Masukその日の午後。
佳苗はダイニングテーブルへ置かれた書類を見つめていた。
離婚協議書。
白い紙なのに、
妙に重く見える。「……現実感ないですね」
小さく呟く。
向かい側では、
三浦が静かに資料を整理していた。「最初は皆さんそうおっしゃいます」
落ち着いた声。
今日は珍しく、
三浦が直接マンションへ来ていた。法的な話を進めるためだ。
「現在の状況ですが」
三浦は淡々と説明を始める。
「SNS投稿、不貞行為の証拠、接触記録。こちらに有利な材料は十分あります」
佳苗は小さく頷く。
頭では分かっている。
でも。
“離婚”という言葉だけが、
まだどこか現実離れしていた。「ご主人側は、まだ離婚拒否の姿勢です」
佳苗はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。 絢子に送ったメッセージに、夫の直哉が返事をしてきた。 しかも、直前まで表示されていた絢子からの返信は、すべて取り消されている。「佳苗?」 隣にいた雄吾が、映画を一時停止した。「どうした?」「……これ、見て」 佳苗がスマートフォンを差し出すと、雄吾は画面を覗き込んだ。『佳苗さん、妻がいつもお世話になっています。久世直哉です』『ところで、絢子に何かご用でしょうか?』 雄吾の表情が険しくなった。「久世が絢子の携帯を使ってるのか」「うん。さっきまで絢子さんから返事が来てたの。でも、急に取り消されて……」「何て書いてあった?」「元気にしてるって。それから、直哉さんが交友関係を気にするから、しばらく連絡を控えてほしいって」 雄吾は黙って画面を見つめた。「……返事はするな」「でも、何か答えないと不自然じゃない?」「今はいい。向こうが何を言ってくるか分からん」 佳苗は頷いたものの、落ち着かなかった。 絢子は今、直哉の隣にいるのだろうか。 自分が送ったメッセージのせいで、責められているのではないだろうか。 そんなことを考えていると、再び通知が鳴った。『絢子は結婚したばかりで、まだ新しい生活に慣れていないんです。昔のお友達とのお付き合いも大切ですが、今は夫婦の時間を優先させたいと思っていましてね』 丁寧な文章だった。 けれど、佳苗にはまるで、絢子に近づくなと言われているように感じられた。「……私、絢子さんに迷惑をかけちゃったのかな」「佳苗が悪いわけじゃない」「でも、連絡しなければ……」「絢子が自分で返事をしたんだろ。久世がそれを
「外出していいか、分からない……?」 佳苗は美佐子の言葉を繰り返した。『そうなの。私も驚いてしまって。結婚したばかりだから、旦那様の予定に合わせたいということなのかもしれないけれど』「そうですね……」 佳苗は曖昧に答えた。 夫婦で予定を相談するのは、ごく普通のことだ。けれど、絢子の言い方には引っかかるものがあった。 外出できるかどうかではなく、外出していいかどうか。 まるで、夫の許可が必要であるかのようだった。『佳苗さん、何か聞いていない?』「いえ、詳しいことは……」 佳苗は言葉を濁した。 絢子から届いたメッセージや、直哉とのやり取りを勝手に話していいものか分からなかった。『そうよね。ごめんなさい、変なことを聞いてしまって』「いえ。私も少し気になっていたので」『あの子、昔から気の強いところはあったけれど、言いたいことを我慢するような子ではなかったのよ』 美佐子は寂しそうに笑った。『幸せに暮らしているなら、それでいいんだけれど』 電話を切ったあとも、佳苗はしばらく考え込んでいた。 以前の絢子なら、誰かに遠慮して外出を諦めるなど、考えられなかった。 もちろん、結婚して生活が変わっただけかもしれない。 それでも、あの結婚式で感じた違和感が、少しずつ形になっていくようだった。 佳苗は思い切って絢子にメッセージを送った。『お久しぶりです。最近どうしていますか? お元気ならいいのですが』 返事はなかった。 その日の夕方、雄吾が珍しく早く帰ってきた。「ただいま」「おかえりなさい! 今日は早かったんだね」「ああ。少し区切りがついた」 佳苗はほっとして、雄吾の上着を受け取った。「よかった。最近、ずっと遅かったから」「心配させ
