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第3話

Author: 魚魚魚ちゃん
風邪薬を二錠飲み、節美はマスクをつけて出かけた。

十二月の冬は、まさに骨まで凍るような寒さだった。

タクシーで会社のビルに到着すると、すでにチームのメンバーたちが待っていた。

「社長、ようやくいらっしゃいましたね。今期のメインデザインは、まだ決まってなくて、決裁をお願いしたいんです」

節美は助手から差し出されたデザイン案を受け取った。

彼女は美術系の出身で、卒業後はアパレル業界でデザイナーとして働き、数年後には自分のブランドを立ち上げた。

まだ大企業になっていないが、彼女にとっては全てを注いできた結晶であり、デザインの原稿には特にこだわっている。

しかし、今回提出された案の中には、目を疑うようなものも混じっていた。

節美は眉をひそめた。

「うちの会社、こんなレベルのインターン生を採ったの?」

助手は困った顔をして、口ごもりながら言った。

「それは......社長の妹さん、月美さんの作品です」

なるほど、と節美は納得した。

三ヶ月前、月美は娘を連れて離婚し、帰国してきた。

適職が見つからず、両親に妹のために会社にポジションを用意してくれと頼まれた。

しかもその役職は部長だった。

月美のレベルでは、部長どころか、素人同然だった。もちろん節美は断ったが、家族全員による説得と脅しに負け、会社でも騒動を起こされた。

最終的に、仕方なくデザイナーとして採用してあげたが......出来上がったものはこれか。

ダメな案を全て取り除き、節美は助手に指示を出した。

「今後、彼女が出した案は形式だけ整えて、もう私に見せないで」

見るだけで目が腐りそうだった。

そう言って、バッグから自分で修正したデザイン案を取り出した。

「これを持って、他のデザイナーと相談して。メイン商品になれるかどうか確認して」

助手はその案を見て、目を輝かせた。

「社長、本当に謙虚ですね。これは間違いなくいけますよ。皆さんも、社長のセンスが分かってますから」

お世辞だと思っている節美は頷くだけで、次の仕事に取りかかった。

自分が死んだ後、システムによって別の身体に転生される予定だった。

そうなれば、この会社も続けられなくなるだろう。

しかし、何年もかけて築き上げたものだからこそ、信頼できる親友に託すつもりだった。

でもその前に、春の新作だけはしっかり仕上げて、最後の仕事を終えたかった。

午後二時、腹が鳴り始めて、ようやく何も食べていなかったことに気づいた。

昼食を取ろうとしたその時、オフィスのドアが乱暴に開かれた。

へとへとに疲れ切った様子で、月美の父が現れた。

その鋭い目で彼女を見つめながら言った。

「やっぱりここにいたか」

そう言うなり、数歩で近づいて、短く言いつけた。

「病院に来い」

節美は動かなかった。

目の前の男は、彼女の実の父だったが、同時に彼女を西園寺家から追い出した張本人でもあった。

自分も月美も、どちらも西園寺家の娘だが、両親の眼中にあるのは、月美だけだった。

彼らにとって、月美は素直で賢い娘で、節美は陰湿でずる賢い悪い人だった。

だから、月美に濡れ衣を着せられたとき、どれだけ否定しても誰も信じてくれなかった。

月美が仕組んだ罠で評判がドン底に堕ち、会社にも被害が出ても、家族は月美を疑うことはなく、すべての責任を節美に押し付けた。

