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婚約者は僕の部屋も功績も

婚約者は僕の部屋も功績も

By:  蘇和Completed
Language: Japanese
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半年を費やした海辺のホテル再生プロジェクトが、ようやく完成した。 その功績を評価され、みなとみらいにある家具付きの社有レジデンスを、二年間使えることになった。部屋をもらったわけではない。会社が僕個人に認めた、期間限定の入居権だ。 入居手続きを済ませた夜、最初の荷物を運びに行くと、発行済みの電子キーがなぜかエントランスで反応しなかった。 受付で確認していると、見覚えのある男がエレベーターから降りてきた。 婚約者・黒川玲奈の後輩、瀬川悠斗。首から僕の部屋番号が記された入館カードを下げ、撮影スタッフに笑顔を向けている。 「相馬さん、来ていたんですね」 驚いた声とは裏腹に、彼は新品のスリッパが入った紙袋を抱えていた。 開いたままの玄関の奥では、玲奈がカメラマンに指示を出している。 僕に割り当てられたはずの部屋は、『新しい働き方』を紹介する社内PR動画の撮影場所に変わっていた。 「朔には今の部屋があるでしょう。ここは悠斗の活動拠点にしたほうが、会社の宣伝にもなるの」 「会社が僕に認めた入居権は、どうするつもりだ?」 「利用者を悠斗に変更する申請を出すわ」と玲奈は平然と答えた。「婚約者なんだから、それくらい協力して」 笑っている玲奈の後ろで、僕の名前が貼られた箱が台車に積まれていく。 言い返す代わりに、無効になったカードキーと、運び出されていく私物をスマートフォンで撮影した。 その場で会社の内部通報窓口を開き、保存した画像を添付する。 送信ボタンを押すと、画面に受付番号が表示された。 もう、婚約者同士の話し合いで済ませるつもりはなかった。

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Chapter 1 鍵のない帰宅
受付から臨時の入館証を借り、二十二階へ上がった。廊下には照明機材と段ボールが並び、部屋の中から明るい笑い声が聞こえてくる。「もう少し窓際へ。瀬川さん、新居で仕事を始める感じでお願いします」カメラマンの声に合わせ、悠斗がノートパソコンを開いた。画面に映っているのは、僕が作成したホテル中庭の完成予想図だった。「そのデータ、どこから出した?」声をかけると、悠斗の指が止まる。「玲奈さんからいただきました。今日の撮影だけ使っていいって」玲奈は悪びれもせず、撮影スタッフを先に休憩へ出した。「広報用なんだから問題ないでしょう。悠斗には次の案件にも入ってもらう予定よ」「業務委託契約は?」「手続き中。細かいことばかり言っていたら、タイミングを逃すわ」窓際に置くはずだった模型も、現場写真をまとめたファイルも見当たらない。尋ねると、玲奈は玄関脇の納品書を指で押さえた。「あなたの荷物は地下のトランクルームへ移した。撮影の邪魔だったから」納品書には、搬出依頼者として玲奈の署名がある。僕の承諾欄は空白だった。「鍵まで無効にする必要があった?」「撮影中に出入りされたら困るもの。悠斗が落ち着くまで、このままでいいでしょう」「ここに住ませるつもりか」一瞬だけ沈黙が落ちた。その間に、悠斗が申し訳なさそうな顔を作る。「僕も一度は断ったんです。でも、今の僕には仕事場も部屋もなくて……」そう言いながら、彼のキャリーケースは寝室に置かれていた。洗面台には歯ブラシまで並んでいる。今日だけの撮影ではない。玲奈は最初から、僕に与えられた部屋も、僕の仕事も、まとめて彼へ差し出すつもりだったのだ。管理会社の担当者に、入館記録とカードキー停止の依頼票を見せてもらった。依頼者は黒川玲奈。『入居者本人了承済み』の欄には、勝手にチェックが入っている。本社の承認番号は空欄だった。必要な箇所だけ撮影し、地下のトランクルームへ向かった。扉を開けると、設計資料も模型も、梱包されないまま押し込まれている。模型の樹木が一本、根元から折れていた。折れた模型を見た瞬間、腹の底に冷たい怒りが沈んでいった。ここで怒鳴れば、玲奈はすぐに「感情的な喧嘩」へすり替える。だから僕は、壊された状態の模型を撮り、依頼票とともに追加の証拠として送信した。レジデンスを出たところで、見覚えのないア
