Masuk朝食を終えると、使用人が食卓を片付けにやってきた。怜央が問いかける。「外に出て海風を感じに行くか、それとも家で休むか、どっちにする?」外に出るなら、必然的に怜央と一緒だ。星は、彼と二人きりで行動したくなかった。そこで答える。「昨日、家を見て回ったときに、画室を見かけたの。あそこに行ってみたい」怜央は短く頷いた。「行ってみよう」彼は星を連れて画室へ向かう。画室は海に面した絶好の位置にあった。ガラス越しには、波光きらめく海面がはっきりと見える。バルコニーには様々な緑が植えられ、色とりどりの花が窓際に垂れ下がっている。微風が吹くと、貝殻の風鈴が清らかで心地よい音を響かせる。怜央の美的センスは確かに優れていた。目の前の風景は、まるで絵画のように美しくロマンチックだが、星にはどこか息苦しさを覚えさせる。ここはかつて彼女が夢見ていた画室の姿そのものだった。彼女は誰にも話したことはない。彩香にも、奏にも秘密だったのだ。そのことを思うと、星の気分は一気に重くなる。自分の最も嫌う相手が、ここまで自分を理解しているのだから、皮肉で滑稽だとしか言いようがなかった。怜央は、彼女の微妙な感情の変化に気づいたのか、問いかける。「どうした?気に入らないのか?」「違う」星は顔を向けて答えた。「ここで絵を描いてもいい?」怜央は言う。「もちろんだ。お前はここの女主人だ。行きたいところに行き、したいことをすればいい。俺に許可を求める必要はない」「女主人」という言葉を聞き、星は思わず顔に嫌悪の表情を出しそうになる。軽く息を吸い、言った。「絵を描くときは邪魔されたくないの。出て行ってくれる?」「わかった」怜央は引き留めず、静かに背を向けて出て行った。彼が出た途端、星の緊張した体はようやくほぐれた。深く何度も息を吸い、やっと冷静さを取り戻す。やはり、自分はこういう役回りに向いていないのかもしれない。演技をするのは、本当に疲れるのだ。しばらく落ち着いた後、星は画板の前に向かう。画材はすべて整っており、星は気持ちが乱れたときに絵を描くのが好きだった。すべての注意を絵に集中させることで、心のわずらわしいことを忘れられる。目の前の海を見つめ、筆を動かす。時間はあっという間に過ぎていく。どれくらい経ったのか分からないとき、画室の扉が
怜央がその気になれば、約束など意味のないものだ。それに、彼が守らなかったとしても、星にはどうすることもできない。たしかに、怜央が自分に30%の株を渡すと言ったとき、ほんの一瞬だけ心が揺れた。けれど冷静になってみれば、そんなものを簡単に手放すとは到底思えない。3%ではない。30%だ。それを手に入れるということは、司馬家の中枢を担う主要産業そのものを握るのと同じ意味を持つ。彼は明日香をあれほど長く想い続けてきた。それでも彼女に与えたのは、たった三パーセント。それなのに、自分が三か月そばにいるだけで30%を差し出す。そんな話が本当にあるだろうか。やはり、逃げる方法を見つけなければならない。表向きは出口がないように見えても、きっとまだ自分が気づいていない抜け道があるはずだ。その間、星は怜央との均衡をできる限り保たなければならなかった。……翌日。怜央が階下へ下りると、使用人に星が起きたかどうか尋ねようとした、そのとき――細身の影が、湯気の立つスープを手に、キッチンのほうから歩いてくるのが目に入った。彼女に気づいた怜央の足が、わずかに止まる。星も一瞬動きを止めたが、すぐに口を開いた。「どんな朝食が好きかわからなかったから、とりあえず簡単な朝ごはんを作ったの。あとで好きな料理を書いてくれたら、これからはできるだけあなたの好みに合わせるわ」怜央が自分をここへ連れてきた以上、そこには必ず別の狙いがある。ならば星は、自分が耐えられる範囲で、彼に逆らわず合わせるしかなかった。でなければ、彼が自分に抱いているという興味が、次は肉体そのものへ向けられるかもしれない。怜央は言った。「お前の好きなものか、得意なものでいい。俺は好き嫌いはない」星は熱いスープを食卓に置いた。「わかった。じゃあ、食べられないものだけ教えて」怜央はいくつか口にできない食材を挙げた。星はそれを覚えると、彼に言った。「食べて」二人はテーブルへ向かった。怜央が席に着こうとしたとき、彼女が食卓の脇に立ったまま動かないのを見て、口を開く。「どうして座らない?」星はその場にしばらく立ち尽くしていたが、やがて椅子を引き、怜央の向かいに腰を下ろした。怜央は彼女を一瞥し、淡々と言った。「俺は使用人が足りないわけじゃない。お前は、ここで使用人をする
