第十四話「脱出」
ケイタが、手に持つホウズキの枝を前方に一八○度、照らして明るく灯った方向へ足を向ける。なんの目印もない、道もない空間をひたすらホウズキを頼りに歩いている。颯太はまだうわの空だった。地に足がつかない。以前、颯太の父が冷蔵庫の隅に隠していた缶チューハイを、ジュースと間違えて飲んでしまったときを思い出した。いまはその酔いに近い。
一番後ろをいく颯太の背後から、タッ、タッ、タッ、と足音がした。酔いは一瞬で、ぞわりとした冷気に変わり、颯太は鳥肌が立った。
「振り返えらないで」
先頭をいくケイタが硬い声で、鋭く注意してくる。ホウズキの実をひとつ、もぎ取りケイタが前方を向いて進みながら、後ろへ軽く投げると、足音はそれを追って、颯太から離れていくのがわかった。颯太の手を引く大地の力が強くなり、ケイタの速い歩調に遅れないようにしていた。
颯太が、遠くの空を見上げると、まるで雨上がりに雲が割れて、射しこむ陽ように、ぽっかりと照らされた明るい一帯が見えた。
「あの空、見て! あのへんが明るい!」
思わず颯太は大声を出していた。ケイタも空を見て、その方角へホウズキを向け、確認する。
「行ってみよう」
迷わずケイタが向かおうとしたとき、呼び止める声がした。
『おーい』
『おーい』
徐々に声は近づいてくる。ケイタがホウズキの実を後方に投げる。
「急ごう」
ケイタにも焦りがある様子だった。ずんずん進んで、明るい一帯が、颯太たちの目の前に広がったとき。三人とも、ほっとして息をついた。気が緩んだのかもしれない。
『そっちじゃないよお』
と声がして、颯太も大地も、そしてケイタも声のした後ろを、振り返ってしまった。
『やっと振り向いた。振り向いたから、喰っていい』
大きな黒い犬が数十頭取り囲みむ。荒い息をあげて、ひときわ大きな黒い犬が、もう一度言った。
『ここで喰われろ』
黒い犬たちが
『子供、ひさしぶり』
『子供、やわらかい』
『子供、うまい』
と口々に言い、頭を低くして飛びかかる姿勢をとる。颯太の視界の端で、慎重にホウズキの実に手をかけようとするケイタが見えた。黒い犬たちに気づかれないように、そっと実を取って、ケイタが思いっきり遠くに放り投げると、家犬が取って来いをするように、ホウズキの実の放物線を追いかけて一斉に群がっていった。不謹慎に颯太が笑いそうになっていると「走れ!」と大地が、強い言葉と同時に、ぐいっとついだ手を引く。ハッとして颯太はもつれる足で、大地を追う。水中を走っているようなもどかしさで、思うように足が運ばない。颯太はほぼ引きずられるような形で走る。
ケイタが明るい一帯の中心にホウズキを向けると、輝きが増していく。中心地に球体があった。ホウズキはそこを目指せと言うように、球体と共鳴して響きあっている。明るさを競っている。
「この球体の中だ」
ケイタが球体に飛びこむ。一歩、遅れて大地が颯太をひっぱって球体に飛んだ。
三人が球体の内部に入ると、取り巻いてくる黒い犬たちが、ばらばらに吠える。手出しできないらしい。球体が三人を格納する。颯太たちの体に、圧がかかり、球体が上昇する。
球体の内部は、眩い光と陽だまりの温かさのようなゼリー状の感触で満たされていた。
肌を包む暖かい安心感が、心地よくて颯太は瞼を閉じる。浮遊感が続き、颯太は眠りに落ちた。
痛いほどの風を感じて、颯太は目を覚ました。
「あれ……光は……?」
呟きながら周囲を見渡す。秩父神社の境内だった。あたりはまだ紗幕がかかっていて、薄暗い。大地とケイタがいるか、確認した。大地が瞬きしながら、颯太を見ている。
ケイタが手に持っていた、まだ発光しているホウズキの実をひとつずつ、颯太と大地に手渡してきた。
「もとの世界に戻ったら、これを飲むように言われているから」
ホウズキの赤く膨らんだ袋の部分を開けて、実を取り出し、三人で目を合わせながら、無言で飲み込んだ。喉がなる。三人が、ホウズキを飲み込むと、するする紗幕があがっていき、夏の空気が動き始めた。
