LOGIN蒼空は資料を握りしめ、小さく息をついた。「遥樹、本当にありがとう。私のために、ここまでして」遥樹は手を伸ばし、彼女の肩を包むように掴む。そして静かな声で言った。「俺はただ、お前に笑っててほしいんだ。早く全部終わらせよう」蒼空は小さく頷いた。「うん」瑛司が摩那ヶ原へ着いたのは夜だった。迎えに来ていたのは安莉と運転手だった。安莉は助手席に座ったまま振り返り、彼に尋ねる。「社長、このまま会社へ戻られますか?それとも別の場所へ?」そう口にした直後、瑛司のスマホが鳴った。彼が軽く手で合図すると、安莉はすぐに口を閉じる。電話の相手は敬一郎だった。低く沈んだ声には、隠しきれない怒気が滲んでいる。「今どこにいる。すぐ家へ戻れ」瑛司は腕時計へ目を落とした。その瞳は深潭のように黒い。祖父の怒りを意にも介さず、淡々と言う。「先に会社へ仕事を片付けないと」「後回しにしろ!」敬一郎の声は有無を言わせない。「今すぐ戻って説明しろ!」瑛司は平然としていた。「仕事が終われば戻るよ」敬一郎の怒気はさらに増す。「今すぐ戻れと言ってるんだ!」声が大きすぎて、車内の運転手と安莉にもはっきり聞こえた。安莉の目がわずかに揺れる。運転手は余計なことに関わるまいと、視線一つ向けず静かに運転を続けていた。瑛司の声は低い。だが最後まで落ち着いていた。「仕事を終えたら帰るので」「お前――」最後まで聞かず、瑛司はそのまま通話を切った。電話を切ったあと、今度は松木家の執事へ電話をかける。執事の声には戸惑いが滲んでいた。「瑛司様、やはり一度お戻りになった方が......敬一郎様が、かなりお怒りでして......」瑛司は淡々と言う。「見ててくれ。もし具合が悪くなったら、すぐ病院へ」「は、はい......承知しました」通話を終えると、瑛司はシートにもたれ、目を閉じて休み始めた。彼が目を閉じたのを確認してから、安莉はようやくバックミラー越しに、その鋭く整った眉目を遠慮なく見つめる。すると瑛司が突然口を開いた。「取締役会の連絡は全部済んだか?」安莉の心臓が跳ねる。彼女は慌てて視線を引っ込め、「はい」と答えた。「ですが、数名は今海外にいて、すぐには戻
瑛司と瑠々はすでに離婚しているのに。松木家もまた声明を出し、瑠々との関係を切り離していたのに。敬一郎の利益至上主義な性格からすれば、本来なら瑠々のためにここまでするはずがない。蒼空が口にしなかった疑問を、瑛司も察していた。彼は隠すことなく答える。「佑人のためだ」佑人。彼の息子だ。それ以上説明されなくても、蒼空には理解できた。敬一郎は曾孫を溺愛している。だからこそ、孫のためなら危険を冒してでも瑠々を守ろうとしているのだ。蒼空は静かに資料を置いた。その瞳の奥では感情が絶えず揺れている。瑛司はなぜこんなことをするのか。なぜ彼女に真実を話すのか。しかも敬一郎や、自分の息子まで引き合いに出して。この件で敬一郎まで巻き込まれる可能性を、彼は恐れていないのか。彼の目的は何だ?蒼空の視線には、自然と警戒が滲んでいた。罠かもしれない。瑛司が、自分を傷つけるような真似をするとは到底思えない。遥樹は彼女の張り詰めた空気を察したのか、指先でそっと彼女の手の甲を撫でる。その小さな仕草が、胸のざわめきを静かに落ち着かせた。そして遥樹が、蒼空の代わりに口を開く。「松木社長が、ここまでする人だとは知らなかったな」瑛司の声は淡々としていた。「それは君たちには関係ない」蒼空は眉を寄せる。瑛司は彼女を見つめ、言った。「君たちは、これを警察に提出すればいい。残りは俺がやる」蒼空は彼を見据える。「何がしたいの」彼女の視線は長く瑛司に留まっていた。遥樹は繋いだ手に力を込め、唇を引き結んだまま何も言わない。今回は、瑛司が沈黙している時間もいつもより長かった。やがて彼は低く口を開く。「......自分のやりたいことをするまでだ」そう言い終えると、瑛司は立ち上がった。「時間だ。飛行機に乗る予定があるから、そろそろ行かないと」彼は蒼空へ手を差し出し、唇の端をわずかに上げる。「抱きしめるのは無理でも、せめて握手くらいはしてくれないか。俺は、君のために重要な証拠を持ってきたんだ」蒼空は遥樹と視線を交わした。遥樹は目を細め、露骨に不機嫌そうな顔をしている。瑛司は宙に差し出した手を軽く揺らした。「握手すら嫌か?」蒼空は宥めるように遥樹の手の甲を軽く
