LOGIN『お前の逃げ道は、この日本のどこにも存在しない』 そのメッセージを何度も睨みつけながら、樹はタクシーの車内で歯を食いしばっていた。空港での醜態を思い出すたび、屈辱と焦燥が胃の底から込み上げてくる。誰にどこまで足取りを掴まれているのか、想像すればするほど背筋が冷えていった。 窓の外を流れる夜景を眺めながら、樹は必死に頭を巡らせる。 偽装した戸籍も、磨き上げた人心操作の技術も、これまで一度たりとも失敗したことはなかった。それなのに、なぜ今回に限って、まるで最初からすべてを見透かされていたかのように逃げ道という逃げ道が次々と塞がれていくのか。「くそ、くそっ! どこで嗅ぎつけられた」 考えろ。まだ手はあるはずだ。会社名義の口座に残った現金を今夜中にかき集め、陸路で別の空港へ向かえばいい。そう自分に言い聞かせながら、樹はエリカ・パートナーズのオフィスへと戻った。 だがエレベーターを降りた瞬間、樹は異様な静けさに息を呑んだ。 数十人はいたはずの社員の姿が、どこにもない。デスクの上には、書きかけの資料や私物が慌てて放り出されたまま散乱している。契約していたインフルエンサーたちのSNSからも、この数日で次々と「業務提携終了」の投稿が上がっていたことを、樹は今更ながら思い出す。沈みゆく船から、鼠たちはとうに逃げ出していた。 誰にも気づかれることなく、これほど急速に会社の実態が崩壊していたという事実に、樹は今さらながら戦慄した。自分たちだけが、その崩壊の速度に気づかず踊り続けていたのだ。 社長室の扉を開けると、暗がりの中、シャンパングラスを片手に一人佇む絵里香の姿があった。「あら、樹くん。おかえりなさい」 誰もいなくなったオフィスで、化粧の崩れた顔に貼り付けたような笑みを浮かべ、絵里香はグラスを掲げてみせる。その瞳には社員が去った現実も、会社が既に機能を失っている事実も、何一つ映っていないようだった。「見て、この景色。誰もいなくなったから、フロア全部が私一人のものよ。……まるで、本物の女王の城みたい」 自分に酔いしれるように、絵里香はくるりと一回転してみせた。踵の高いヒールが虚しく床を鳴らす。「白鷺銀行さんも太鼓判を押してくれたのよ。融資担当役員全員、私のことを『時代を作る女性経営者』だって褒めてくれたんだから。あんな安月給の社員たちなんて、いなくなって清
——三日前。 彼らはまだ知らない。この選択が、三日後に自分たちを地獄へ突き落とすことになるとは…… エリカ・パートナーズ本社、社長室。 白鷺銀行副頭取は、額に脂汗を浮かべながら分厚い契約書の束をテーブルに叩きつけた。「絵里香さん、フェーズ2の実働テストは予定通り決行します。ですが……融資枠を、もう一段階引き上げる必要が出てきました」「あら、もっとお金が必要ってこと? いいわ、いくらでも用意なさい」 絵里香はシャンパングラス片手に鷹揚な笑みを浮かべた。 彼女の脳裏には、億単位の金が右から左へ流れていく感覚こそが、成功者の証として刻み込まれている。かつて隼人と暮らしていた頃の質素な生活など、もはや記憶の彼方に押しやられていた。 副頭取には誰にも言えない事情があった。彼はここ数年、銀行の資金を密かに使い込み続けており、その穴は既に取り返しのつかない額に膨らんでいた。その穴を埋めるには、黒川から追加の裏融資を引き出すしかない。だが黒川は、その融資と引き換えに、絵里香の個人資産をすべて担保に差し出させることを条件に突きつけていたのだ。「今回は会社の資産だけでは足りません。……絵里香さんご自身の個人資産——このマンション、保有株式、それに生命保険の解約返戻金まで、すべてを担保に組み込む必要があります」「全部?」 わずかに眉をひそめた絵里香に、副頭取は揉み手をしながら囁いた。「実働テストさえ成功すれば、担保などすぐに何十倍にもなって返ってきます。今、ここで臆病風に吹かれるようでは、真の女王にはなれませんよ」 副頭取の言葉の裏には、絵里香をこれ以上ないほど追い詰めなければ、自分自身が破滅するという焦りが張り付いていた。横領の穴を塞ぐには、この女が持つすべてを吸い上げる以外に道はない。彼にとって絵里香は、もはや取引先ではなく、最後に使い潰すべき燃料に過ぎなかった。 その一言が、絵里香の中の虚栄心を完全に焚きつけた。「そうよね……ここまで来て、怖気づくなんて私らしくないわ」 絵里香は震える手を止め、実印を握りしめた。ほんの一瞬だけ過った不安は、女王としての己を演じ続けるという強迫観念によって、すぐさま塗り潰されていく。「これで私が世界一の女王よ!」 高らかな笑い声と共に、朱色の印影が契約書の最後のページに深く刻み込まれる。もはや後戻りのできない、
