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紗奈は、幼稚園の塀の外に立っていた。
ケヤキの木陰でバッグの持ち手を両手で握り、正門を見つめていた。
4月だった。
桜の散った枝には、淡い緑の葉が芽吹いていた。
住所を突き止めるまでに2年かかった。
通っている幼稚園を確かめるのに、さらに3か月。
降園の時間に合わせてここに立つのは、今日が初めてだった。
半休を取ると決めたのは3日前だ。
会社を出るとき、手が震えて交通系ICカードを2度も落とした。
地下鉄を降り、幼稚園まで歩く15分の間に、スマホのロック画面を7回つけた。
そこには、5年前に新生児室で撮った1枚の写真があった。
小さな握りこぶしが、紗奈の人差し指をつかんでいる。あの写真だ。
スマホが鳴った。
「お姉ちゃん、着いた?」
妹だった。
「うん。道の向かい側にいる」
「接近禁止は解けても、面会交流の制限はまだあるんだからね。見つかっちゃだめだよ」
「わかってる。塀の外にいるから」
「誰かに気づかれたら、すぐ離れて」
「ここに私を知ってる人はいないよ」
「……大丈夫?」
正門の前に、親たちが1人、また1人と集まり始めていた。
黄色い送迎バスが1台、路地を曲がって見えなくなった。
「大丈夫」
「5年だよ、お姉ちゃん。最後に抱っこしたの、5年前なんだよ」
紗奈は答える代わりに通話を切った。
スマホをバッグにしまい、ケヤキの幹に背を預けた。
樹皮のざらつきが、ブラウス越しに伝わってきた。
心臓が速く打っていた。
正門の前で、親たちが話していた。
「今日は園外保育だったんだって。きっと泥だらけね」
「また洗濯機回さなきゃ。昨日も回したのに」
「春って毎日こうよ。毎日」
「干す場所がなくて困るのよね」
紗奈は、その輪には入れなかった。
この幼稚園に自分の子が通っていると知る人は、あの中に1人もいない。
塀の向こうから、子どもたちの笑い声が漏れてきた。
バッグの持ち手を握る指を緩め、また握り直した。
塀の上に、赤い滑り台のてっぺんがのぞいていた。
あの中で、あの子が走り回っている。そう思うだけで指先がしびれた。
カーン。
鐘の音とともに、正門が開いた。
黄色い帽子が、いっせいにあふれ出した。
「ママ!」
「パパ来てる!」
「おばあちゃん、こっち!」
「颯太、こっちよ!」
子どもたちが、それぞれの迎えの人に駆け寄っていく。
抱きつき、ぶら下がり、バッグを放り出す。
母親に抱き上げられた子が、足をぶらぶらさせていた。
紗奈の視線が、その人波を越えて1人の子どもに止まった。
青いバッグ。
小さなスニーカーが地面を蹴っていた。
友だちにぶつかりそうになり、踏みとどまって、また駆け出した。
(大きくなった)
ロック画面の中の、新生児の顔が浮かんだ。
握りこぶしより小さかった足が、スニーカーを履いて地面を蹴っている。
気づけば、手をきつく握りしめていた。
3キロほどしかなかった子が、あんなふうに走っている。
正門から先生の声が飛んだ。
「悠真、走らないの! 転ぶよ」
悠真。
紗奈の唇が、声もなくその名前をなぞった。
5年間、1人で呼び続けてきた名前だった。
悠真が立ち止まった。
きょろきょろと辺りを見回し、後ろから歩いてくる女の人を見つけると、両手を広げた。
「来たんだね!」
女は悠真の前にしゃがんだ。
「来たよ。今日は楽しかった?」
「うん! お出かけしたの。公園に」
「そう。何してきたの?」
「虫、捕まえた。てんとう虫」
「てんとう虫? 怖くなかった?」
「怖くないよ。赤いやつ。点々が7つ」
悠真が指を広げて数えた。
1本だけうまく曲がらず、もう片方の手でぎゅっと押さえた。
「颯太は泣いたよ。虫が怖いんだって」
「悠真は怖くなかったんだね」
「ぼく、勇気あるもん」
女は笑いながら、悠真の靴についた土を軽く払った。
「勇気あるね。でも、靴見てごらん。泥だらけ」
「みんなだよ。ぼくだけじゃないよ」
「はいはい。帰ったらすぐ洗おうね」
女は悠真を立たせ、帽子を脱がせた。
手の甲で額の汗を拭い、髪をかき上げた。
髪がどちらへ流れるのか、わかっている手つきだった。
紗奈の爪が、バッグの持ち手に食い込んだ。
自分は、それさえ知らない。