文香も無理に言い張ったりはしなかった。所詮は遊園地の話だ。「じゃあ、暇になったら教えて」文香は歩み寄って澄依を抱きしめ、その頬を軽くつねる。目いっぱいの愛しさが滲んでいた。「でも、なるべく早めにね。澄依はもうすぐ学校戻るんでしょ?」蒼空は日数を数える。「あと数日かな。間に合わなかったら、週末にでも」文香は不満そうに彼女を睨んだ。「もう、澄依せっかくのお休みなのに」澄依はそっと彼女の手の甲に手を重ね、柔らかな声で言った。「おばさん、大丈夫だよ。私はお姉ちゃんを待てるから」文香は見れば見るほど可愛く思えて、思わず抱きしめる腕に力が入る。「澄依ちゃん、私の実の娘だったらよかったのにねぇ」澄依は頬をほんのり赤く染め、俯いた。蒼空は遥樹を連れ、約束の時間ぴったりに瑛司が指定したレストランへ向かった。瑛司が取っていたのは、プライバシーに配慮した個室だった。店員が扉を開けると、蒼空は部屋の奥に静かに座る男の姿を見た。体を一人掛けソファに深く沈め、目を閉じている。長い脚は持て余すように投げ出されていた。物音に気づき、瑛司が目を開けてこちらを見る。黒い瞳は深淵のように暗かった。その視線が蒼空の後ろにいる遥樹を捉えた瞬間、彼の目元に意味深な笑みが浮かぶ。よく見れば、冷たさを孕んでいた。蒼空は中へ入り、淡々と言った。「連れがいるんだけど、別に構わないよね?」遥樹は彼女の肩に手を回し、整った深い瞳でからかうように瑛司を見た。口調は淡い。「もちろん。入ろう」瑛司は両手を組み、薄く笑う。当然、遥樹には視線すら向けず、蒼空だけを見て意味ありげに言った。「わざわざ護衛を連れて来る必要なんてあるのか。別に君を食べたりしない」その含みのある言葉に、聞いていた二人は同時に眉をひそめた。遥樹の目が細まる。危うい光が瞳の奥をかすめた。二人の男の視線がぶつかり合い、今にも空気に火花が散りそうだった。意図してか無意識か、蒼空は遥樹の前へ立ち、二人の視線を遮る。そのまま遥樹の手を引き、瑛司の向かい側へ座らせた。瑛司の瞳の色が沈む。遥樹は繋がれた手を見下ろし、ゆっくりと唇を吊り上げた。そして蒼空の手を持ち上げ、自分の腿の上へ置く。ひどく親密な仕草だった。
澄依の頬がほんのり赤く染まった。このところ蒼空に何度も褒められていたけれど、そのたびにやっぱり嬉しくなって、照れてしまう。蒼空はリビングで文香と澄依と話していたが、その時、電話が鳴った。瑛司からだった。蒼空は画面を二度ほど見つめ、立ち上がってベランダへ向かい、そこで電話を取った。「何か用ですか」淡々とした口調だった。冬の夜気の中、瑛司の低い声はわずかな温もりと柔らかさを帯びていた。「明日、時間あるか?一度会って話したい」「何の?」必要な用事でもない限り、蒼空は瑛司と会いたくなかった。「溝口の件だ」蒼空は一瞬動きを止めた。そういえば以前、瑛司は瑠々の診断書について調べてやると言っていた。あの時は特に気にも留めず、瑛司が何か結果を持ってくるとも思っていなかった。まさか、彼が彩佳のところまで調べ上げていたとは。蒼空はなおも慎重に問いかけた。「何を調べたの?」「蒼空」瑛司は彼女の名を呼んだ。「もし今回、真相が明るみに出たら、松木グループにかなり深刻な影響が出るかもしれない。だから......埋め合わせってわけじゃないけど、一度会ってくれないか。下心があるのは分かってる。でも、この機会を口実に君に会いたいんだ。厚かましいとは思うけど、許してほしい」彼はあまりにも長い間、蒼空に会えていなかった。一度でいいから会いたかった。どうしても、会いたかった。蒼空は黙り込んだ。