「お前と仁志ではやりにくいこともある。そういうことは、俺が代わりにやればいい。そのほうが、みんなにとって都合がいいだろう?俺の望みは大したものじゃない。たった三か月だ。それだけの時間さえ、俺にはくれないのか?」星のまぶたがぴくりと跳ね、思わず怜央を見た。怜央が、何も持たない私生児の立場から這い上がり、当主の座にまで就いたのは、冷酷な手段だけによるものではない。頭の回転だって、決して鈍くない。以前は、怜央がずっと明日香に従い、しかも何かあればすぐ暴力に訴えるようなところがあったせいで、彼自身の知性はやや見落とされがちだった。だが今は違う。ほんの半日ほど一緒にいただけで、星にははっきりとわかった。この男の厄介さは、まさにそこにあるのだと。彼は、星が健人と水面下でつながっていることにすら気づいていた。これほどまでに思考が緻密なのだ。彼に気づかれず外部と連絡を取ることも、自力で逃げ出すことも、ほとんど不可能に近い。星は言った。「怜央、三か月あったって、何も変わらないかもしれない。あなたは結局、何も手に入れられないかもしれないのよ」怜央は静かに答えた。「たとえ一度でも、手にできたならそれでいい」その言葉に、星の眼差しは少しずつ複雑さを帯びていった。ふと、以前linとやり取りしていたときのことを思い出す。そのとき彼女は、linの中にある絵への純粋な愛情を、確かに感じ取っていた。だからこそ、星はずっと、linのことを女の子だと思っていたのだ。linの考え方には、どこか理想主義めいたものが常にあったから。たとえば、星自身もヴァイオリンが好きだ。けれど、好きだからという理由だけで、食事もせず、働きもせずに生きていくことなど到底できない。だがlinは違った。彼女には、とても理想に寄った危うい純粋さがあった。ただ好きだから、それだけのために他のすべてを度外視できる。そんなふうに見えたのだ。だから星はずっと、linはきっと恵まれた環境で育ち、世間の厳しさを知らない名家の令嬢なのだろうと思っていた。苦労も知らず、現実に打ちのめされたこともないような。けれど、まさかそれが怜央だったなんて。私生児として育った怜央は、苦労を知らないどころではない。星も幼いころ、母と二人きりで支え合って生きてきた。それでも生活は豊かで、衣食に困
怜央は、まるで彼女が自ら逃げ出すことなど少しも恐れていないようだった。島の中での行動は自由。どこへ行くのも止められない。だが星は、海岸を端から端まで歩き回っても、船一隻、桟橋ひとつ見つけることはできなかった。青い海と空がひと続きになったこの島では、逃げ出す可能性など最初から存在しない。そして怜央もまた、彼女が逃げられないと確信していた。星は島を何時間も歩き回った末、ようやく思い知る。自分ひとりの力では、この島を出ることなど絶対に不可能だと。その瞬間、胸の内がすっと冷えきった。彼女は振り返り、怜央を見た。どうにか説得しようとする。「怜央、たとえ三か月たったとしても、私はあなたを好きにはなれない。だから、もう私なんかに時間を無駄にしないで。私たちは、どうやったって無理なの」だが、怜央は言った。「人のことは、人がやること次第だ。やってみもしないうちから、結末なんて誰にわかる」星はさらに言う。「あなたは長い年月をかけて、やっと今のすべてを手に入れたんでしょう。それをこんなふうに失っても、惜しくないの?昔のあなたが苦しい思いをしてきたことも聞いてる。だからこそ、権力がどれだけ大事か、誰よりわかってるはずよ」怜央は静かに答えた。「俺が権力を奪い合ってきたのは、好きなように、自分の望む人生を生きるためだ。でも今になって気づいた。