当時、父が西園寺家の当主とした記者会見で言い放った。

「我が西園寺家の娘は、西園寺月美一人だけです。西園寺節美は勘当しました。今後、西園寺家とは一切関係ありません」

世間は彼女を、家に見捨てられた哀れな女だと笑い者にした。

そして今、またその人は目の前に現れた。

「月美の病状が悪化したんだ。お前が献血しろ」

オフィスは、死んだように静まり返った。

七年ぶりに現れて、どうしてそんなに当然のようにこんなことを言えるのだろう。

「あいつが生きようが死のうが、私には関係ないわ」

父の顔が怒りで歪んだ。

「月美はお前の妹だぞ!」

節美は冷たく笑った。

「父さん、忘れたの?七年前に、私を家から追い出したのは誰だったかを。私には、もう家族なんていない。妹もいないのよ」

父の顔が固まった。

かつて自分で吐き出した言葉が、今になって自分の首を絞めた。

誇り高い男はついに頭を下げ、懇願した。

「先生が言ってたんだ。月美の心機能が非常に低下していて、貧血にもなってると。輸血でしか命をつなげないんだ。心臓のドナーもまだ見つかってないし。だから......頼む」

節美はその姿を見て、胸に鈍い痛みを覚えた。

父がそんなふうに頭を下げる姿を、彼女は今まで一度も見たことがなかった。

月美は、彼のすべてだった。

彼だけじゃない。廷悟も、貴志も、皆が月美を特別扱いしている。

そのことを思い出すと、節美の目に涙が滲んだ。

「いいわ。行ってあげる。でも、条件がある。私を西園寺家に戻しなさい。そして、月美が持っている西園寺家の株を、すべて私に譲って」

父の目が冷たくなった。

「節美、調子に乗るなよ」

「それが条件よ。嫌ならどうぞお帰りを」

しばらくして、父は折れた。

節美は車に無理やり押し込まれ、空腹と寒さで体がふらつき、シートに頭をぶつけた。

父はそれを無視して、猛スピードで病院に向かった。そして彼女を採血室の前まで引きずっていった。

看護師が節美の顔色を見て、優しく聞いた。

「もしかして低血糖ですか?少し休みますか?何か食べほうがいいですよ」

父は苛立って急かした。

「早くしろ!」

この私立病院は、父が出資したものだから、彼の言葉は絶対的な命令だった。

看護師は怯えて、すぐに採血の準備を始めた。

針が刺さった瞬間、節美は強いめまいを感じた。

高熱と空腹が重なって、採血の中途で、呼吸が苦しくなって、首も横に倒れていった。

看護師が慌てて泣き叫んだ。

「もう無理です!これ以上採ったら危険です!」

父の顔も険しくなった。

本当に死なれたら困るからだ。

節美が死んだら、月美が使える血がなくなる。

「......もういい、その分で使え」

節美は休憩室へ運ばれた。

意識はほとんどなかった故、どれくらい時間が経ったのかも分からなかった。

すると、突然ある女が駆け込んできて、彼女の顔に平手打ちをくらわせた。

「全部あんたのせいよ!なに弱いフリしてるのよ、その程度の血じゃ足りないじゃないの!」

節美はその痛みで目を覚ましたら、泣き腫らした顔をしている母だった。

母は節美の服を掴み、拳で叩きながら叫んでいだ。

「なんで私、あんたたち二人を産んだのよ......月美だけだったらよかったのに!

あんたなんか産むんじゃなかった!お腹の中でも月美の栄養を奪って、心臓病にしたのもあんたでしょ!

