LOGIN鷹取宗介(たかとり そうすけ)と三枝千景(さえぐさ ちかげ)の離婚調停は、丸1年にわたってもつれ、いつしか誰もが噂する話題になっていた。 1年の間に開かれた調停は3回。業界内では、千景がまだ宗介への思いを断ち切れず、わざと離婚を引き延ばしているのだと言われていた。 1回目の調停で、千景はブランドのオリジナルデザイン画と特許、著作権をすべて自分に帰属させ、2人で立ち上げたオーダーメイド店も全店舗譲り受けたいと主張した。デザインが会社の生命線だと知りながら、宗介は苦渋の末に譲歩し、店舗とデザイン関連の権利を半分ずつ渡すことに同意した。 2回目の調停では、2人で暮らしていたリバービューの高級マンションを受け取らないと言い出し、代わりに宗介名義の高額なオフィスビルを丸ごと要求した。弁護士からも無理のある条件だと諭されたが、宗介は辛抱強く話し合いに応じ、同等の価値を持つ資産との交換なら可能だと申し出た。 3回目の事前協議では、さらに条件を上乗せし、宗介がブランド経営から永久に退き、今後10年間ジュエリーデザイン業界に関わらないよう求めた。あまりにも法外な要求に、周囲は彼女が宗介を屈服させようとしているのだと呆れた。 それでも宗介は感情を荒らげず、会社の持株比率を整理する時間が欲しいと穏やかに伝え、最後まで譲歩する姿勢を崩さなかった。 どれほど理不尽な条件を突きつけられても、宗介は一つずつ話し合いに応じた。その姿は、かつての情に免じて千景を受け入れ、耐え続けているように見えた。 同業者の中には、このまま離婚調停が長引けば、いつか復縁の話し合いに変わるのではないかと冗談を言う者までいた。
View More時は静かに流れ、季節は幾度も巡った。千景と理人がともに立ち上げたジュエリーブランドは、すでに業界の第一線に定着し、揺るぎない地位を築いていた。最初の作品を磨き上げた日から、各地に実店舗を構え、国内外の権威あるデザイン賞を受賞するまで、二人は数え切れないほどの昼と夜を並んで歩いた。互いに支え合ううち、息の合った連携は呼吸のように自然なものになっていた。仕事では、これ以上ないパートナーだった。美意識も理念も重なり、誰にも真似できないほど息が合った。仕事を離れても、理人はいつも穏やかで、千景との距離をわきまえていた。秋の午後、スタジオの大きな窓の外には穏やかな風が吹き、色づいた葉が舞っていた。そのシーズンの新作についての振り返りを終え、広い展示スペースには静かな時間が流れていた。そこには、向かい合って座る二人だけがいた。理人は、穏やかな表情の千景を見つめた。何年も胸に秘めてきた思いを、その日、初めて言葉にした。「千景、大学で出会った時から、ずっと君に惹かれていた。苦しい時期を乗り越え、自分の人生を取り戻す姿を見てきて、今こうしてそばにいられることを、何度も幸運だと思った。君が好きだ。仕事仲間としてではない。これからの人生を、ともに過ごしたいと思ってる」千景はわずかに目を見開いた。だがすぐに、胸の中は澄んだ静けさに戻った。理人をまっすぐ見つめた目には、誠実さと申し訳なさがあった。千景は静かに首を振った。「理人、ありがとう。あなたは、これまでの人生でいちばん信頼できるパートナーで、いちばん大切な友達よ。行き場を失っていた私を救ってくれた人でもある。でも、私の心にはもう、誰かを愛するための場所が残っていないの」今の千景にあるのは、日々を生きる喜びと、仕事への情熱だった。新しい恋愛を受け入れる余力は、もうなかった。「今の暮らしが好き。心から打ち込める仕事があって、あなたと並んで進める。それだけで、もう十分に満たされている。今を変えたくないし、恋愛をするつもりもない。これからもずっと、最高のパートナーで、親友でいたい。それ以上にはなれない」理人は黙って聞き終えた。落胆した様子も、気まずそうな表情も見せず、優しくうなずいた。眼差しに宿る穏やかな優しさは、何一つ変わっていなかった。「分かった」理人はそう答え、穏やかな表情で
千景が新シリーズの商談を終えて外に出ると、スタジオ前の並木の下に、宗介が静かに立っていた。千景が近くまで来ると、宗介の喉仏がわずかに上下した。低い声で、一言だけ告げた。「朔也の墓参りに行ってきた」その短い言葉に、周囲の空気が一瞬で凍りついた。その一言は鈍い痛みとなって、二人の胸を同時に刺した。千景は足を止め、体の横に下ろした指にわずかに力を入れた。何も言わないまま、長い沈黙が落ちた。風が枯れ葉を巻き上げ、足元へ運んだ。あの事故は、二人の間に残り続け、決して消えることのない傷だった。宗介は千景の感情の見えない横顔を見つめ、ゆっくりと言葉を続けた。「朔也のことは、俺たち二人の心から抜けない棘だったのかもしれない。あの日を境に、俺たちの間にあった優しさは少しずつ歪み始めた。溝は日ごとに深くなり、何でも話せた頃には二度と戻れなくなった」千景は長いあいだ黙っていた。目にごく淡い痛みがよぎったが、表情は揺れなかった。息子を失った悲しみに閉じ込められ、光の見えない日々を、千景は何年も一人で耐えた。今では少しずつ受け入れ、手放せるようになっていた。「あとになって、あの頃のお前がどれほど苦しんでいたのか、少しずつ分かるようになった。毎晩眠れず、一人で部屋に隠れて泣き、体の不調も誰にも言わず、自分ばかり責めていた。それなのに俺は、自分の疲れしか見えていなかった。お前は暗くて頑なだと決めつけて、一度もきちんと抱きしめず、苦しみを分け合おうともしなかった」宗介の目に深い後悔が広がり、声がわずかに震えた。「今になって思えば、俺はお前に償いきれないほど多くのことをしてきた。だが今のお前には、遅すぎた抱擁も慰めも、もう必要ないんだろう?」千景は静かにうなずいた。「朔也はずっと、優しくて聞き分けのいい子だった。争いや傷つけ合ったことを脇に置けば、私たちは何も持たなかった頃から10年、支え合って歩いてきた。これからのあなたが穏やかに、何事もなく暮らせることを心から願ってる。でも、私たちはここまでよ。もう会いに来ないで。私のために何もしなくていい」すべてのもつれに、終止符を打つ時だった。宗介は揺らぎのない千景の目を静かに見つめた。もう二度と、やり直す余地はないのだと、はっきり理解した。胸に残っていた執着はすべて消え、ど
