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夫の後悔が届く頃、私は海を越えていた

夫の後悔が届く頃、私は海を越えていた

By:  チビッコCompleted
Language: Japanese
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鷹取宗介(たかとり そうすけ)と三枝千景(さえぐさ ちかげ)の離婚調停は、丸1年にわたってもつれ、いつしか誰もが噂する話題になっていた。 1年の間に開かれた調停は3回。業界内では、千景がまだ宗介への思いを断ち切れず、わざと離婚を引き延ばしているのだと言われていた。 1回目の調停で、千景はブランドのオリジナルデザイン画と特許、著作権をすべて自分に帰属させ、2人で立ち上げたオーダーメイド店も全店舗譲り受けたいと主張した。デザインが会社の生命線だと知りながら、宗介は苦渋の末に譲歩し、店舗とデザイン関連の権利を半分ずつ渡すことに同意した。 2回目の調停では、2人で暮らしていたリバービューの高級マンションを受け取らないと言い出し、代わりに宗介名義の高額なオフィスビルを丸ごと要求した。弁護士からも無理のある条件だと諭されたが、宗介は辛抱強く話し合いに応じ、同等の価値を持つ資産との交換なら可能だと申し出た。 3回目の事前協議では、さらに条件を上乗せし、宗介がブランド経営から永久に退き、今後10年間ジュエリーデザイン業界に関わらないよう求めた。あまりにも法外な要求に、周囲は彼女が宗介を屈服させようとしているのだと呆れた。 それでも宗介は感情を荒らげず、会社の持株比率を整理する時間が欲しいと穏やかに伝え、最後まで譲歩する姿勢を崩さなかった。 どれほど理不尽な条件を突きつけられても、宗介は一つずつ話し合いに応じた。その姿は、かつての情に免じて千景を受け入れ、耐え続けているように見えた。 同業者の中には、このまま離婚調停が長引けば、いつか復縁の話し合いに変わるのではないかと冗談を言う者までいた。

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Chapter 1

第1話

最後の調停が始まる30分前、千景は家庭裁判所の建物に隣接するコンビニの前で待っていた。

ふと目をやると、木の下に宗介が立っていた。手には白玉ぜんざいのカップがあった。

宗介はそれを安西朋花(あんざい ともか)の手にそっと渡し、彼女の口元についた餡を優しく拭った。

「心配するな。今日の調停は、どんな展開になっても対応できるようにしてある。千景が何を要求しても受け入れるつもりだ。金額も株もどうでもいい。少しでも早く離婚を成立させて、朋花と落ち着いて暮らせるなら、それでいい」

