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第3話

작가: つき酔
子ども……

胸をえぐられるような痛みが、一瞬で莉奈の全身に広がった。

去年の春の終わりの夜、承也が酔って間違えて自分の部屋に入り込んだ。

情に流されたその時、耳元で「奈奈」と呼ばれたことを、彼女は今でも忘れられない。

あの夜、莉奈は承也の子を身ごもった。

妊娠してから、二人の関係はどこか微妙に変わった。相変わらず承也は家に帰らないことが多かったが、彼は栄養士を手配し、毎日の食事まできちんと管理させた。

莉奈は、それが幸せの始まりなのだと思っていた。

けれど去年の冬、すでに八か月になっていた胎児は、お腹の中で命を失った。彼女はやむなく、手術を受けることになった。

あまりに悲しませないようにと、医療スタッフは彼女に赤ちゃんを一目も見せてくれなかった。

きちんとお別れもできず、小さな手に触れることすらできなかった。

あの頃は誰も彼女の前で「子ども」という言葉を口にしなかった。それは、彼女の心の中の触れてはいけない場所になっていたのだ。

そして今、再びその話題が出た瞬間、莉奈はまるで氷の中に突き落とされたような気分になった。

階段からかすかな足音がして、使用人が下から上がってきた。「奥様」

莉奈は我に返り、赤くなった目元をさっと拭うと、トレーを持ち直して部屋へ入った。

室内の会話は、彼女の姿を見た瞬間にぴたりと止まった。

千鶴は莉奈を見るなり、胸が痛むように眉をひそめる。

――先に莉奈が二階に来ていると分かっていたら、子どもの話なんて出すべきじゃなかった。

千鶴はすぐに承也の方を見て、声をかけるよう目で促した。だが承也は氷の塊のようにその場に立ったまま、ちらりと莉奈を見ただけで、何も言わずに部屋を出て行った。

……

千鶴が眠りについたあと、莉奈はもう一度体温を測り、熱が下がっているのを確認してから部屋を出た。

今夜は、千鶴の指示で莉奈と承也は本宅に泊まることになり、執事に付き添われて、かつて二人のために用意された住まいへ戻るよう言われていた。

その家は椎名家の敷地内にある、独立した一棟の小さな建物で、夫婦二人だけが暮らすために建てられたものだ。

莉奈は、承也がどこへ行ったのか分からない。

さきほど千鶴の部屋を出たあと、姿が見えなくなっていた。

もともと彼は言うことを聞くタイプではないし、今では力も地位も手に入れている。そのため、椎名家の誰の言葉にも従う必要はない。

もしかしたら、もう帰ってしまったのかもしれない。

部屋の前まで来て、莉奈はポケットからスマホを取り出そうとしている執事を振り返り、困ったように言った。「白崎さん、もう休みに戻っていいよ」

「いけません、奥様。おばあ様から、写真を撮って証拠を残すよう言われていまして」

以前は白崎執事も彼女を「お嬢様」と呼んでいた。

承也と結婚してからも、彼自身は一度も彼女を妻として認めたことはない。それでも千鶴がそう言った以上、椎名家では皆が彼女を「奥様」と呼ぶようになった。

――どうやら、祖母はまったく安心していないようだ。

莉奈はもう何も言えず、力の抜けた表情のまま部屋の前に立ち、白崎執事に写真を二枚撮らせた。

スマホの画面を確認し、白崎執事は満足そうにうなずく。「これで報告できます。奥様、どうぞお早めにお休みください」

白崎執事の背中を見送りながら、莉奈はほっと息をついた。

幸い、承也はいない。今夜はひとりで、この新居で眠ることになりそうだ。

ドアを閉めると、莉奈はそのまま扉にもたれかかり、前かがみになって、震えるほど痛む右脚を押さえた。

……本当に、よく耐えた。

昨夜の男に、右脚を蹴られた。

覚えているだけで三回。あれほどの力で、あと二回も食らっていたら、きっと歩けなくなっていた。

警察があいつらを捕まえたら……

絶対に、ただじゃおかない。

「俺が行って、抱いてやろうか?」

暗い部屋に、ひんやりとした男の声が突然響いた。

