로그인ホテルを出てからも、女性の言葉が頭から離れなかった。
『持ち帰ったあと、御影の家には置かない方がいいと思う』
母も、家に置けないと思ったから彼女に預けた。
なら、自分も同じようにした方がいい。
(でも、どこに……)
銀行の貸金庫に入れることも考えた。
けれど、母の貸金庫はまだ相続手続きの途中だ。
すぐには使えない。
新しく自分で契約するにしても、今日明日で用意できるとは限らない。
綾香は駅へ向かいながら考え続けた。
そして、ふと一人の顔が浮かぶ。
「……遥臣」
母の手紙を預かっていた九条先生の息子。
御影家の外にいる。
それに、少なくとも今の綾香が信頼できると思える相手だった。
けれど。
(誰にも言わないでって言われたのよね)
女性との約束を破ることになる。
「理央は、お嬢様が引き止めてくださると思っていたようでございます」 橘は深く頭を下げた。「息子が身勝手なことを申しまして、まことに申し訳ございません」「橘、頭を上げてくれ」 父が穏やかに声をかけた。「理央が退職を考え直したいというなら、話は聞くよ」「ありがとうございます。ただ、本人もまだ気持ちの整理がついていないようでして……」 橘は一度言葉を切った。「勝手なお願いとは存じますが、もう少しだけ時間をいただけませんでしょうか。私からもよく話してみます」「もちろんだよ。退職まではまだ時間があるからね」「ご厚情、感謝いたします」 橘は再び頭を下げた。 綾香は黙って二人のやり取りを見守っていた。 橘は長年、御影家に誠実に仕えてきた。息子のことで主人に頭を下げる姿を見るのは、綾香もつらかった。「橘」「はい、お嬢様」「理央のことは、私も心配しているわ。でも、私が結婚を考え直すことはないの」「……承知しております」 橘は静かに頷いた。「どうか、お嬢様はお気になさらないでくださいませ」◇◆◇ 翌日の午後、美月が御影家を訪ねてきた。 応接室に通すと、美月は挨拶もそこそこに口を開いた。「綾香、理央のことを聞いた?」「ええ。会社を辞める件でしょう?」「そうよ。あんなに取り乱しているなんて、私も驚いてしまって」 美月は悲しそうに目を伏せた。「理央、ずっと御影のおじ様の会社で頑張ってきたでしょう? それなのに……」「退職は理央が自分で決めたことよ」「でも、綾香が婚約を解消しなければ、こんなことにはならなかったんじゃないかしら」 綾香は美月を見た。「それは違うと思うわ」「……
『九条先生との交際を認める代わりに、会社を辞めるって言い出したらしいの』 美月からのメッセージを読み、綾香は眉を寄せた。「どうした?」 遥臣が顔を覗き込んだ。「理央が父の会社を辞めると言い出したみたいなの」「何か問題があったのか?」「分からないわ。ただ、私の交際と結びつけているようなの」 遥臣は少し考えてから言った。「それは別の話だろう」「ええ。私もそう思うわ」 綾香は美月に返信した。『理央が退職するかどうかは、本人と会社が決めることよ。私には関係ないわ』 すぐに既読がついた。『でも、御影のおじ様も困っていらっしゃると思うの』『お父様には私から確認するわ』 綾香はスマートフォンをしまった。「帰らなくていいのか?」「ええ。父から連絡があれば別だけれど、今は私たちの休日だもの」 遥臣は微笑んだ。「そうだな。じゃあ、もう少し歩こう」◇◆◇ 夕方、帰宅した綾香は父の書斎を訪ねた。「お父様、理央が退職すると言っているそうね」「ああ。その話か」 父は書類から顔を上げた。「以前から独立を考えていたからね。今日、正式に相談を受けたよ」「私との婚約がなくなったから?」「それも理由のひとつだと言っていたが、仕事は仕事だ。私も引き止めるつもりはないよ」 父は苦笑した。