千景の胸が鋭く痛んだ。

大学で過ごした4年間、宗介は同じように白玉ぜんざいを手にし、冷ましながら一口ずつ食べさせてくれた。

夕方から明け方まで、図面を引く彼女のそばで夜を明かしてくれたこともあった。

10年をともにした末、宗介は別の女に走った。それでも千景は思い出にすがり、自分を欺きながら、1年間この結婚を手放せずにいた。

冷たい風が吹き抜けた。

千景は無意識に左手に目を落とした。

結婚指輪は、今も指の根元にはまっていた。長年つけ続けたせいで、皮膚には薄い赤い跡が残っていた。

顔を上げ、宗介の手を見た。

かつて2人の名前を刻んだ結婚指輪は、とうに姿を消していた。

代わりにはめられていたのは、細身のシンプルなリングだった。

朋花の指にあるものと、まったく同じデザインだった。

この1年、必死に保ってきた最後の意地が、一瞬で崩れ落ちた。

千景が指輪をそっとなぞると、目の奥が熱くなり、涙が不意に手の甲に落ちた。

手を上げ、急いで頬の涙を拭った。

指に力を込め、10年間はめ続けたダイヤの指輪を外した。

そのまま、そばのごみ箱に静かに落とした。

硬い音が小さく響いた。

今日の調停が、きっと最後になる。千景はそう思った。

千景は脇に置いていたバッグを持ち上げ、2人の横をまっすぐ通り過ぎて、裁判所の入口へ向かった。

「千景」

宗介に呼び止められた。

千景の足が、ほんの一瞬止まった。

宗介は足早に追いついた。

「朋花は妊娠4か月だ。遅くとも年末までには、きちんと離婚を成立させたい。いつまでも引き延ばしていたら、最後にはお互いみっともないことになる」

千景はゆっくり振り返り、わずかに膨らんだ朋花の腹に目を向けた。

宗介は千景が何かすると思ったのか、すぐに朋花を背後にかばった。

だが千景は、2人を数秒見つめただけで、何も言わなかった。

かすかに笑い、視線を外して、そのまま裁判所に入った。

全員が席に着いた。

宗介側の弁護士は、想定される条件をまとめた分厚い資料を机に広げた。誰もが、また長い駆け引きになると身構えていた。

千景は顔を上げた。

「離婚に同意します。必要な書類には署名します、明日そちらに送ります」

宗介は大きく目を見開いた。

「本当に……それでいいのか?」

なぜか彼が残念がっているように見えた。

そんな錯覚を抱く自分がおかしくて、千景はかすかに笑った。目に浮かんだ涙を隠すように顔をそらし、静かな声で答えた。

「ええ。これでいい。もう、互いに関わるのはやめましょう」

千景は立ち上がると、誰よりも先に裁判所のロビーを出た。

背後から、宗介が朋花に囁く穏やかな声が聞こえた。

「手続きが全部終わったら、数か月後には式を挙げよう。どんなドレスが着たい?海辺でも古城でも、好きな場所で写真を撮ればいい。全部、朋花の望みどおりにする」

朋花は幸せそうに笑ってから尋ねた。

「宗介がこんなに優しくしてくれたら、千景さんは嫌な気持ちにならない?」

「気にするな」

宗介はきっぱり言い切った。だが、その視線は無意識に前を歩く華奢な背中を追い、その凛とした姿に視線がわずかに揺れた。

「俺と千景は、もう何の関係もない」

その言葉が耳に届き、千景はわずかに目を細めた。

ちょうどその時、スマートフォンが震えた。千景は電話に出た。

「例の件、引き受ける。作品と権利関係の書類は1か月以内に全部まとめて送る。今回のコンペ、一緒に頑張ろう」

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ひとみ
ひとみ
私的には将臣くんがいいかな〜(そんな話じゃない)
2026-10-09 19:15:31
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しょう
しょう
白玉ぜんざいがクズ男の小道具にされてて辛い、美味しくて好きなのにこの話を思い出して美味しく食べられなくなりそう..
2026-10-09 23:32:15