秩父神社の境内は、ゆっくり景色の色を取り戻していく。
ホウズキを飲み込んだあと、颯太は額が熱くなりチリッと蚊に刺されたような微かな痛みがした。額を押さえて、二人を見る。大地は顔をしかめて、ケイタは僅かに眉をひそめた。額に手を当てた大地が、ケイタを指さす。
「え、なんか痣ができてる」
言われたケイタが颯太に目を向けた。
「痣が」
颯太は大地に目線を送る。
「大地も額に痣できてる」
三人で顔を近づけて、お互いの額に親指の爪くらいの痣があるこを確認した。
そのとき、トレイを手にしたままだった巫女が、首をかしげる。
「あれ? 私、何してたんだろ?」
空になったコップを回収して、不思議そうな表情で社務所のほうへ戻っていった。
境内にいた大人たちにも色が戻り、動き出す。
やがて蝉の声が颯太の耳に聞こえてくる。息苦しいほど蝉の声が満ちていた。
第二十二話「汚す者」その日の昼過ぎ、颯太の家にケイタ父子が訪れた。颯太の母には、ケイタ父子が来ることは伝えていたので、昼食は近所の蕎麦屋の出前にした。もちろん大地の分も。夕方に帰宅する父のためにも、生蕎麦も大量に届けてもらった。 ケイタの父と颯太の母との、大人の話し合い場に、子供がいても仕方ないので、出前を食べ終わると、秩父神社に三人、徒歩で向かう。 三人で、のんびり散策する。 先日、尊の説明が途中で中断したので、今日は三人で続きを聞くつもりだ。 天神地祇社の写真も撮ってなかったし、自由研究も終わっていない。 授与所に行くと、窓からひょっこり尊が顔を出してくる。「すみません、もう少し待っててもらえますか。いま手が離せなくて」 慌ただしく言って、頭を下げてくる。颯太は「忙しいときに、ごめんなさい。ゆっくりでいいです。境内を歩いていますから」 こちらも頭を下げてから、授与所を離れる。 散策していた三人を、押しのけるように、年齢層高めな女性の集団が、無神経に幅をとる。集団の中心にいた針金みたいな印象の女性が、甲高い興奮した声をあげた。「もう私たちを待ちきれなくて、三峯神社から狼さんがお迎えに来ているわよ、早くおいで、っておっしゃってるわ」と、周囲の女性たちに誇るようにさらに大声を出す。「ご眷属さんを遣わしてくれるなんて、導きね、やっぱり呼ばれているわねぇ」 針金が嬉しそうに、はしゃぐ。「どうしても来てほしい、って夢に出てこられたら、行かなきゃいけないでしょう。ご眷属さんを寄こすなんて、どうしても来てほしいのね」 狼を迎えによこすほど三峯は親切ではないし、呼ばれてもいないだろう。女性たちに競うように針金が恥ずかしげもなく語っている。三峯神社は特に厳しい気質なのは、一度でも行ってみれば肌でわかるような鋭さだ。 神様に呼ばれたから、仕方なく行ってあげるのよ、私! と言うストーリーが脳内で、できあがっているらしい。おまえの頭の中だけにし
第二十一話「異変から現実」 ※※※※※ 異界を体験したその日、帰宅した颯太は、すぐにベッドに入って泥のように眠った。翌朝、颯太は脱衣所の洗面台で顔を洗ったあと、鏡で自分の眼の色を確認した。「本当だ、灰色になってる……」 瞳孔は灰青色、虹彩は薄い灰色に、角膜は濃灰色。以前の黒眼から明らかに退色していた。「半分って眼の色か? ちょっと視界もぼやけてる?」 視力も半分になったのかもしれない。それ以外の体の変化はなさそうで、颯太はホッとする。 台所に向かうと、母が朝食の支度をしていた。昨夜、泥のように眠っていたから、気づかなかった。夜のうちに親が帰ってきたのだろう。「おはよう」颯太が母に声をかけると、振り返った母が、颯太の眼を見るなり、動きを止め、口を開けて、言葉が出てこない様子だ。母が何を言いたいのか察しがついて、先に颯太は言う。「なんだか眼の色が変わっちゃった」「颯太、それ、どうしたの!」 母が血相を変えて、颯太の両頬を手のひらで包んで、颯太の眼をまじまじと見つめる。「眼だけ? 他は? どこも痛くないの? 