ANMELDEN莉奈と廷治が去った後、広いマンションにはリビングのテレビから時折聞こえてくる笑い声と、出演者たちがゲームにはしゃぐ声だけが響いていた。それがかえって、ダイニングの静寂を際立たせていた。マスクを外した後、承也は口角に貼り付いていた偽の傷跡を剥がし、目の前に並べられた手付かずの料理を見つめ、黙って箸を手に取った。「ゴホッ……」辛味が鼻腔を突き抜け、彼はご飯を一口かき込んだ。「ゴホッ……」彼はスープを一口飲んだ。「ゴホッ……」外はすでに暗くなっていた。大柄な男はダイニングテーブルの前に座り、辛さにむせながらも、黙々と食べ続けた。彼はテーブルの上の3品の料理を、ゆっくりと平らげていった。食事が終わると、承也はペットボトルの水を1本開け、一気に飲み干した。そしてスマホを取り出すと、十数分前にマンションの周囲に配置したボディガードからメッセージが届いていた。【椎名社長、奥様とご友人はすでにお帰りになられました】承也の黒い瞳は暗く沈んだ。彼は椅子の背もたれに寄りかかり、ポケットからタバコの箱とライターを取り出して1本に火をつけた。無意識のうちに、彼の視線は自分が履いている水色のスリッパへと落ちた。部屋の中で照明が点いているのはダイニングだけだった。男のシルエットには、そこはかとない寂寥感が漂っていた。……夜は静まり返っていた。地下室で、美月は部屋の隅に寄りかかり、目を閉じていた。目を覚ましてからずっと、腰のあたりに重だるいような違和感が続いていた。――あの突然地下室に押し入ってきた医者たちは、一体私に何をしたというの?それは間違いなく承也の指示だ。彼女は自分の前腕にある小さな注射痕を見つめた。腰の違和感の原因はまだ分からなかったが、この注射痕は十中八九、採血された痕だ。――まさか承也は私の血を抜き取って、そこから解毒剤の成分を分析して作り出そうとしているのだろうか?そう考えると、彼女は目に涙を浮かべながら笑い声を漏らした。「フッ……」――承也ったら。私との約束を守って声明を出すと言ったのは、結局私を騙すための嘘だったのね。でも、解毒剤を見つけ出すことなんて不可能よ。あの毒薬を作った人間はすでに死んでいる。この世に存在する唯一の解毒剤は私の手の中にあるのよ。私が渡さない限り、誰も手に
――挑戦してみるだと?俺を実験台にする気か?莉奈はエプロンを着け、下ごしらえを始めながら言った。「もういいですよ、壇将さんはソファに座っていてください。料理ができたら呼びますから」壇将はその場を離れず、松葉杖をついたまま傍らに立ち、キッチンを動き回る彼女の少し慌ただしい後ろ姿を見つめていた。左のポケットの中でスマホが振動したため、彼はようやく松葉杖をついてリビングへ行き、ソファに座った。スマホを取り出すと、悠斗から声明の草案の画像が送られてきていた。彼は内容には目を通さなかった。続いて悠斗からメッセージが届いた。【椎名社長、声明文の草案が完成いたしました】男は片手でスマホを握り、返信した。【残りは俺が戻ってから処理する】【承知いたしました】廷治はベランダへ電話を受けに行っていた。キッチンでは、莉奈が上の戸棚にあるチリソースを取ろうとしていた。前回使わなかったため、廷治が何気なくそこへ置いたのだ。廷治にとっては高くない場所だが、莉奈には手が届かなかった。彼女が椅子を持ってきて踏み台にしようとしたその時、突然彼女の耳の横から手が伸び、戸棚から未開封のチリソースを取り出した。莉奈が振り返ると、壇将がチリソースの瓶を持ち、蓋を開けてから彼女に手渡した。莉奈は笑って受け取って言った。「ありがとうございます、壇将さん。背が高いって便利ですね」そして、コンロの方へ向かった。男はその場に立ち尽くし、彼女が料理をする姿を静かに見つめていた。それは、ありふれた日常と家庭の温もりを感じさせる光景だった。彼はただ黙って見つめていた。莉奈は煮込み料理を一品作り、土鍋に蓋をした後、振り返ってようやく壇将がまだキッチンにいることに気がついた。莉奈は澄み切った瞳を輝かせて尋ねた。「どうしてリビングへ行かないんですか?壇将さん、テレビも見ないみたいですね。家の中がすごく静かです」壇将は彼女を静かに一瞥し、松葉杖をついてキッチンを出て行った。しばらくして、彼はテレビのリモコンを手に戻ってきて、それを莉奈に手渡した。莉奈は不思議そうに受け取って尋ねた。「私の好きな番組を見ろってことですか?」壇将は頷いた。――思えば、壇将さんは本当にテレビを見ないのだろう。おそらくリビングのテレビは一度もつけられたことがないに違いない。