「ただ、後任への引き継ぎはきちんとしてもらわないとね」「そうね」「綾香が気にすることはない。理央も大人なんだから」 綾香は安心して頷いた。◇◆◇ 翌日、理央から電話がかかってきた。『綾香、父さんから聞いたよ。僕が会社を辞めること、知ってるんだって?』「ええ。お父様から伺ったわ」『そう。驚かなかった?』「前から独立を考えていたのでしょう?」『まあね。でも、こんなに早く決めるつもりはなかったんだ』「そうなのね」『綾香が九条先生を選んだから、僕も新しい人生を始めようと思って』「それなら、頑張ってね」 理央は黙った。『……綾香、本当に変わったね』「そうかしら」『昔なら、僕が会社を辞めるなんて言ったら、もっと心配してくれたと思う』「理央が自分で決めたことだもの。応援するわ」『そういうことじゃないんだけどな』 理央は乾いた笑いを漏らした。『まあ、いいや。僕もいつまでも綾香に甘えていられないしね』「ええ。お互い、自分の人生を大切にしまし
『じゃあ、僕から美月に話してもいいんだね。綾香が僕との結婚を断ったって』「ええ。構わないわ」 綾香が答えると、理央はしばらく黙っていた。『……本当に、それでいいの?』「ええ。曖昧にしていたのは、私もよくなかったと思っているわ」『僕は、まだ諦めていないんだけど』「気持ちはありがたいわ。でも、私の答えは変わらないの」 電話の向こうで、小さく息を吐く音がした。『分かったよ。綾香がそこまで言うなら』「ありがとう」『ただ、ひとつだけお願いがあるんだ』「何かしら?」『御影のおじさんには、僕から話してもいいかな』 綾香は少し考えた。「いいえ。お父様には私から話すわ。私が決めたことだもの」『……そうだね』 理央は力なく笑った。『じゃあ、また』「ええ」 通話が切れた。◇◆◇ その日の夕食後、綾香は父に婚約の話をした。「理央との婚約のお話だけれど、正式になくしていただきたいの」 父は少し驚いたものの、すぐに頷いた。「そうか。綾香が決めたのなら、それでいいよ」「ありがとう、お父様」「橘にも私から話しておこう。理央にはもう伝えたのかい?」「ええ。先ほど」「そうか。長い付き合いだから、少し寂しくはあるけれどね」 父は穏やかに微笑んだ。「九条先生と幸せになってくれれば、それが一番だよ」 綾香は嬉しくなって、父の手を握った。◇◆◇ 翌日の昼過ぎ、美月から電話がかかってきた。『綾香、理央から聞いたわ』「婚約のこと?」『ええ。正式に解消するんですってね』「そうよ」『……本当にいいの?』「もちろんよ。
「私、理央のことを好きになってしまったの」 美月は涙を浮かべたまま、綾香を見つめた。「……そうなの?」「ええ。ずっと言えなかったの。理央は綾香の婚約者だったから」 綾香はカップを置いた。 前の人生でも、美月と理央は親密な関係にあった。けれど、二人がいつからそうだったのかは知らない。「それなら、私に遠慮する必要はないわ」「え?」「理央との婚約は延期したままだし、私は遥臣とお付き合いしているもの」 美月は驚いたように目を見開いた。「……怒らないの?」「どうして怒るのかしら?」「だって、理央はずっと綾香のことが好きだったでしょう? 私が好きになるなんて、許されないと思っていたから」「人を好きになることは、誰にも止められないわ」 綾香は微笑んだ。「理央があなたの気持ちに応えてくれるといいわね」 美月は俯いた。「でも、理央はまだ綾香を諦めていないの」「それは理央が決めることよ」「……そうね」 美月はハンカチで目元を押さえた。「綾香は優しいのね。私だったら、きっとこんなふうには言えないわ」「そうかしら」「ええ。ありがとう」 美月はようやく笑顔を見せた。◇◆◇ その夜、綾香は遥臣と電話で話していた。『今日は何をしていた?』「美月が家に来たの」『昨日、美術館で会った友人か』「ええ。少し驚くことを聞いたわ」『何だ?』「理央のことが好きなんですって」『そうか』 遥臣の返事はあっさりしていた。「驚かないの?」『綾香の友人と、昔の婚約相手の話だろう。俺が口を出すことじゃない』「ふふ、そうね」『それより、来