今になっても血も出し渋って、演技なんかして、そんなに妹を殺したいの!?」

その言葉は、心を刺す針のように鋭かった。

普段は涙を見せない節美の目からも、冷たい雫が落ちた。

そのような言葉は、昔から何度も聞いてきた。

双子として生まれたことも。

妹の心臓が弱いことも。

すべての罪を節美に背負わされた。

家族に愛されず、夫にも子にも嫌われて、彼女の人生は、初めから「罪」とともにあった。
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    西園寺奥さんの顔は信じられないと言わんばかりに、苦しみと嫌悪が入り混じっていた。「私たちはずっと、あんたのことを良い子だと思ってた。でも、結局全部演技だったのね!自分の実の親を騙して、自分の姉を傷つけて、姉の命まで奪ったのもあんただわ!」西園寺奥さんは彼女を指差して大声で責めた。その言葉はまるで鋭い刃のように、月美の心に突き刺さった。月美はもう隠しきれないことが分かっていた。涙が溢れ、彼女は悔しさと怒りを込めて叫んだ。「私には関係ないわ!私が死なせたわけじゃないし!姉さんを西園寺家から追い出したのはあんたたちでしょ。そして心臓を取り出したのは廷悟で、私は何もしてないわ。一番無実だわ!あんたたちは前に姉さんを嫌ってたじゃない。死んでしまえとすら思ってたし。今、姉さんが本当に死んだら、逆に悲しんでるの?自分をいい親だと思ってるの?」西園寺当主は顔を赤くして、怒りに震えながら胸を抑えた。月美は全く気にせず、涙を浮かべた目で言い放った。「子供の頃から、私の心臓病は姉が原因だってあんたたちが言ってたじゃない。姉さんは生まれてから私に借りがあるって。母さん、私一人だけでもよかったんじゃないの?姉さんが死んで、その心臓が私の体にあるのよ。これで私を一人っ子にすることもできないの?」月美は、自分の親がどうしてこんなことになったのか、全く理解できなかった。昔はこんな感じではなかったのに。西園寺奥さんはその言葉に刺されて、立ちすくんで無言で彼女を睨みつけた。その時、西園寺奥さんはようやく理解した。以前自分が言ったことが、現実になったことを。「私のせいだわ!」西園寺奥さんは床に崩れ落ちて、節美の写真を胸に抱きしめて、胸を裂くように泣きながら言った。「私の教育が悪かったの。母親失格だわ。私が娘を死なせたの!」涙がポタポタ落ち、西園寺奥さんはまるで数十年も年を取ったかのような顔色をした。廷悟が到着したとき、目にしたのは床で痙攣している西園寺当主と、涙が止まらない西園寺奥さん、そして冷ややかに見つめている月美だった。彼女は去ろうとしていたところだったが、廷悟は彼女を止めて、目を赤くして言った。「どうして節美を傷つけたんだ?」月美は今、怒りでいっぱいだった。それで廷悟を力強く振り払った。「誰が

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    電話の向こうからだらしない声が聞こえた。「もういい、そんな小賢しいことを言わないで。健康な体を手に入れたんだから、それは何よりでしょ?正直に言って、手術の前、本当にあれがお姉さんの心臓だって知らなかったの?」廷悟の心がいきなり、ドキっとした。月美は冷笑を浮かべて言った。「バカじゃないわ。前から心臓のドナーが見つからなかったから、急に提供者が現れたら、気づくわよ。ただ知らないふりをしてただけ。そうしないと、私のキャラも維持できなかったでしょ?それに、あいつの心臓が欲しいまであったのよ」そして、また唾を吐きながら言った。「あいつなんて生き甲斐なんてないわ。心臓をくれるのは当然でしょ。こんなふうになって、もううんざりだわ」その言葉が終わるや否や、手術室にいた廷悟は耐えきれずに飛び出した。月美は驚いて、無意識に逃げようとしたが、彼に強く掴まれた。「今、何て言った?」月美の顔色は真っ青になって、震えながら言った。「な、何も......何も言ってないわ。廷悟兄さん、聞き間違えたんじゃない?」廷悟の顔色は非常に悪かった。まるで獣のような目をして言った。「最初から知ってたんだろ、俺が節美の心臓をお前に移植しようとしたこと。全部知ってたんだろ!」月美は恐怖で顔を真っ白にして、すすり泣きながら言った。「廷悟兄さん、私は何も知らなかったわ」廷悟はもう完全に彼女の偽りを見抜いて、怒りに震えながら言った。「全部演技だったんだろ。俺が好きだって言ってたのも、あの可哀想な姿も、全部嘘だったんだな!お前は俺たち全員を騙してたんだ!俺がこんな奴のために、節美を傷つけるなんて......本当に馬鹿だった!」廷悟はまるで面白いジョークを聞いたかのように自嘲的に笑った。「一体何をしてたんだろう、俺は!」と思っていた。その時、駆けつけた看護師と警備員がその状況を見て慌てて廷悟を止めた。「深尾先生、落ち着いてください!」月美はその隙に素早く逃げた。廷悟は警備員を振り払って、オフィスへと向かった。彼は月美のすべての病歴を引き出し、一つ一つじっくりと確認していた。すると、突然大声で笑い出した、まるで狂ったかのように。そして、手を上げて自分に強くビンタをした。月美の過去の病歴には、心臓病が命に