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松坂 美枝
松坂 美枝
子供が亡くなってしまった原因は夫婦平等にあったというのがなんかやりきれない 女に逃げた気持ちもわからんでもない 主人公からしたらあそこまでした結婚生活の結末がこれかよとなるのはわかるが夫は鈍すぎて何も知らなかったんだよなとか色々複雑な読後感 まあ浮気した時点でダメなんだけどね
2026-10-09 09:52:29
4
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第1話
最後の調停が始まる30分前、千景は家庭裁判所の建物に隣接するコンビニの前で待っていた。ふと目をやると、木の下に宗介が立っていた。手には白玉ぜんざいのカップがあった。宗介はそれを安西朋花(あんざい ともか)の手にそっと渡し、彼女の口元についた餡を優しく拭った。「心配するな。今日の調停は、どんな展開になっても対応できるようにしてある。千景が何を要求しても受け入れるつもりだ。金額も株もどうでもいい。少しでも早く離婚を成立させて、朋花と落ち着いて暮らせるなら、それでいい」千景の胸が鋭く痛んだ。大学で過ごした4年間、宗介は同じように白玉ぜんざいを手にし、冷ましながら一口ずつ食べさせてくれた。夕方から明け方まで、図面を引く彼女のそばで夜を明かしてくれたこともあった。10年をともにした末、宗介は別の女に走った。それでも千景は思い出にすがり、自分を欺きながら、1年間この結婚を手放せずにいた。冷たい風が吹き抜けた。千景は無意識に左手に目を落とした。結婚指輪は、今も指の根元にはまっていた。長年つけ続けたせいで、皮膚には薄い赤い跡が残っていた。顔を上げ、宗介の手を見た。かつて2人の名前を刻んだ結婚指輪は、とうに姿を消していた。代わりにはめられていたのは、細身のシンプルなリングだった。朋花の指にあるものと、まったく同じデザインだった。この1年、必死に保ってきた最後の意地が、一瞬で崩れ落ちた。千景が指輪をそっとなぞると、目の奥が熱くなり、涙が不意に手の甲に落ちた。手を上げ、急いで頬の涙を拭った。指に力を込め、10年間はめ続けたダイヤの指輪を外した。そのまま、そばのごみ箱に静かに落とした。硬い音が小さく響いた。今日の調停が、きっと最後になる。千景はそう思った。千景は脇に置いていたバッグを持ち上げ、2人の横をまっすぐ通り過ぎて、裁判所の入口へ向かった。「千景」宗介に呼び止められた。千景の足が、ほんの一瞬止まった。宗介は足早に追いついた。「朋花は妊娠4か月だ。遅くとも年末までには、きちんと離婚を成立させたい。いつまでも引き延ばしていたら、最後にはお互いみっともないことになる」千景はゆっくり振り返り、わずかに膨らんだ朋花の腹に目を向けた。宗介は千景が何かすると思ったのか、すぐに朋花を背
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第2話
車は、見覚えのあるリバービューの高層マンション前に静かに止まった。千景と宗介が何もないところから働き、ようやく手に入れた家だった。離婚をめぐって争ったこの1年、千景はホテルで暮らしていた。戻りたくなかった。戻るのが怖かった。それでも今日、すべてが変わってしまった部屋に足を踏み入れる勇気が、ようやく持てた。指が、今も覚えている暗証番号を押した。扉が開くと、冷え切った空気が流れ出してきた。室内はがらんとしていた。玄関に立った千景の前から、宗介が暮らしていた痕跡はすべて消えていた。よく着ていた黒いスーツも、無造作に置かれていた腕時計も、愛用していたホワイトティーのディフューザーもなかった。空っぽの部屋には、千景の物だけが残されていた。そのことは、以前にアシスタントから聞いていた。宗介は半年前、私物をすべて、朋花と同棲しているマンションに運び出していた。千景はゆっくりリビングに進んだ。布張りのソファは、大学を卒業して1年目に、2人で長いあいだ貯金して買ったものだった。その年の晩秋、急ぎのデザイン案件を引き受けた千景は、3日3晩ほとんど眠れず、目を真っ赤にして力尽きていた。