『海を越えて』のオークションから半年以上が過ぎ、千景と理人が立ち上げたジュエリーブランドは、市場で着実に地位を築いていた。物語性と工芸的な美しさを兼ね備えた千景独自のデザインによって、実店舗には客足が絶えず、オンラインのオーダーも数か月先まで埋まった。新しいシリーズは発売のたびにたちまち完売し、多くの顧客と業界関係者から高い評価を得た。千景の作品に込められた、優しく心を癒やす物語性は、ますます多くの人に支持された。話題性ばかりを追い、貴金属を並べただけの量産品を作り続けるTAKATORI JEWELRYに比べ、千景のジュエリーには魂があった。評判は上がり続け、市場シェアも着実に伸び、いつしかTAKATORI JEWELRYを上回る勢いを見せていた。業界では、両ブランドを並べて比較することが当たり前になった。メディアの記事でも関係者の会話でも、直接の競合として扱われ、比較記事が次々と宗介の目に入った。ある時、経済誌の記者が宗介を訪ね、カメラの前で両ブランドの競争について質問した。誰もが、宗介はこの機会に千景を低く評価するか、強硬な態度で相手との差別化を図るだろうと思っていた。だが宗介の表情は穏やかだった。対抗心を見せることなく、落ち着いた声で答えた。「両社を競合関係と捉える必要はありません。三枝千景さんのデザイナーとしての才能は、もともと私よりはるかに優れていました。大学時代からそうです。彼女はずっと、優れた仕事をしてきました。以前は私が、その創作を狭い枠に閉じ込めていたのです」驚いた記者は、市場を奪い返すため、相手のブランドを抑えるような手段を取るのかと重ねて尋ねた。宗介は静かに首を振り、同席していた記者たちをどよめかせる言葉を口にした。「鷹取ホールディングスが創業当初に注目を集めた中心的なデザインや、ヒットシリーズの原案は、すべて千景が手がけたものです。私はすでに書面に署名し、それらの商品に関する権利をすべて放棄しました。もともと彼女に帰属すべき作品であり、私が独占する資格はありません」宗介は周囲の評価を気にしていなかった。ただ、自分がかつて千景から奪ったものを、できる限り一つずつ返したかった。ほどなくして、業界最大規模のジュエリー交流会が予定どおり開かれ、一流のデザイナーやブランド責任者が集まった。早くから
宗介は今、あの頃とよく似た色合いの石を選び、職人に教わりながら、自分の手で一から仕上げた。不慣れな作業で、手にはまた細かな傷がいくつも増えていた。そうして昔のものによく似たペンダントを完成させ、ブランドの展示スペースの入口で千景を待っていた。宗介がそのペンダントを首にかけようと手を伸ばした瞬間、千景は反射的に半歩後ろへ下がった。明らかに距離を置き、苛立ちをにじませながら言った。「宗介、何度も言ったでしょう。こんな無意味なことは、もうやめて。私はとっくに欲しくなくなったの」どれほど心を尽くしても、返ってくるのは冷たい拒絶だけだった。毎日のようにつきまとわれ、千景もついに我慢の限界を迎えた。これ以上、生活をかき乱されたくなかった。そこで携帯番号を変え、スタジオにも入退室管理を導入した。以後、関係者以外は立ち入れないようにした。宗介は千景に連絡することも、近づくこともできなくなった。焦りと絶望は胸の中で膨らみ続けた。以前、千景がふと、一度バンジージャンプをしてみたいと話したことがあった。だが当時の宗介は、仕事が忙しい、危険だと、そのたびに断り、一度も付き添わなかった。追い詰められた宗介は、一人で車を走らせ、郊外のバンジージャンプ施設へ向かった。数十メートルの高さにあるジャンプ台には強い風が吹きつけ、眼下には激しい川の流れがあった。スタッフが安全器具を装着した。周囲は宗介も刺激を求めて来た客だと思っていた。だが宗介の胸にあるのは、千景に許してもらいたいという執念だけだった。ジャンプ台の縁に立ち、カメラに向かって声を張り上げた。叫び声は強風に引き裂かれた。「千景!俺が間違っていた!もう一度、俺を見てくれ!今回だけは許してくれ!」叫び終えると、宗介は台を蹴り、真っ逆さまに落ちていった。居合わせた客が撮った動画をSNSに投稿すると、わずか数時間でトレンドの最上位に上がった。動画には、宗介が取り乱して叫び、飛び降りる姿が映っていた。二人の離婚、息子の死、朋花の嘘をめぐる騒動が再び掘り返され、ネット上では、この常軌を逸した復縁騒ぎについて賛否入り乱れた議論が巻き起こった。動画が広まったその夜、宗介は全身の痛みも、力の入らない脚も顧みず、足を引きずりながらタクシーで千景のブランドの展示スペースへ駆けつけた。
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