LOGIN佳苗は絢子から届いたメッセージを、もう一度読み返した。
『直哉さんには、私から連絡があったことを言わないでくれる?』
ただ食事の誘いを断るだけなら、こんなお願いをする必要はないはずだ。
「……何か事情があるのかな」
佳苗が呟くと、雄吾は隣に腰を下ろした。
「かもしれないな」
「でも、結婚したばかりなのに……」
「結婚したからって、何もかも夫に話す必要はないだろ」
「それはそうだけど」
佳苗は少し考え、絢子に返信した。
『分かりました。こちらから久世さんにお話しすることはありません。ただ、何か困っていることがあるなら、無理しないでくださいね』
送信してから、余計なことを書いただろうかと思った。
絢子とは、決して親しい間柄ではない。以前のことを考えれば、むしろ距離を置いて当然の相手だ。
けれど、披露宴で見た彼女の表情が忘れられなかった。
佳苗は絢子から届いたメッセージを、もう一度読み返した。『直哉さんには、私から連絡があったことを言わないでくれる?』 ただ食事の誘いを断るだけなら、こんなお願いをする必要はないはずだ。「……何か事情があるのかな」 佳苗が呟くと、雄吾は隣に腰を下ろした。「かもしれないな」「でも、結婚したばかりなのに……」「結婚したからって、何もかも夫に話す必要はないだろ」「それはそうだけど」 佳苗は少し考え、絢子に返信した。『分かりました。こちらから久世さんにお話しすることはありません。ただ、何か困っていることがあるなら、無理しないでくださいね』 送信してから、余計なことを書いただろうかと思った。 絢子とは、決して親しい間柄ではない。以前のことを考えれば、むしろ距離を置いて当然の相手だ。 けれど、披露宴で見た彼女の表情が忘れられなかった。 しばらくして、返信が届いた。『ありがとう。でも大丈夫よ。おやすみなさい』 それきり、絢子からの連絡は途絶えた。「大丈夫だって」 佳苗が画面を見せると、雄吾は頷いた。「なら、今はそれ以上聞かなくていい」「うん」「それと、久世の誘いは断る」「絢子さんが嫌がってるから?」「それもあるが、俺自身、あいつと私的に付き合うつもりはない」 雄吾はスマートフォンを手に取った。「仕事なら会社を通せばいい。妻同士の付き合いまで持ち出す必要はないだろ」 佳苗はその言葉に頷いた。 雄吾が送ったのは、予定が合わないため食事は遠慮する、という簡潔な返事だった。 ところが翌朝、思いがけないことが起きた。 朝食を終えた雄吾のスマートフォンに、直哉から電話がかかってきたのだ。「久世か」 雄吾は画面を確認し、通話に出た。
「奥様にお願いしたいことって……何だろう?」 佳苗は雄吾のスマートフォンを見つめた。 結婚式で初めて会ったばかりの直哉が、自分に何を頼もうというのだろう。「さあな」 雄吾は短く答え、画面を閉じた。「返事しなくていいの?」「急ぐ話なら、向こうから用件を言ってくるだろう」「でも、絢子さんの旦那さんだし……」「それとこれとは別だ」 雄吾は佳苗の顔を見た。「気になるか?」「うん。私に何か用事があるみたいだから」「だったら聞いてみる」 雄吾はスマートフォンを操作し、簡潔な返信を送った。『妻への用件なら、先に内容を教えてくれ』 それを見て、佳苗は思わず笑った。「雄吾らしいね」「何が?」「回りくどいことをしないところ」「食事に誘う理由を聞いただけだ」 雄吾は当然のように言った。 けれど、佳苗にはそれが少し嬉しかった。 以前なら、雄吾に守られてばかりいることに戸惑ったかもしれない。今は、必要なときには頼っていいし、自分の意見もきちんと伝えられる。 そんな関係になれたことが、何より嬉しい。 自宅に着く頃になって、ようやく直哉から返信が届いた。『そんなに警戒しなくてもいいだろう。絢子が奥様と親しくなりたがっているんだよ。せっかくの機会だから、夫婦同士で交流したいと思ってね』「……絢子さんが?」 佳苗は首を傾げた。 結婚式では、絢子からそんな話は一度も出なかった。 むしろ帰り際には、直哉が食事会の話を持ち出したとき、何か言いかけていたように思う。