ソファに倒れ込み、宗介の胸に身を寄せて甘えた。「疲れた。もうデザイン画なんて描きたくない」宗介は千景を抱き、凝り固まった肩と背中をゆっくり揉みながら宥めた。「よく頑張ったな、千景。描きたくないなら、もう描かなくていい。これからは俺が支える」千景は目元をこすり、バルコニーへ出た。2人掛けの籐椅子は、今も同じ場所にあった。風が吹くたび、編み目がかすかにきしんだ。千景は静かに腰を下ろした。以前は数え切れないほどの夕暮れを、ここで2人並んで過ごした。宗介はみかんの皮を丁寧にむき、一房ずつ千景の口元に運んでくれた。千景は彼の肩にもたれ、眼下に広がる街の灯を眺めた。「宗介。私たち、ずっとこうしていられるかな」宗介は髪に口づけ、迷いなく答えた。「いられる。一生、このままだ」「一生」という約束は、あまりにも短かった。彼の愛情が自分だけに注がれたのは、ほんの数年だった。千景は立ち上がり、キッチンへ向かった。起業したばかりで生活が苦しかった頃、料理などしたことのなかった宗介が、千景のために作り方を覚えた。初め
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第3話
外では冷たい雨がしとしとと降り、灰色の空が街を覆っていた。千景は署名を終えた書類を封筒に入れ、宗介の会社に送った。すべてを済ませると傘を手に取り、1人で郊外の霊園へ車を走らせた。人影の少ない霊園で、「鷹取朔也(たかとり さくや)」と刻まれた小さな墓石の前に立った。ぼんやりと見つめているうちに、元気に走り回っていた朔也の姿が目の前に浮かんだ。小さな手で服の裾をつかみ、甘えるように「ママ」と呼んでいた。笑顔は手を伸ばせば触れられそうなほど鮮明だった。千景が呆然とし、幻に手を伸ばそうとした時、背後から大勢の足音が押し寄せた。カメラとマイクを手にした記者たちが群がり、レンズを一斉に千景に向けた。「三枝さん、昨日の調停でようやく離婚に同意したばかりなのに、今朝、鷹取社長の会社へ送った封筒には、10年前に書いたラブレターが入っていたそうですね」「離婚まで決まったのに、昔の手紙まで持ち出して縋るほど、まだ鷹取社長を諦められないんですか?」「離婚の原因は、結局どちらにあるのでしょうか?」幾つものマイクとカメラに囲まれ、千景は何が起きているのか分からないまま、その場に立ち尽くした。待機していたボディーガードがすぐに駆け寄り、千景を背後にかばって記者たちを遠ざけた。千景は混乱を押し殺して車に戻り、宗介の会社に直行した。受付に着いて、ようやく社員から事情を聞いた。今朝、宅配便が受付に届いた時、宗介を訪ねてきた朋花がその場に居合わせた。朋花が勝手に封筒を開けると、中から黄ばんだラブレターがこぼれ落ちた。その場に取材で来ていた記者が偶然目撃し、瞬く間に話が広まったという。怒りが一気に込み上げた。千景はそのまま上階へ向かい、社長室の前で朋花を見つけた。一歩詰め寄った。「宅配便が届いてから開封されるまで、防犯カメラに全部映っている。あの手紙をどこから持ってきたの?」宗介はすぐに駆け寄って朋花を抱き寄せた。千景に説明する隙も与えず、その腕をつかんで社長室へ引き入れ、扉を強く閉めて外の野次馬を遮った。まず朋花を椅子に座らせ、わずかに膨らんだ腹に手を添えた。「怖がらなくていい。俺がいる。落ち着け。お腹の子に障る」朋花を落ち着かせてから、ようやく千景に向き直った。「この件をいつまでも責めるな。朋花が封筒を取り違えただ
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第4話