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Chapter 2 消された名前
翌日、完成したホテルでは、開業披露会のリハーサルが行われていた。本番にはグループ各社の役員や取引先が集まり、会場の様子は社内向けに配信される。僕は中庭の設計責任者として、壇上で計画意図を説明するはずだった。少なくとも、前日までは。会場へ入ると、スクリーンに映し出された登壇者一覧から僕の名前が消えていた。代わりに表示されていたのは、『クリエイティブアドバイザー 瀬川悠斗』という肩書だった。「朔、ちょうどよかった」玲奈が台本を持って近づいてくる。「今日は裏で進行を見て。中庭の説明は悠斗に任せるから」「契約もないのに、会社を代表して話させるの?」「本番までには整える。あなたは人前に出るのが得意じゃないでしょう」勝手に決めたことを、まるで僕への気遣いのように言う。舞台では、悠斗が僕の原稿を手にマイクテストをしていた。「海から吹く風を光の動きに置き換え、夜の庭に第二の波を生み出しました」何度も現場へ通い、照明会社と練り上げた一文だ。語尾ひとつ変わっていない。リハーサルを見ていた担当者が拍手する。悠斗は照れたように笑い、僕のほうへ視線を流した。「相馬さんの資料が分かりやすかったので、すぐに理解できました」僕が作った資料だとは、ひと言も触れない。玲奈は満足そうにうなずいた。「悠斗には発信力があるわ。いいものを作るだけで終わらせないのが、これからの仕事よ」ステージ脇の操作卓には、発表用データを管理するタブレットが置かれている。履歴を開くと、資料は昨夜二十三時十二分に差し替えられていた。作成者欄の『相馬朔』が削除され、『瀬川悠斗』へ変更されている。元データは僕の社用アカウントで作成したものだ。バージョン履歴まで消すことはできない。画面を保存し、コンプライアンス室の専用フォルダへ送った。直後、担当の神崎さんから電話が入る。人のいないバックヤードへ移動し、声を落として電話に出た。「相馬さん、瀬川氏との業務委託契約は、現時点で申請すらされていません」「では、明日の登壇も認められていない?」「はい。レジデンスの利用者変更も、成果物の作成者変更も、承認された記録はありません。関係部署で証拠保全を始めています」普段どおり勤務し、本番にも出席してほしい。神崎さんはそう言い添えた。通話を終えると、玲奈がバックヤードの入口に立っていた。
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Chapter 3 二枚の同意書
午後七時ちょうどに個室へ入ると、玲奈と悠斗は並んで座っていた。向かい側の席はひとつ。婚約者同士で話すためではなく、最初から僕を説得するための配置だった。「忙しいんだから、手短に済ませましょう」玲奈が二枚の書類を差し出す。一枚目は、社有レジデンスの入居権放棄確認書。二枚目は、ホテル再生プロジェクトの成果物共同制作確認書。後者には、僕と悠斗が企画段階から共同で制作したと記されていた。日付は三か月前。悠斗が会社へ出入りし始めるより前だ。「事実と違う」「形式を整えるだけよ」玲奈はペンを僕の前へ置いた。「住む場所も実績も、あなたにはもう十分あるでしょう。悠斗には、再出発の足がかりが必要なの」「だから、僕の名前を消した?」「消したわけじゃない。社内記録には残る。表に出る役目を譲ってほしいだけ」胸ポケットのスマートフォンでは、録音が続いている。「カードキーを止めたのも、資料の作成者を変えたのも、僕が了承したことにして申請するつもり?」玲奈はため息をついた。「今ここで署名すれば、あなたも了承していたことになるでしょう」それが彼女の答えだった。悠斗が伏し目がちに口を挟む。「相馬さんが嫌なら、僕は明日は登壇しません。部屋からも出ます」「悠斗、あなたは何も悪くない」玲奈の声だけが、急にやさしくなる。「これは会社のためでもあるの。朔が少し譲れば、丸く収まるわ」「丸く収まるんじゃない。起きたことを、なかったことにするだけだ」ペンを取り、二枚の書類の端をそろえた。玲奈の表情が明るくなる。だが、署名欄には触れず、そのまま彼女の前へ戻した。「どちらにも署名しない」「朔!」「僕の承諾が必要なら、最初に聞くべきだった」悠斗が立ち上がりかけたが、玲奈が腕をつかんで止める。そのしぐさを見た瞬間、七年続いた関係は、驚くほど静かに終わった。個室を出て、録音データと書類の写真を神崎さんへ送信する。数分後、短い返信が届いた。【確認しました。明日の披露会には予定どおり出席してください】玲奈と暮らしていた賃貸マンションへ戻り、自分の荷物だけをスーツケースに詰めた。ダイニングテーブルには、来月提出するはずだった婚姻届が置かれていた。封筒に戻し、ふたり分の結婚指輪が入った箱と一緒に置いた。部屋を出る直前、玲奈からメッセージが届く。【明日は
