LOGINその日の午後。
佳苗はダイニングテーブルへ置かれた書類を見つめていた。
離婚協議書。
白い紙なのに、
妙に重く見える。「……現実感ないですね」
小さく呟く。
向かい側では、
三浦が静かに資料を整理していた。「最初は皆さんそうおっしゃいます」
落ち着いた声。
今日は珍しく、
三浦が直接マンションへ来ていた。法的な話を進めるためだ。
「現在の状況ですが」
三浦は淡々と説明を始める。
「SNS投稿、不貞行為の証拠、接触記録。こちらに有利な材料は十分あります」
佳苗は小さく頷く。
頭では分かっている。
でも。
“離婚”という言葉だけが、
まだどこか現実離れしていた。「ご主人側は、まだ離婚拒否の姿勢です」
翌朝になっても、佳苗の中には昨夜考えたことが残っていた。 子供が嫌なのではない。 雄吾との子供を想像することさえ、本当は嫌ではない。 ただ、そこに昔の記憶が重なってしまう。 妊娠していた頃のことだけを、きれいに切り取ることができない。 あの頃の自分が感じていたことも、最後に知ったことも、全部がひとつながりになっている。 だから、子供のことを考えると苦しくなる。 それが分かっただけでも、昨日までとは少し違った。「佳苗、今日は遅いのか?」 コーヒーを飲んでいた雄吾に聞かれて、佳苗は時計を見る。「たぶん普通。月末前だから、少し残るかもしれないけど」「夕飯は?」「遅くなるなら連絡する」「分かった」 いつもの会話だった。 佳苗はバッグを手に取ってから、雄吾を見る。「……なに?」「ううん」「なんだよ」「なんでもない。行ってきます」「行ってらっしゃい」 玄関を出てから、佳苗は小さく息を吐いた。 今朝はまだ、うまく話せそうになかった。 ◇ その日の夜。 夕食を終えて、雄吾が食器を片づけているときだった。「雄吾」「ん?」「この前の、子供の話なんだけど」 雄吾が振り返った。「私、やっぱり前の結婚のこと、まだ引きずってるのかもしれない」 口にすると、思っていたより自然に出てきた。「もう終わったことだし、今は全然違うって分かってるんだけどね。子供とか、家族とか、そういうことを考えると……なんか、あの頃の嫌な気持ちまで一緒に出てくるみたい」「そうか」「うん」 雄吾はそれ以上、何も聞かなかった。 佳苗は少し迷ってから続ける。「でも、雄吾との子
子供を産むことが怖い。 そう思っていたけれど、本当にそれだけなのだろうか。 佳苗は最近、何度も同じことを考えていた。 子供が欲しくないのかと聞かれれば、分からない。 雄吾との子供を想像したことはある。 雄吾に似た男の子。 自分に似た女の子。 美佐子が楽しそうに話していた光景を思い出せば、そんな未来も悪くないと思う。 むしろ、少し見てみたい。 それなのに。 そこから先を考えようとすると、胸の奥が重くなる。 ◇ 夜。 雄吾が風呂に入っている間、佳苗は一人でベッドに横になっていた。 前の人生でも、子供が嫌だったわけではない。 妊娠したと分かったときは驚いた。 けれど、少しずつ大きくなるお腹を見ながら、生まれてくる日を待っていた。 初めて胎動を感じた日のことも覚えている。 お腹の中で動いた。 ただそれだけのことが不思議で、何度も手を当てた。 名前はどうしよう。 どんな子になるだろう。 悟はどんな父親になるのだろう。 そんな未来を、当たり前のように考えていた。 幸せになるのだと思っていた。 それなのに。 佳苗は目を閉じた。 思い出そうとしたわけではない。 けれど、子供のことを考えていると、いつもそこへ辿り着いてしまう。 身体から力が抜けていく中で聞いた声。 悟と、恵。 自分が知らなかった二人の関係。 そして――もう、自分は必要ないのだと知った。「……」 佳苗は目を開けた。 雄吾との子供を考えていたはずなのに。 いつの間にか、悟と恵の声を思い出している。 雄吾は悟ではない。 そんなことは分かっている。 佳苗が妊娠したからと
