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第5回:魅了スロット四番目、俺。

last update publish date: 2026-06-28 19:04:00

 エリザベートが三年の月日をかけて縫い上げたハンカチを、俺は汚らわしいゴミでも扱うかのように自室のクローゼットの奥底へと放り込んだ。

 もちろん、これは「ヴィンセント」としての対外的なポーズだ。クローゼットの奥にはデバッグスキルを応用して「外部からの不可視化」と「防虫・防カビ・永久保存」のパッチを二重三重に重ねた隠しスペースを作ってある。ここなら聖女ミリアの邪悪な目も届かない。

(ふぅ……危なかった。レティシアの前であんな顔をするなんて、デバッガー失格だ。零コンマ零五秒のディレイに救われたが、システム修正の激痛で危うく白目を剥いて卒倒するところだったぞ)

 俺は冷や汗を拭い、再びデスクに座り込んだ。

 エリザベートの温もりが残るハンカチを隠したことで、俺の良心はズタズタだが、今は感傷に浸っている暇はない。俺が今置かれている「状況」を、もっと正確にハックしなきゃならないんだ。

「デバッグアイ、詳細解析モード。俺自身の『状態異常』をログから引き出せ」

 網膜に走る無機質な文字列。

 俺は昨日から気になっていた『支配スロット』という単語にフォーカスを当てた。

【解説:魅了スロット(支配枠)】

【精神寄生体(ミリア)が対象を完全に制御するために必要なリソースの占有単位】

【総枠数:7】

【現在の占有状況:1.国王 2.騎士団長 3.魔導軍総帥 4.第一王子(ヴィンセント)】

【空き枠:3】

(やっぱりな。こいつの能力は無制限じゃない。最大で七人までしか、この国の中枢を握るような『重要ユニット』を同時支配できないんだ)

 これはデバッグ的な視点で見れば、非常に興味深い仕様だ。

 ミリアはこの国の権力を効率よく掌握するために、トップダウン方式で支配を進めている。国王を抑えれば政治が動き、騎士団長と魔導軍総帥を抑えれば軍事力が手に入る。そして、次期国王候補である俺を抑えることで、未来の支配も確定させる。

(だが、ここで最大の『バグ』が発生している。それが俺だ)

 画面をさらに深くスクロールさせる。

【対象:第一王子ヴィンセント(プレイヤー憑依体)】

【侵食率:ERROR(表面上は100パーセント、実効値0パーセント)】

【備考:スロットを占有しているが、中身は未支配。システムリソースの無駄食い状態】

 俺は思わず、声に出さずに笑った。

 これは熱い。熱すぎる展開だ。

 ミリアは「俺を完全に支配した」と思い込んでいる。だからこそ、貴重な七つのスロットのうちの一つを、自信満々に俺に割り当てているんだ。

 でも実際、そのスロットは機能していない。俺は支配されているフリをしながら、彼女のリソースを一枠分、まるごとドブに捨てさせている「高級な置物」なのだ。

(いわば、俺はミリアというサーバーに居座る、削除不能な巨大なジャンクファイル。こいつが俺を『お気に入り』にしていればいるほど、ミリアは新しい獲物を支配する枠を確保できないわけだ)

 もし俺がここで正気に戻った振りをしたり、彼女に敵対したりすれば、彼女は即座に俺のスロットをパージして、別の有力者を支配し直すだろう。例えば、まだ正気な隣国の王や、あるいは俺の弟たちを一人残らず埋めるために。