眼は? 痛い?」 矢継ぎ早に質問してくる。「痛くはないよ、ただ視界がぼやけてる」 すると母がスマホを取り出し、何かを調べ始め、次に通話し始める。颯太の眼の状態を説明している。どうやら病院にかけているらしい。 通話を切ると、母が意を決したように「颯太、これから都内の大きな病院に行くわよ。秩父で患ると変な噂する連中がいるだろうからね。行くわよ。お父さん! ちょっと! 車、出して!」母の行動は迅速だった。父は大慌てで着替えている。颯太も着替えてくるように言われた。母は手早く持ち物を揃えて、三十分後には家を出発していた。&n
第二十話「壊してしまえ」ケイタは清香のいる部屋に戻りたくなくて、興雲閣のロビーの自販機でコーラを買い、ソファに座って飲みながら、横殴りの雨が窓を打つのを眺めていた。やがて、外は暗くなり、山々に雷が響く。ロビーの大型テレビでは気象ニュースが流れ、台風が進路を変更して今晩、関東を通過する、と告げていた。強風が吹きつけて入口の自動ドアのガラス戸を揺らす。ザァザァと不規則に暴雨がガラス戸に当たる。消灯時間になって、仕方なくケイタは部屋に戻った。横になって眠っているだろうと思っていた清香が、布団に座り込み、宙を見ながら「うるさい! うるさい!」と叫んでいる。ミドリとナツノは清香を見えないものにして、寝たふりを決め込んでいる。清香が、見えざる何かに反応して返事をしてしまったんだな、とケイタは察した。そして、清香がそれらに、もう呑まれている。聞えてくるものが、何者かを問わないうちに返事をしてしまえば、それらに引きずり込まれる。清香の様子からは、その一線を越えてしまったことが、ケイタには理解できた。神のふりをした何者かと会話してしまったか、または神の片鱗に触れて本能的な畏怖を抱いたのか。四六時中、話しかけてくるものに分別なく答えたりしたら、周囲の何も感じない人間から見れば、狂人に映ってしまう。ましてや実際に口で声に出してしまうなど、やってはいけない。清香に何が起こり始めているのか、この場ではケイタだけが理解している。これは清香本人が望んで得た力だ。あんなに聞きたがっていた『神様からのメッセージ』なのだから、自業自得だろう。それとの付き合いかたも知らずに、迂闊に欲した清香が責任を負うべきだ。ケイタだけではない、颯太と大地の力を奪ってまで与えられたのだから。思っていたものでなかったとしても、清香が望んだのだ。御せる能力も器もなく力を手に入れて、いま清香は、どんな気分だろうか。暴風雨を受けて部屋の窓ガラスがいっそう騒がしい。興雲閣の裏手の杉林の枝が風にしなる音も大きくなっている。ケイタは清香のそばに
第十九話「どうでもいい」 まだ日が暮れないうちに境内を散策しようと思い、ケイタは遥拝殿まで足を延ばして、のんびり周回して拝殿まで戻ってくると、奥宮まで登っていたミドリとナツノに、声をかけられた。「あれ? ケイタくん。清香さんは?」 ミドリが尋ねる。ケイタは口元だけ上げて笑顔を作った。「部屋で横になっていると思います。しばらく一人にしてあげたほうがいいかな、って」「そうなの? じゃあ、私たちもあまり部屋にいないほうがいいかな。山登りして汗だくだから、お風呂を先にいただくわ。夕食までは……あと、一時間くらいね。午後六時からだから」 ミドリがスマホで時刻を確かめる。「ケイタくんも大浴場でゆっくりしたほうがいいんじゃない?」三人で一度、部屋に行き、着換えとお風呂セットを持って大浴場に行く。清香は布団にくるまって、不貞寝していた。ミドリの言葉に従ったのは、清香と部屋に二人で気詰まりになりたくなかったからだ。大浴場は温泉で、男女で入り口が分かれていて、暖簾に『三峯神の湯』と書いてあった。ケイタたちの他はまだ、宿泊者は大浴場には現れなかったから、男湯はケイタの貸切みたいなものだ。かけ湯をして、体を洗う。浴槽は広く、いつも家で入るお湯よりも少し熱めの湯の中に、徐々に浸かっていく。肌が熱めのお湯に馴染んできて、ケイタは首まで湯船に入り、両手足を大きく伸ばした。じんじんと末端から温まってゆく。ぐっと両手を頭上へ、両足は湯の中で力を一瞬、四肢にこめて、次に一気に緩める動作を何度も繰り返す。心地よく体が弛緩して、凝り固まった心も何だかほぐれていく感覚だった。いったん洗髪しに湯を出る。お風呂セットのシャンプーとトリートメントで頭を洗って、シャワーで勢いよく流す。さっぱりしたら、清香など、どうでもよくなった。頭もシャワーで、泡を綺麗に洗い流すとすっきりして脳まで緩んだ。