一条本社ビル、地下三階。 外部には存在すら知られていない尋問室。剥き出しのコンクリート壁に囲まれたその一室で、拘束された清掃屋のリーダーは、パイプ椅子に縛り付けられたまま項垂れていた。数十分前まで凜を殺そうとしていた男の全身は、今や小刻みに震え続けている。 壁際に控える凜が記録用のタブレットを構えたまま、隼人の背中を静かに見つめていた。「もう一度聞く。黒川商会が進めている『実働テスト』——その決行日はいつだ」 隼人の声には感情の起伏がなかった。それが逆に男の背筋を凍らせる。「……知らねえよ、そんなもん」「そうか。それなら、お前の雇い主に、お前がどんな醜態で捕まったか、動画を送りつけてやろう。黒川は口封じのために真っ先にお前を切り捨てるだろうな。トカゲの尻尾切りは、あの男の十八番だ」 隼人が淡々とタブレットを操作し、先ほど地下駐車場で男が這いつくばる映像を再生してみせる。裏社会で築き上げてきた「凄腕の始末屋」という虚像が、画面の中で無様に崩れ落ちていた。 男の顔から、みるみる血の気が引いていく。忠誠を誓ってきたはずの組織に、自分の弱みが晒された瞬間の恐怖は、素手で殴られるよりも遥かに深く男の心を抉ったようだった。生き残るための算盤を弾くように、男の視線が忙しなく泳ぐ。「……三日後だ。エリカ・パートナーズの『未来湾岸総合開発』フェーズ2、実働テストの決行日。白鷺銀行が積み増した融資枠と、エリカ・パートナーズの全資産を担保に、一条の利権を丸ごと奪い取る計画だった。……資金移動が完了次第、絵里香には破産の責任だけを押し付けて、黒川商会はそのまま海外へ資金を逃がす手筈だったはずだ」「奪い取る、か。滑稽だな。奴らが積み上げてきたものは、最初から俺の手のひらの上だ」 隼人は口の端を歪めた。 金融決済プラットフォームの参入枠も、資産の水増しデータも、すべては一条の解析サーバーへ吸い上げられる仕組みの中で踊らされてきた茶番に過ぎない。だが、次の問いへ移る隼人の目に微かな緊張が宿る。「黒川がすべてを仕組んだのか。樹の育ての親を使い、京都支社の監査を止める許可証まで用意して」 その問いに、拘束された男の顔が、恐怖とは違う不気味な色に染まった。血の滲んだ唇が、ゆっくりと吊り上がっていく。 凜が息を呑んで、隼人と男のやり取りを見守った。 この男の口から、こ
黒川商会の隠れ家。「会長、一条の調査ですが、樹の育ての親——我々の古参清掃屋にまで達したようです」 報告を受けた黒川龍臣の顔から、余裕の色が消えた。「馬鹿な……あの許可証の出所まで辿られたら、俺の首だけじゃ済まなくなる」 長年、裏社会に君臨してきた男の直感が、これまでとは違う危機を訴えている。相手は金や女で転がせる小物ではない。あの許可証の正体が明るみに出れば、崩れるのは黒川商会だけでは済まない。もっと巨大な絶対に沈んではならない船まで道連れになる。「凜とかいう秘書が単独で嗅ぎ回っているようです」「潰せ。今夜中にだ。その女さえ黙らせれば、まだ間に合う」 黒川は焦りと苛立ちを含ませた語気で吐き捨てた。 *** 深夜、一条本社ビル地下駐車場。 残業を終えた凜は、人気の絶えたフロアを一人、足早に車へ向かっていた。 手にしたタブレットには、京都支社の当時の人事記録——あの許可証に関わったであろう人物を絞り込むためのデータが詰まっている。今夜のうちに解析を進めておきたいという焦りが、彼女の判断から普段の慎重さを奪っていた。 コンクリートの柱の陰から、ふいに複数の靴音が響いた。 振り返ると、暗がりから四人の男たちが音もなく歩み出てくる。手には特殊警棒とサバイバルナイフ。全員が一様に隙のない足取りでじりじりと間合いを詰めてきた。