 それをさせないためにも、俺は「最高に都合の良い、魅了されたバカ王子」を完璧に演じ続けなければならない。

 その時。

 背筋をゾワリとさせるような不快な予感が走った。

 扉の向こうから、あの甘ったるい、けれど腐敗した死肉のような気配が近づいてくる。

「ヴィンセント様、入ってもよろしいかしら?」

 鍵をかけていたはずの扉が、音もなくスルスルと開いた。

 物理的な施錠など、彼女の前では無意味らしい。

 入ってきたのは、薄桃色のドレスに着替えたミリアだった。

 彼女は俺のデスクの横まで歩いてくると、遠慮なく俺の膝の上に座り、首に腕を回してきた。

「……ミリア。どうしたんだい、こんな時間に」

 俺の声が、瞬時にトロトロの甘い声に切り替わる。

 内心では「重い! 物理的に重いんじゃなくて、精神的な圧迫感がダンプカー並みなんだよ!」と叫んでいる。

 ミリアは俺の耳元に唇を寄せ、ふう、と熱い吐息を吹きかけた。

 デバッグアイが警告を出す。

【警告:精神侵食試行中。MPが微減】

「ふふ、なんだかヴィンセント様、さっきレティシア様とお話しされていたでしょう? その後、とっても悲しそうな……いえ、苦しそうな色が見えたから、心配になって」

(ゲッ、見てたのかよ、このストーカー寄生体!)

 ミリアの目は笑っていない。

 彼女は俺の「感情」という餌の味に敏感だ。

 俺がエリザベートのハンカチを見て心を痛めたことを、彼女は「支配の揺らぎ」として感知したのかもしれない。

「ああ……。レティシアが、あまリにしつこく、追放した女の肩を持つものだからね。少し厳しく言い聞かせていたところだよ。妹の教育も、王子の務めだから」

 俺はミリアの細い腰を引き寄せ、彼女の鼻先に自分の鼻を擦り合わせた。

 吐き気がする。だが、これが必要な「デバッグ維持活動」だ。

 ミリアは俺の瞳をじっと覗き込み、満足げに喉を鳴らした。

「そう、そうですよね。ヴィンセント様には、私だけがいればいい。あんな冷たくて可愛げのない令嬢のことなんて、もう忘れてしまいましたよね?」

「もちろんだとも。あんな女の名前、もう思い出そうとしても出てこないくらいだ。今の俺の頭の中は、ミリア、君のことでいっぱいだよ」

 嘘をつけ、俺。

 俺の頭の中は、今さっき見たエリザベートの刺繍の「V」の文字が美しすぎて、それをどうやってデジタルデータとして保存しようかということでいっぱいだぞ。

 ミリアは俺の胸に指先で円を描きながら、クスクスと笑った。

「うれしい。ヴィンセント様は、私の特別ですもの。……ねえ、ヴィンセント様。私、もっともっとヴィンセント様と『一つ』になりたいわ。貴方の心の奥にある、まだ私に触れさせてくれない『秘密の扉』を開けてもいいかしら?」

 その瞬間、俺の首筋の触手が、これまでにないほど深く食い込んできた。

【深刻な警告:深層心理への強制ダイブを検出】

【システム・ディレイ:0.05秒では防御不能。修正プログラムが上書きされます】

(しまっ……!? こいつ、俺の深層意識までハックしに来やがった!)

 ミリアの瞳が、真っ赤な眼球へと変異していくのが見えた。

 彼女は俺が「演技」をしているのではないか、あるいは「正気」が残っているのではないかと、本気で疑い始めたらしい。

 もしここで俺が現代人であることや、エリザベートを愛していることがバレれば、その瞬間にゲームオーバーだ。

 意識が急速に遠のいていく。

 真っ暗な精神世界の中で、俺の「本音」が詰まった宝箱に、ミリアのどす黒い触手が手をかけようとしていた。

(……やらせるかよ! 俺のオタクの妄想力を舐めるな!)

 俺は必死に、デバッグアイの残り少ないMPをすべて「偽装データ」の構築に注ぎ込んだ。

 彼女が見ようとしている俺の深層心理。

 そこを、俺は「エリザベートへの愛」ではなく、「ミリアへの狂信的なまでの性愛と、歪んだ支配欲」という偽の記憶で埋め尽くした。

 エロゲーや同人誌で培ったあらゆる「歪んだ愛情表現」のボキャブラリーを総動員して、グチャグチャでドロドロの、救いようのないクズ王子の内面をデコレーションしてやる!