翌朝。 佳苗がリビングへ行くと、雄吾はコーヒーを飲みながらスマートフォンを見ていた。「おはよう」「おはよう」 昨夜のことを引きずっているのは、自分だけらしい。 雄吾はいつもと変わらない。「母さんから連絡来てる」「何て?」「昨日会った人から、昔の俺の写真を送ってほしいって言われたらしい」「どうして?」「知らない。孫が俺に似たらどうとか、まだ盛り上がってるんじゃないか」「ふふ」 佳苗は笑った。 やっぱり美佐子は楽しみにしている。 でも、それを嫌だとは思わなかった。 ただ、胸の奥が少しざわつくだけだ。 ◇ 会社へ行けば、いつもの仕事が待っていた。 午前中に請求書を処理し、午後からは契約書類の整理をする。 昼休みには、先日一緒に食事をした同僚から声を掛けられた。「榊原さん、今日どうする?」「外行こうかな」「じゃあ一緒に行こう」 会社の近くの定食屋へ入る。 今度は子供の話も出なかった。 仕事の愚痴を言って、期間限定のメニューをどちらが頼むか迷って。 佳苗はようやく、以前のような時間が戻ってきた気がした。「そういえば、来月の研修どうする?」「申し込むつもり」「私も。終わるの遅いんだよね」「でも内容は面白そうじゃない?」「そうなんだよねえ」 来月。 その次の月。 仕事の予定なら、何の抵抗もなく先のことを考えられる。 なのに子供のことだけは、考えようとすると身体が固くなる。 その違いが、自分でも不思議だった。 ◇ 帰宅途中、ドラッグストアへ寄った。 シャンプーを買うだけのつもりだった。 目的の商品を籠に入れ、レジへ向かおうとしたと
子供の話をしてから数日。 佳苗の気持ちは、ひとまず落ち着いていた。 今すぐ答えを出す必要はない。 そう思えるようになっただけでも、ずいぶん楽になった。 その週末、佳苗と雄吾は美佐子に誘われ、三人でホテルのレストランを訪れていた。「そうでしたの。職場の方も、少し落ち着いてきたのね」「はい。まだちょっと気まずい人はいますけど、仕事は普通にできてます」「それならよかった。せっかく佳苗さんが続けたいと思っているお仕事ですものね」 食事をしながら、最近の出来事を話す。 デザートが運ばれてきた頃、近くの席にいた年配の女性がこちらに気づいた。「あら、美佐子さん。お久しぶり」「まあ。ご無沙汰しています」 どうやら美佐子の知人らしい。 しばらく近況を話したあと、女性の視線が佳苗へ向いた。「こちらが雄吾さんのお嫁さん?」「ええ。佳苗さんです」「榊原佳苗です。初めまして」「まあ、おめでとうございます」「ありがとうございます」 女性は嬉しそうに笑った。「じゃあ、美佐子さんも次はお孫さんね」「あら、そうなのよ」 美佐子の顔がぱっと明るくなった。「まだ何も聞いていないんですけどね。いつか孫の顔を見られたらいいなと思っているの」「楽しみでしょう?」「もちろん。男の子でも女の子でも可愛いでしょうねえ」 佳苗は笑顔のまま、二人の会話を聞いていた。「雄吾さん、小さい頃は可愛かったものね」「今は?」「今も可愛いわよ。母親から見ればね」「いらない、その情報」 雄吾が嫌そうな顔をして、二人の女性が笑う。「佳苗さんに似た女の子も可愛いでしょうね」「まあ、それは絶対に可愛いと思うわ」「母さん、まだできてもないから」「想像するくらいいいでしょう?」「俺を巻き込むな」 いつもの親子のやり取りに、佳苗も思わず笑った。「男の子だったら、雄吾さんみたいになるのかしら」「それも楽しそうですね」「でしょう?」 美佐子はすっかり楽しそうだった。 そこへ知人が何気なく続ける。「会社のことを考えたら、跡継ぎも必要でしょうしね」「ああ、それもあるわね」 美佐子も深く考えずに頷いた。「まあ、今は男の子でなくてもいいのでしょうけど」「母さん」「何?」「話が早すぎる」「まだ何も決まってないのに、先のことばっかり言うなよ」「あら、ごめん