  • 心臓をささげてから、新しい人生へ   第22話

    「あなたには何も求めてなかった。ただ、私のことを好きになってほしかっただけ。廷悟、あなたがもうとっくに私を好きになったって言ってたけど、いいよ、信じるわ。でも、その『好き』という感情はあまりにも浅はかで、私に対する好感度は常に99%に抑えられていて、残りの1%で私をもやもやさせるだけだったの」心美の声が震え始めた。彼女は涙を堪えながら一言一言を絞り出すように言った。「私も人間だから、痛みも感じるし、疲れることだってある。どうして私は無条件に与え続けなければいけないの?」廷悟は苦しげに頭を振り、突然膝をついて彼女の前にひれ伏して、震える声で泣きついた。「違うんだ、ただ怖かっただけだ。君がシステムの縛りで俺のそばにいるだけかもしれないって。もし好感度が100%になったら、君が離れていくんじゃないかって、怖かったんだ。俺は君を失いたくないんだ。ただ、失いたくないだけなんだ」過去の辛い記憶が再び彼女を飲み込むように襲ってきた。心美は涙を拭き、廷悟を押しのけて首を振った。「でも、起こったことはもうどうしようもないよ、廷悟。私はもうあなたにボロボロにされてきたの。もうこれ以上苦しめないで」ただ、新しい生活を始めたかっただけだった。心美の顔に浮かぶ苦痛を見て、廷悟はまるで鋭いパンチを食らったかのように、無力にその場で崩れ落ちた。心美は涙を浮かべながら言った。「今日は私の婚約式よ。もしあなたが本当に少しでも罪悪感があるのなら、私の数少ない幸せな時間を壊さないでくれない?」廷悟は完全に言葉を失った。彼はついに理解した、節美はもう取り戻せないということを。心美は休憩室から姿が消えた。隣で貴志は呆然とそのすべてを見ていた。心の中で自分にはもう母親などいないことが分かっていた。すぐに、無数の悲しみと辛さが押し寄せてきて、彼は廷悟に拳を振り上げた。「全部パパのせいだ。パパがママを追い出したんだから、僕にはママがいなくなった!」言いながら、貴志は声を上げて泣いていた。廷悟は黙って彼を抱きしめ、涙が頬を伝った。「俺たち二人とも悪いんだ」彼らは二人とも、節美を傷つけた罪人で、その罪は数えきれないほどだった。節美の言った通り、彼らには許しを求める資格はなかった。ステージの上で、心美は再び落ち着いて、魅