分け目が左なのか右なのか。額が広いのかどうかさえ。
「お腹すいた」
「何食べたい?」
「焼きそば」
「だめ。昨日も食べたでしょ」
「どうして?」
「お腹痛くなっちゃうよ。じゃがいものお焼きにしようか」
「お焼きと焼きそば、両方」
「どっちか1つ」
「……じゃあ、焼きそば」
「また焼きそば? 明日は本当に作らないからね」
「明日は明日だもん」
女が悠真の鼻を、指で軽く押した。
悠真はくすくす笑って、その手を握った。
2人は正門を離れ、通りのほうへ歩き出した。
女が悠真のバッグを受け取り、自分の肩にかけた。
身軽になった悠真は、歩きながら何かを口ずさんでいた。
メロディー。
低くて単純な、子どもが1人で口ずさむのにちょうどいい、短い曲だった。
紗奈の唇が開いた。
ケヤキに添えた手に力がこもった。
(この歌――)
知っている。
どこか懐かしくて、胸のいちばん深いところに触れてくる旋律。
どこで聴いたのか、なぜ知っているのかは思い出せなかった。
ただ、喉の奥が締めつけられた。
悠真の鼻歌が、少しずつ近づいてくる。
紗奈のいる側の道へ、歩いてきていた。
紗奈はケヤキの後ろへ1歩下がった。
手のひらには、爪の跡がくっきり残っていた。
「悠真、早く」
女が悠真の手を引いた。
悠真は鼻歌をやめ、顔を向けた。
塀の外。
ケヤキの下に立つ紗奈と、目が合った。
悠真の足が止まった。
女の手を握ったまま、紗奈を見上げていた。
5歳の子どもの目が、紗奈の顔をゆっくりたどった。
紗奈は笑おうとした。
口角が上がりかけて、止まった。
喉の奥が熱くなった。
「どうしたの、悠真?」
「ねえ。あのおばさん」
悠真が紗奈を指さした。
女が振り向いた。
一瞬、視線が絡んだ。
女の表情がこわばった。
すぐに悠真の手を引いた。
「行こう」
悠真は引かれながらも、振り返った。
小さな目が、紗奈をまっすぐ見ていた。
「おばさん、だれ?」
一週間後の金曜日の夕方。紗奈は再び古書店を訪れた。悠真に渡す絵本をもう一冊買おうと思ったのだ。2階の児童書コーナーへ上がった。篠宮がいた。前と同じ場所、同じ棚の前。今度は黒いニットにコットンパンツ姿だった。手に一冊の本を持ち、読んでいた。紗奈は階段の上で足を止めた。篠宮が顔を上げた。「また来ましたね」「また来ました」篠宮は読んでいた本を棚に戻した。紗奈は絵本の棚へ向かった。前回買った木の話の隣に、新しい本が並んでいた。雲の上を歩く猫の話だった。「表紙がいいですね。猫ですか」「はい。雲の上を歩く猫の話です」「お子さんが猫を好きなら、よさそうですね」「悠真が何を好きなのか、まだよく分からなくて。青を選んだことくらいしか」「面接のときに聞いてみたらどうですか。好きな動物は何かって」「そうしようと思っています。聞きたいことをリストにしておこうかと」紗奈は猫の絵本を取り出して開いた。水彩画のような絵だった。雲の上に座った猫が、下を見下ろしていた。その下には小さな家々が描かれていた。篠宮は棚の反対側で、エッセイのコーナーを見ていた。紗奈は絵本のページをめくりながら、篠宮を見た。書類を前にしたときの緊張感がなかった。肩の力が抜けていた。紗奈は絵本を持って篠宮のほうへ歩いていった。
金曜日の退勤後。紗奈は家の近くにある古書店に入った。小さな店だった。1階には小説やエッセイ、2階には児童書と絵本が並んでいた。紗奈は2階へ上がった。悠真に渡す絵本を探しに来たのだった。次の監督面接は2週間後に決まった。今度はおやつのほかに、絵本も持っていきたかった。5歳の子が喜びそうな絵本を選ぶ自信はなかった。紗奈が知っている悠真の好みは、青を選んだということだけだった。2階は狭かった。木の棚が3つ、壁に沿って並び、中央には低いテーブルがあった。テーブルの上には、おすすめの本が積まれていた。紗奈は絵本の棚の前に立ち、タイトルを読み始めた。動物の話、季節の話、家族の話。家族の話の前で手が止まった。タイトルだけでは内容が分からず、一冊取り出して開いてみた。父親と息子が山へ行く話だった。紗奈は本を棚に戻した。別の本を手に取った。海に住む魚が友達を探す話だった。柔らかな絵だった。青い背景の中を、小さな魚が泳いでいた。値札には300円と書かれていた。「その本、いいですよ」背後から声がした。紗奈は振り返った。篠宮が立っていた。いつものシャツ姿ではなかった。ジャケットにジーンズ、キャンバススニーカー。紗奈が初めて見る服装だった。「篠宮先生?」「こんにちは」篠宮は手に持っていた本を掲げて見せた。エッセイ集だった。「ここにはよく来るんですか」
