LOGIN半年を費やした海辺のホテル再生プロジェクトが、ようやく完成した。 その功績を評価され、みなとみらいにある家具付きの社有レジデンスを、二年間使えることになった。部屋をもらったわけではない。会社が僕個人に認めた、期間限定の入居権だ。 入居手続きを済ませた夜、最初の荷物を運びに行くと、発行済みの電子キーがなぜかエントランスで反応しなかった。 受付で確認していると、見覚えのある男がエレベーターから降りてきた。 婚約者・黒川玲奈の後輩、瀬川悠斗。首から僕の部屋番号が記された入館カードを下げ、撮影スタッフに笑顔を向けている。 「相馬さん、来ていたんですね」 驚いた声とは裏腹に、彼は新品のスリッパが入った紙袋を抱えていた。 開いたままの玄関の奥では、玲奈がカメラマンに指示を出している。 僕に割り当てられたはずの部屋は、『新しい働き方』を紹介する社内PR動画の撮影場所に変わっていた。 「朔には今の部屋があるでしょう。ここは悠斗の活動拠点にしたほうが、会社の宣伝にもなるの」 「会社が僕に認めた入居権は、どうするつもりだ?」 「利用者を悠斗に変更する申請を出すわ」と玲奈は平然と答えた。「婚約者なんだから、それくらい協力して」 笑っている玲奈の後ろで、僕の名前が貼られた箱が台車に積まれていく。 言い返す代わりに、無効になったカードキーと、運び出されていく私物をスマートフォンで撮影した。 その場で会社の内部通報窓口を開き、保存した画像を添付する。 送信ボタンを押すと、画面に受付番号が表示された。 もう、婚約者同士の話し合いで済ませるつもりはなかった。
View More指輪のケースを手にしたまま、しばらく動けなかった。未練があるわけではない。あの頃の自分が、そこに閉じ込められているように思えただけだ。玲奈に喜んでほしくて、ふたりで何度も内見して選んだ賃貸マンション。二人で使うつもりだったカップ。そして、いつか同じ名字になると信じて買った指輪。どれも、ふたりの未来を信じていたからこそ選んだ物だった。箱の端には、好きな建築家の作品集が三冊入っている。表紙についた傷を指でなぞり、一冊ずつ机へ移した。これは玲奈との思い出ではない。学生の頃から、僕が好きだったものだ。過去を手放すために、自分まで捨てる必要はない。マグカップは処分し、指輪は後日、買取専門店へ持ち込んだ。売却代金は、若手設計者を支援する団体へ寄付した。失った未来に値段をつけたかったわけではない。ただ、もう誰かの機嫌を取るために、自分の持っているものを差し出したくなかった。それから半年後。ホテル二期エリアの内覧会が開かれた。海辺のラウンジには、地元の職人と共同で仕上げた家具が並び、中庭では、潮風に揺れる植栽を柔らかな灯りが照らしている。今度は、竣工記念パネルにも、館内冊子にも、計画に関わった全員の名前が記されていた。誰かひとりの実績に見せるためではない。この場所を作った人たちが、自分の仕事を誇れるようにするためだ。内覧会を終えると、ホテル運営会社の取締役が僕のところへ来た。「相馬さん。次の計画も、ぜひあなたのチームにお願いしたい」差し出された企画書の表紙には、『統括責任者 相馬朔』と印刷されていた。胸の奥に、静かな熱が広がる。以前のように、誰かに認めてもらうためだけに働いているわけではない。それでも、自分の名前で仕事を認められるのは、素直にうれしかった。帰りの車に乗ると、母からメッセージが届いた。【日曜日、家で夕食を食べない? 会ってほしい人がいるの】続けて、もう一通。【かしこまったお見合いじゃないから。断ってもいいし、まずは一度話してみて】思わず笑ってしまった。少し前の僕なら、仕事が忙しいと理由をつけて断っていただろう。けれど今は、誰かと出会うことまで怖がる必要はないと思えた。短く返事を送る。【分かった。日曜日に帰る】スマートフォンを伏せ、窓の外を見た。朝から降っていた雨は上がり、雲の切れ間から光が差し
判決が言い渡されたのは、それから一か月後だった。玲奈には拘禁刑四年六月、悠斗には拘禁刑二年八月。いずれも執行猶予はつかなかった。裁判長は、玲奈が管理職としての権限を私的に利用したことや、二人が発覚を免れるために他人の署名と名義を使ったことを、悪質だと指摘した。犯罪収益についても追徴が命じられた。会社が進めていた損害賠償請求では、すでに二人の口座と一部資産が仮差し押さえされている。主文が読み上げられた瞬間、悠斗は椅子の背にもたれたまま動かなくなった。玲奈は前を向いていたが、膝の上で組んだ指だけが激しく震えていた。裁判所職員に促され、被告人席を離れる直前、玲奈が一度だけこちらを見た。助けを求める目ではなかった。自分が失ったものの大きさを、ようやく理解した人の顔だった。これで、本当に終わった。閉廷後、裁判所の前には報道陣が集まっていた。悠斗の父親は「息子は利用された」と繰り返し、玲奈の母親は「誘ったのはあちらだ」と言い返していた。最後まで、どちらも自分の身内に責任があるとは認めようとしなかった。一か月後、会社では再発防止策が導入され、外注費の承認手順も改められた。僕はホテル二期計画のプロジェクトルームで、最終予算案に目を通していた。窓の向こうでは、秋の海が鈍い光を返している。ノックのあと、神崎さんが一枚の伝票を持って入ってきた。「相馬さん。レジデンスの管理会社から連絡です」管理会社の記録では、披露会当日の午後、玲奈が『相馬の残置物』として地下のトランクルームへ持ち込んだ箱らしい。捜査資料に関係する可能性があったため、会社の指示で封を開けずに保管していたが、警察から返却してよいと連絡があったという。「不要なら、こちらで処分を依頼しておきますが」少し迷ってから、受け取ると答えた。午後、封のされた箱が会社へ届いた。中には、読みかけの本と、揃いで買ったマグカップが入っていた。その下から、小さな紺色のケースが転がり出る。蓋を開けなくても、中身は分かっていた。玲奈と出すはずだった婚姻届の隣に置いてきた、二人分の結婚指輪だ。捨てたはずの未来が、今さら僕の手元へ戻ってきた。
