。「そんなに心配だったか」「当たり前です」 佳苗は即答してしまう。 その瞬間、自分でも少し言い過ぎたと思った。 慌てて視線を逸らす。
翌週の金曜日。 佳苗は時計を見上げ、小さく肩を落とした。 午後六時半。 普段ならもう帰り支度をしている時間だった。「ごめん、佳苗さん」 課長が申し訳なさそうに近づいてくる。「この書類、今日中に確認だけお願いできる?」「はい、大丈夫です」 佳苗は笑顔で頷いた。 入社してまだ日が浅い。 頼ってもらえるのは嬉しかった。 急いで資料を確認し、入力を終える。 気が付けば七時半を回っていた。「終わりました」「助かったよ。ありがとう」 課長に礼を言われ、佳苗はほっと息をつく。 会社を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。「遅くなっちゃった……」 スマートフォンを見る。 雄吾からメッセージが届いていた。『まだ会社か』 短い一文。 佳苗は少しだけ頬を緩める。『今終わりました。これから帰ります』 送信すると、すぐに返信が返ってきた。『駅にいる』 佳苗は思わず立ち止まった。「え?」 駅にいる。 その意味を理解するまで数秒かかった。 急いで改札へ向かう。 人混みの向こうに、見慣れた姿があった。 雄吾は柱にもたれ、スマートフォンを見ている。 佳苗に気付くと顔を上げた。「先輩?」 思わず駆け寄る。「どうしたんですか?」「迎え」 あまりにも簡潔な答えだった。 佳苗は目を丸くする。「迎えって……」「今日は遅いだろ」 それだけだった。 佳苗は胸の奥がじんわりと温かくなる。「連絡してくれれば良かったのに」「仕事中だろ」
湯気の立つ鍋を囲みながら、二人で夕食を取る。 今日の献立は、卵とじうどんだった。 食欲がない時でも食べやすいようにと、佳苗なりに考えた一品だ。「味、薄くないですか?」 佳苗がおそるおそる尋ねる。 雄吾はうどんを一口すすり、ゆっくりと飲み込んだ。「ちょうどいい」 その一言に、佳苗は胸を撫で下ろす。「良かった」 雄吾は箸を置き、佳苗を見た。「お前」「はい?」「昔からこうだったのか」「何がですか?」「人の世話を焼くのが好きなのか」 思いがけない問いだった。 佳苗は少し考える。「好き……なんでしょうか」 自分でもよく分からない。 ただ。 困っている人を見ると放っておけない。 それだけだ。「昔は」 佳苗は箸を持つ手を止めた。「家族のために何かするのは当たり前だと思っていました」 朝早く起きて朝食を作ることも。 洗濯も掃除も。 節約も。 全部、妻だから当然だと思っていた。 感謝されなくても。 気付かれなくても。 そういうものだと、自分に言い聞かせていた。「でも」 佳苗は少し笑った。「今は少し違います」 雄吾は黙って続きを待っている。「先輩が『ありがとう』って言ってくれるから」 その一言で十分だった。 誰かのためにしたことが。 ちゃんと届いている。 そう思えるだけで嬉しかった。 雄吾は照れくさそうに視線を逸らす。「礼くらい言うだろ」「悟さんは、あまり言いませんでした」 その言葉が出た瞬間。 佳苗は「あっ」と小さく声を漏らした。
昼休み。 佳苗は休憩室でスマートフォンを開いた。 雄吾から連絡はない。 それが少し気になってしまう。「寝てるのかな……」 小さく呟いて画面を閉じる。 わざわざ「熱はどうですか」と聞くのも、何だか大げさな気がした。 会社では仕事中なのだから。 心配ばかりしていても仕方がない。 佳苗はそう自分に言い聞かせると、午後の仕事へ戻った。 その日の仕事は少し忙しかった。 電話対応に、伝票の整理。 先輩社員に教わりながら、一つひとつ確認していく。「佳苗さん、助かった」 上司にそう声を掛けられ、思わず笑みがこぼれた。「ありがとうございます」 少しずつではあるけれど。 役に立てることが増えてきた。 その実感が嬉しかった。 定時を少し過ぎて会社を出る。 帰り道、スーパーへ立ち寄った。 まだ本調子ではない雄吾のために、消化の良いものを買って帰ろうと思ったのだ。 豆腐。 うどん。 りんご。 ヨーグルト。 買い物かごを見下ろしながら、佳苗は苦笑する。「お母さんみたい」 思わず自分で突っ込んでしまう。 レジを済ませ、マンションへ戻る。「ただいまです」 返事はない。 佳苗は靴を脱ぎながら首を傾げた。 リビングへ入る。「……え?」 思わず声が漏れた。 ソファには誰もいない。 代わりに、テーブルの上へ一枚のメモが置かれていた。『会社へ行ってくる』 佳苗は思わずメモを持ち上げる。「えっ?」 時計を見る。 もう夕方だ。 熱が下がったとはいえ、今日は休むと言っていたは
離婚協議。 その言葉は思ったより重かった。 夕食のあと。 佳苗は一人で自室にいた。 履歴書の画面は開いたまま。 けれど。 視線はほとんど動いていない。 考えているのは別のことだった。 ――離婚協議。 つまり、 離婚に向けた具体的な話し合いだ。 佳苗は小さく息を吐く。 いよいよ来た。 そう思った。 これまでは書類や連絡だけだった。 けれど。 ここからは
翌日の朝。 佳苗は目覚ましより先に目を覚ました。 窓の外はよく晴れている。 ベッドの上でしばらく天井を見つめる。 昨夜は久しぶりによく眠れた。 途中で目が覚めることもなかった。 嫌な夢も見なかった。 佳苗はゆっくりと身体を起こす。 その時。 スマホへ視線が向いた。 画面には昨夜のメッセージ。『お前は十分やった』 たった一行。 それなのに。 胸の奥に残っていた。
翌朝。 佳苗は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。 静かだった。 いや。 静かすぎた。 いつもなら。 隣の部屋で物音がする。 コーヒーメーカーの音。 新聞をめくる音。 そんな些細な生活音があった。 今日はない。「……本当にいないんだ」 思わず呟く。 自分でも少し驚いた。 昨日も同じことを思ったはずなのに。 朝になるとまた実感す
雄吾が出張へ出てから。 最初の数時間は案外普通だった。 洗濯をして。 掃除をして。 昼食を作る。 テーブルの上には、 朝見つけたメモがまだ置かれていた。『昼飯を忘れるな』 たった一行。 佳苗は思わず笑う。「ちゃんと食べましたよ」 誰もいない部屋で呟く。 その後。 少しだけ資格の勉強をした。 参考書を開き。 ノートへ書き込む。 前より集中で







