LOGIN『理央が来た』
『理央、夕食』
『理央、泊まり』
綾香は何度もその文字を見返した。
間違いなく母の字だ。
けれど。
(待って)
これだけで理央を疑うのは早い。
母自身も、最後まで誰かを名指ししてはいなかった。
「この星印……お母様が何のためにつけてたのか、聞いてませんか?」
「いいえ」
女性は首を振った。
「その書類自体、私は今初めて見たから」
「そうですよね……」
綾香はもう一度、記録を最初から確認する。
星印がついている日。
ついていない日。
体調が悪化した時間。
食事や飲み物。
薬。
そして、その日にあったこと。
理央の名前がある日と、ない日がある。
逆に、理央が来ていても星印のない日も
『理央が来た』『理央、夕食』『理央、泊まり』 綾香は何度もその文字を見返した。 間違いなく母の字だ。 けれど。(待って) これだけで理央を疑うのは早い。 母自身も、最後まで誰かを名指ししてはいなかった。「この星印……お母様が何のためにつけてたのか、聞いてませんか?」「いいえ」 女性は首を振った。「その書類自体、私は今初めて見たから」「そうですよね……」 綾香はもう一度、記録を最初から確認する。 星印がついている日。 ついていない日。 体調が悪化した時間。 食事や飲み物。 薬。 そして、その日にあったこと。 理央の名前がある日と、ない日がある。 逆に、理央が来ていても星印のない日もあった。「……違う」「何か分かった?」「理央が来た日につけてる印じゃないみたいです」 女性も書類を見る。「本当ね」「だったら、この印は何……?」 一枚ずつ並べていく。 星印がある日の記録には、必ず体調の変化が書かれていた。『強い眠気』『吐き気』『めまい』『動悸』 症状は一定ではない。 けれど、普段より明らかに体調を崩した日に、星印がつけられているように見える。「体調が悪かった日……?」 綾香は呟いた。 だとすれば、理央の名前が何度も重なっていることには意味があるのだろうか。 偶然。 そう考えることもできる。 当時の理央は御影家へ頻繁に出入りしていた。 母と顔を合わせる機会だ
ホテルを出てからも、女性の言葉が頭から離れなかった。『持ち帰ったあと、御影の家には置かない方がいいと思う』 母も、家に置けないと思ったから彼女に預けた。 なら、自分も同じようにした方がいい。(でも、どこに……) 銀行の貸金庫に入れることも考えた。 けれど、母の貸金庫はまだ相続手続きの途中だ。 すぐには使えない。 新しく自分で契約するにしても、今日明日で用意できるとは限らない。 綾香は駅へ向かいながら考え続けた。 そして、ふと一人の顔が浮かぶ。「……遥臣」 母の手紙を預かっていた九条先生の息子。 御影家の外にいる。 それに、少なくとも今の綾香が信頼できると思える相手だった。 けれど。(誰にも言わないでって言われたのよね) 女性との約束を破ることになる。 綾香はスマートフォンを取り出しかけて、やめた。 明日、書類を受け取ってから考えよう。◇◆◇ 屋敷へ戻ると、玄関に理央の靴があった。(もう帰ってる……) できれば今日は顔を合わせたくなかった。 綾香はそのまま自室へ向かおうとした。「綾香」 やはり、呼び止められた。 廊下の奥から理央が歩いてくる。「おかえり」「ただいま」「出かけてたんだ」「ええ」 綾香はそれだけ答え、歩き出そうとする。「どこ行ってたの?」 まただ。 綾香は足を止めた。「理央」「何?」「この前、話したでしょう」「……聞いただけだよ」「答えたくないって言ったの」「でも、最近ずっとそうじゃないか」
「自分の部屋に置いていたものが、少しずつ動いている気がするって」 綾香は息を呑んだ。 自分も同じことを感じている。 屋根裏部屋に残された母の遺品。 なくなった木箱。 そして、夜中に屋根裏部屋へ入っていた理央。「お母様は……誰かが部屋に入ってると思ってたんですか?」「そうみたい。でも、最初は自分の勘違いかもしれないって言ってたわ」「誰かを疑ってたんですか?」「その頃は、名前までは聞かなかった」 女性は首を振った。「私も、あまり深刻に考えてなかったの。家政婦さんが掃除の時に動かしたんじゃないかとか、そんな話をして」「……そうですよね」 それだけなら、綾香だってそう考える。「でも、そのうち相談の内容が変わってきた」「どういうふうに?」「体調のことを話すようになったの」 綾香の表情が変わる。「体調……」「眠気がひどいとか、急に気分が悪くなるとか。日によって違ったみたいだけど」 九条先生から聞いた話が頭をよぎる。 母は薬について調べていた。「病院には?」「行ってたわ。でも、原因は分からなかったみたい」 女性はカップに手を伸ばした。「それで、ある時から食べたものや飲んだものを記録するようになったの」「どうして?」「何か共通するものがないか調べるためだって」「記録……」「ええ。体調が悪くなった日だけじゃなくて、何を食べたか、何を飲んだか、薬を飲んだ時間まで」 綾香は眉を寄せた。「その記録は?」「私も見たことはないわ」「じゃあ……」「たぶん、木箱の中じゃないかしら」 綾香の胸が大きく鳴った