松木グループに深刻な影響――その言葉で、一瞬にして思考が繋がる。蒼空は問い返した。「つまり今回は、動いたのは久米川家じゃなくて、松木家なの?」瑛司はただ短く「ああ」と答え、それから再び尋ねた。「会ってくれるか?」蒼空はスマホを握り直し、夜空を見上げた。そして、自分が小さく頷く声を聞いた。「分かった。会いましょう。時間と場所はあなたが決めていいから」電話を切った後、蒼空はスマホを見下ろし、そこでようやく遥樹から数分前にメッセージが来ていたことに気づいた。【瑠々の両親、お前のところに行った?】蒼空はそのまま彼に電話をかけた。すぐに繋がる。彼女は今日の出来事を簡潔に説明した。遥樹の声がわずかに張り詰める。「こっちも報告は来てる。この数日はもっと注意して見張らせるから
前世で起きたことだけでも、蒼空が瑠々を許すことなどあり得なかった。前世の罪は、今世で償えばいい。たとえ前世の件を抜きにしたとしても、今世で瑠々がしてきた悪事は数え切れない。それだけでも、蒼空が簡単に見逃すはずがない。ましてや「情」を理由にしろなど、滑稽にもほどがある。彼女と瑠々の間に、いったいどんな情があったというのか。もちろん蒼空は、そんな本音を慎介と典子に話すつもりはなかった。ただ淡々と言う。「それをあなたたちに教える義理はありません」典子は激昂した。鋭い怒声が、今にも会議室の扉を引き裂きそうな勢いで響く。「関水蒼空!瑠々を追い詰めるというのなら、こっちだってただじゃ置かないから!」その声はあまりに大きく、防音性の高い壁すら遮りきれず、外にまで漏れた。近くにいた社員たちが驚いたように視線を向けてくる。扉の外で待機していた三輪には、当然はっきり聞こえていた。内心ではかなり驚いていたが、すぐに仕事中の冷静で厳格な表情へ戻り、周囲の社員たちへ淡々と視線を向ける。「仕事に戻ってください」社員たちは蒼空の秘書の顔をよく知っている。その一言で、皆すぐに視線を逸らして散っていった。人がいなくなったのを確認してから、三輪は少し心配そうに会議室の扉を見やる。だが蒼空は、一度死んだ人間だ。典子の脅しなど、今さら怖くもない。彼女は静かに返した。「勝手になさったら?」慎介も典子も、怒りで顔を歪めていた。典子は目を赤くし、今にも蒼空へ掴みかかって引き裂きそうな勢いだ。慎介は顔色を黒く沈ませ、怒りを何とか押し殺しながら、もう一度問いかけた。「......本当に、こちらの条件を断るんだな?」「お引き取りください」顔を真っ青にした慎介は、理性を失いかけている典子を引っ張るようにして去っていった。蒼空は、二人の背中を見つめながら考え込む。これまで長く調査を続けてきても、慎介と典子が動くことはなかった。それなのに、なぜ今日になって理性を失い、わざわざ会社にまで乗り込んできたのか。蒼空は、ごく自然に一つの結論へ辿り着く。――おそらく、今の調査がすでに核心へ触れ始めている。彼女の視線が数秒止まり、ゆっくりと窓の外へ向けられた。薄く白い雲を透かした陽光が、淡く暖
蒼空は、心のどこかでひどく残念に思っていた。こんなにも愚かで、しかも悪意に満ちた人間が、自分の実の両親だったなんて。もし選べるなら、いっそ最初から実の親などいない方がよかった。慎介と典子はたちまち顔を曇らせ、黙ったまま彼女を見つめた。蒼空は細い手首の腕時計へ視線を落とし、静かに告げる。「あと5分で会議なんです。話したいことがあるなら早めにしてください」慎介は眉をひそめ、典子を自分の後ろへ引いた。互いの考えは、もう十分理解している。ならば、これ以上遠回しに話す必要もない。慎介は単刀直入に切り出した。「いくら欲しい?瑠々を見逃してくれるなら、金は払う」久米川家から追放されたとはいえ、彼らには半生かけて蓄えた資産がある。普通の人間なら何代働かなくても裕福に暮らせるほどの金額だ。そして金は、多くの場合で役に立つ。蒼空は今や会社を大きく成長させている。それでも慎介は、自分の持つ金額なら彼女の心を動かせると信じていた。