第十八話「本音と決意」「じゃあ、どうするの?」自分の声が冷え切っていくのを、ケイタは感じた。「どう、って……どうにかしてよ。ケイタは聞こえるんでしょう? どうにかする方法を聞いてよ!」「神様に与えてもらっても、ありがとう、って思わないんだね。ぼくの力はもうないよ。お母さんに与えるかわりに、ぼくはもう聞こえなくなった。左耳も聞こえない。大人なんだし、自分でどうにかすれば?」「何? その言い草。父親にそっくり」忌々しげに清香が吐き捨てる。「そうだね、お母さんに似なくて良かったよ。いらない力なら返してよ。ぼくの他にも力を奪われた子たちがいるんだから」「頼んでない」 清香の言葉が部屋の壁に当たって、反響する。 清香に何も言うことはない。 握られていた手首が白くなるほど力をこめていた清香の手を、ケイタは払った。「いいかげんにして。これからは一人でやっていけるでしょ。お母さんは力を与えられたんだから。どうにかしたいなら、自分で聞いてみてよ。ぼくはお母さんの、便利な道具じゃない」「誰がいままで育ててきてやったと思ってるの?」「いまはそんな話、してないよ。話をすり替えても、何も解決しない。じゃあね」 まだ何かを叫んでいる清香を遮って、ケイタは部屋の戸を閉めた。閉じた戸の向こうで清香の「死んでやる!」という声が聞こえて、苛々した。 なるべく参拝者が少ない参道を選んで、ケイタは歩いて行く。 スマホのメッセージアプリに、担任教師の名前で登録していた父のアカウントを表示する。 もしも父の名前で登録していたら、清香が消去していただろう。 息子のスマホを勝手に覗いて、勝手に消去することを、、平然とやってきた人だ。 いまも全力で清香から離れなければ、ケイタまで沈められてしまう。溺れる人を助けるつもりが、救助者も
第十七話「変調と不和」 ※※※※※ 颯太・大地と別れてケイタたちは、秩父神社をあとにすると市内観光をして旅館に一泊した。 翌日、ミドリの運転で三峯神社に向かった。 ケイタたちは昼頃、三峯神社に到着して、駐車場から階段を登り、お土産屋兼お食事処で昼食にした。店内に空席はなく、ケイタたちがいるテーブルにコップと水の入ったピッチャー置かれている。コップに、ミドリが四人数分、水を注いでメニューを開くと、連れのナツノに話しかける。「天ぷらそば美味しそう! 夏野菜盛り! これにするわ。ナツノさんは何にする?」「そうですね、私も同じのにしようかな。ケイタくんは?」「同じでいいです」 ケイタが答えると、三人の視線はぼんやりと宙を見つめて、何かを視て、聞いている様子の清香に集まった。 話に加わってこない清香に、ミドリがナツノと困った笑いで取り繕う。「清香さんは?」「お母さんも同じでいいよね?」 ケイタが清香に聞くと、緩慢な動きで頷く。そして何かに怯えているかのように、清香は、そっと周囲を見回した。ケイタは清香の背中に手を置いて、一定のリズムでトントンと軽くたたいて現実に意識を向けさせる。「すいませーん、天ぷらそばの夏野菜盛りを四つ、お願いします」 店内で忙しそうに料理を運んでいた年配の女性にミドリが注文する。はーい、と声をあげ、女性が厨房に、天そば夏盛り四つー!と、大声を張る。 ミドリとナツノが、反応しない清香抜きにして会話を始めている。 清香の背を叩く間隔をだんだん、ゆっくりにしていき、天ぷらそばが運ばれてくるころには、清香の顔つき