  • 心臓をささげてから、新しい人生へ   第21話

    月美は声を上げて泣いた。昔のように胸を押さえ、大声で息苦しいと訴えていたが、西園寺当主からは冷たい視線しか返ってこなかった。「お前の病気はもう治ったんだろ。今その胸にある心臓は節美のものだ。とても元気だ。そんなことして、誰が信じるか」月美の顔には歪んだ表情が浮かんでいた。手術が終わればすべてうまくいくと思っていた。親の偏りも、廷悟からの告白も。でも現実ではすべてを失ってしまった。どうしてこんなことになったんだろう?納得できなかった月美は、拳を握りしめ、強く力を込めた。一方、入江家と加藤家の婚約の話はすぐに業界内に広まっていた。廷悟がそのニュースを聞いたとき、目は真っ赤だった。普段あまり酒を飲まない彼は居酒屋で酔いつぶれ、最後は地面に横たわり、節美の名前と「ごめん」という言葉を繰り返しながら呟いていた。かつて温かく幸せだった家が、今では寂しさだけが残っていた。婚約の日、心美と健二は並んで登場し、皆から祝福を受けた。心美はその日、新しいハイヒールを履いていたから、一周した後、足が痛くなり、健二に声をかけて休憩室に向かった。休憩室に着くと、誰かが飛び込んできた。「ママ!」貴志だった。普段の冷たく誇り高い様子とは全く違って、目を赤くし、心美のスカートをギュッとつかんで、まるで彼女が消えてしまうのではないかと心配しているようだった。「ママ、僕を捨てないで」貴志を見た心美は、本能的に心が痛むのを感じた。結局、十月間も自分に宿していて産まれた子供だから。彼女はため息をつき、ティッシュを取り出して貴志の涙を拭き、乱れた服を整えながら廷悟を睨んだ。「あなた、そんな風にこの子を世話してるの?」靴は汚れていて、服装は季節外れで、髪も何日も洗っていないように見えた。何より、ずいぶん痩せているように見えた。廷悟は、ようやく彼女が自分の身分を認めたことに喜びを感じていた。「俺は本当に手際が悪いんだ。そんなことも上手くできないなんて。貴志はずっと君が世話してたから、君がいなければこの子はどうしようもないんだ」心美は無言で彼を見つめた。彼女はもう廷悟が貴志を連れてきた目的を察していた。つまり、子供を使って自分を縛りつけるということに過ぎなかった。しかし、彼女はとっくに過去のすべてを捨てる決意をしていた。

  • 心臓をささげてから、新しい人生へ   第20話

    その言葉はまさに心美の本音だった。心美は廷悟をじっと見つめながら言った。「深尾さん、今、分かりましたか?元にはもう戻せないんですよ。もし本当に彼女のことを忘れられないなら、自分の子供をきちんと育てなさい。それが彼女に対するせめてものけじめだと思います」もし彼女に今でも少しの心残りがあるとしたら、それは貴志のことだけだ。結局のところ、自分のお腹の中で育ったのだから。でも、それだけの理由で、彼女は苦しみしかない過去に戻るつもりはない。自分の新しい生活を始めて、過去の鎖を完全に断ち切りたかったのだ。そう言って、心美は健二の手を取って、ゆっくりと立ち去った。デザート台の前を通ると、心美は健二を見つめて、少し迷ってから口を開いた。「本当に、何も聞きたいことはないの?」健二は淡々と、ケーキを一切れ差し出して言った。「心美が話したいときに、話せばいいんだ。もし話したくないなら、無理に聞くことはしないよ。だって、心美のことを信じてるから」ケーキを渡しながら、健二は真剣な表情で言い続けた。「君が話したくなったとき、僕もゆっくり聞くよ」心美は彼を見つめて、ケーキを受け取った。好みの味がいっぱい詰まったケーキだった。突然、心美は口を開いた。「健二、私たち、結婚しよう?」結婚式の日程はすぐに決まった。心美は新しい生活へ、また一歩前へ進んだ。一方、西園寺家は重い空気に包まれていた。月美が退院したものの、誰も喜びを感じていなかった。家の中ではずっと沈黙していて、西園寺奥さんは時折節美の写真を抱えたまま、ぼんやりとした顔をしていた。その日、西園寺奥さんはまた節美の使っていた部屋に行って、数少なく残された物を拭き始めた。節美がこの家に残した物はほんの少しだけだった。かつて西園寺家が彼女を追い出したとき、節美はほとんどの物を持ち去った。残りは西園寺奥さんが全て捨ててもらって、捨て忘れた物も物置に放り込んでいだ。節美が亡くなったと聞いてから、西園寺奥さんは物置からそれらの物を取り出して、節美の使っていた部屋に戻した。さらに、節美の使っていた寝具や装飾を注文し、部屋を昔のように再現した。それはまるで節美がまだこの家に住んでいるかのようだった。月美はその様子を見て、胸に不満と嫉妬が込み上げてきた