「雄吾、これって本当なのかな」「分からん」「絢子さん、私と仲よくしたいって言ってた?」「いや。少なくとも俺は聞いてない」「だよね……」 佳苗は少し考えてから、雄吾を見上げた。「ねえ、私から絢子さんに聞いてみてもいい?」「連絡先は知ってるのか?」「前に交換したままだから。でも、ずっと連絡してないけど」「無理に関わる必要はないぞ」「うん。ただ、本人が本当にそう思ってるなら、ちゃんと返事したいなって」 雄吾は少し考え、頷いた。「分かった。ただし、嫌なことを言われたら付き合わなくていい」「分かってる」 佳苗は笑って答えた。 その夜、着替えを済ませてから、佳苗は久しぶりに絢子とのメッセージ画面を開いた。 最後のやり取りは、もうずいぶん前だ。 少し迷った末、短い文
直哉が絢子の肩から手を離すと、彼女はしばらくその場に立ち尽くしていた。「絢子?」 美佐子に声をかけられ、絢子ははっとしたように顔を上げた。「……あ、すみません。少しお願いがあるんです」「お願い?」 絢子は雄吾に視線を向けた。「雄吾さん、あとで直哉さんと少しお話ししていただけないかしら」「話?」「ええ。仕事のことで、相談したいことがあるそうなの」 雄吾は直哉を見た。「仕事の話なら、改めて時間を取ればいいだろう」「そうなんだけどね」 直哉は悪びれる様子もなく笑った。「せっかく顔を合わせたんだ。少しくらいいいじゃないか。絢子からも頼んでもらおうと思ってね」 佳苗は思わず絢子を見た。 自分の結婚披露宴で、新郎に頼まれて昔の友人に仕事の話を持ちかける。 それも、あまり気持ちのいい役目ではないだろう。「直哉さん、今日はお祝いの席だから……」 絢子が控えめに言うと、直哉は彼女の言葉を遮った。「だからこそだよ。こういう席での縁を大事にするのも、経営者の仕事だからね」 そして雄吾に向き直る。「君なら分かるだろう?」「分からんな」 雄吾は即答した。「今日はお前たちの結婚式だ。仕事の話をするために来たわけじゃない」 一瞬、直哉の口元が引きつった。 しかし、すぐに笑顔を取り戻す。「相変わらず融通が利かないな、榊原は」「必要なら会社を通して連絡してくれ」「分かったよ。そうさせてもらおう」 直哉は軽く手を上げた。「絢子、次のテーブルに行こうか」「ええ……」 絢子は佳苗たちに頭を下げ、夫のあとを追った。 その背中を見送りながら、美佐子が小さくため息をついた。
披露宴が始まると、会場は華やかな祝福の空気に包まれた。 絢子と直哉の出会いを紹介する映像が流れ、招待客たちから温かな拍手が起こる。 佳苗も拍手を送りながら、壇上の二人を見つめていた。 絢子は幸せそうに微笑んでいる。少なくとも、遠目にはそう見えた。「絢子さん、本当に綺麗ね」 隣に座る美佐子が、目を細めた。「ええ。ドレスもよく似合っていますね」「小さい頃から知っている子だから、なんだか感慨深いわ」 美佐子は懐かしそうに言った。「直哉さんも立派な方だそうよ。久世家とはお仕事のお付き合いもあるみたいね」 佳苗はちらりと雄吾を見た。 雄吾はグラスを置き、静かに答えた。「仕事ができるのは確かだ」「あら、雄吾がそう言うなら間違いないわね」「それと人柄は別の話だが」 美佐子は不思議そうに息子を見たが、ちょうど料理が運ばれてきたため、それ以上は尋ねなかった。 しばらくして、新郎新婦が各テーブルを回り始めた。「皆さん、今日はありがとうございます」 直哉は朗らかな笑顔で挨拶し、絢子も隣で丁寧に頭を下げる。 佳苗たちのテーブルに来ると、直哉は真っ先に雄吾へ声をかけた。「榊原、料理はどうだい? ここのシェフには少し無理を聞いてもらったんだ」「うまいよ」「それはよかった。君は舌が肥えているからね」 直哉は満足そうに頷くと、今度は佳苗へ視線を向けた。「ところで、奥様はお仕事をされているんでしたね」「はい。会社勤めをしています」「ほう。榊原の会社で?」「いいえ、別の会社です」「それは意外だな」 直哉は目を丸くした。「社長夫人ともなれば、いろいろお忙しいでしょう。お勤めを続けるのは大変じゃありませんか?」「今のところ、問題なく働けています」「なるほど。ご自分のお仕事がお好きなんですね」