水曜日の午前。紗奈が席で仕事をしていると、総務課長が近づいてきた。「水原さん、郵便物が届いています。書留です」総務課長が黄色い封筒を差し出した。紗奈の名前の横に、会社の住所が書かれていた。差出人は〇〇法律事務所。書留郵便、内容証明と記されていた。紗奈は封筒を受け取り、机の上に置いた。同僚が横目で封筒を見た。紗奈は書類の下に封筒をしまった。「ありがとうございます」総務課長が戻っていった。紗奈は昼休みになるまで封筒を開けなかった。昼休みになると、会議室が空いていることを確かめて中に入り、ドアを閉めた。封筒を開けた。A4用紙が2枚。内容証明郵便だった。『受取人:水原紗奈 様差出人:〇〇法律事務所(高宮直哉代理人)件名:接近行為に関する警告および中止要請』紗奈は最初の段落を読んだ。『貴殿は未成年の子である高宮悠真に対する保護命令(接近禁止)の対象となった経歴があり、現在、当該保護命令は終了しておりますが、子どもの生活圏への接近は、安定した養育環境を損なうおそれがあります』紗奈は2つ目の段落を読んだ。『貴殿が子どもの通う幼稚園付近に繰り返し現れた事実が確認されており、これは事実上の監視行為に該当する可能性があります。よって、直ちに中止するよう求めます』3つ目の段落。『上記の行為が継続する場合、法的措置を検討することを通知します』紗奈は書類を置いた。指先で書類の端
篠宮の事務所。紗奈が相談室に入ると、篠宮は書類を広げていた。テーブルの上には、書類が3つの束に分けて置かれていた。「調査官の報告書の閲覧結果をお伝えします」紗奈は向かいに座った。篠宮が最初の書類を差し出した。「面接報告書です。調査官の所見が記載されています」紗奈は書類を受け取り、目を通した。『児童は申立人に対して拒否反応を示さなかった。菓子の提供を自然に受け入れ、ブロック遊びでは申立人に指示するなど、相互のやり取りが観察された』紗奈の目は、その一文の上で止まった。悠真がブロックを置くよう指示したことが、報告書に記されていた。『これ、ここ』子どもの短い言葉が、裁判所の言葉では『相互のやり取りが観察された』になっていた。「前向きな内容ですか」「はい。子どもが泣いたり、避けたりしなかったことが記録されたのは重要です。次の面接につなげる根拠になります」篠宮は2つ目の書類を取り出した。「次は診療記録の照会結果です」紗奈は書類を受け取った。診療記録の写しだった。紗奈の入院期間中の記録のうち、担当医とは異なる署名があるページに蛍光ペンで印がつけられていた。「病院側から医師の名簿が提供されました。この署名と一致する院内の医師はいませんでした」「院内の医師ではないということですね」「そうです。外部から来た医師が記録を残したものと思われます」篠宮は万年筆を置き、書類を一枚めくった。「医師番号を照会した結果、この番号は別の病院に所属する精神科専門医に割り当てられたものだと確認できました」「どこの病院ですか」「港区にある個人クリニックです。ただ、身元を確定するには、もう少し手続きが必要です。病院側に、診療した医師との照合を依頼しています」紗奈はうなずいた。篠宮は書類を整理し、3つ目の束を取り出した。監護者変更審判の準備資料だった。紗奈の収入証明、住環境に関する資料、育児支援確認書の写し。「監護者変更の審判申立書の草案を作成し始めます。申立ての趣旨と理由を整理するにあたって、水原さんに確認していただきたい点があります」「どのような点ですか」「養育環境に関する資料です。現在の住居、収入、育児の支援体制を最新のものに更新する必要があります」「給与明細は今月分を持ってきます。賃貸借契約書も更新済みです」「いいですね。育児を支え
