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第4話

つき酔
承也はソファにもたれかけていた体を起こし、顔を強張らせたまま、部屋の隅で身を縮めている莉奈を一瞥した。そしてスマホを取り上げ、画面を滑らせてその電話に出た。

電話の向こうで相手が何か言ったらしく、承也は口を開いた。

「まずは自分の体をちゃんと休ませることが一番だ。他のことは、悠斗に連絡させればいい」

声は穏やかで、驚くほど優しい。

莉奈の前で見せる態度とは、まるで別人だ。

そう言い終えると、承也は電話を切り、脇に放っていた眼鏡を手に取る。莉奈のほうを見ることもなく立ち上がり、スーツの上着をつかんだ。

「……美月のところへ行くの?」莉奈の目は真っ赤だった。

承也は振り返りもせず、言った。「君には関係ない」

痛む右脚を押さえながら莉奈は立ち上がり、きちんと身なりを整えた彼と、自分とのあまりにも残酷な差を見つめて、胸の奥が冷え切っていくのを感じた。

「承也!」

ふらつきながら駆け寄り、後ろから彼の腰にしがみつく。

振りほどかれないよう、全身の力を振り絞ったせいで、骨がきしむように痛んだ。

引き出しの中の離婚協議書。

美月の帰国。

そして、もう取り戻せない承也の心……

終わらせる時が来たのだ。

莉奈は苦しげに目を閉じたが、心のどこかで、必死になっている自分を嘲笑っていた。

「……あなたが私と結婚したとき、他に選択肢はなかった。だから知りたいの。本当は、どう思ってたの?」

承也は細く骨張った指で眼鏡を持ったまま視線を落とし、冷たい目で莉奈を見下ろした。「今度は何を企んでる?」

「企みだと思ってくれて構わない」 莉奈はゆっくりと腕を離した。

顔を上げて彼を見つめる。澄んだ瞳には、迷いも濁りもなかった。

一言ずつ、はっきりと口にした。「もしあの時、おばあちゃんが椎名グループの株を条件に出さなかったら……それでも、私と結婚した?」

本当は、聞くまでもない質問だ。

それでも諦めきれなかった。

これが、彼に本音を問える最後の機会だと思ったから。今夜、承也が何を答えようと、もう二度とこの話はしない。

承也は目を細め、莉奈を値踏みするように見つめたあと、ふっと笑った。

けれど、その笑みは目まで届いていない。

「それ、そんなに大事か?」

――ああ。

黒曜石のような瞳で彼女を捉え、一歩近づく。

「あの頃は、どうしても俺に嫁ぐって言い張って、何もかも捨てる覚悟だっただろ。今さらそんなことを言って、何がしたい?」

眼鏡に隠されていた瞳が、本来の鋭さをむき出しにする。押し寄せる威圧感と、骨身に染みる冷たさに、莉奈は思わず一歩退いた。

次の瞬間、承也の手が彼女の腰をつかみ、ぐっと引き寄せた。視線を落とすと、さっき彼にキスされてわずかに腫れた唇が目に入る。

彼はそのまま体を傾け、耳元で低く囁いた。「本当の答えが知りたい?耐えられるとは思えないけどな」

腰を支えていた力が、突然離れる。

莉奈の左脚はもう踏ん張れず、そのまま床に崩れ落ちた。

呆然としたまま、彼が去っていく方向を見つめる。体が、勝手に震え出していた。

黒いセダンが、椎名家の本宅の門前に停まっていた。

全身から冷気をまとった男が車に乗り込み、緩んだネクタイを乱暴に引き抜いて投げ捨てた。

長い脚を気だるげに広げた。

車内は暖房が効いているはずなのに、彼が乗り込んだ瞬間、空気は一気に凍りついた。

助手席の佐藤悠斗(さとう ゆうと)が、ルームミラー越しに一瞬だけ様子をうかがい、すぐに視線を戻してエンジンをかける。

「社長、さきほど桜井さんから電話がありました。弟さんがちょっとしたトラブルを起こしたそうです。人をけしかけて暴行を……」

「相手は?」

「首を突っ込んできた人間だそうです。命に別状はなく、軽い怪我だけです。ただ、警察が桜井家まで辿り着いていて……桜井さん、かなり不安がっていました」

悠斗の報告に、承也は淡々とうなずき、煙草に火をつける。

揺れる火が、わずかに張り出した眉骨を照らした。「一声かけておけ」

……

承也は昨夜のうちに、本宅を出て行っていた。

その話が千鶴の耳に入ったのは、翌朝のことだった。

朝食の席で、千鶴は莉奈を気遣って何か声をかけようとしたが、莉奈はにこりと笑い、千鶴の取り皿に玉子焼きを置いた。「おばあちゃん、ちゃんとご飯食べましょ。嫌な話はなし。せっかくの食事が台無しになっちゃう」

