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「ん、んむぅ……」
豪奢な部屋の中央に、ひとりの女性が縛り付けられ。猿轡までされていた。女性はぼさぼさになってしまっている紺色の髪を振り乱しながら、なんとか拘束から逃れようとするが、縄の素材は頑丈な上に、しっかり縛られているため、びくともしない。縄で肌が傷つかないよう、布を挟んでいるのがまた腹立たしい。
彼女の名はマリアネラ・シュトルツ。陽の国の元王女だ。陽の国は天候に恵まれ、作物が豊富に採れる。海沿いにあるため、漁業も盛んだ。山がいくつかあり、春になると雪解け水が山の栄養分と共に流れる。そして雪解け水を畑に撒き、畑の土に栄養を与える。これが作物が良く育つ秘訣だ。
天候、水、食糧に恵まれた陽の国は、幸せの国と呼ばれ、移住者も多い。民も穏やかな人や陽気な人が多く、争いを好まない。
だが、幸せの国だからこそ、平和ボケしていた。兵士はいるにはいるが、戦闘経験は無いに等しい。手合わせや鍛錬は毎日のように行われているが、ほんの1,2時間程度。というのも、あまりにも平和すぎて、兵士が必要かどうか疑わしいと言われていた。
それに彼らは、兵士である以前に、争いを好まない陽の国の人間だ。本気で手合わせをして怪我をさせたら大変だと思い、手合わせもほとんどじゃれ合いのようなものだった。
彼らの仕事は、見回りという名の散策と、時折起きる喧嘩の仲裁で、時には農業の手伝いをすることさえあった。
そんな平和な陽の国を、他国は羨ましがった。だが、恨む国もいた。隣国の夕の国だ。夕の国は陽の国の隣国であるにも関わらず、高い山々に囲まれているせいで日当たりが悪い。遠い昔に工業が盛んだった夕の国の山は汚染され、草木が生い茂ることはない。もちろん、栄養豊富な雪解け水が流れることはない。汚染された水が流れてくるため、畑にも飲水にも使えない。畑の土も作物に適さないもので、育つ野菜は貧相なものばかり。それ故に、夕の国では貴族でさえ満足に食べられないほど貧しかった。満腹になるまで食べられるのは、王族と一部の公爵家のみだ。
恵まれない国のせいか、民も荒々しい者が多く、事件が絶えない。また、歴代王は争うことを好む傾向があり、他国と戦争をしては土地を奪い、捕虜を奴隷にし、奪った土地で作物を育てさせ、食糧を得ていた。そんな国の兵士は、悪名が轟くほど強かった。
夕の国で、ある貴族の子供が死んだ。死因は持病の悪化。だが、狡猾で冷酷な夕の国は、子供が亡くなったのを好機と見た。
喧嘩の仲裁や農業の手伝いばかりしている陽の国の兵士と、荒々しい民を相手にしたり、何度も戦争に赴いている夕の国の兵士。どちらが勝つかなど、子供にも分かる。
子供の遺体を陽の国の領土に投げ捨て、陽の国が殺したことにし、戦争をふっかけた。
結果、兵士は即座に全滅。王族は全員捕まり、マリアネラは奴隷として売られ、宵の国の誰かが彼女を購入し、今に至る。
マリアネラは立派な屋敷を2軒建ててもお釣りが来るような値段で売られた。そんな値段の奴隷を帰るのは、王族か公爵家の者だろう。
夕の国との戦争で、陽の国に観光や療養で来ていた宵の国の人間も命を落とした。その中に貴族や王族がいて、身内が復讐のためにマリアネラを買った可能性も充分に考えられる。
誰が自分を購入したのか気になるが、奴隷市場からこの部屋に連れてこられるまで、ずっと目隠しをされていた。仮に見えていたとしても、マリアネラが宵の国に来たのは7,8回程度で、城か舞踏会場にしか入ったことがないので、分からないだろうが。
(何か、現状が分かるものでもあればいいのに)
室内を見回すが、見えるのはクローゼット、ドレッサー、ドアのみで、部屋が広く豪奢なことしか分からない。
どうしたものかと考えあぐねいていると、部屋の外から足音が聞こえてきた。足音は部屋の前で止まり、ドアが開けられた。