「理央さんも、久世について問い合わせていらっしゃいました」 杉浦の言葉に、綾香は驚いた。「理央が、ですか?」「はい。もっとも、ずいぶん昔のことでございます。詳しい事情までは存じません」「そうでしたか。ありがとうございます」 綾香はそれ以上、質問を重ねなかった。 母の死については、まだ分からないことが多い。けれど、今ここで杉浦を問い詰めても、答えが見つかるとは限らない。 杉浦に礼を告げ、綾香はホテルをあとにした。◇◆◇ その週末、綾香は遥臣と美術館を訪れていた。 母が好きだった画家の展覧会は盛況で、館内には多くの人が集まっていた。「この絵、お母様がとても好きだったの」 綾香は一枚の風景画の前で足を止めた。「家にも、この画家の画集があったわ」「綺麗な絵だな」「ええ。母と一緒に見たことを思い出すわ」 遥臣は隣で静かに絵を眺めていた。 展示を見終えたあと、二人は美術館に併設されたカフェへ向かった。「綾香、次はどこへ行きたい?」「そうね。今度は遥臣の行きたいところにしましょう」「それなら、海を見に行かないか」「海?」「ああ。少し遠出して、ゆっくり過ごすのもいいだろう」「素敵ね。ぜひ行きたいわ」 綾香が微笑むと、遥臣も嬉しそうに笑った。 その時だった。「あら、綾香?」 聞き覚えのある声に振り返ると、美月が立っていた。「美月。偶然ね」「ええ。本当に」 美月は遥臣に目を向けた。「九条先生もご一緒だったんですね。こんにちは」「こんにちは」 遥臣は軽く会釈した。「お二人で展覧会を?」「ええ。母が好きだった画家なの」「そうだったのね。素敵だわ」 美月は微笑んだ。「実は私も、今日は友人と
『そういえば、綾香のお母さんが亡くなる前、僕のことで何か話していなかった?』 理央の問いに、綾香は一瞬返事をためらった。「……どうして?」『いや、さっきも言ったけど、少し気になって』「お母様があなたについて何か話していたとして、それがどうかしたの?」『別に深い意味はないよ。ただ、昔のことを思い出していたら、気になっただけなんだ』 理央の声はいつもどおり穏やかだった。「そう。残念だけれど、私には心当たりがないわ」『そっか。ありがとう』「ええ」『ごめんね、何度も変なことを聞いて』「気にしないで」 電話を切った綾香は、机の上に置いた母の手帳に目を向けた。 理央は父親である橘にも、綾香にも、母が亡くなる前のことを尋ねている。 しかも、母が自分について何か話していなかったか、と。 手帳に書かれていた一行と、あまりにもよく似ていた。 綾香は手帳を開き、問題の日付を確かめた。 母が亡くなる十日ほど前だった。 その前後には、庭師との打ち合わせや病院の予約など、ごく普通の予定が並んでいる。 綾香はページをめくった。 数日後の欄には、短い文字が残されていた。『杉浦さんに電話』 綾香は指を止めた。 杉浦は、母方の祖父に長く仕えていた秘書だ。 以前、祖父が久世雅彦という人物について調べていたことを教えてくれたのも杉浦だった。 母も、杉浦に何かを尋ねようとしていたのだろうか。◇◆◇ 翌日、綾香は杉浦に電話をかけた。『御影様、お久しぶりでございます』「お久しぶりです、杉浦さん。突然ごめんなさい」『いえ、どうなさいましたか』「母のことで、少し伺いたいことがあるの」『奥様のことでございますか』「ええ。亡くなる少し前に、母からお電話がありませんでし