その日から、雄吾の帰宅が遅くなった。 普段なら夕食を一緒に取れる時間に帰ってくるのに、ここ数日は九時を過ぎても姿が見えない。 佳苗が心配して連絡すると、必ず返事はあった。『今日は遅くなる。先に食べていてくれ』 けれど、何があったのかまでは書かれていない。 佳苗も、仕事のことを根掘り葉掘り聞くつもりはなかった。自分だって、会社で扱う情報を何でも夫に話せるわけではない。 それでも、心配なものは心配だった。 木曜日の夜、佳苗がリビングで本を読んでいると、玄関から鍵の開く音がした。「おかえりなさい!」 時計を見ると、もう十一時近い。 迎えに出ると、雄吾がコートを脱いでいるところだった。「ただいま。まだ起きてたのか」「うん。お疲れさま」「先に寝ててよかったのに」「眠くなかったから」 佳苗がそう答えると、雄吾は少し笑った。「夕飯は?」「会社で軽く食べた」「じゃあ、お茶でも淹れようか?」「ああ。頼む」 雄吾はリビングのソファに腰を下ろし、ネクタイを緩めた。 その仕草が、いつもより疲れて見える。 佳苗は温かいお茶を用意して、隣に座った。「……大変そうだね」「少しな」「久世さんの件?」 雄吾は湯呑みを手にしたまま、佳苗を見た。「心配かけてるな」「それは、心配するよ」 佳苗は素直に答えた。「でも、仕事の内容を教えてほしいわけじゃないの。ただ、雄吾が無理してないか気になって」「無理はしてない。多少面倒なことになってるだけだ」「そっか……」 佳苗が頷くと、雄吾は彼女の肩を抱き寄せた。「もう少ししたら落ち着く」「本当?」「ああ。だから、そんな顔するな」
佳苗は絢子から届いたメッセージを、雄吾に見せた。「ねえ、これ……」 雄吾は画面に目を通すと、わずかに眉を寄せた。「会社のことを聞かれても答えるな、か」「久世さん、何か企んでいるのかな」「分からん。ただ、絢子がわざわざ忠告してくるなら、気になるな」 雄吾はスマートフォンを佳苗に返した。「返事は?」「まだ。何のことなのか聞いてみようかと思って」「そうだな。ただし、無理に聞き出す必要はない」 佳苗は頷き、短い文章を送った。『分かりました。何か理由があるんですか?』 しばらく待っても、返信はなかった。「忙しいのかな」「新婚早々、いろいろあるんだろう」 雄吾はそう言って立ち上がった。「夕飯、何が食べたい?」「えっ、雄吾が作ってくれるの?」「今日は休みだろ。たまにはな」 その言葉に、佳苗は思わず笑顔になった。「じゃあ、パスタがいいな」「分かった」 雄吾がキッチンへ向かうのを見送りながら、佳苗はもう一度スマートフォンを確認した。 やはり、絢子からの返信はない。 これ以上考えても仕方がないと、佳苗は雄吾の手伝いをすることにした。 翌週の月曜日。 佳苗はいつもどおり出勤し、午前中の仕事を片づけていた。 高瀬課長から任された業務も順調に進んでいる。以前より責任は増えたが、そのぶん仕事の手応えも感じられるようになっていた。 昼休み、スマートフォンを確認すると、絢子から返信が届いていた。『ごめんなさい。昨日は返事ができなくて』 続けて、もう一通。『直哉さんが、雄吾さんの会社の新しい事業について気にしているみたいなの』 佳苗は首を傾げた。 雄吾の会社の新しい事業。 そういえば、最近も帰宅後に仕事の話をしていたが、具体的な内