言い終えると、典子もじっと蒼空を見つめる。蒼空はわずかに眉を上げた。――なるほど。これが、今日ここへ来た目的か。彼女はふっと笑う。「まず一つ。あなたたちの娘さんは罪を犯して刑務所に入っているんです。『見逃す』なんて言葉は、私に使うものではありません」そして静かに続けた。「二つ目。お二人は、久米川瑠々のためにいくら払うつもりなんですか?」前半を聞いた時点では腹を立てていた慎介と典子だったが、後半の言葉に希望を見出した。典子が慌てたように言う。「いくらでも払うわ!私たちの持ってるお金、全部あげてもいいから!だから調査をやめてちょうだい!」だが、目の前の若い女はただ淡く微笑むだけだった。その瞳には、彼らの言葉に心を動かされた気配が一切ない。まるで高い場所から、冷静に彼らの醜態を見下ろしているかのようだった。典子の胸が、ずしりと沈む。その目つきも険しくなった。蒼空は、彼らの条件にまるで興味を示さなかった。そして同時に、自分の調査が間違っていないことも確信した。だからこそ彼らは、こうして慌てて全ての切り札を持って交渉に来たのだ。彼女は淡々と問い返す。「それだけですか?」慎介は目を細め、低い声で言った。「君は、我々がどれだけ金
遥樹はそれ以上、返信してこなかった。菜々はしばらく待っても遥樹からの返事がなく、たまらなく悔しくなって、鼻の奥がツンとし、目元が赤くなり、怒り混じりに指で画面を叩いた。菜々【冗談じゃないの、本当にお腹空いててお金もないし、こんな時間にどこへ行けばいいのかも分からない。早く迎えに来てよ】菜々【遥樹、もう私のことどうでもいいの?】それでも遥樹は返事をしなかった。菜々の目から、たちまち涙がこぼれ落ちた。彼女はしゃくり上げながら遥樹に電話をかけたが、遥樹は出ず、すぐに自動で切れた。何度もかけ直したが、どれもつながらなかった。菜々はそのままテーブルに突っ伏し、涙をぼろぼろ
遥樹は彼女をじっと見つめていたが、ふと少し居心地が悪くなったのか、手のひらで後頭部をかきながら、小さく何かをつぶやいた。蒼空はちょうどスマホを取り出してメッセージを確認しており、その言葉を聞き逃してしまう。読み終えてから顔を上げ、「今、何て言ったの?」と尋ねた。遥樹はしばらく彼女を見つめ、少し距離を詰めて言った。「その理由は何なのか、本当に分からない?」ちょうどその瞬間、蒼空のスマホの着信音が鳴った。彼女の意識は、先ほど小春から届いた仕事の連絡にほとんど持っていかれており、遥樹の言葉をきちんと聞けていなかった。電話に出ながら、蒼空は彼に言う。「よく聞き取れなかっ
蒼空は、憲治の件を美紗希に簡単に説明し、彼女がL国へ出張している数日の間、警察の動きを注意して見ておいてほしいと頼んだ。電話の向こうで、何かが床に落ちる音がして、美紗希の呼吸が少し早まる。「丹羽が認める気になった?」蒼空は答える。「まだ態度が固まっていない。だからそっちが見張って、状況を逐一私に報告して。私もそれに合わせて動くから」「分かった」通話を切ったあと、蒼空はエツベニに戻って荷造りを始めた。今夜の便を予約していて、荷物をまとめたあとには交流会にも出席する予定だ。交流会が終わる頃には、もうかなり遅くなっているだろう。スケジュールはかなり詰まっていた。
礼都は俯いたまま手帳に何かを書き留めており、表情は冷淡だった。こちらを見ることもなく、主任と蒼空の会話に加わることもない。蒼空の視線に気づいたのか、礼都はペンのキャップを閉めて顔を上げ、こちらを見た。その視線はひどく冷ややかだった。彼の視線は、彼女の上にほんの半秒ほど留まっただけで、すぐに逸らされる。そして突然、一歩前に出て主任の言葉を遮った。「主任」不意に遮られたものの、主任は特に気を悪くした様子もない。「どうした?」礼都は丁寧に微笑む。「少し用事があるので、先に失礼します」「わかった」礼都は軽く会釈し、顔を上げた瞬間にはまた無表情に戻っていた