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Chapter 4 主役が入れ替わる夜
翌日、午後六時。ホテルのボールルームには、グループ各社の役員と取引先が集まっていた。海を映した大型スクリーンの下には、開業を祝う花が並んでいる。本番五分前、玲奈が僕の胸元を見て眉をひそめた。「どうしてスタッフ用のパスなの? 登壇者用に替えて」「登壇者一覧から、僕の名前を外したのは玲奈だろう」「記念キーを渡すときだけ上がればいいの。笑顔で悠斗と握手して」僕の返事を待たず、彼女は舞台袖へ戻っていった。披露会が始まる。玲奈は統括責任者として挨拶に立ち、ホテル再生の成功を誇らしげに語った。そして、悠斗を壇上へ呼び込む。「今回、空間コンセプトの発信を担ったクリエイティブアドバイザー、瀬川悠斗さんです」拍手の中、悠斗が一礼した。スクリーンには、僕が撮った現場写真と、僕が描いたスケッチが次々と映し出された。その隅に表示されている名前は、瀬川悠斗。悠斗は僕の言葉をそのまま使って中庭を説明し、最後にこう締めくくった。「この場所は、玲奈さんが僕の感性を信じてくださったから生まれました」前列の役員たちが、不審そうに顔を見合わせる。玲奈は気づかず、満面の笑みで拍手していた。やがて司会者が僕の名を呼んだ。「続きまして、プロジェクトチームを代表し、相馬朔さんから瀬川さんへ記念キーを贈呈していただきます」照明が客席の僕を捉える。スタッフが銀色のキーを載せたトレーを差し出した。僕は受け取らず、その場で立ち上がった。玲奈の笑顔がかすかに引きつった。「朔、早く」マイクが拾わないほどの声で、彼女が促す。「そのキーを渡すことには同意していない」ざわめきが広がった。悠斗は傷ついたように目を伏せる。「相馬さん。僕がここに立ったことが許せないなら、あとで謝ります。今だけは――」「あとから事実をでっち上げるための書類にも、僕は署名しない」会場が静まり返った。玲奈が舞台を降り、僕の腕をつかもうとする。そのとき、スクリーンが暗転した。舞台袖から、コンプライアンス室の神崎さんと本社人事部長、法務担当者が姿を現す。会場後方の扉には、レジデンス管理会社の担当者も立っていた。「進行を中断してください」神崎さんの声が、会場全体に響く。「未承認の成果物改変および社有資産の不正使用について、緊急確認を行います」玲奈の指が、僕の腕に触れる直前で止まった。
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Chapter 5 送信記録は消せない
正面の時計は、午後七時を指していた。緊急確認で進行が止まっているあいだに、『披露会が終わってから』に予約したはずのメールが、予定時刻を迎えて送信されてしまったのだ。玲奈が青ざめた理由は、それで十分説明がついた。神崎さんが僕へ手を差し出す。「相馬さん。証拠保全のため、その端末には触れず、こちらでお預かりします」「分かりました。ただし、あのメールは僕が送ったものではありません」「承知しています」神崎さんは法務担当者に合図し、配信管理ログをスクリーンへ切り替えた。メールが予約登録されたのは、今日の十七時四十二分。操作に使われた端末の管理番号は、悠斗に貸与されたものと一致している。さらに、社外宛て一斉配信の承認には、玲奈の社員IDが使われていた。「違うわ。私は文面を確認しただけよ」玲奈が声を張る。「差出人を朔にしろなんて、一度も――」そこで、自分が何を認めたのか気づいたらしい。言葉が途切れた。悠斗はすぐに口を挟んだ。「玲奈さんの指示です。婚約者なんだから、あとで相馬さんが了承したことにすれば済むって」「また私のせいにするの?」「続きは別室で伺います」法務担当者のひと言で、二人とも黙り込んだ。前列から、ホテル運営会社の取締役が立ち上がる。