悠斗は承也の後について更衣室に入り、その言葉を聞くと、冷たい目をわずかに揺らした。「はい」突然、彼のポケットの中でスマホが振動した。スマホを取り出すと、LINEのメッセージが1件届いていた。悠斗はメッセージを開かず、そのままスマホを承也に差し出した。承也はタオルで汗を拭く手を止め、目を細めてスマホを受け取り、メッセージを開いた。【壇将さん、今家にいますか?】承也の指先が彼女のアイコンに軽く触れ、その後親指で画面を数回タップした。【ああ。これからスーパーに少し買い出しに行くところだ】莉奈は即座に返信した。【家にいて、動かないでください。私と廷治がすぐに行きますから】承也はスマホを持ったまま、悠斗に淡々と言った。「少し出かけてくる」悠斗は聞くまでもなく彼がどこへ行くのか分かっていた。彼は頷いて答えた。「では、私は声明文の草案を作成してまいります」承也は冷ややかな表情のまま、何も言わずに服を着替えると更衣室を後にした。……莉奈は壇将の家のドアベルを鳴らした。しばらくして、全身黒ずくめに黒いキャップと黒いマスクを身につけた壇将が内側からドアを開けた。彼は松葉杖をついており、深褐色の瞳で莉奈をちらりと見た後、無造作に廷治を一瞥した。廷治は彼の冷たい態度には慣れていた。家に入ると自ら靴を脱いで尋ねた。「Jさん、やっと帰ってきましたね。脚が不自由なのに、この数日間どこへ行ってたんですか?」莉奈は紙袋から2足のスリッパを取り出した。1足は大きな男性用、もう1足は小さな女性用で、同じデザインの色違いだった。男性用は水色、女性用はピンク色だ。「家にスリッパがないって知っていたので、さっきスーパーで買い出しした時に2足買ってきたんです」彼女が水色のスリッパを廷治に渡そうとした瞬間、突然壇将が手を伸ばしてそれを奪い取った。そして、自分が履いていたグレーのスリッパの片方を脱ぎ捨て、廷治の足元へ無造作に蹴ってよこした。そして、自分は水色のスリッパに足を入れた。廷治はそんな細かいことは気にせず、グレーのスリッパを履きながら尋ねた。「で、一体どこに行ってたんですか、Jさん?」壇将は玄関で莉奈がスリッパに履き替えるのを待ってから、ようやくスマホを取り出して文字を打った。【少し私用だ】彼がそれ以上語らなかったた
省之介と寧々の婚約の裏に、承也の差し金があったのだろうか。直哉は省之介の車が去っていった方向を見つめ、意味深に呟いた。「また一人、傷ついた人間が増えたな」莉奈と別れた後、車を走らせていた省之介は、やがて川に架かる大きな橋の上で停車した。数日前に降った雨のせいで、川の水位はかなり上がっていた。彼はスラックスのポケットから、ダイヤモンドの指輪を取り出した。その指輪は、4年前、彼が莉奈のために用意したものだった。あの時渡せなかったその指輪は、これからも永遠に渡されることはない。彼は、陽光を反射して眩しく輝くダイヤモンドを見つめた。それはまるで、彼女の生き生きとした瞳のようだった。「奈奈……」省之介はうつむき、その指輪にそっとキスをした。莉奈の瞳にキスをするかのように。一方は父親、もう一方は莉奈。承也は彼に、過酷な選択を突きつけたのだ。涙が音もなくこぼれ落ち、彼はその指輪を車の窓から外へと放り投げた。しかし、指輪が橋の欄干を越えて宙を舞った瞬間、省之介の息は止まりそうになり、血の気が引いた。彼は猛烈な勢いで車のドアを開けて飛び出し、指輪が落ちた方向へと駆け寄った。欄干に両手をつき、省之介は橋の下を流れる急流を見下ろした。ダイヤモンドの指輪は水の中に消え、濁流に飲み込まれて、跡形もなく流し去られていた。……医療スタッフが美月の骨髄液の採取を終えた頃、すでに夜は完全に明けていた。承也は莉奈が目を覚ます時間を見計らって、松風レジデンスへ戻ろうとしていた。しかし突然、病院から緊急の電話が入った。小槌が高熱を出したというのだ。承也は病院へ急行し、時間を惜しんで消毒を済ませると、防護服に身を包んで集中治療室へと大股で入った。重い扉が彼の背後で閉ざされた。彼は小槌のために特別に用意された無菌室に入った。そこでは、医師や看護師に交互に抱かれ、顔を真っ赤に腫らして目を閉じながら泣き叫び続ける小槌の姿があった。彼は歩み寄った。「……小槌」泣き叫んでいた小槌は、承也の声を聞いた瞬間、涙に濡れた目を開けた。そして承也の腕に抱き取られると、その肩に顔をうずめた。泣き声が次第に小さくなっていった。防護服越しでも、承也には小槌の身体がひどく熱いことが伝わってきた。彼の肩で、小さな命がヒックヒックと嗚咽を漏らし
