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金庫室の扉

last update Date de publication: 2026-10-20 12:29:37

 一時間後、係員たちが聴聞の間へ戻ってきた。門の記録に、今朝、館を出た者の名は一つもなかった。書記の部屋も空のままで、梶谷の姿はどこにもないという。

 議長の許しを得て、凜が手帳の頁を一枚、係員に託した。昨夜、凜が俺に渡すつもりで書いていたものだ。頁には三本の鍵の家紋と、その家の名が記されていた。

 ケスラー家——

 三百年、この館の記録と金庫の鍵を預かってきた家だという。

 俺は議長に向き直った。

「門の記録に名がない以上、梶谷はまだ館の中にいる。だが、係員がどこを探しても見つからなかった」

 半円の誰も口を開かなかった。

「係員でさえ入れない部屋が、この館にあるということだ。その部屋の鍵を持っているのは、どの家だ」

 半円の視線が窓側の席に集まった。ケスラーの顔から、血の気が引いている。

 議長が杖で床を打った。

「ケスラー。金庫室を開けよ」

「金庫室には十三家の古い証文が納めてある。分家の若造の言いがかりで開けるわけには……」

「開けられぬ理由があるなら、この場で申せ」

 議長の声に、ケスラーは口を閉ざした。やがて懐から鉄の鍵束を取り出し、重い足取りで席を立った。

      
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     夜明けの少し前、私は物置の前から箪笥を押しのけて地下へ降りた。聴聞の前に帳簿を一緒に取りに行くと、梶谷さんと約束していたからだ。 私は貯蔵庫の木の扉を開けた。石段には誰もいなかった。昨夜、私が渡した毛布が段の上に丁寧に畳んで置かれている。その横に細いフレームの眼鏡が落ちていた。 拾い上げると、片方のレンズにひびが入っていた。梶谷さんは昨夜、レンズを拭く時でさえ毛布の端を使っていた人だ。その人が眼鏡を置いたまま、自分からどこかへ行くはずがない。  石段の上の通路を照らすと、湿った土に靴の跡がいくつも重なっていた。本館の書庫へ向かう跡だけが、引きずったように深く乱れている。誰かが書庫の側から降りてきて、梶谷さんを無理やり連れて上がったのだ。 私は膝から力が抜けそうになり、石の壁に手をついた。昨夜、この人は自分の部屋は危ないと言っていた。それでも私の部屋の入口を心配して、ここに残っていたのだ。 樽の陰を探ると、帳簿は昨夜のまま残っていた。連れていった者たちは、帳簿の在りかまでは知らなかったのだろう。私は帳簿を上着の下に抱え、眼鏡を手帳に挟んで部屋へ戻った。                 * 午前九時の聴聞の間、書記席は空席になっていた。 議長が杖で床を打つより先に、エドモンドが立ち上がった。昨日まで顔に出ていた苛立ちは消え、落ち着いた笑みを浮かべている。「議長にご報告がございます。書記の梶谷は今朝早く、一身上の都合で職を辞し、館を去りました。後任は追って決めていただきたい」 半円がざわめいた。窓側の席のケスラーだけが、表情一つ変えずに座っている。 梶谷さんがいなければ、帳簿を自分の名前で差し出す人はいなくなる。そうなれば、今朝の採決を止めるものは何もない。エドモンドの狙いは、それだった。 眼鏡を見せれば、私が夜の間、別棟を抜け出していたことを明かすことになる。外出の禁を破った者として、私の審査はさらに不利になるだろう。けれど、ここで黙れば、梶谷さんがどこへ連れていかれたのか、誰も確かめようとしない。 私は傍聴席から立ち上がった。係員が私の肩に手を伸ばした。私は構わずに手帳を開き、ひびの入った眼鏡を掲げた。「書記の眼鏡です。今朝、別棟の地下の通路で拾いました」 聴聞の間が静まり返った。「外出を禁じられた身で私は別棟を出ていました。その罰は