「久世さんの番号なの?」 佳苗が尋ねると、雄吾は頷いた。「ああ。仕事で何度か連絡を取ったことがある」 スマートフォンは鳴り続けている。 絢子との通話が切れた直後に、夫の直哉から電話がかかってくる。偶然とは考えにくかった。「……出たほうがいいかな」「無理に出る必要はない」「でも、何か用事があるのかもしれないし」 佳苗は少し迷い、通話ボタンを押した。「はい、朝倉……いえ、榊原です」『こんにちは、佳苗さん。久世直哉です』 電話の向こうから、聞き覚えのある明るい声が響いた。「こんにちは。昨日はお招きいただき、ありがとうございました」『こちらこそ。楽しんでもらえたかな?』「はい。素敵な結婚式でした」『それはよかった。ところで、さっき絢子と電話していたそうですね』 佳苗は雄吾と目を合わせた。「ええ、少しお話ししました」『そうですか。何を話していたんです?』 あまりに当然のように尋ねられ、佳苗は一瞬返事に詰まった。「……それは、絢子さんとの個人的なお話なので」『おや、夫の僕にも内緒ですか?』 直哉は笑った。『困ったな。新婚早々、妻に秘密を作られてしまった』「そういうことではありませんが……」『冗談ですよ。そんなに警戒しないでください』 佳苗は唇を結んだ。 冗談と言われても、少しも面白くない。『それより、慈善パーティーの件なんですが』「そのお話でしたら、雄吾からお断りしたと思います」『ええ、聞いています。でも、奥様ご本人のお気持ちはどうなのかなと思いましてね』「私も、今回は遠慮させていただきたいです」『どうしてです? お忙しい?』「それもありますし
佳苗は絢子から届いたメッセージを雄吾に見せた。「これ……どういうことだと思う?」 雄吾は画面に目を通し、眉を寄せた。「久世が絢子の名前を勝手に使っている、ということだろうな」「でも、どうして?」「それは本人に聞かないと分からん」 佳苗は少し迷ってから、絢子に返信した。『今朝、久世さんから雄吾に電話がありました。慈善パーティーに協力してほしいというお話でしたが、絢子さんも望んでいるとおっしゃっていました』 しばらくして、既読がついた。 しかし、返事はなかなか来ない。「……絢子さん、大丈夫かな」「心配なのか?」「うん。以前は苦手だったけど、だからって困っているのを見過ごしたいわけじゃないし」 雄吾は佳苗の隣に座り、静かに頷いた。「ただ、あいつら夫婦の問題に深入りするなよ」「分かってる」 ようやく返信が届いたのは、それから十分ほど経ってからだった。『やっぱりそうなのね。ごめんなさい。直哉さんには、私からもう一度話しておくわ』 佳苗はその文章を読み、ますます気になった。『絢子さんは、そのパーティーのことをご存じなんですか?』 今度はすぐに返事があった。『ええ。結婚前から準備している催しよ。でも、佳苗さんにお願いするなんて聞いていなかったの』 続けて、もう一通。『あの人、雄吾さんに負けたくないのよ』 佳苗は思わず画面を見つめた。 直哉が雄吾に対抗意識を持っていることは、結婚式での態度からも感じていた。 けれど、それが自分への誘いとどう関係するのだろう。『私が参加すると、雄吾に勝てるんですか?』 そう尋ねると、絢子から電話がかかってきた。「絢子さん?」『突然ごめんなさい。文章だとうまく説明できなくて』 絢子の声は、少し疲れている
ホテルへ入る佳苗と雄吾。 暗い夜道で撮られたはずなのに、驚くほど鮮明だった。「……どうして」 佳苗の指先が震える。 まるで誰かに見張られていたみたいだった。『ねぇお姉ちゃん』『その人、誰?』『もしかして浮気?』 次々届くメッセージ。 佳苗は顔を青ざめさせた。 浮気。 その言葉に胸が痛む。 裏切っていたのは悟たちの方なのに、なぜ自分が責められなければいけないのだろう。「見せろ」 雄吾が静かにスマホを受け取る。 メッセージ画面を見た瞬間、その目が冷えた。「……なるほど」「先輩」「撮られていたな」 低い声。 感情を押し殺したような響き。「どうしよう……」
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。