翌朝、マリアネラは自然と起きられた。体は昨日までの疲れが嘘のように軽い。時計を見ると朝7時前。窓を開けると、新鮮な空気が部屋に入り込んできた。朝特有の、少しひんやりした風が心地よい。 軽く伸びをすると、ドレッサーの前に座る。引き出しから櫛を出して髪を梳かしてみるが……。「いった……。あれ、どうすればいいの?」 元王女のマリアネラは、使用人任せだったため、自分で髪を梳かしたことがない。戦争中は一緒に地下にいた使用人が、奴隷市場では手櫛をしていたくらいだ。「えぇ、これってどうなってるの?」 元々手入れが行き届いて艶のある紺色の髪だったが、しばらく櫛が通らなかった髪は痛み、あちこち毛玉になっていた。この毛玉が厄介で、手でほどけそうにないし、櫛を無理やり通すことも出来ない。結果、マリアネラの髪は、寝起きよりも酷いものになってしまった。「どうしよう、これ……」 途方に暮れているとノックも無しにドアが開き、チェセルが入ってきた。「きゃ!? ノ、ノックくらいしてください」「ここは私の城で、お前は奴隷だ。いつ入ろうが私の勝手だ」(昨日はノックしてたじゃない……) 腹は立つが、言い争うつもりはないので、心の中で呟くだけにとどめる。 チェセルはまじまじとマリアネラを見ると、鼻で笑った。(な、失礼な人!)「顔色や身なりは昨日よりマシだが、なんだ、その頭は。寝てる間に鳥でも来たのか?」 「う、恥ずかしながら、自分で梳かしたことなくて……」 「王女が満足に身なりを整えられんとは、呆れた。貸せ」「あっ」 チェセルはマリアネラから櫛を奪い取ると、櫛にたっぷりのヘアオイルをつけ、タオルに包んだ。更に指先にヘアオイルをなじませると、毛玉をひとつひとつ丁寧に解いていく。毛玉を解き終えると、ブラッシングをしてくれる。それが心地よくて、ついうとうとしてしまう。 「できたぞ」 チェセルの声ではっと目が覚め、鏡を見る。鳥の巣状態だったマリアネラの髪は、艷やかなストレートになっていた。 「すごい…
湯浴みも食事も終えたマリアネラは、与えられた部屋に戻った。城に運び込まれるまで色々大変だったが、久方ぶりのまともな食事や入浴で張り詰めていた心がほどけ、眠くなった。 心配事は多々あるが、マリアネラ自身が元気にならないと、解決の糸口は見えてこない。それに、この部屋には時間つぶしできそうなものはひとつもない。 そろそろ寝ようと、掛け布団を持ち上げる。それと同時に、ノックが聞こえた。「はい」「入るぞ」 その声がチェセルのものだと理解する前に、彼は部屋に入ってきた。何故か片手にハープを持って。「どうなさいましたか?」「夜にまた来ると言っただろう」「それは、そうですが……」 マリアネラとしては、疲労が限界に来ているため、はやく眠りたいところだ。だが、自分は今、彼の奴隷だ。言うことは聞かないといけないだろう。「ふん、まぁよい。お前は確か、ハープが得意だっただろう」 そう言ってチェセルは、持ってきたハープをマリアネラの膝の上に置く。そのハープ自体は新品のものだが、手にしてみると、戦争前の自分は、東屋などでハープを演奏していたことを思い出す。それと同時に、ささやかな趣味のことさえ忘れるほど酷い生活をしていたと実感した。 「どうした?」 何も言わず、じっとハープを見つめているマリアネラを、チェセルは怪訝そうに見る。 「戦争が始まってからは、ハープを弾く時間などなかったので、すっかり忘れていました」 「王族でさえ、それほど過酷だったのだな」 「えぇ、そうですね……」 思い出すのは血の匂い、怒声、悲鳴、刃物がぶつかり合う音……。そして、質素な食事を摂りながら、地下に隠れていた日々と、地獄のような奴隷市場。この城に来るまで、本当に色んなことがあって、多くの命が犠牲になってきた。 「ここには、お前を脅かす者などおらん。弾いてみろ」 チェセルはそう言うが、マリアネラはハープが趣味だと忘れるほど過酷な生活を送ってきた上に、何年も触っていない。以前のようにうまく弾ける自信など、これっぽっちもない。 「どうした、