「あ……ぁ……ミリア……愛してる、愛してるよ……君を壊して、俺だけのものに……」

 俺の口から、掠れた、本気で狂った男の声が漏れた。

 ミリアの触手が、俺の脳内でその「偽装データ」に触れた。

「……あら。ふふ、ふふふふ! すごい……すごいわ、ヴィンセント様! 貴方の心、こんなに真っ黒で、こんなに私への執着で溢れているのね! ああ、美味しい! なんて極上のデザートかしら!」

 ミリアが歓喜の声を上げ、俺を強く抱きしめた。

 彼女の脳内ダイブが終わり、俺の意識が現実に引き戻される。

 全身が、嫌な汗でびっしょりと濡れていた。

【危機回避成功:聖女ミリアの信頼度が上昇】

【スロット占有継続:侵食率(偽装)が120パーセントに上昇】

(ハァ、ハァ……。死ぬかと思った。精神をエロゲーの悪役並みに汚染させることで凌ぐなんて、どんな苦行だよ……)

 ミリアはうっとりと俺の頬を撫で、満足そうに俺の膝から降りた。

「安心したわ。貴方はやっぱり、私の最高の下僕ね。ご褒美に、しばらくは貴方の好きなようにさせてあげる。エリザベート様の資産の没収手続きも、貴方に任せるわ。好きなだけ、あの女を絶望させてあげて?」

「ああ……。喜んで。徹底的に、彼女からすべてを奪ってみせるよ」

 ミリアが上機嫌で部屋を出ていく。

 扉が閉まった瞬間、俺はデスクに突っ伏した。

「……もう、限界だ……。精神的ダメージがデカすぎる……」

 だが、俺は顔を上げた。

 ミリアは今、「資産の没収手続きを俺に任せる」と言った。

 これは、絶好のチャンスだ。

 公爵家から奪った金や物資を、公的に「処分」したことにして、その実、エリザベートが向かっている辺境へ「横流し」することができる。

 俺はデバッグアイで、財務局のデータベースにアクセスした。

「公爵家の没収資産リスト……。よし、この『高級食料品』と『冬用の防寒具一式』を、帳簿上は『廃棄処分』に書き換えろ。そして、送り先を北の国境付近の『不法投棄場』に設定。……エリザベート、あそこを通るはずだ。そこに『偶然』、大量の物資が捨ててあれば……」

