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第3話

Author: パクチー好きの静香
部屋の空気が、凍りついたように止まった。誰もが顔を見合わせ、言葉を失っている。ただ、気まずさだけが重く漂っていた。

修一がそっと私の肩を押さえ、声を潜めて言った。

「美波が捨てたんだ。菌があるかもしれないって。お前の体を心配してのことだよ」

……私のため?

私は食べるつもりなんてなかった。まして、彼女に食べさせるつもりもなかった。

それなのに、どうして勝手に捨てていいことになるの。

そうだ。この人は昔からずっとそうだった。私を諭すことばかりで、私に向けるべき最低限の敬意すらくれたことがない。

まして、私が大切にしているものなんて――

気にかけたことさえ、なかった。

涙がぽたぽたと床に落ちていく。

修一は一瞬だけ戸惑ったような顔をして、私の頬に手を伸ばしかけた。

私はその手を、力いっぱい振り払った。

その瞬間――

「きゃっ!」

美波の甲高い悲鳴が部屋に響いた。

彼女は修一をかばうように前に立ち、怒った顔で私を睨む。

「雪菜、漬物を捨てたのは私よ。文句があるなら、私に言って」

英司まで不機嫌そうに口を開いた。

「たかが漬物ひとつだろ。そこまで騒ぐことかよ。空気悪くなるじゃないか」

翔也も露骨にうんざりした顔で言う。

「美波は生物学専攻だったんだぞ。お前よりよっぽど詳しいだろ。せっかく気を遣ってやったのに、恩知らずだな」

――みんな、美波の味方だった。

まるで私が、ひとりで騒ぎ立てる面倒な女みたいに。

そのうえ、彼らの修一を見る目には、同情まで浮かんでいる。

こんな女とよく結婚したものだ――

そう言いたげな視線だった。

でも、そんなことはどうでもよかった。

本当にどうでもいい。

私が気にしているのは――

母が、私のために作ってくれた漬物。ただ、それだけだった。

涙が床に落ちる。私はその場に膝をつき、ゴミの中から漬物を拾い上げようと手を伸ばした。

「何してるんだよ!」

修一が慌てて腕を掴もうとする。

「まだ妊娠中なんだぞ!」

その言葉に、美波の目が揺れた。

彼女は慌てたように私のそばへしゃがみ込み、震える声で言った。

「……ごめんなさい。私が悪かった。私も一緒に拾うから」

口では殊勝なことを言いながら――

その指先は、容赦なく私の手の甲に食い込んできた。

鋭い痛みに体がびくっと跳ねる。

私は反射的に、美波を突き飛ばしていた。

美波は無様に床へ倒れ込み、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、傷ついたような目で私を見上げてくる。

次の瞬間――

リビングにいた全員が一斉に彼女の前へ立ちはだかった。

まるで敵を見るような目で、私を睨みつける。

修一が低い声で怒鳴った。

「雪菜!何をしてるんだ!」

私は何も言わなかった。

ただ黙って、床に散らばった漬物を拾い集める。

修一の顔が暗く沈む。

そして、美波のためにけじめをつけさせるつもりなのか――

乱暴に私の腕を掴んだ。

「……謝れ」

私は静かに修一を見返した。

けれど――引くつもりは、少しもなかった。

修一が都合よく悪いのを私のせいにするのは、これが初めてじゃない。

これまでは、私が弱かっただけだ。

母に余計な心配をかけたくなくて、何もかも飲み込んできた。

でも、その母ももういない。だから私は、もう我慢するつもりはなかった。

「修一、離婚しましょう」

その言葉が落ちた瞬間、修一の顔つきがみるみる険しくなる。

結婚して二年。

言い争いは何度もあった。

けれど――

私が離婚を口にしたのは、これが初めてだった。

修一が何か言い返そうとした、そのとき。美波が甘えるような声で口を挟んだ。

「雪菜。同じ女として言うけど、そんな駆け引きはやめたほうがいいわ。

お腹の子だってもうこんなに大きいのに、本気で離婚なんてできるわけないでしょう?

まさか、その子を堕ろすつもりじゃないでしょうね」

そのひと言で、場の空気が一変した。修一がいちばん嫌うのは、脅されることだった。

彼はじっと私を見つめたまま、ひどく失望したような声で言った。

「雪菜、お前ちょっと頭冷やせ。しばらく家で反省してろ」

そう言い捨てると、彼は美波の手を引き、そのまま玄関から出ていった。

ほんの数秒で、広い家には私ひとりだけが取り残された。

漬物を丁寧に包み直したところで、スマホが震えた。

病院からの通知だった。

手術は――五日後に迫っていた。

私は部屋へ戻り、必要な書類や身の回りのものを静かにまとめて、その日が来るのを待った。

けれど翌日。

友人から切羽詰まった声で電話がかかってきた。

「雪菜、早くニュース見て」

言われるままニュースアプリを開く。

トップに表示されていたのは――

週刊誌に撮られた修一の写真だった。

修一と美波が、手をつないで浜辺を歩いている。

美波は幸せそうに微笑んでいて、その腰には――

修一のイニシャルのタトゥーまで入っていた。

さらに記事は、修一がこの二年間ずっと外したことのなかった結婚指輪まで、いつの間にか消えていると書き立てていた。

そのせいで世間は一斉に、私たちの結婚がどうなっているのかと騒ぎはじめた。

しかも記事は、修一と美波の恋愛話まで勝手に作り上げていた。

かつてふたりを応援していた人たちまで戻ってきて――

今度は私のSNSアカウントに押し寄せてきた。
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