あの夜から五か月後。横浜地方裁判所で、玲奈と悠斗の公判が開かれた。二人はそれぞれの弁護人を隣に、離れた被告人席に座っている。かつては人前でも庇い合っていたのに、今は一度も目を合わせようとしない。起訴されたのは、架空請求を使った詐欺、背任、私文書偽造・同行使などだった。社内監査をきっかけに取引履歴が洗い直され、同じ手口で処理された支払いが、ほかにも六件見つかっていた。被害額は、最終的に千二百万円を超えている。悠斗には、前の勤務先から持ち出した顧客資料を営業に使った件も加わった。検察官が証拠の概要を読み上げる。分割された請求書。玲奈の社員IDで承認された送金記録。悠斗の端末に残っていたチャット。そして、僕の署名を見本に、悠斗が何度も書き直した跡の残る練習用ファイル。一つひとつ画面に映し出されるたび、傍聴席が静かになった。証人尋問では、ホテル運営会社の取締役と、現場撮影を正式に担当した制作会社の代表が証言台に立った。二人とも、悠斗へ業務を依頼した事実はないと明言した。僕も証言台に立ち、提出していた元データの作成日時と、打ち合わせ記録について説明した。玲奈の弁護人は、婚約解消への恨みから証拠を集めたのではないかと尋ねてきた。「感情で記録の日時は変わりません」そう答えると、被告人席で玲奈が唇をかんだ。その後の被告人質問で、最初に口を開いたのは悠斗だった。「僕は黒川さんに逆らえませんでした。仕事を紹介する代わりに、言うとおりにしろと迫られたんです」玲奈がすぐに顔を上げる。「違います。偽の請求書を作る方法を教えたのは瀬川です。私は正規の外注費だと信じていました」「入金のあと、百二十万円を受け取っていますよね」検察官に問われ、玲奈は言葉を詰まらせた。「あれは、以前貸していたお金の返済です」「では、貸した事実を示す記録はありますか」答えはなかった。休廷後、廊下へ出たところで名前を呼ばれた。保釈中の玲奈が、弁護人の制止を振り切るようにこちらへ歩いてくる。頬はこけ、以前の面影はほとんど残っていなかった。「朔。こんな私を見て、満足?」「満足する理由がない」「だったら、どうして止めてくれなかったの」涙を浮かべながら、玲奈は僕を責める。「本当に愛していたなら、私が間違える前に引き戻せたでしょう?」あまりに身勝手な言葉に、怒り
その日の夕方、仕事を終えると母から電話がかかってきた。「今夜は家に帰ってきなさい。あなたにも会ってもらいたい人が来ているの」相手の名前を尋ねても、母は『来れば分かるわ』としか言わなかった。僕は車を走らせ、横浜郊外の実家へ向かった。門を抜け、玄関へ入ると、応接室から聞き覚えのある声がする。「会長、どうか一度だけお力を貸してください」玲奈だった。元取締役の紹介で、桐生リゾートグループ会長との短い面談を取りつけたらしい。応接室では、玲奈が母の前で深く頭を下げていた。母――桐生美佐子は、紅茶のカップを置く。「部下に責任を押しつけて、会社へ戻るつもりですか」「違います。私は瀬川に騙されたんです」「私が会社へどれだけ貢献してきたか、会長ならご存じのはずです。どうか処分を軽くしてください」母は書類へ視線を落としたまま答えた。「その前に、あなたが無断で入居権を奪った社員へ、謝るべきではありませんか」「相馬のことなら、私が話をつけます。あの人は私の婚約者ですから」「元婚約者でしょう」母の声が冷たくなる。「それに、あなたが軽く扱ったのは、私の息子が半年かけて得た仕事です」玲奈が顔を上げた。「……息子?」僕は応接室へ入った。母が僕を見て、いつもの声で言う。「おかえりなさい、朔」玲奈の目が大きく見開かれた。「朔……どうして、ここに……」視線が僕と母のあいだを何度も往復する。「朔が……桐生会長の息子なの?」「父の姓を名乗っている。母が桐生リゾートグループの会長だ」僕は一般採用で子会社へ入り、家族関係を仕事に持ち込まなかった。自分の力で、このホテル再生を成功させたかったからだ。「どうして黙っていたの? 知っていたら、私は――」「態度を変えていた?」玲奈は答えられない。僕は貧しいふりをしたことも、経歴を偽ったこともない。玲奈が、僕の仕事も、肩書きのない僕自身も、軽く見ていただけだ。玲奈はソファを回り込み、僕の前で膝をついた。「朔、やり直しましょう。悠斗とは縁を切る。お金も全部返す」「結婚したら、今度こそあなたを一番にするから」伸ばされた手を、僕は取らなかった。「僕が一緒にいたかったのは、会長の息子だと知った途端に態度を変える人じゃない」「僕が信じていた玲奈は、もうどこにもいない」母が秘書へ合図すると、二人の警備員