平手打ちの乾いた音がまだ廊下に響く中、千景は社長室を後にした。両側のデスクにいた社員が一斉に顔を上げた。無数の視線が千景にまとわりつき、ひそひそと囁く声が絶えなかった。周囲の目など意に介さず、フロアの奥にあるデザイン資料室へ向かった。そこには、デザイナーとして歩んできた千景の原画がすべて保管されていた。幾晩も机に向かい、磨き上げてきた仕事の結晶だった。奥の扉を開けると、湿気と黴の臭いが鼻を突いた。日当たりの悪い資料室は冷え切っていた。長年の雨漏りで、壁には水が伝い、隅に積まれた何束ものデザイン画を濡らしていた。紙は水を吸って膨れ、手描きの線も彩色も滲んでいた。過去に受賞した作品の原画も、未発表のオリジナル案も、その大半が台なしになっていた。若いインターンが、おどおどしながらそばに来た。「三枝先生、申し訳ありません……少し前に安西さんから、先生の原画を全部この資料室へ移すように言われたんです。どれも古くて役に立たないし、会社ではもう使わないからって……」千景は水に濡れて崩れた紙を見下ろし、胸の奥に込み上げる痛みを押し殺した。インターンを責めることなく、淡々と言った。「もう出ていいわ」相手はほっとした様子で、足音を忍ばせて部屋を出た。ほどなくして足音が近づき、宗介が扉を開けて入ってきた。床に散らばる無残な原画を見回し、ほんの一瞬ためらいを浮かべたが、すぐに口を開いた。「この件で、朋花を必要以上に責めないでくれ。俺たちは10年も夫婦だったんだ。朋花が不安になって、考えすぎてしまうのも無理はない」千景はその偽善的な顔を見上げたが、話をする気にはなれなかった。かがみ込み、まだ修復できそうな原画を集め、胸にしっかり抱いて立ち去ろうとした。外では雨脚が急に強まり、激しい雨粒が大きな窓を叩いていた。宗介は千景の華奢な背中を見つめた。少しためらった末、手を伸ばした。「雨がひどい。送っていく」千景はその手をきっぱりと払いのけた。ちょうどそこへ、朋花が宗介を捜しに来た。朋花は入口で足を止めた。たちまち目に涙をため、唇を震わせた。何も聞かず、顔を覆って走り去った。ほどなくして、ビル中に噂が広まった。面白半分の社員が、廊下や社長室での言い争いを撮影し、SNSに投稿していた。動画は瞬く間に拡散さ
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第5話
千景は鷹取ホールディングスを出ると、車で滞在先のホテルに戻った。しばらくして、スーツケースの底から、何年も使っていなかった古いスマホを取り出した。冷えた端末の画面が点灯し、その光が生気を失った瞳を照らした。かつて千景と宗介が、ジュエリーデザイン界のゴールデンカップルと呼ばれていた頃、2人で開設した公式アカウントだった。会社を宣伝し、仲の良い夫婦として世間に見せるために作ったものだった。画面を数回タップすると、ログインが完了した。タイムラインには、何年も前の投稿ばかりが並んでいた。ともに働く姿、深夜までデザインを修正する姿、親密に言葉を交わす姿。動画も写真も、幸せだった日々で埋め尽くされていた。コメント欄には、2人を羨み、祝福する言葉が並んでいた。【まさに理想の夫婦。支え合って歩く2人が素敵】【鷹取社長と三枝デザイナーは、業界一お似合いの2人】【2人の愛と才能を、いつまでも信じています】千景は黙って眺めたあと、長く開いていなかったダイレクトメッセージの一覧を開いた。いちばん上に、5年前から動いていないサブアカウントがあった。それを開いた。大量のメッセージが画面に現れた。5年前の宗介から送られたものだった。あの頃の宗介は、まだ今ほど仕事に追われていなかった。毎晩、仕事が終わるとそのサブアカウントからそっとメッセージをくれた。千景を笑わせ、眠れない夜には付き合い、さりげない言葉で何度も心を軽くしてくれた。だがある時から、そのアカウントからメッセージが届くことはなくなった。千景の瞳がかすかに揺れたが、すぐに我に返った。それ以上は見ず、撮影画面を開いた。カメラをまっすぐ見つめる表情は、静かで揺るぎなかった。動画が予定時刻に公開されるよう、投稿予約を設定した。それから弁護士に電話をかけた。「離婚手続きに必要な書類と、デザインの権利帰属に関する書類は、すべてこの住所に送ってください。あのマンションは、すぐ売りに出します。価格を下げてでも、できるだけ早く売却してください」すべてを片づけた千景は最低限の荷物だけをまとめ、いちばん早い便を予約した。その夜のうちに、10年の青春と我が子を葬った街を離れた。……宗介は、泣き止まない朋花を長いこと辛抱強く宥めた。広報対応にも応じ