「相馬さんとは、計画段階から何度も現場で打ち合わせをしています。瀬川さんから設計説明を受けたことは一度もありません」その言葉に、張り詰めていた胸の奥が少しだけほどけた。僕が事前に提出していた元データと打ち合わせ記録も、その場で照合された。本社名義の訂正メールが、すべての宛先へすぐに送信された。送ってしまった嘘は消せない。だが、誰が、いつ、何をしたのかという記録まで書き換えることはできない。レジデンス管理会社の担当者も口を開いた。「瀬川様への入居承認は下りておりません。無断で搬入された荷物は、本人立ち会いのもとで搬出していただきます」悠斗の顔が引きつった。法務担当者が続ける。「なりすまし配信と署名の偽造については、所轄警察への相談を進めます」二人は警備員に付き添われ、社員用通路から会場の外へ連れ出された。扉の前で、玲奈が振り返る。「これで勝ったと思わないで。私を告発したのがあなたなら、絶対に許さない」声は震えていたが、目だけは僕を射抜いていた。「誰があなたを守っているのか
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Chapter 6 四枚の請求書
披露会から二日後の月曜朝、玲奈の執務室は監査のため立ち入り禁止になっていた。悠斗の外部スタッフ用パスも失効し、受付を通ることすらできない。僕は自席で、ホテル二期計画の工程表を確認していた。午前十時、内線が鳴る。「相馬さん。確認したい資料があります。第三会議室へ来てください」神崎さんの声だった。会議室には、人事部長と法務担当者、それに玲奈がいた。わずか二日で、彼女は別人のように憔悴していた。僕を見るなり立ち上がったが、人事部長が間に入った。「朔、あなた、監査に何を渡したの?」「残っていた事実を、そのまま提出しただけだ」「あの資料はあなたが作ったんでしょう。私を陥れるために!」神崎さんが、四枚の請求書を机に並べた。名目は『空間コンセプト監修費』と『PR撮影ディレクション費』。どれも八十八万円で、同じ月に処理されている。支払先は、悠斗が個人事業主として届け出た『SEGAWA CREATIVE』だった。「業務委託契約は締結されていません。それなのに、決裁上限の百万円を下回るよう請求を四回に分け、黒川さんがすべて承認しています」合計三百五十二万円。成果物として登録されていたのは、僕の設計資料と現場写真だった。さらに支払いの一週間後、悠斗の口座から玲奈の個人口座へ百二十万円が送金されている。摘要欄には、ただ『返済』とあった。「これも相馬さんが偽造したと言いますか」神崎さんの問いに、玲奈の唇が震えた。やがて椅子から崩れるように膝をつき、僕の袖をつかむ。「朔、お願い。会社には私から説明するから」「入居権も、成果物の名義も、全部あなたに戻す。後任の部長にはあなたを推薦する」「婚姻届も予定どおり出す。だから、通報を取り下げて」僕は彼女の指を一本ずつ外した。「社内通報は、婚約者同士の謝罪で取り消せるものじゃない」「それに、僕たちはもう婚約者でもない」玲奈は床に座り込んだまま、僕を見上げた。そのとき、廊下から悠斗の声が響いた。「玲奈さん! 警察から連絡が来たんです。僕ひとりの責任にするつもりですか!」別室へ案内される途中らしく、警備員が彼の前に立っている。玲奈は勢いよく立ち上がり、悠斗の頬を平手で打った。「あなたが余計なことをしなければ、こんなことにはならなかった!」悠斗は頬を押さえながら、スマートフォンを掲げた。「
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Chapter 7 彼女が知らなかった家
その日の夕方、仕事を終えると母から電話がかかってきた。「今夜は家に帰ってきなさい。あなたにも会ってもらいたい人が来ているの」相手の名前を尋ねても、母は『来れば分かるわ』としか言わなかった。僕は車を走らせ、横浜郊外の実家へ向かった。門を抜け、玄関へ入ると、応接室から聞き覚えのある声がする。「会長、どうか一度だけお力を貸してください」玲奈だった。元取締役の紹介で、桐生リゾートグループ会長との短い面談を取りつけたらしい。応接室では、玲奈が母の前で深く頭を下げていた。母――桐生美佐子は、紅茶のカップを置く。「部下に責任を押しつけて、会社へ戻るつもりですか」「違います。私は瀬川に騙されたんです」「私が会社へどれだけ貢献してきたか、会長ならご存じのはずです。