月曜日。出勤前に、篠宮からメッセージが届いた。『調査官の報告書が提出されました。閲覧を申請します』『内容はよかったのでしょうか』『報告書を確認する必要があります。ただ、面接が中断せずに行われたこと自体は、前向きな要素です』紗奈はメッセージを読み、スマホをしまった。通勤途中の地下鉄の中だった。週末の間、面接の場面を何十回も思い返した。悠真の声、ブロックを積む手、青い色鉛筆。思い出すたびに細部が少しずつ曖昧になっていくのが怖かった。だからスマホのメモ帳に、覚えていることをすべて書き留めておいた。子どもが口にした言葉、触れたもの、視線を向けた方向まで。退勤後、紗奈は悠真の幼稚園の近くへ向かった。面接のあとでは初めてだった。ケヤキが見える場所に立った。ちょうど降園の時間だった。幼稚園の門が開き、子どもたちが一人、また一人と出てきた。保護者が子どもを連れて帰っていく。悠真はまだ出てこなかった。5分ほどして、悠真が出てきた。青いバッグを背負っていた。面接のときと同じバッグだった。悠真の隣には女がいた。相沢芹奈だった。芹奈は悠真の手を握っていた。紗奈が芹奈と間近で向き合ったのは、5年前の裁判所が最後だった。芹奈の髪は長くなっていた。結ばれていない髪が、背中の真ん中あたりまで垂れていた。芹奈は悠真に何かを渡した。口が動いているのは見えたが、声は聞こえなかった。悠真はうなずきながら歩いた。芹奈は歩調を合わせてついていった。幼稚園の前のベンチで、芹奈が立ち止まった。悠真がベンチに座った。芹奈は悠真の前にしゃがみ込んだ。悠真のスニーカーのひもがほどけていた。芹奈はひもをつかんで結び始めた。まず左から。ひもを交差させ、輪を作り、引っ張った。右側も同じように。芹奈の手は慣れた動きだった。毎日していることだと、指先の動きから伝わってきた。悠真が芹奈の髪をつかんで引っ張った。芹奈が顔を上げた。悠真が何かをしゃべっていた。芹奈が笑った。小さな笑い声だった。悠真も笑った。紗奈の足は止まったままだった。ケヤキの陰に立ち、その光景を見ていた。芹奈が悠真の靴ひもを結んでいる。子どもが芹奈の髪を引っ張っている。二人が一緒に笑っている。芹奈は、法的には悠真の保護者ではなかった。監護者でもなく、親権もな
面接を終えて家に帰った。紗奈は玄関のドアを閉め、靴を脱いだ。スニーカーを靴箱にしまおうとして、手を止めた。朝、きれいに拭いて履いていったスニーカーだった。この靴で面会交流センターの3階まで歩き、悠真と同じ部屋で1時間を過ごした。靴底に汚れ一つなかった。靴箱にしまった。ポケットから青い色鉛筆を取り出した。机の上に置いて椅子に座った。蛍光灯の下で、色鉛筆の青がくっきりと見えた。中央あたりに子どもの指紋が残っていた。小さな指の跡。紗奈はその場所に指先で触れてみた。わずかに滑らかな表面に残る、子どもの手の脂。拭けば消えてしまう跡だった。紗奈は拭かなかった。『おばちゃん、これ』悠真が色鉛筆を差し出したときの声が、耳に残っていた。おばちゃん。お母さんではなかった。紗奈を呼ぶ言葉は、おばちゃんだった。それをおかしいとは思わなかった。5年間会っていない人を、お母さんと呼ぶ子どもはいない。紗奈はそれを分かっていたし、妹にも話していた。『呼ばないよ。私のことを知らないんだから』その言葉が現実になっただけだった。それでも、子どもは色鉛筆を手渡してくれた。子どもの手から、紗奈の手へ。12色の中から子どもが選んだのは青だった。悠真の幼稚園バッグも青い。青が好きなのか、たまたまなのかは分からなかった。スマホが鳴った。妹からだった。「どうだった?」「会えたよ」「本当? どうだった? 泣いた?」「泣かなかった。お菓子を食べて、ブロックを積んだよ」「1時間ずっと?」「うん。調査官が終わりだと言うまで」「子どもから話しかけてきた?」「キリンって何か聞かれた。ブロックをここに置いてって指示もされたよ」「指示されたの? あの子に?」「うん。『これ、ここ』って」電話の向こうで、妹が息を吸い込む音がした。「うまくいったんだよ、お姉ちゃん」「それから、色鉛筆をくれた」「え?」「青い色鉛筆。ケースから一本抜いて、私に差し出したの。『おばちゃん、これ』って」「おばちゃんって呼んだの?」「うん」「……平気?」「平気だよ。当然だよ。私のことを知らないんだから」「でも」「それでも、色鉛筆はくれた」妹はしばらく何も言わなかった。「よかった。本当によかった」「泣いてる?」「泣いてない」「嘘」紗奈は答えなかっ