絢子の結婚式は、都内でも格式の高いホテルで開かれた。 当日、佳苗は淡いブルーのドレスに身を包み、雄吾とともに会場へ向かった。「変じゃないかな?」 車の中で、佳苗は膝の上に置いたバッグを持ち直した。「何が?」「このドレス。ちょっと地味だったかも」「似合ってる」「本当?」「ああ。綺麗だ」 雄吾があまりに自然に言うので、佳苗は頬を赤くした。「……ありがとう」「さっきから三回目だぞ」「だって、こういう結婚式って緊張するんだもの」「俺と一緒なんだから、気楽にしてろ」 そう言って、雄吾は佳苗の手を握った。 ホテルに到着すると、広々としたロビーには美しい花が飾られ、着飾った招待客たちが行き交っていた。 受付を済ませたところで、聞き慣れた声がした。「雄吾さん、佳苗さん」 振り向くと、美佐子が立っていた。「あら、佳苗さん。素敵なドレスね」「ありがとうございます。お義母さんも、とてもお綺麗です」「まあ、ありがとう。絢子さんの花嫁姿、楽しみね」 美佐子は嬉しそうだった。 絢子とは長い付き合いがあるのだから、結婚を喜ぶ気持ちも大きいのだろう。 やがて挙式が始まり、佳苗たちはチャペルへ案内された。 純白のウェディングドレスをまとった絢子は、息を呑むほど美しかった。 ゆっくりとバージンロードを歩く姿は堂々としていて、以前のような刺々しさは感じられない。 新郎の久世直哉は、背が高く、端正な顔立ちの男性だった。 柔らかな笑みを浮かべて絢子を迎える姿は、絵に描いたような新郎に見えた。 佳苗は小さく息をついた。 よかった。 絢子は本当に、新しい幸せを見つけたのかもしれない。 挙式が終わり、披露宴会場へ移動すると、絢子と直哉が招待客を迎えていた。「雄吾さん。今日は来てくださってありがとう」 絢子が微笑んだ。「結婚おめでとう」「ありがとう。佳苗さんも、来てくださって嬉しいわ」「ご結婚おめでとうございます。とても綺麗でした」「ありがとう」 絢子は少し照れたように笑った。 その表情は以前よりずっと穏やかで、佳苗はほっとした。 ところが、その隣にいた直哉が口を開いた。「榊原。まさか本当に来てくれるとは思わなかったよ」 親しげな口調だった。 けれど、雄吾は表情を変えない。「招待されたからな。結婚おめでとう」「ありがとう
土曜日の午後、佳苗が買い物から帰ると、雄吾がリビングで一通の封筒を眺めていた。「ただいま。何か届いたの?」「ああ。結婚式の招待状だ」「結婚式?」 雄吾の知人だろうか。 佳苗が何気なく尋ねると、雄吾は封筒をテーブルに置いた。「絢子からだ」「……えっ?」 思いがけない名前に、佳苗は足を止めた。 一条絢子。 雄吾の幼なじみで、以前は家族ぐるみの付き合いがあった女性だ。 佳苗に対して何かと含みのある言動を繰り返し、最後には悟にまで接触していたことが発覚した。 あれ以来、ほとんど名前を聞かなくなっていたのに。「絢子さん、結婚するの?」「そうらしい」「知らなかった……」「俺もだ。母さんは聞いていたみたいだが」 雄吾は招待状を佳苗に渡した。 上質な紙に、結婚式の日付と会場が記されている。 そして、新郎の名前。『久世直哉』「久世……さん?」「ああ」「雄吾の知ってる人?」「知ってる」 短い返事だった。 佳苗が顔を上げると、雄吾はわずかに眉を寄せていた。「仲がいいの?」「いや」「……そうなんだ」 それ以上聞いていいものか迷っていると、雄吾が続けた。「同業の会社を経営してる男だ。仕事で何度かぶつかったことがある」「ライバル会社ってこと?」「まあ、そうだな」 佳苗は改めて招待状を見た。 絢子の結婚相手が、雄吾の仕事上のライバル。 偶然なのだろうか。「それにしても、どうして私たちを招待したんだろう」「昔からの付き合いがあるからだろ。母さんにも届いてる」「そうなん
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。