こんな生き方は、俺が本当に望んでいたものじゃなかった」彼は少し間を置いた。「この地位を守るためには、前に立ちはだかる障害を、ひとつずつ潰し続けなきゃならない。世間が俺のことをよく思っていないのも知ってる」そして星を見る。「その立場にいれば、やらざるを得ないこともある。お前も今は、それなりの高みに立っているんだ。あの道の先に、どれだけ多くの障害があるか。どれだけ多くの人間がお前を地獄に引きずり込もうとしているか。よくわかってるはずだ」その声は低く、重い。「敵に情けをかければ、その情けがそのまま自分を刺す刃になる。善意を向けたところで、返ってくるのは感謝じゃない。むしろ、つけあがるだけだ。弱い相手は徹底的に狙われる。抑え込めなければ、いずれ自分が相手に握られる側になる」星は言った。「だからって、弱肉強食で、人の命を軽く扱っていいってことにはならないでしょう?」怜央は答えた。「竜を討つ少年は、竜になる。
誰が、怜央が突然正気を失ったように暴走して、そのまま人を攫っていくなんて思うだろう。前に自分が攫われたときも、すでに怜央には一度ひどい目に遭わされている。それなのに今回は、怜央が星を連れ去ったせいで、またしても自分まで巻き込まれた。星が消えた今、最大の容疑者は自分になってしまったのだ。明日香は言った。「仁志、星が攫われた件は私とは関係ないわ。何も知らない」仁志は冷ややかに唇の端を吊り上げた。漆黒の瞳には、氷の膜が張ったような冷たさが宿っている。「俺はあまり気が長くない。今すぐ、あの子がどこにいるか言え。もし無事なら……星のことを考えて、お前の命だけは残してやる」仁志の目はあまりにも冷たく、陰鬱で凶暴だった。メコン・デルタを生き延びた明日香でさえ、思わず背筋が冷える。「知らな――うっ!」言い終える前に、仁志はすでに彼女の首を掴んでいた。片手でそのまま持ち上げる。彼の目の奥には血を求めるような赤い光がちらつき、圧倒的な気迫が周囲を支配した。「星はどこだ?」それまで、仁志は明日香を翻弄こそすれ、直接手を上げたことはなかった。だからこそ、明日香は彼の危険性を見誤っていた。今、彼女の喉は仁志に容赦なく締め上げられている。明日香は、自分がこのまま死ぬかもしれないという恐怖をはっきりと感じた。それは前回、自分が猛獣に喰い殺されかけたときと同じ感覚だった。もう平静を装うことはできない。彼女の顔には、はっきりと恐怖が浮かんでいた。「わ……私は知らない……本当に、何も知らない……」あまりにも一瞬の出来事で、靖には止める暇すらなかった。我に返った瞬間、彼は激怒した。「仁志!ここをどこだと思っている!よくも雲井家で、明日香に手を出したな!」だが、仁志は完全に靖を無視した。彼は瞬きひとつせず明日香を見つめている。双眸はどこまでも暗く沈み、その身には黒く危険な気配が漂っていた。次の瞬間にも、本当に彼女の首をへし折りそうだった。「最後にもう一度だけ聞く。星はどこだ?」酸欠で、明日香の顔色は紫色に変わっていく。白目を剥き、今にも窒息しそうだった。彩香は、仁志が本当に明日香を絞め殺してしまうのではないかと恐れ、慌てて前へ出た。「仁志、今は星を探すのが先だよ」もし明日香が仁志の手で死ねば、雲井家が黙
仁志は薄い唇をきつく結び、顔には冷えきった怒気が浮かんでいた。その双眸には人を震え上がらせるような冷たい光が満ち、周囲の空気まで氷点下に落ちたかのようだった。「怜央――」氷のように冷たい声が、仁志の口から低く漏れる。その顔には、隠しようのない殺意が浮かんでいた。「……あいつ、よくも」雅人が問う。「仁志さん、これからどうされますか?」外の手がかりについては、彼らが調べられるものはすべて洗った。だが、役に立つ情報は何ひとつ出てこなかった。雲井家にも、彼らは自由に踏み込めない。仁志は冷然と言った。「まずは雲井家へ行く」……靖の書斎。明日香はすでに知っていた。自分が行方をくらましていた隙に、星が大々的に自分の持つリソースを奪っていたことを。今や彼女の手元にあった資源は、ほとんど奪い尽くされていた。明日香は目の奥の冷たさを押し隠しながら、靖に言った。