莉奈は思わず息を呑む。慌てて声のした方を見る。

まだ電気も点けていない。声のするほうを見ると、ぼんやりした輪郭が次第にはっきりしていき、眼鏡のレンズが一瞬、光を反射した。

承也が、開け放した窓際にもたれ、煙草を吸っていた。

莉奈は複雑な気持ちで彼を見つめる。

――出ていなかったんだ。

それどころか、自分より先に、この部屋へ戻っていたらしい。

つまり、今夜は……同じ部屋で過ごすしかない。

以前の莉奈なら、期待で胸が高鳴り、顔も赤くなっていただろう。

けれど今は、書斎の引き出しにしまわれた離婚協議書と、すでに帰国した美月の顔が脳裏をよぎり、そんな気持ちは一瞬で消えた。

莉奈は電気をつける気にもなれず、右脚の痛みに耐えながらソファへ向かう。

――もういい。

ソファで一晩やり過ごせばいい。朝になれば、それでいい。

そう思った矢先、強い力で引き寄せられ、体のバランスを崩したまま、温かく広い胸に落ちた。

逃れようとした瞬間、腰に回された腕がぐっと締まる。

湿った熱を帯びたキスが、耳元に落ちる。

莉奈の身体が、反射的に震える。

去年の春以来、承也が彼女に触れたのは、これが初めてだ。

視界が揺れ、気づけばソファに押し倒されていた。

男の熱い息が、全身を包み込んだ。

長く絡みつくキスに、莉奈はまったく抵抗できない。

「おばあちゃんがさ、子どもを作れって」

頭から冷たい水を浴びせられたようだった。

莉奈は、書斎の引き出しにある離婚協議書と、千鶴の言葉を思い出し、男の唇を避けて、その人を惑わせる目をまっすぐ見返した。

喉に無数の針を刺されたみたいに、声が震える。「……子どもが欲しいの? それとも、おばあちゃんから条件を引き出したいだけ?」

承也は彼女の両手をつかみ、頭の上へ押さえつけると、片手で眼鏡を外した。

レンズに遮られていないその目は、獣のように冷たく鋭い。

――これが、承也の本当の顔。

「違いなんてある?あの時、無理にでも俺と結婚した時点で、覚悟してたはずだろ」

莉奈の顔色がさっと白くなる。

「……違うか?」

「奈奈」

限りなく甘い呼び方なのに、骨の奥まで痛みが走った。

愛のない呼び名。

嘲りだけが詰まったその声は、彼女にとっては生きたまま切り刻まれるようなものだ。

承也は、彼女の急所を突くやり方を知り尽くしている。

男は小さく鼻で笑い、体を低くして、それだけで、莉奈の力は簡単に抜け落ちた。

服を引き裂かれ、彼女の身体がびくりと縮こまる。

脳裏に、昨夜殴られた光景がよみがえる。

もし通りすがりの人が来なければ、服を引き裂かれていたかもしれない……

今の彼が、承也なのか。それとも、昨夜の暴力を振るった男たちなのか。もう、わからない。

「やめて……!」

狂った小動物のように、莉奈は承也の首元に噛みついた。

薄暗い中、承也は小さく息を吸う。

「……大きくなったな。噛みつくなんて」

大きな手が莉奈の顎をつかみ、承也はネクタイを引き抜いて、暴れる彼女の手を縛ろうとした。

そのとき、不意にスマホの着信音が部屋に鳴り響いた。

画面の幽かな青い光が、ソファの上の二人を照らす。

テーブルに置かれたスマホが振動で少し向きを変え、表示された名前が、はっきりと莉奈の目に入った。

――美月。

美月からの電話だった。

承也が一瞬気を取られた隙に、莉奈はその下から抜け出し、震える手で乱れた服を引き寄せる。昨夜殴られてできた、無数の青紫の痣を必死に隠した。

痛む右脚を引きずりながら、ソファの隅で小さく身を縮める。

その瞬間、ソファ脇のライトがぱっと点いた。

ネクタイはだらしなく首元に掛かり、シャツのボタンも二つ外れたまま。承也の喉仏が、ごくりと動く。

着信音は、まだ鳴り続けている。

莉奈の顔は真っ白で、その分、目の赤さが際立っている。彼女は嘲るように言った。「……椎名社長。幼なじみからの電話よ。出なくていいの?」

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