翌日。 綾香は約束の時間より少し早く、ホテルのラウンジへ着いた。 理央には会わなかった。 橘には「少し出てくる」とだけ伝えたが、やはり行き先は聞かれなかった。(大丈夫……誰にも知られてない) そう思いながらも、落ち着かない。 案内された席に座り、周囲を見回す。 人は多い。 宿泊客らしい家族連れや、仕事の話をしている人たち。 ここなら、何かあっても人目がある。 母の友人がこの場所を選んだ理由が、少し分かった気がした。「……綾香ちゃん?」 声に振り返る。 昨日、写真で見た女性が立っていた。 写真より当然年齢は重ねている。 けれど、面影は残っていた。「はい」「やっぱり。お母さんに似てるわね」 女性は綾香の向かいへ座った。「昨日は突然電話して、すみませんでした」「いいの。驚いたけど……いつか連絡が来るかもしれないとは思ってたから」「私から?」「ええ」 綾香は眉を寄せた。「どうしてですか?」 女性はすぐには答えず、注文を済ませた。 飲み物が運ばれ、店員が離れてから、ようやく口を開く。「まず、聞いてもいい?」「はい」「私の電話番号を、どうやって知ったの?」「お母様の貸金庫です」 女性の表情が変わった。「貸金庫?」「緊急連絡先に、あなたの名前と電話番号がありました」「……そう」 女性はしばらく黙り込んだ。「やっぱり、あの貸金庫は残ってたのね」「知ってるんですか?」「ええ」 綾香は身を乗り出した。「中に何があるかも?」「それは知らない」「……そうですか」「でも、あなたのお母さんが何かを保管していたことは知ってる」 綾香の胸が大きく鳴った。「木箱ですか?」 女性の手が止まった。 その反応だけで分かった。「知ってるんですね」「……綾香ちゃん。その箱のこと、どこで知ったの?」「お母様が残した手紙に書いてありました」「手紙?」「九条先生に預けていたんです」 女性が目を見開く。「九条先生に……」「それと、箱の鍵も見つけました」「鍵まで?」「はい。でも箱がないんです」 女性はしばらく何も言わなかった。 やがて、小さく息を吐く。「そういうことだったのね」「何がですか?」「昔、あなたのお母さんから預かったものがあるの」 綾香は息を呑んだ。「預かったもの?」「三年前。
『もし御影の家にいるなら、今は何も話さないで』 綾香はスマートフォンを握りしめた。「……どうしてですか?」『今は答えられないわ』 女性の声は低い。 さっきまでとは明らかに違っていた。『綾香ちゃん、今、一人?』 綾香は反射的に屋根裏部屋の扉を見る。「一人です」『そう』 女性が小さく息を吐く。『でも、そこで話すのはやめましょう』「待ってください。お母様のこと、何か知ってるんですよね?」『知ってるわ』 即答だった。 綾香の胸が大きく鳴る。「だったら――」『会って話しましょう』「会って?」『ええ。電話では話したくないの』 綾香は黙った。 相手が母の古い友人であることは確認できた。 自分のことも知っていた。 けれど、それだけで信用していいのだろうか。 母の手紙が頭をよぎる。『あなた自身で確かめてから、誰を信じるか決めてください』「……どこで会いますか?」 女性は少し考えてから答えた。『人の多いところがいいわね』 指定されたのは、都内のホテルのラウンジだった。 綾香も名前を知っている場所だ。『明日の二時でどう?』「大丈夫です」『分かった。私はあなたの顔が分かるから』「私も写真を見つけました」『写真?』「お母様のアルバムに、あなたと一緒に写ってる写真がありました」 電話の向こうが静かになる。『……そう』 その声が少しだけ柔らかくなった。『まだ残してくれてたのね』 綾香はアルバムの写真へ目を落とした。 若い母と、隣で笑う女性。
銀行を出た綾香は、近くのカフェに入った。 窓際の席に座り、スマートフォンを取り出す。 画面には、先ほど控えた女性の名前と電話番号。 何度見ても、名前に覚えはない。(お母様の友達……?) けれど、それなら一度くらい会ったことがあってもよさそうなものだ。 母が亡くなった時にも、この名前を聞いた記憶はない。 綾香は名前を検索してみた。 同姓同名の人物がいくつか表示される。 けれど、どれが母の知人なのか判断できるような情報はなかった。「やっぱり、これだけじゃ分からないわね……」 スマートフォンを置く。 電話をかけるのが一番早い。 けれど、相手が何者なのか分からないまま、自分の名前を名乗ることには抵抗があった。 母は『誰を信じるか自分で決めて』と残している。 だからこそ、慎重にならなければならない。(でも、どうやって調べればいいの?) 考えているうちに、一つだけ思いついた。 母の昔の知人なら、父が名前を知っているかもしれない。 ただし、直接聞けば理由を尋ねられるだろう。 それなら――。◇◆◇ 帰宅した綾香は、屋根裏部屋へ向かった。 母の遺品の中には、アルバムがいくつも残されている。 昔の友人と写った写真があるかもしれない。 棚からアルバムを取り出し、一冊ずつ確認していく。 家族旅行。 綾香が幼かった頃の写真。 父と母がまだ若い頃の写真。 知らない人たちと並んでいるものもある。「この人たちの誰か……?」 けれど、写真だけでは名前が分からない。 何冊目かのアルバムを開いた時だった。「あ……」 写真の下に、母の字で短い書き込みがあ