  • 心臓をささげてから、新しい人生へ   第19話

    今、廷悟は目の前の人をじっと見つめていた。ようやく、彼は自分に嘘をつくことをやめた。「最初は好きな人の代わりのような存在だと思ってたが、今は本当にあの人を愛してしまった。彼女が他の誰かとの違いがはっきりわかる。彼女を見るとき、もう他の誰かだとは思えなかった」心美の声はかすれていて、涙を堪えようと必死だった。「それで?」今廷悟の言っていることは、心美が過去八年間、一度も感じたことのないことだった。八年間、彼は自分を少しでも大切にしたことがあるのだろうか?「だから後悔してるんだ......」廷悟の目は赤くなり、声も震えていた。「もっと早く自分の気持ちに気づけばよかったと。なぜ彼女を傷つけ続けたのか、なぜ取り返しのつかないことをしてしまったのかと。節美、俺は後悔してるんだ。許してくれないか?もう一度やり直そう、少しずつでも君に償いをするから。過去を忘れよう、お願いだ」廷悟はそう言いながら、彼女の手を掴んで、目を赤くして尋ねた。心美はその手の震えを感じた。だが、彼女の心はすでに彼によって散々傷つけられていて、もうこんな遅すぎる愛を受け入れることはできなかった。心美はゆっくりと彼を押し退けて、目に涙を浮かべながら、薬指に嵌められた指輪を見せた。「この方、何を言ってるのか分かりません。私は心美であって、節美ではありません。そして、私には婚約者がいますよ」廷悟は目を丸くした。彼はその指輪を見て、反射的に反論した。「ありえない!」節美は冷たく言い返した。「どうしてありえないの?」「だって君は俺のことが好きだろう?」廷悟は感情を抑えながら言った。「君が好きなのは俺だ。他の誰かと婚約するわけがない。きっと嘘だろう?わざと俺を怒らせようとしてるんだよな?今、俺は自分の過ちがわかったんだ。これからもう二度と君を傷つけない。だから、その指輪をしまってくれないか?」廷悟の言葉はほとんど泣きついているようだった。心美は突然、目頭が少し湿っているのを感じた。彼は何もかも知っていた。かつて自分がどれだけ彼のことが好きだったか、どれほど傷つけられたか。彼はただそれに気にも留めなかっただけだった。自分が最も廷悟を愛していたとき、もらったのは無限の傷だけだった。今、廷悟が目の前でそんなこ