お茶が終わると、安全な場所にいる安心感からか、うとうとしだす。彼女の眠気を軽減させたのは、ノックの音。「はい」「マリアネラ様、お風呂の準備が出来ました。ご案内します」 メリーの声だ。マリアネラは部屋から出て、メリーの案内で浴室に行く。探索時に少し覗いたが、脱衣所は広々としている。「お着替えはそのかごに入っています。今お召になっているものは、そちらの箱に入れてください。では、ごゆっくり」 メリーは一礼して脱衣所から出ていった。マリアネラは着ていた襤褸切れを箱に入れ、浴室に足を踏み入れる。温かな空気に、頬が緩む。風呂桶で髪にお湯をかけると、足元を流れるお湯が茶色い。「こんなに汚れていたのね……」 自分から出た汚れにげんなりする。奴隷市場では、藁を敷いただけの大部屋に雑魚寝させられていた。その藁も綺麗なものではない。長年使われていたのか、藁は異臭がしたし、通路には土埃が溜まっていた。その上を裸足で歩かされていたのだから、汚れるのも当然だろう。 髪を洗っても、1度や2度では汚れが落ちきらず、何度も洗うはめになった。腕はつかれるが、清潔になっていくのが嬉しい。 体も垢取り用のブラシで擦ると、面白いくらいぼろぼろ取れた。髪と体の汚れを落とし終えると、ようやく湯船に浸かる。「はああぁ~……」 あまりの気持ちよさに、大きなため息が出る。温かい風呂は心の余裕を作る。奴隷市場で風呂が許されなかったのも、なんとなく理解できた。「皆、どうしてるのかしら?」 心の余裕が出て思い浮かべるのは、やはり家族と民のこと。食事はできているのだろうか? 風呂には入れているのだろうか? 奴隷市場にいた頃の自分のように、ひどい環境にいなければいいが……。 考えれば考えるほど、恵まれた環境にいることに罪悪感が芽生えてしまう。「チェセル王子なら……」 そこまで言って口を閉じ、考えを振り払うように首を振る。チェセルは確かに、マリアネラに惚れてい
ドアが閉まると、マリアネラはサイドテーブルへ駆け寄り、水差しにある水を一気に飲んだ。王女としてはしたない飲み方ではあるが、ひどく喉が渇いていたのだ。 夕の国で出される水は、ゴミや虫が浮いており、飲めたものではない。朝と夜に1回ずつ、風呂の代わりに水をかけられる。その水は井戸水だった。だからマリアネラは、水をかけられる時に口を開け、少しでも水分を取ろうと必死になっていた。 幸い、夕の国は雨が多い。マリアネラが入れられたボロ小屋には、ところどころ穴が空いているため、雨漏りが酷い。その雨漏りがマリアネラの命綱だった。「ふぅ、お水って、こんなに美味しかったのね……」 久しぶりに飲む綺麗な水に感動を覚える。戦争前のマリアネラは、水が苦手だった。味がないから、飲んでも美味しいと思えなかったのだ。そのため、よく冷やしたアイスティーを愛飲していた。「極限状態で気づくなんてね……」 自嘲し、改めて部屋を見回す。立派なベッド、空っぽの本棚、一人用の椅子とテーブル。ドレッサーにクローゼット。 サイドテーブルの引き出しの中を見ると、ふわりと花の香りがした。中にはサシェが入っている。サシェとは乾燥した花やハーブを通気性のいい布製の袋に入れたもののことだ。リラックス効果のある花で作ったものを枕元に置いたり、殺虫効果のあるハーブなどを入れたものはクローゼットなどに入れ、防虫剤代わりにする。 サイトデーブルに入っているサシェは、リラックス効果があるものだろう。この香りをかいでいると、心が落ち着いてくる。 次にドレッサーを見ると、化粧品やケア用品、櫛やヘアオイルなどが入っていた。 最後にクローゼットを見ると、紺色のドレスが1着のみ入っている。どれも美しいものではあったが、マリアネラの心を動かすことはできない。「はぁ、これからどうなるのかしら……」 椅子に座ってため息をつく。できることならベッドに横になりたいが、襤褸切れをまとっている今、綺麗なベッドに横になるのは憚られた。 しばらくすると、チェセルの言う通り、サンドイッチとワインが運ばれてきた。使用人はテーブルの上にそれらを置くと、恭しく一礼して出ていく。 使用人が退出すると、マリアネラは必死にかぶりつき、まともな食事に涙を流した。 奴隷市場にいる頃に出された食事は、人が食べるものとは思えないほどひどいものばかりだっ