どうか処分を軽くしてください」母は書類へ視線を落としたまま答えた。「その前に、あなたが無断で入居権を奪った社員へ、謝るべきではありませんか」「相馬のことなら、私が話をつけます。あの人は私の婚約者ですから」「元婚約者でしょう」母の声が冷たくなる。「それに、あなたが軽く扱ったのは、私の息子が半年かけて得た仕事です」玲奈が顔を上げた。「……息子?」僕は応接室へ入った。母が僕を見て、いつもの声で言う。「おかえりなさい、朔」玲奈の目が大きく見開かれた。「朔……どうして、ここに……」視線が僕と母のあいだを何度も往復する。「朔が……桐生会長の息子なの?」「父の姓を名乗っている。母が桐生リゾートグループの会長だ」僕は一般採用で子会社へ入り、家族関係を仕事に持ち込まなかった。自分の力で、このホテル再生を成功させたかったからだ。「どうして黙っていたの? 知っていたら、私は――」「態度を変えていた?」玲奈は答えられない。僕は貧しいふりをしたことも、経歴を偽ったこともない。玲奈が、僕の仕事も、肩書きのない僕自身も、軽く見ていただけだ。玲奈はソファを回り込み、僕の前で膝をついた。「朔、やり直しましょう。悠斗とは縁を切る。お金も全部返す」「結婚したら、今度こそあなたを一番にするから」伸ばされた手を、僕は取らなかった。「僕が一緒にいたかったのは、会長の息子だと知った途端に態度を変える人じゃない」「僕が信じていた玲奈は、もうどこにもいない」母が秘書へ合図すると、二人の警備員
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Chapter 8 法廷でほどけた嘘
あの夜から五か月後。横浜地方裁判所で、玲奈と悠斗の公判が開かれた。二人はそれぞれの弁護人を隣に、離れた被告人席に座っている。かつては人前でも庇い合っていたのに、今は一度も目を合わせようとしない。起訴されたのは、架空請求を使った詐欺、背任、私文書偽造・同行使などだった。社内監査をきっかけに取引履歴が洗い直され、同じ手口で処理された支払いが、ほかにも六件見つかっていた。被害額は、最終的に千二百万円を超えている。悠斗には、前の勤務先から持ち出した顧客資料を営業に使った件も加わった。検察官が証拠の概要を読み上げる。分割された請求書。玲奈の社員IDで承認された送金記録。悠斗の端末に残っていたチャット。そして、僕の署名を見本に、悠斗が何度も書き直した跡の残る練習用ファイル。一つひとつ画面に映し出されるたび、傍聴席が静かになった。証人尋問では、ホテル運営会社の取締役と、現場撮影を正式に担当した制作会社の代表が証言台に立った。二人とも、悠斗へ業務を依頼した事実はないと明言した。僕も証言台に立ち、提出していた元データの作成日時と、打ち合わせ記録について説明した。玲奈の弁護人は、婚約解消への恨みから証拠を集めたのではないかと尋ねてきた。「感情で記録の日時は変わりません」そう答えると、被告人席で玲奈が唇をかんだ。その後の被告人質問で、最初に口を開いたのは悠斗だった。「僕は黒川さんに逆らえませんでした。仕事を紹介する代わりに、言うとおりにしろと迫られたんです」玲奈がすぐに顔を上げる。「違います。偽の請求書を作る方法を教えたのは瀬川です。私は正規の外注費だと信じていました」「入金のあと、百二十万円を受け取っていますよね」検察官に問われ、玲奈は言葉を詰まらせた。「あれは、以前貸していたお金の返済です」「では、貸した事実を示す記録はありますか」答えはなかった。休廷後、廊下へ出たところで名前を呼ばれた。保釈中の玲奈が、弁護人の制止を振り切るようにこちらへ歩いてくる。頬はこけ、以前の面影はほとんど残っていなかった。「朔。こんな私を見て、満足?」「満足する理由がない」「だったら、どうして止めてくれなかったの」涙を浮かべながら、玲奈は僕を責める。「本当に愛していたなら、私が間違える前に引き戻せたでしょう?」あまりに身勝手な言葉に、怒り
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Chapter 9 判決のあとに残ったもの