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第6話
不動産会社の担当者は、引き渡し確認書を手にしたまま、気まずそうに紙の端をいじっていた。宗介は呆然とした。リバービューのマンションは、宗介と千景が10年という時間をかけ、少しずつ築いた居場所だった。起業したばかりの頃は、十数平方メートルしかない賃貸の一室で暮らしていた。やがて一等地の川沿いに部屋を買えるまでになった。そこには、苦しい日々を乗り越えた2人の希望がすべて詰まっていた。宗介はずっと、千景が何より手放せないのはこの家だと信じていた。1年にわたる離婚調停で要求を次々と吊り上げ、合意を拒み続けたのも、結局は10年連れ添った絆を捨てられないからだと思っていた。「売った?」驚きを隠せない声が漏れた。宗介は書類の末尾にある千景の署名を凝視した。「千景が10年守ってきた家だ。こんなにあっさり売るはずがない。買主は誰だ。今すぐ連絡先を教えろ」担当者は、理不尽な人だと内心呆れた。先ほどからネットを騒がせている離婚問題は、誰もが知っていた。元妻は安値で部屋を売って離れようとしているのに、夫のほうが買い戻すと言い出している。どう見ても冷静さを失っていた。だが顔には出さず、辛抱強く説明した。「お客様、売買はすべて適正な手続きで行われております。三枝様ご本人の意思で価格を下げて売却されました。買主様の個人情報を弊社からお伝えすることはできません。守秘義務がございますので、ご了承ください」「責任は俺が取る」宗介は顔を上げた。ポケットのスマホが震え続けていた。画面を見なくても朋花からだと分かったが、構わず続けた。「そちらに迷惑はかけない。買主と連絡が取れるようにしてくれ。相手がいくら要求しても、俺が倍の金額で買い戻す。話がまとまれば、別途、十分に礼はする」担当者は、頑なな宗介を見て、まともな判断ができる状態ではないと思った。それでも裕福な企業経営者を怒らせるわけにはいかず、うなずくしかなかった。連絡先を控え、買主と話ができ次第知らせると約束した。そして書類を抱え、これ以上この面倒な話に関わりたくないとばかりに足早に立ち去った。廊下に1人残された宗介は、冷たい壁にもたれた。無意識にスマホを操作し、トレンドの首位にある千景の動画を開いた。先ほどは朋花の泣き声に気を取られ、内容をわずかに見ただけだった。千景が仕返しのた
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第7話
スマホがまた激しく震えた。画面には「朋花」の名と、十数件の不在着信が、もう一人宥めなければならない相手の存在を、嫌でも宗介に突きつけていた。宗介の指が通話ボタンの上で止まった。長くためらった末、ようやく電話を取った。朋花の泣き声がすぐに聞こえた。強い不安が混じっていた。「宗介、ネットの書き込みがどんどんひどくなってる。みんな私があなたの結婚を壊したって責めてるし、3年前に会社に出入りしていた記録まで掘り起こされたの。提携先のブランドからも問い合わせが来てる……お腹には赤ちゃんがいるのに、これ以上こんな言葉には耐えられない。今どこにいるの?早く帰ってきて、そばにいてくれない?」以前なら、か弱く悲しげに訴えられれば、宗介はすぐに心を動かされ、朋花のもとに戻っただろう。だが今は、耳元の泣き声に言いようのない疲労と苛立ちを覚えるだけだった。閉ざされた扉を見上げた。その向こうには誰もいない。帰りを待ち、温かい白玉ぜんざいを笑顔で差し出してくれた女は、もう二度と現れない。2人で整え、ともに老いる未来を思い描いた家は、すでに他人のものになった。千景がいた痕跡は、歳月と宗介自身の手ですべて消されていた。「こっちで、まだ片づけることがある。あとで戻る」胸に渦巻く感情を押し殺し、平坦な声で告げると、宗介はすぐに電話を切った。スマホをしまい、ゆっくりエレベーターへ向かった。鏡のような扉に、青ざめ、ひどく疲れた顔が映った。エレベーターが静かに下降した。