昨夜、承也は美月からの一本の電話で呼び出され、急に出て行った。莉奈は二人の新居では眠らず、以前使っていた自分の部屋に戻った。承也の部屋のすぐ隣だ。

昔は、用事がなくても莉奈はよく承也のもとへ行っていた。承也は迷惑そうにしていたが、あれだけの年月が経っても、部屋だけは一度も替えなかった。

千鶴と朝食を終えたあと、莉奈は帰る支度をした。

脚に怪我があって運転はできないため、執事に車の手配を頼む。

車を待つあいだ、バッグから腫れ止めの薬を取り出した。

朝、目を覚ましたときに、寝室の外のテーブルに置かれていたものだ。

その薬は、松風レジデンスで家政婦が渡してくれたものと同じだ。誰が置いたのかは、わからない。

庭で足を止め、莉奈は目の前の白木蓮を見上げた。

二階分ほどの高さがある大きな木だ。

東安市では、白木蓮が咲くのは四月。今は十二月で、枝はすっかり葉を落としている。

椎名家に来たばかりの頃も、ちょうど木蓮が咲く季節だったことを思い出す。

あのとき、莉奈は七歳で、承也は十二歳だった。

よく晴れた日で、承也は木蓮の下に立ち、使用人から莉奈の紹介を受けていた。彼はちらりと彼女を見ると、淡々と一言だけ言った。「俺に構うな。それだけだ」

「お義姉さん、ずいぶん余裕だね。裏では旦那がややこしいことを起こしているというのに、こんな何もない枯れ木を眺めてるなんて」

冷ややかな嘲りを含んだ声が、背後から飛んできた。

振り向かなくても分かる。

来たのは承也の従弟、椎名尚南(しいな なおみな)だ。

尚南は昔から承也と折り合いが悪い。莉奈は相手にする気もなく、足を踏み出そうとした。

「おっと――」

尚南は長い脚を踏み出し、手を伸ばして彼女の行く手を塞いだ。薄く笑いながら言った。「お兄さんが美月をどこに住まわせてるか、知りたくない?」

莉奈の足が、ぴたりと止まった。

立ち止まった背中を見て、男は口角を上げ、ゆっくりと彼女の前へ回り込む。

見下ろすようにして、眉を上げた。「なんだかんだ言っても、結婚してもう三年だろ?お兄さんもずいぶん冷たいよな……」

莉奈は両手をポケットに入れたまま、遮るように言った。「私と承也のことは、夫婦の問題。あなたには関係ないわ。そんな暇があるなら、椎名グループでどうやって立場を固めるかでも考えたら?」

その言葉は、尚南の神経を逆撫でした。

顔色を変え、彼は莉奈の腕を乱暴につかむ。「夫婦だって?一方的に思ってるだけだろ。お兄さんが、君を妻だと思ってるか?」

人前で平手打ちを食らったような屈辱で、莉奈の胸の奥が、きしりと痛んだ。

椎名家の人間は皆知っている。承也は一度も、自分を正式な妻として認めたことがない。

「妻かどうかは関係ない。私はあなたの義姉よ。義姉にそんなことして、騒がれたら困るのはあなたでしょ!」莉奈は力を込めて、彼の手を振り払った。

さすがに本家では、尚南も無茶はできない。

彼は枯れ枝の下に立ち、陰湿な視線を向けてきた。「そのうち全部知る日が来る。そのとき、どんな顔をするか見ものだな」

莉奈は取り合わず、車に乗り込むと、痛む左脚にそっと触れた。

「奥様、テレビ局へ向かいますか?」運転手が丁寧に尋ねる。今日は平日で、彼は莉奈が数日休みを取っていることを知らなかった。

「ええ」

未処理の取材原稿が一本残っている。気持ちが落ち着かない今、何かに集中したほうがよかった。

莉奈はテレビ局の報道部に所属するベテラン記者だ。

専門は社会調査で、悪質な企業や違法営業の現場を追ってきた。特に後者では、多くの若者を危険な環境から救ってきている。

報道部に着くなり、杉村編集長に呼び出された。

編集長はドアを閉め、まず莉奈を座らせると、言い出しかねる様子で彼女を見つめた。

莉奈の真っ直ぐで戸惑った視線を受け、彼はため息をついた。「莉奈、話しておきたいことがある。君が殴られたあの件についてだが、犯人は特定できた。ただ……」

「相当な後ろ盾があるんですね?」莉奈は少しも驚かなかった。記者に手を出す人間は、愚かか、よほど強い後ろ盾があるかのどちらかだ。

編集長は水を注いで、彼女の前に置く。

そして重い声で続けた。「暴力を唆したのは、椎名承也の元カノの弟だ。椎名さんが庇っていて、実行犯の男三人も全員守られた。警察にも椎名家の人間が入っていて……」

その先の言葉は、ほとんど彼女の耳に入らなかった。

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