  • 心臓をささげてから、新しい人生へ   第18話

    心美が家に帰った。ドアに入った瞬間、心美の母が心配そうに駆け寄ってきた。「心美、ボディーガードが言ってたんだけど、今日は外でちょっとおかしい人に遭ったって?大丈夫だった?怖かったでしょ?怪我はしてない?」母は心美の体を上から下まで見回し、無事を確認したら、ようやく安心したように胸を撫で下ろした。「本当に驚いたわ。こんな昼間に、あんな狂った人に遭遇するなんて」心美は母の心配している顔を見て、心の中で温かい感情が湧き上がった。システムは確かに、彼女に素晴らしい家庭を与えてくれた。彼女の両親は自分のことを心から愛しており、二人の兄も自分を大切にしているのだ。攻略対象も、幼馴染であり、婚約者でもある。すべてがとても幸せだった。ふと、会話の途中で途切れた話を思い出し、心美は口を開いた。「でも今日は健二に会えなかったね」母はすぐに慰めた。「大丈夫、大丈夫。私は加藤さんとは友達だから、今晩家に招待して夕食を一緒に取ることにしたわ。今夜会えるわよ」心美は苦笑した。システムと母の言葉によると、加藤健二(かとう けんじ)は良い人だった。この任務は、難しくないようだ。その頃、廷悟は落ち込んで家に帰り、心美を探すためにあらゆる手を尽くしていた。すぐに父、いや、もう父じゃないのだ。西園寺当主から返事が来た。「廷悟、この方は入江家の令嬢だぞ。何でこの方を探すんだ?」廷悟は心美の写真を見つめて、指が震えながら言った。「違う、この人は節美だ」父は驚いて、廷悟が狂っているのかと思った。何か言おうとしたが、廷悟はすでに家を出ていた。三日後、チャリティーの晩餐会で。招待客として、マーメイドドレスを着ている心美が現れた。隣には健二が立っていた。二人が一緒に現れることで、入江家と加藤家の結婚の噂が知らず知らず証明された。周りの視線が二人に集まって、「お似合いだな」と褒められた。しかし、隅の席で廷悟はその光景をじっと見つめて、拳を握りしめた。彼は目の前の人物が節美でないわけがないと信じていた。手に持っていた酒を一気に飲み干して、廷悟は心美の方へ歩み寄った。心美も少し酒を飲んだから顔が微妙に赤くなって、誰もいない室外で休んでいた。その時、廷悟が目の前に現れた。酔いが完全に醒めた心美は、背筋

  • 心臓をささげてから、新しい人生へ   第17話

    月美は完全に見捨てられていた。母はもはや月美に寄り添う気力もなく、毎日ぼんやりとした精神状態で過ごし、次の日にはもう家に帰らせてしまった。父ももう月美には関心を示さず、理由をつけて会社へ戻った。廷悟の精神状態も日に日に悪化していた。彼は節美の死を信じられなかった。毎日、節美とシステムを探し続けて、説明を求めていた。そんな中、その友人が見ていられなくなり、廷悟を外に連れ出して一緒に酒を飲むよう説得して気を紛らわせようとした。ちょうど通りの向こう側で、常夜灯の下に立っている一人の少女が目に入った。その少女は明るい目をしていて、白い歯を見せながら微笑み、動き一つ一つが節美にそっくりだった。廷悟は突然立ち上がり、何も考えずに外へ駆け出した。車が飛び交う横断歩道を渡ろうとしたところで、友人に引き止められて、危うく事故を避けた。しかし、再びその方向を見ても、もうそこにはその少女の姿はいなかった。廷悟は焦り、今見たものが本物だったのか、幻だったのかを考える暇もなく、再び横断歩道の向こうへ駆けて探し始めた。その時、節美はすでに入江心美(いりえ ここみ)という名前で別の体を得て、新たな攻略任務のために生きていた。カフェで次のターゲットが来るのを待ちながら、システムは彼女に「今回の任務は難しくありません。むしろ補償的なものです」と告げた。しかし、待っている相手がまだ現れないうちに、不意に目の前に現れた人に驚いた。「節美!」廷悟はそのカフェまで追いかけて、窓際に座っていた節美を見つけた。長い間抑え込んでいた思いと感情が一気に溢れ出して、彼は思わず彼女を抱きしめた。心美は体を硬直させ、すぐに反応して廷悟を押しのけた。「すみません。誰ですか?」体が変わってから、心美は廷悟と再会したことはなく、廷悟に関する情報も意識的に避けていた。そのため、彼がこんなにも荒れた姿になっていることなど知るはずもなかった。かつては清潔を重んじて、潔癖症だった廷悟は、今では髭を生やし、目の下には深いクマができていて、目は赤く、涙まで浮かんでいた。その目で、まるで失われた宝物を再び見つけたかのような目で彼女を見つめていた。心美は驚いて、後ろに一歩下がった。廷悟が自分の去ったことをそんなに悲しんでいるとは、思っていなかった。

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