莉奈は首を横に振り、淡々と答えた。「一度も、そんなふうに思ったことはないわ」省之介のことを笑うはずなどなかった。かつて自分が拉致された時、彼は命を懸けて海上で後を追い、銃で撃たれてもなお自分を守ろうとしてくれた。彼がしてくれたことのすべてを、彼女は忘れていない。彼が押し殺してきた密かな想いも、当然感じ取っていた。しかし今日に至るまで、彼女が彼に対して恋愛感情を抱くことはついになかった。「あなたは私にとって、ずっと私を守ってくれる優しいお兄さんのような存在よ」省之介の胸に、さらに深い苦しみが広がった。彼は何度か咳き込み、少し窪んだ目元が彼の落胆をより色濃く表していた。彼は、莉奈が承也と結婚すると言い出すずっと前から彼女を見守ってきた日々を、そして彼女の結婚後に沈黙を守って離れていた3年間を思い出した。合わせれば、それが何年になるのかさえもう忘れてしまった。押し殺してきた感情など、それほど深いものではないと思っていた。婚約を承諾すれば彼女への想いも断ち切れるはずだと。しかし、いざ手放そうとした時、その感情が骨の髄まで染み込んでいたことに気づかされたのだ。彼は咳を堪え、青ざめた顔で赤く充血した目を向けながら尋ねた。「承也との離婚の件は、どうなったんだい?」莉奈は彼にこれ以上この件を心配させたくなかった。だから、率直に打ち明けた。「私とあの人は、一度も正式に婚姻届を出していなかったの。だから、彼に縛られる心配はもうないわ」一度も婚姻届を出していなかった……省之介は一瞬言葉の意味を呑み込めずにいたが、すぐに事の次第を理解した。彼の胸が激しく痛んだ。「……もし僕がもっと早くそれを突き止めていれば、君にあんなに辛い思いをさせずに済んだのに」莉奈は首を横に振り、自嘲気味に笑った。「あの人が仕組んだことを暴くのが、そんなに簡単なはずがないわ」そうでなければ、自分もあんなに遠回りをして、結局は「未婚」だったなんて結末には辿り着かなかったはずだ。省之介は、彼女がこの期間に受けた屈辱と、自分の無力さを思い、大きく息を吸い込んで感情を押し殺した。「……もういいわ、省之介さん。帰って休んで。明日は大事な……」「奈奈」省之介は莉奈の言葉を遮った。それは、以前の彼なら決してしなかった強引な振る舞いだった。莉
あの時、省之介が莉奈への好意を公言した際、承也は彼への攻撃に手心を加えていた。省之介の実家である神崎家と佐伯家が椎名財閥を追い詰めた時でさえ、承也は厳明には手を出さなかった。それなのに、なぜ今になって厳明を標的にしたのか。理由は明白――莉奈のためだ。莉奈はそれほど驚かなかった。承也が誰かを叩き潰そうと決めたなら、警察へ引き渡す程度の生ぬるい制裁で済ませるはずがない。直哉が続けた。「省之介さんの婚約式は明後日だ。今日、婚約者と一緒に病院へブライダルチェックに行ったらしいぞ」莉奈は短く答えた。「そう。前にニュースで婚約のことは見たわ」直哉はシートの背もたれに寄りかかった。「何も思うことはないのか?察するまでもないが、省之介さんは無理やり承諾させられたんだ。あいつが好きなのはお前なんだから」「無理やり」という言葉を聞いて、莉奈は思わず承也のことを連想した。承也もまた、彼女との結婚を「強いられた」身だった。その結果、彼は偽の結婚証明書で彼女を3年間も欺き続けた。莉奈が物思いに耽っている間に、車は彼女のマンションへと近づいていた。何か言おうとしたその時、前方に1台のマイバッハが停まっているのが見えた。廷治は車を止めざるを得なかった。莉奈はその車が省之介のものだとすぐに気づいた。直哉は、車から降りてくる省之介の姿を見て尋ねた。「あいつ、お前に会いに来たんだな。会うか?」その言葉が終わると同時に、莉奈のスマホが鳴った。着信表示は省之介。直哉は彼女のスマホの画面を覗き込んだ。「会いたくないなら会わなくていい。あいつが邪魔するなら、車ごと吹き飛ばしてやるからな」莉奈は、直哉が口先だけの男ではないと知っていた。彼は路上で承也の車に突っ込むような度胸の持ち主なのだ。向かい側の車のドアのそばで、省之介は応答のないスマホの画面を見つめながら、こちらの車に目を向けた。1か月も経たないうちに、省之介は以前よりもさらに痩せ細っていた。今日の気温は20度近くあるというのに、彼は薄い白シャツ1枚で立っており、風に吹かれてシャツが体に張り付くと、その痩身がさらに際立って見えた。コールは途切れ、莉奈は電話に出なかった。省之介は暗くなった画面を見つめた。連日の徹夜で赤く充血した彼の瞳から、光が消えていった。直哉は眉をひそ