  • 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い   拾われた者同士 2

    「梶谷さん。一つ、聞いてもいいですか」「どうぞ」「兄さんの元に届いた知らせです。日本で結衣ちゃんを撮った男は、写真を評議会の連絡用アドレスに送っていた。その名義は、あなたでした」 梶谷さんは、パンをちぎる手を止めなかった。「知っています。私のアドレスは、私が書記室を離れている間も、書記室の端末から使えるように設定されています。誰でもとは言いませんが、書記室の鍵を持つ者なら……」 書記室の鍵。「三本の鍵の紋章の家というのは……」 私が言いかけると、梶谷さんは静かに頷いた。「ケスラー家です。三百年、この館の記録と金庫の鍵を預かってきた家です。書記室の扉も、記録装置の保管庫も、あの家の当主が鍵を持っています」 だから、記録を消すことができ、梶谷さんの名前を使うことができたのだ。「当主はオスヴァルト・ケスラー。聴聞の初日に窓側の席に座っていた男です」 私は手帳を開き、破った頁の裏にその名前を書き足した。梶谷さんはそれを横目で見ながら、パンの最後のひとかけらを口に入れた。「あなたは、どうしてそこまで分かっていて、今まで黙っていたのですか」 しばらく返事はなかった。通路の奥から、水の滴る音だけが聞こえていた。「私は十三家の出ではありません」 梶谷さんの声は、いつもの事務的な響きより、少しだけ低かった。「両親を早くに亡くして、評議会が持っている育英の制度に拾われました。学費も、住む場所も、仕事も、全部この館から与えられたものです。記録の上では、評議会に育てられた人間です」 拾われた…… その言葉が胸の奥で鳴った。「拾われた者が拾ってくれた家の重鎮を告発する。それがどういうことか、あなたなら分かるでしょう」 分かる、と思った。痛いほど分かる。私も、一条の家に拾われた。拾われた身で、拾ってくれた家の重鎮だった重蔵に刃を向けた。あのとき、私は何度も自分に問いかけた。恩知らずと呼ばれても、それでも正しいことをするのか、と。「車の中で、私はあなたに血も記録もないと言いました」 梶谷さんは眼鏡を外し、毛布の端でレンズを拭いた。「本当は自分に向けて言っていたのかもしれません。あなたは拾われた場所で結果を積み上げて、それを自分の名前にしてきた。私には、それができるかどうか分からなかった」「できていますよ」 私は言った。「明日の朝、あの帳簿には

  • 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い   拾われた者同士 1

     紙の束の最後の頁を閉じても、三本の鍵の紋章は瞼の裏から消えなかった。 卓上灯の芯が、ちりちりと小さな音を立てている。夜はとうに更けていた。明日の朝の聴聞で梶谷さんはこの帳簿を自分の名前で評議会に差し出す。そうなれば、エドモンドの不正は十二家の前に晒される。 けれど、それだけでは終わらない。今朝、議長が記録装置の報告をしたとき、ただ一人驚かなかった窓側の痩せた男。あの男がエドモンドと同じ帳簿の上にいるのなら、記録を消したのもあの男の側だ。そのことを、兄さんに伝えなければならない。 私は端末を手に取り、兄さんの番号を呼び出したところで、指を止めた。 この館の端末は、誰がどこへ繋いだか、すべて記録に残る。それが梶谷さんの言葉だった。そして、その記録を消せる者が、こちらの話を聞ける者でもある。今ここで兄さんに電話をかければ、私が何を知ったのかを三本の鍵の男に教えることになる。 端末を伏せて、手帳の頁を一枚破った。書いておけば、明日の朝、聴聞の間で兄さんの手に渡せる。今の私にできることは、それしかない。 書き終えて顔を上げたとき、もう一つ、気になることが浮かんだ。 昨夜、兄さんの部屋は荒らされ、母さんの監査資料の写しが盗まれた。評議会の人間なら、鍵のかかった部屋にも入れるのだ。この別棟の部屋も同じだろう。眠っている間に、この紙の束が消えないとは限らない。 部屋の中に、隠せる場所はどこだろうか。辺りを見回すが、どこにも見当たらなかった。部屋の外ならどうか…… 視線が一点で止まった。評議会の誰も使っていない場所が一つある。 物置の奥の階段を降りると、土の匂いがした。端末の明かりを手で覆い、貯蔵庫の奥へ進む。積み上げられた空の樽の陰なら、紙の束を一晩隠しておけるはずだ。 樽の隙間に束を差し込んで立ち上がり、貯蔵庫の奥の小さな木の扉を振り返ったところで、私は息を止めた。 扉の向こうの石段に、人影が腰を下ろしていた。 細いフレームの眼鏡が、端末の明かりを跳ね返した。梶谷さんは石段に座ったまま、上着の襟を立てて、両手を膝の間で組んでいた。「……梶谷さん? 帰ったのでは、なかったのですか」「自分の部屋には戻れません。書記室の鍵を持つ者なら、私の部屋の鍵も持っています。今夜帳簿を差し出すと決めた以上、部屋で眠るのは、鍵を開けて待っていてくれと言うようなものです

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