「靖兄は星のものを刈り取ることばかり考えて、私のほうの資源が奪われていることにはまったく気づいていなかった。靖兄が断ったものなんて、私の持っていたものに比べれば取るに足らないわ。今回のやり取りでは、星の一人勝ちよ」そして靖を見つめる。「むしろ、靖兄が押さえたあの資源こそ、星がわざと投げてきた目くらましだったんじゃないかとさえ思う」「バン!」靖は机を強く叩いた。「まさか、あいつ……お前がいなくなっている間に、裏でそんな真似をしていたのか!」明日香は静かに言う。「何ができないというの?あの子はきっとわかっていたのよ。今回私が戻ってきた以上、私たちの関係はもう完全に決裂する。だったら、何も遠慮する必要なんてないって」さらに続ける。「星がこんな短期間で私の重要な資源を奪えたのは、かなり前から準備していた証拠よ。あの子が先に動かなかった理由は簡単。こっちが先に手を出すのを待って、何一つ言い逃れできる口実を与えないため。たとえ株主の前に話が持ち込まれても、理があるのは向こう。だって先に奪ったのは靖兄のほうなんだから。自分が人のものを奪っておいて、相手には奪い返すななんて通らないでしょう。靖兄、焦りすぎたのよ。完全に星の思うつぼだったわ」明日香にそう指摘され、靖もようやく理解した。今回、自分は本当に罠にはめられた可能性が高い。今さら挽回しようとしても、ほとんど手遅れ
美男美女が寄り添う姿は、まるで絵に描いたような完璧なカップルだ。星は無表情のままその光景を見つめていた。喉が誰かの手で締めつけられるように苦しくなり思わず息が詰まる。──なるほど。雅臣が病院に来たのは、清子を迎えに来ただけだったんだ。ついでに、自分が暴行される姿まで見物していったわけだ。雅臣は眉間にわずかなシワを寄せ、清子をそっと押しのけた。「清子......」何か言いかけたそのとき、すでに影斗が星を支えて立ち去っていた。雅臣の瞳がスッと冷たくなる。追おうとしたその瞬間──清子が彼の腕にしがみついてきた。「雅臣、今朝ね、新しい目撃証人から連絡が来て、
――彩香どころか、自分と清子ですら同じ土俵には立てない。雅臣が彼女の友人だからといって、彩香に情けをかけるとは到底思えなかった。それどころか彼女が背後で糸を引いていたと誤解される可能性だってある。通話を切った星はしばらく迷った末に、久しく掛けていなかった番号にかけた。「プルル......プルル......」数コールの後、電話はすぐにつながった。しかし彼女が言葉を発するより早く、冷ややかな女の声が電話の向こうから響いた。「神谷さんは、ちょうどお休みになったところです」その声にはいっさいの感情がなかった。「ご用件があるなら、私が代わりに伺い、お伝えします」そ
怜央は人だかりの中で、少し離れた場所で頭を下げる御曹司たちを見ていた。耳に入る囁き。さっき自分が嘲られた場面が否応なく蘇る。会場に入ったとき、周囲は好き放題に言った――明日香が気づかなかったのは、まだ仕方がない。だが、その後。明日香のもとへ向かった彼の前に、数人の遊び人が立ちはだかった。あれは、明日香も見ていた。連中はしつこく絡み、彼が明日香の目の前に辿り着くまで退かなかった。そのとき明日香は、小声でたしなめただけだ。「彼を困らせないで」と。ついでに誤解だと説明してくれた――彼は彼女に無理強いしていない、と。それで終わり。羽のように軽く、彼らを帰した。そこを見るまでは、怜央
奏はちらりと隣の彼女を見て言った。「じゃあ逆に聞くけど――金に困ってないのに、なんで仁志は星のそばに残ってるんだ?今回だって、翔太と星を助けるためにノール家の連中に殺されかけた。それ以前にも、星の仇を取るために何度も怜央に噛みついてる。怜央の腕を切り落としたのも、仁志だ。これだけのことをやっておいて、ただの上下関係とか、仲のいい友だちで済むと思うか?」彩香は声を落とした。「……まあ、確かに。仁志が星のためにしてきたことは多いけど、星だって負けてないよね。星が誰かにここまで心を砕いたの、見たことある?仁志の誕生日を全部まとめて祝うなんて、普通じゃないよ。しかも全部、手作りだし……