「一条の秘書サマが、随分と余計な穴を掘り返してくれたな」 先頭の男が嗤いながらナイフを構える。「これ以上調べられちゃ、俺たちの雇い主が困るんでね」 凜は後ずさりながらタブレットを強く抱きしめた。完全に包囲されている。叫んだところで、この時間の地下駐車場に助けが来る保証などない。頭の中では冷静に脱出経路を探る一方、足はすでに震えを止められずにいた。「……くっ」 背後の柱に追い詰められ、逃げ場を失う。男の腕が振り上げられ、刃が非常灯の明かりを弾いて鈍く光った。 死を覚悟した、その刹那—— 轟音と共に、駐車場の非常口の扉が蹴破られた。 黒い影が瞬きする間もなく最も近い男の懐へ潜り込む。骨を打つ鈍い音、短い呻き声。次の瞬間には、もう一人の男が宙を舞い、コンクリートの床に叩きつけられていた。「な、なんだ、こいつ……!」 残った男たちが慌てて構え直す暇すら与えず、影は次々と相手をアスファル
一条本社ビル、最上階の執務室。 窓の外には、崩壊したエリカ・パートナーズの社屋を包む赤色灯の光が、まだ点滅を続けている。 拘束された樹と絵里香の身柄が地下の保護施設へ移送されたとの報告を受け、俺はようやく張り詰めていた息を吐き出した。だが休息を取る間もなく、対面のソファに座る凜がタブレットを差し出してくる。「兄さん、樹の身辺調査、完全に終わりました。……想像以上に根の深い話です」 凜の声には、これまでにない緊張が滲んでいた。普段は感情の乱れを見せない彼女が、報告を切り出す前にわずかに視線を落とす——それだけで内容の重さが伝わってくる。「宝生樹という名前自体、彼が十五歳の時に得た偽りの戸籍です。本名も生年月日も、公的な記録からは完全に消されています。ですが、闇の帳簿にわずかに残っていた痕跡から、彼を引き取り育てた男の存在が浮かび上がりました」 タブレットに映し出されたのは、粗い監視カメラの静止画。険しい顔つきの初老の男が、黒塗りの車の脇に立っている。「この男は黒川商会に長年専属で仕えていた清掃屋——いわば、裏社会の始末屋です。樹は幼い頃からこの男に引き取られ、詐欺の手口や偽装の技術を、まるで英才教育のように叩き込まれて育ったようです」「戸籍の偽装、資格の捏造、人心の操作術……樹が絵里香やお母様を手玉に取ってきた技術は、すべて、この男から受け継いだものと考えて間違いありません。彼は生まれながらの詐欺師だったのではなく、詐欺師として育て上げられた道具だったんです」 俺は資料をなぞる手を止めなかった。憎むべき間男の正体が、実は歪んだ英才教育の産物に過ぎなかったという事実に奇妙な納得感すら覚える。「それだけなら、単なる裏社会の血脈の話で済む。だが、お前の顔つきを見る限り、まだ続きがあるようだな」「はい。……この男の古い業務記録を洗っていて、妙な文書を見つけました」 凜がタブレットの画面を切り替える。表示されたのは、褪せた黄色い紙に印字された、正体不明の許可証だった。「これは『特別調査停止許可証』——本来、警察や監督官庁による監査そのものを一時的に止められるほどの、極めて強い権限を持つ文書です。ですが、黒川商会ごときの民間反社組織単体に、こんな公的な決裁権が発行できるはずがありません」 凜の言う通りだった。監督官庁の監査を止められる権限など、通常
搬入口を塞ぐ五台の防弾セダン。その中心に立つ隼人を前に、樹の膝から完全に力が抜けた。「殺し……に来たのか」 震える声で吐き出された問いに、隼人は薄い笑みだけを返した。「殺す? いや、お前を殺すのは黒川の役目だ。俺が用意したのは、もっと丁寧な処刑台だよ」 背後の非常口からは、黒川が差し向けた清掃屋の気配がじりじりと迫っている。前門の一条、後門の裏社会——樹の全身から、逃げ場を失った獣の脂汗が噴き出した。 隼人が片手を軽く上げると、警備部隊が一斉に動いた。抵抗する暇すら与えず、樹は地面に組み伏せられ、両腕を後ろ手に拘束される。「離せ……離せぇっ! 俺は、俺だけは特別な人間なんだ……!」 アスファルトに頬を押し付けられながら、樹は往生際悪く喚き散らした。すべてを出し抜き、頂点に立ったはずの自分が、何故こうも呆気なく地に這わされているのか、その現実を脳が拒絶している。