判決が言い渡されたのは、それから一か月後だった。玲奈には拘禁刑四年六月、悠斗には拘禁刑二年八月。いずれも執行猶予はつかなかった。裁判長は、玲奈が管理職としての権限を私的に利用したことや、二人が発覚を免れるために他人の署名と名義を使ったことを、悪質だと指摘した。犯罪収益についても追徴が命じられた。会社が進めていた損害賠償請求では、すでに二人の口座と一部資産が仮差し押さえされている。主文が読み上げられた瞬間、悠斗は椅子の背にもたれたまま動かなくなった。玲奈は前を向いていたが、膝の上で組んだ指だけが激しく震えていた。裁判所職員に促され、被告人席を離れる直前、玲奈が一度だけこちらを見た。助けを求める目ではなかった。自分が失ったものの大きさを、ようやく理解した人の顔だった。これで、本当に終わった。閉廷後、裁判所の前には報道陣が集まっていた。悠斗の父親は「息子は利用された」と繰り返し、玲奈の母親は「誘ったのはあちらだ」と言い返していた。最後まで、どちらも自分の身内に責任があるとは認めようとしなかった。一か月後、会社では再発防止策が導入され、外注費の承認手順も改められた。僕はホテル二期計画のプロジェクトルームで、最終予算案に目を通していた。窓の向こうでは、秋の海が鈍い光を返している。ノックのあと、神崎さんが一枚の伝票を持って入ってきた。「相馬さん。レジデンスの管理会社から連絡です」管理会社の記録では、披露会当日の午後、玲奈が『相馬の残置物』として地下のトランクルームへ持ち込んだ箱らしい。捜査資料に関係する可能性があったため、会社の指示で封を開けずに保管していたが、警察から返却してよいと連絡があったという。「不要なら、こちらで処分を依頼しておきますが」少し迷ってから、受け取ると答えた。午後、封のされた箱が会社へ届いた。中には、読みかけの本と、揃いで買ったマグカップが入っていた。その下から、小さな紺色のケースが転がり出る。蓋を開けなくても、中身は分かっていた。玲奈と出すはずだった婚姻届の隣に置いてきた、二人分の結婚指輪だ。捨てたはずの未来が、今さら僕の手元へ戻ってきた。
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Chapter 10 僕の名前で始まる未来
指輪のケースを手にしたまま、しばらく動けなかった。未練があるわけではない。あの頃の自分が、そこに閉じ込められているように思えただけだ。玲奈に喜んでほしくて、ふたりで何度も内見して選んだ賃貸マンション。二人で使うつもりだったカップ。そして、いつか同じ名字になると信じて買った指輪。どれも、ふたりの未来を信じていたからこそ選んだ物だった。箱の端には、好きな建築家の作品集が三冊入っている。表紙についた傷を指でなぞり、一冊ずつ机へ移した。これは玲奈との思い出ではない。学生の頃から、僕が好きだったものだ。過去を手放すために、自分まで捨てる必要はない。マグカップは処分し、指輪は後日、買取専門店へ持ち込んだ。売却代金は、若手設計者を支援する団体へ寄付した。失った未来に値段をつけたかったわけではない。ただ、もう誰かの機嫌を取るために、自分の持っているものを差し出したくなかった。それから半年後。ホテル二期エリアの内覧会が開かれた。海辺のラウンジには、地元の職人と共同で仕上げた家具が並び、中庭では、潮風に揺れる植栽を柔らかな灯りが照らしている。今度は、竣工記念パネルにも、館内冊子にも、計画に関わった全員の名前が記されていた。誰かひとりの実績に見せるためではない。この場所を作った人たちが、自分の仕事を誇れるようにするためだ。内覧会を終えると、ホテル運営会社の取締役が僕のところへ来た。「相馬さん。次の計画も、ぜひあなたのチームにお願いしたい」差し出された企画書の表紙には、『統括責任者 相馬朔』と印刷されていた。胸の奥に、静かな熱が広がる。以前のように、誰かに認めてもらうためだけに働いているわけではない。それでも、自分の名前で仕事を認められるのは、素直にうれしかった。帰りの車に乗ると、母からメッセージが届いた。【日曜日、家で夕食を食べない? 会ってほしい人がいるの】続けて、もう一通。【かしこまったお見合いじゃないから。断ってもいいし、まずは一度話してみて】思わず笑ってしまった。少し前の僕なら、仕事が忙しいと理由をつけて断っていただろう。けれど今は、誰かと出会うことまで怖がる必要はないと思えた。短く返事を送る。【分かった。日曜日に帰る】スマートフォンを伏せ、窓の外を見た。朝から降っていた雨は上がり、雲の切れ間から光が差し
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