「嫌がることをしない、ねぇ……。例えば?」「お前の純潔は奪わずにいよう」「え?」「男は初体験などさっさと済ませたい生き物だが、女は違うだろう? 王族なら尚更だ。王女の純潔は国の宝といっても過言ではない。お前の純潔をいただくのは、陽の国を取り返してからだ。これで文句はあるまい?」「本当に?」 にわかに信じがたい話だ。男が女性に無理やり関係を迫り、結婚したという話はよく聞く。それにマリアネラは奴隷だ。彼女の意思など無視して抱いてもおかしくない。「くどい女だな。だが、慎重な女は嫌いではない。顔合わせも済んだことだし、そろそろ行くとしよう。まだ公務がたまっているのでな。夜になったらまた来る」「待って!」 背を向けるチェセルを、マリアネラは慌てて呼び止めた。このまま出ていかれては困る。「なんだ?」「これ、解いてちょうだい」 身動ぎして、自分が拘束されていることをアピールする。するとチェセルは思い出したような顔をし、小さく笑う。「あぁ、すまない。失念していた。解くのはいいが、自害や脱走など、愚かなことはしてくれるな」「そんなことしないわ。両親と民を無事を確認するまで死ねない」「その言葉、忘れるなよ」 チェセルは懐からナイフを出すと、縄を切っていった。自由になって立ち上がると、思いっきり体を伸ばす。バキボキと酷い音がする。(しまった、今のは王女らしからぬ行動ね) 人前でするのを憚れる行動を反省したが、チェセルは気にしている様子はない。「サイドテーブルのベルを鳴らせば、誰かが来るだろう。何か入り用なら、使用人を呼べ」「えぇ、分かったわ」「あと30分もすれば、軽食が運ばれてくるから食べるといい。それと、この階から出なければ、部屋から出ることも許可しよう」「あら、随分と寛容なのね」 丁重な扱いが帰ってマリアネラを惨めにさせ、腹が立って厭味ったらしく言う。「今は奴隷だが、お前は将来私の妻になる女だ。そんな女を、こんな狭い部屋に閉じ込めておくわけにはいかないだろう」 そう言われ、改めて室内を見回す。チェセルは狭い部屋と言うが、マリアネラの寝室くらい広い。それに、ベッドや調度品も、最高級のものだと一目で分かる品ばかりだ。「では、また夜に会おう」 チェセルは今度こそ部屋から出ていった。
入ってきたのは、高身長でガタイのいい若い男。美しいブロンドの髪に、燃えるような赤い瞳。そして自信に満ち溢れたオーラが、彼が只者ではないと直感させた。 マリアネラはその男に見覚えがある。だが、何日もまともな食事をしておらず、頭が回らないせいか、この男が何者なのか思い出せない。自分が知っているのだから、貴族なのだろう。 男はマリアネラの前まで来ると、目線を合わせようとかがんだ。目力の強さに目をそむけたくなるが、ここで目を逸らせば、自分が弱者だと認めるようなもの。マリアネラは男の目をじっと見つめ返した。「ふっ、いい目をする。舌を噛むなよ」 男はそう言って猿轡を外す。口が自由になり、安堵の息を吐く。いくら基本的に鼻呼吸をしているとはいえ、呼吸器官でもある口を長時間塞がれるのは、僅かな恐怖と不快感があった。「久しいな、王女。いや、今は斜陽の姫か」「誰なの?」 マリアネラの問いに、男は小さく笑う。呆れ返るような、そんな笑いだ。「何度も顔を合わせたことがあるというのに、誰だとはご挨拶だな。まぁいい。私はチェセル・リーヴェ。宵の国の第1王子。つまり、お前の飼い主だ」「チェセルって、あの……! 名乗られてようやく思い出す。確かに彼とは、何度か舞踏会で会ったことがある。だが、それも4年ほど前の話。それにマリアネラは、夕の国との戦争で頭がいっぱいになっていて、他のことを考えられなかった。 彼の正体を知れた安心感と同時に、怒りと軽蔑の感情が湧き上がる。「王子とあろう者が、奴隷を買うだなんて、恥ずかしくないのですか?」 嫌悪感で睨みつけるも、彼は不敵な笑みを崩さない。「ふっ、そう睨むな、斜陽の姫よ。私はお前をぞんざいに扱うつもりはない。その証拠に、こうして居心地の良い部屋を与えたではないか」 一部しか見えていないとはいえ、確かにいい部屋なのだろう。だが……。「椅子に縛り付けておいて、よく言うわ。それに、望んでない」「椅子に縛り付けさせたのは、自殺防止だ。斜陽の姫、マリアネラよ、お前は何を望む?」「国を返して」 理不尽なことを言っているのは自分でも分かっているが、マリアネラが望むのは、家族や民の無事と、国が戻ることだった。あの平和が戻るのなら、自分はもう、王族でなくなってもいいとさえ思う。「国を返せとはおかしなことを言う。陽の国を奪ったのは、我々では