「証拠として完全な状態で確保しろ。指の一本、記憶の欠片一つも欠けさせるな。奴には、これから吐き出してもらう話が山ほどある」 隼人は冷ややかにそう命じると、耳元のイヤホンへ指を添えた。「聞こえているか。社内の状況を報告しろ」『会長! 社長室で清掃屋のリーダーが桐島絵里香に凶器を振り上げています! 突入の許可を——』 隼人の瞳が一瞬だけ鋭さを増す。だが、口から出た指示は冷静そのものだった。「突入班、リーダーの武器を弾き飛ばせ。……絵里香を殺させるな。あの女はまだ死なせるわけにはいかない」『了解。……しかし会長、なぜあの女を』「樹に署名させられた連帯保証契約を確認した。黒川商会からの百億円の負債は、すべて桐島絵里香個人が背負う条項になっている。……ここで死なれては、その借金も、罪も、綺麗に宙へ消えてしまう」 隼人は拘束された樹を一瞥もせず、崩れた搬入口の扉から社屋内部へと駆け出した。 *** 粉塵の舞う社長室。 床にへたり込んだ絵里香の頭上に、顔中傷だらけの清掃屋のリーダーが特殊警棒を振り上げていた。 さきほどまで自分を盾にした間男の姿は、もうどこにもない。頼るべき味方も、縋るべき肩書きも、この瓦礫の部屋には何一つ残されていなかった。「一条に尻尾を振った女は、道連れにするなと会長の命令でな」「いや……いやぁぁっ! 助けて、誰か……!」 絵里
「結衣、いい子にしてなかったから……ママ、結衣のこと嫌いになっちゃったの?」 その涙に、さすがの絵里香も言葉を失う。気まずげに視線を逸らし、小さく舌打ちをした後、「……そんなこと、言ってないでしょ」と呟いて寝室へ逃げるように消えていった。 胸の奥が激しく痛む。俺は結衣の小さな体を強く抱きしめた。「違うよ。結衣は世界一のいい子だ。パパがずっと一緒にいるから、安心して眠りなさい」 俺は結衣の小さな背中を優しくさすり続けた。 しゃくりあげる声はやがて規則正しい寝息へと変わり、泣き疲れた娘の身体からすっと力が抜ける。 その小さな身体を抱き上げてベッドへ運び、毛布を掛けた。 明日、あの女
冷たい雨がアスファルトを叩く音を背に、俺は自宅マンションの重い扉を開けた。 玄関は薄暗く、静まり返っている。濡れたコートを脱ぎ捨て、リビングの照明をつけると、そこには目を背けたくなるような現実が待っていた。 テーブルの中央に置かれたバースデーケーキ。六本のロウソクは火を灯されることもなく、生クリームは完全に乾ききって、ひび割れている。傍らには、結衣が一生懸命に描いた『ママの似顔絵』が、主役の帰りを待ちわびたまま、ぽつんと残されていた。 表面上は平静を保っていたつもりだったが、内面はすでに決定的に壊れかけている。 俺はソファに深く沈み込み、両手で顔を覆った。 過去の記憶が薄暗いリビ
俺の言葉に絵里香は鼻で笑い、周囲の経営者たちへ聞こえるほど大きな溜息をついた。「何を見間違えたのか知らないけれど、大袈裟に騒がないで。誤解よ、誤解。海外のビジネスシーンでは、これくらい当たり前の親愛の情だわ。本当に器の小さい男ね、あなたって人は」 絵里香は血相を変えるどころか、軽蔑を隠そうともせずに言い放った。「自分の無知を棚に上げて、大事な祝賀会の席で醜態を晒すなんて。恥ずかしいから、もう口を開かないで」 そこへ、横に立っていた樹が一歩前に出た。顔に張り付いた完璧な営業スマイルは、その奥の嘲笑を隠そうともしていない。「旦那様、あまり絵里香さんを困らせないでください。彼女は今、我
夜八時。リビングのテーブルには、結衣の名前が書かれたバースデーケーキと、不格好なリボンが結ばれた小さな箱が置かれていた。「パパ……ママ、まだお仕事終わらないの?」 五歳になる娘の結衣が、画用紙に描いた『ママへの似顔絵』を胸に抱きしめたまま、泣き出しそうな顔で俺を見上げている。 今日は結衣がずっと楽しみにしていた大切な誕生日だ。俺は娘の頭を優しく撫でると、スマートフォンを取り出して、妻である絵里香に電話をかけた。 数回のコールの後、苛立ちを含んだ声が耳に届く。『何? 今、ホテルで重要な祝賀パーティーをしているの。用がないなら電話してこないで』「今日は結衣の誕生日だ。ケーキを買って