狭く閉ざされた空間は、息苦しいほど重かった。遠い日の記憶が、勝手に頭に浮かんだ。このマンションに引っ越した最初の夜、千景は弾んだ足取りで宗介の手を引き、すべての部屋を見て回った。バルコニーの籐椅子にもたれ、眼下の明かりを指しながら、こんなふうにずっと穏やかに暮らせるだろうかと、希望に満ちた目で尋ねた。デザイン画に向かい、夜更かしをした晩も数え切れない。机に伏して眠そうにする千景に、宗介は冷ました白玉ぜんざいを一口ずつ食べさせた。息子の朔也が生きていた頃は、家族3人でリビングを駆け回って遊んだ。幼い朔也は2人の手を握り、甘える声で「パパ」「ママ」と呼んだ。マンションを出ると、冷たい風が吹きつけた。宗介は車に乗り込み、無意識にハンドルを撫でた。もう一度、不動産会社の担当者
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第8話
宗介は車を走らせ、郊外にある静かなバーへ向かった。大学時代によく集まった店で、騒がしさもなく、業界の人間が訪れることもほとんどなかった。個室の扉は少し開いていた。押し開けると、丹羽将臣(にわ まさおみ)がすでに奥のソファで待っていた。テーブルにはウイスキーのボトルが数本置かれ、アイスペールから白い冷気が立ち上っていた。将臣は、宗介と千景にとって大学時代からの親友だった。二人が学生時代に恋に落ち、手を取り合って起業し、最も苦しい時期を乗り越えていく姿を、ずっとそばで見てきた。宗介の沈んだ様子と、目に滲む疲労を見て、グラスを持つ将臣の手が止まった。胸にやるせなさが広がった。少し黙ったあと、将臣が低い声で切り出した。「家庭裁判所からの知らせは聞いた。本当に千景と離婚したのか?」宗介はネクタイを緩め、ソファに重く腰を下ろした。冷たいグラスを指で撫でながら、小さく答えた。「ああ」将臣はため息をつき、自分のグラスに酒を半分ほど注いだ。「この1年、離婚調停がまとまらなかっただろう。業界の連中は、最後には必ず復縁するって賭けまでしてた。昔のお前たちはあれほど仲が良くて、何もなかった頃から支え合ってきたんだ。こんな結末になるなんて、誰も思わなかった」宗介は答えず、店員を呼んで、空いたグラスすべてに強い酒を注がせた。一つを手に取り、一息に飲み干した。焼けるような痛みが喉から食道を伝い、胸の奥に落ちていった。それでも、胸に空いた穴が埋まることはなかった。宗介は黙ったままグラスを重ね、強い酒で神経を麻痺させようとした。見かねた将臣が、再びグラスを上げようとした手を押さえた。「何をしてるんだ。体に悪いと分かってるのに、こんな飲み方をするな」止められた宗介は目を伏せた。長く抱え込んできた苛立ちと疲労、やりきれなさが、酔いとともに溢れ出した。グラスから手を離し、ソファの背に体を預けた。声は掠れ、ひどく疲れていた。「俺だって、こんなふうに終わらせたくはなかった。でも結婚生活の後半は、もう続けていけなかったんだ」起業したばかりの頃に支え合った温もりは、代わり映えのしない毎日の中で、少しずつ擦り減っていった。事業が軌道に乗ると、宗介は連日のように仕事と接待に追われた。2人で過ごす時間は減り、向かい合っても言葉を交わさない時
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第9話
将臣は、宗介が一度も聞いたことのない過去を、一つずつ語り始めた。起業したばかりの頃、会社は資金繰りに行き詰まり、倒産寸前まで追い込まれた。債権者が連日のように押しかけてきた。宗介が立ち上げたジュエリーブランドを守るため、千景は母方の祖父から受け継いだ唯一のサファイアを、彼に黙って売った。幼い頃から何より大切にしてきた形見だった。得た金をすべて会社の穴埋めに回し、崩れかけていたアトリエを辛うじて支えた。その後も何一つ口にせず、失った悲しみを1人で抱え、どんな苦境もいつか乗り越えられると笑って宗介に伝えた。若い頃、宗介が全国ジュエリーデザイン大賞に出場した時、決勝の前夜に原画がなくなった。締め切りまで一晩しか残されていなかった。