 俺はペンを走らせ、不正な処理を次々と完了させていく。

 直接助けることはできない。

 優しい言葉をかけることもできない。

 けれど、俺はこうして「クズな手続き」を通じて、彼女に生きる術を送り続ける。

「四番目のスロット……。俺は、この席に座り続けてやるよ。お前が世界を食い尽くそうとするその口の中に、俺という特大の毒薬を放り込んでやるために」

 俺は、誰も見ていないところで、エリザベートのハンカチが入った隠し場所をそっと見つめた。

 明日には、彼女に最初の「贈り物」が届くはずだ。

 俺からの、世界で一番最低で、最高に必死な、デバッグ済みの愛が。

【スキル:デバッグアイの経験値を獲得】

【レベルアップまで:残り950】

おいおい、必要経験値が10倍近く上がっているんだが。

まぁやる事は変わらないしな。

「まだまだ、先は長いな。……さて、次はどの数値を弄ってやろうか」

 俺は冷たい夜の空気の中で、一人、不敵に笑った。

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     結局、一睡もできなかった。 豪華な天蓋付きのベッドに横たわってはみたものの、目を閉じればエリザベートの絶望に満ちた顔が浮かび、目を開ければデバッグ画面の膨大な数値が網膜を焼きに来る。 俺は一晩中、彼女の現在地を示す座標と、その周囲のエンカウント率、さらには天候データまでをも監視し続けた。(……ふふ、ふふふ。国境付近の天候、『晴れ』に固定完了。これで彼女が雨に濡れて風邪を引く心配はない。さらに、道中の野生の猪の攻撃力を『マイナス九十パーセント』に書き換えておいた。もはや今の猪は、突進してきてもちょっと強めのマッサージをしてくれるだけの毛玉だ) 目の下にクマを作り、虚空を見つめながら不敵に笑う王子。 端から見れば、婚約者を追い出して狂ったサイコパスにしか見えないだろう。 だが、俺の心は充実感に満ちていた。これがオタクの、そしてデバッガーの愛の形だ。 たとえ直接会えなくても、俺は世界の理を捻じ曲げて彼女を甘やかす。 そんな俺の「自由時間」を告げる鐘が鳴り、部屋の扉がノックされた。「ヴィンセント様、お早うございます。ミリアがお迎えに上がりましたよ」 その声を聞いた瞬間、俺の身体がバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。 心拍数が跳ね上がり、顔の筋肉が勝手に「恋に落ちた男の顔」へと成形されていく。(来た。化け物……いや、この世界の自称メインヒロイン、聖女様だ) 扉が開き、朝日を背負ってミリアが入ってきた。 昨晩の夜会とは打って変わって、清楚な白を基調とした神殿の法衣に身を包んでいる。 揺れる金髪、潤んだ瞳、そして慈愛に満ちた微笑み。 本来のゲームなら、プレイヤーが「守りたい、この笑顔」と呟くべき決定的な瞬間だ。「おはよう、ミリア。朝から君に会えるなんて、今日は素晴らしい一日になりそうだ」 俺の口が、デロデロに甘い言葉を吐き出す。 ミリアは頬を染め、恥ずかしそうに俯いた。 ……が、俺の「デバッグアイ」は、その可憐な仕草の裏側にある「真実」を無慈悲に暴き出す。

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    「――いい加減にしろ、この悪徳の象徴め! 貴様のような薄汚い女、もはや我が婚約者ではない! 今この瞬間をもって、婚約破棄を言い渡す!」 怒声がシャンデリアの輝く大広間に響き渡った。 あまりの怒鳴り声に、自分の喉がビリビリと震えるのを感じる。 ……待て。今の声、俺か? 俺の声なのか? 視界が急激に明瞭になる。 脳を直接かき回されるような酷い眩暈と、他人の人生が濁流のように流れ込んでくる不快感。 パチリ、と意識のピントが合った。 目の前には、一人の女性が立っていた。 夜の帳をそのまま紡いだような銀色の髪。凍てつく冬の湖を思わせる、鋭くも美しい青い瞳。凛とした鼻筋と、震えるのを必死に堪えている薄桃色の唇。 純白のドレスに身を包んだ彼女は、床に膝をつき、周囲の貴族たちの嘲笑を一身に浴びていた。(……え、めちゃくちゃ綺麗。嘘、何この美少女。銀髪、吊り目、最高にドタイプなんですけど) 語彙力が消滅した俺の脳内は、目の前の美女への賛辞で埋め尽くされた。 だが、現実は残酷だった。 俺の意識とは裏腹に、俺の右腕は彼女の顔を指差し、口は勝手に次の暴言を紡ぎ出そうとしている。 いや、止まれ。止まってくれ俺の口。 こんな美少女を罵倒していい理由なんて、この世のどこにも存在しないはずだ。「聞こえなかったのか、エリザベート! 貴様の罪状は明らかだ。聖女ミリアへの数々の嫌がらせ、果ては暗殺計画まで……。言い逃れはさせんぞ!」 違う。俺が言いたいのはそんなことじゃない。 「さっきはごめん、ちょっと大きな声出しちゃったけど、とりあえず一緒にお茶でも飲んで君の魅力を三時間くらい語らせてくれないかな?」と言いたいんだ。 なのに、喉の奥からせり上がってくるのは、粘り気のある悪意に満ちた言葉ばかりだ。 その時、視界の端にパチパチとノイズが走った。 半透明のウィンドウが宙に浮き上がる。「……何だ、これ?」 周囲の人間には見えていないようだ。 そこには、俺がかつてやり込んだ乙女ゲームのデバッグモードに酷似した画面が表示されていた。【ログ:イベント「断罪の夜」進行中】【対象:エリザベート・フォン・アルトワ】【状態:絶望(深度:大)、婚約破棄確定】【プレイヤー状態:第一王子ヴィンセント(憑依:覚醒)】【スキル:デバッグアイ Lv.1 起動】 ヴィンセン

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