帰宅すると、雄吾はまだ帰っていなかった。 佳苗は着替えを済ませ、冷蔵庫から飲み物を取り出した。 いつもならテレビでもつけるところなのに、今日はその気になれない。 ソファに座ると、昼間の言葉がまた浮かんだ。『跡継ぎとか言われそう』 雄吾はそんなことを一度も言っていない。 結婚前に子供の話をしたときも、佳苗が怖いなら無理をする必要はないと言ってくれた。 それなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。「ただいま」 玄関から声がした。「おかえり」 佳苗が立ち上がると、リビングへ入ってきた雄吾がすぐに足を止めた。「どうした?」「何が?」「なんかあっただろ」「……そんなに分かりやすい?」「分かりやすい」 少し迷ってから、佳苗はソファへ座り直した。「今日、会社で子供のこと聞かれた」「子供?」「妊娠してるのかって。ちょっと疲れて見えたみたい」 雄吾の眉が寄る。「また会社で何か言われたのか?」「違う違う。今回はそんな感じじゃないよ」 佳苗は慌てて否定した。「普通の雑談。聞いた人もすぐ謝ってくれたし」「ならいいけど」「それでね」 佳苗は膝の上で指を組んだ。「雄吾が会社の社長だから、跡継ぎとか言われそうって」「誰に?」「その人に。雄吾じゃないよ」「俺は言わない」「分かってる」 佳苗は小さく笑った。「分かってるんだけど……ちょっと怖くなった」 雄吾が隣に座る。 何も言わず、続きを待ってくれた。「前に子供のこと話したでしょう?」「ああ」「そのときは、まだ先のことだと思ってた。でも結婚したら、周りか
職場の空気が落ち着き始めてから、二週間ほどが経った。 以前のように露骨なことを言う人はいなくなった。 仕事も普通に回ってくる。「榊原さん、これ午後までにいけます?」「大丈夫です」「助かります」 そんなやり取りが戻ってきたことに、佳苗はほっとしていた。 まだ少し距離を取っている人もいるけれど、それまで無理に元通りにする必要はない。 仕事に支障がなければ十分だ。「榊原さん」「はい?」 昼休み、同僚の女性に声を掛けられた。「今日、お昼一緒に行かない?」「行く」 以前から時々一緒に食事をしていた相手だった。 近くの店へ入り、ランチを注文する。「最近、大変だったね」「まあ……ちょっとね」「私はああいうこと言ってなかったけど、止めてもなかったから。ごめんね」 思いがけない言葉に、佳苗は目を瞬いた。「謝ってもらうほどじゃないよ」「でも、聞いてて変だなとは思ってたんだよね」「ありがとう」 料理が運ばれてくる。 ようやく普通の雑談ができる。 そう思ったところで、相手が何気なく尋ねた。「ところでさ。榊原さん、最近体調悪かったりする?」「え?」「なんか、前より疲れてるように見えるから」「そうかな?」 佳苗は首を傾げた。 仕事のことで気疲れはしていた。 けれど、体調が悪い自覚はない。「別に大丈夫だよ」「そっか」 相手は頷き、それから少し笑った。「じゃあ違うか」「何が?」「いや、結婚したばっかりだし、もしかしてって」 その瞬間。 佳苗の箸が止まった。「……もしかして?」「赤ちゃん」 さらりと言われた一言だった。 悪意などない。「まだそういう予定はないよ」「そっか。ごめん、勝手に」「ううん」 佳苗は笑って流した。 ◇ 会社へ戻る途中。「でも、結婚したらやっぱり聞かれるよね」 同僚が苦笑する。「私も結婚したとき、親戚にずっと言われたもん。子供はまだかって」「そうなんだ」「榊原さんのところなんて、旦那さん会社経営してるんでしょう? 跡継ぎとか言われそう」 また、足が止まりそうになった。「……どうだろうね」「そういうのない?」「ないよ」 雄吾から、一度も言われたことはない。 美佐子からも。 だから、気にする必要などないはずだった。 けれど――。 跡継ぎ。 その
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。