千景は一睡もせず、記憶を頼りに宗介のデザイン構想をすべて再現し、提出用の完成稿を一から描き上げた。目が充血するまで作業を続け、翌朝、完成した作品をそっと宗介の机に置いた。自分は高熱を出して自宅で倒れたというのに、目を覚まして最初に尋ねたのは、宗介が無事に作品を提出できたかどうかだった。朔也の事故のあとは、心身ともに崩れ、毎晩眠れず、血を吐くほど咳き込んだ。それでも会社の上場を控えた宗介の足を引っ張りたくないと、診療記録をすべて隠した。1人で病院に通い、治療を受けながら体調を整え、宗介の前では苦しむ姿を一度も見せなかった。1年に及んだ離婚調停で、周囲は千景が法外な財産を要求し、宗介にまとわりついていると責めた。だが、将臣には分かっていた。千景が離婚に同意できなかったのは、財産が惜しかったからではない。亡くした我が子のことも、宗介と過ごした10年も、そう簡単には割り切れなかった。もしかしたら、いつか宗介が振り向いてくれるかもしれない。そんなわずかな期待を、どうしても捨てきれなかったのだ。朔也のことを二人できちんと話したかった。そして一度でいいから、自分がどれほど傷ついていたのか、宗介に分かってほしかった。「千景が欲しかったのは、オフィスビルでも店舗でも株でもない。お前が少しでも気持ちを分かって、寄り添う言葉をかけてやれば、それでよかったんだ。それなのに、お前は千景が面倒を起こしているとしか思わなかった。か弱そうな朋花のことばかり気にして、千景がどれだけ傷ついているかなんて、最後まで見ようともしな
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第10話
店を出た時には、夜が深まり、街灯の淡い黄色が路上に滲んでいた。泥酔して足元もおぼつかない宗介を放っておけず、将臣はどうしても送ると言って聞かず、車まで肩を貸した。車が滑るように走り出すと、将臣は助手席にもたれた憔悴しきった宗介を横目に尋ねた。「今はどこに住んでる?家まで送る」酒が回り、意識が朦朧としていた宗介は、ほとんど考えることもなく、骨身に染みついた住所を口にした。10年の思い出が詰まった、あのリバービューのマンションだった。その住所を聞き、ハンドルを握る将臣の手がわずかに強張った。やるせない声で現実を突きつけた。「宗介、忘れたのか?あの部屋は、千景がとっくに安く売った。名義変更も引き渡しも終わって、もうお前たちの家じゃない」その一言に、頭から冷水を浴びせられたように宗介の酔いが醒めた。窓の外を流れていく街並みを呆然と見つめ、喉を詰まらせながら呟いた。「そうだった……もう、俺たちの家じゃないんだな」千景の深い愛情を、自分の手ですり減らし、ついには失わせた。苦しい時代をともに耐えた千景を、少しずつ遠ざけたのも自分だった。家を手放されても、当然のことだった。しばらく黙ったあと、朋花と同棲しているマンションの住所をゆっくり告げた。将臣はマンションの前に車を止め、宗介を中まで支えようとしたが、軽く手を払われた。「いい。一人で上がれる」宗介はよろめきながら建物に入り、一人でエレベーターに乗った。鏡のような壁には、酒の臭いをまとい、真っ青な顔をした姿が映っていた。胃が激しく疼き、胸には消えない後悔が重くつかえていた。部屋の前に立ち、扉をノックしようと手を上げた。だが指は宙で止まり、過去の記憶が不意に蘇った。かつても、接待で深酒をした夜は何度もあり、そのたびに同じような酒の臭いをさせて帰宅した。どれほど遅くても、家には必ず明かりが一つ灯り、決まって内側から扉が開いた。みっともない姿の宗介を見ると、千景はいつも眉を寄せた。飲みすぎたら体を壊すと優しく小言を言いながらも、その目には心配を隠しきれなかった。宗介が靴を脱ぎ終えるより先にキッチンに向かい、弱火でしじみ汁を作り、胃に優しい温かなにゅうめんに半熟卵を2つ添えた。食べやすい温度まで冷まして差し出し、宗介が全部食べ終えるまでそばにいた。最後には
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