LOGIN柚は高校時代に撮った奏との写真を捨てられずに持っている。その写真を結花に見られてしまったことがあった。
子供ながらに写真に写っているのが父だと直感したのだろう。何度も「パパは何処にいるの?」と聞かれた。その度に「パパはね、結花の生まれる前に亡くなってしまったの」と伝えてきた。 それが、今回奏と出会ってしまったことで、写真の人物と同一人物だと気付かれてしまった。 柚は焦る素振りを見せず、極めて冷静に結花と向き合った。 「あのね、結花のパパはもうこの世にはいないのよ。残念だけど、あの先生は結花のパパじゃない」 しっかりと目を見つめながら言い聞かせるように伝えると、結花は黙って頷いた。 悲しい顔で俯く娘の姿を見る度に心が痛む。素直に聞き入れてくれるから尚更だ…… だが、今はそんな事を言っている場合では無い。これから急ぎの会議があるので、会社へと急がなければならない。結花を送って行く時間もなく、このまま会社へ連れて行くしかなかった。 「あっ!」 会社のロビーで結花が声を上げたかと思えば、顔を輝かせて走り出した。その視線の先には、柚の上司である神谷煌がいた。 煌は飛びつく結花を受け止めると、嬉しそうに抱き上げた。 「お転婆娘!重くなったな!」 「もう6歳だもん!」 傍から見れば仲の良い親子のような光景に、周りの目も暖かい。 上司である煌は柚の命の恩人でもある。 7年前、煌は仕事の都合で訪れていた国で、道端に倒れている柚を見つけ病院へと運んだ。すぐに処置をされ大事には至らなかったが、身寄りのない身に加え妊娠中だと聞き、放っておけなかった。 煌は行く所のなかった柚を自分の家へと連れてきた。最初は遠慮して拒まれたが、半ば無理やりに連れ帰ってきた。 「ここの方が少しは休めるだろう」 「ありがとうございます」 そこで改めて自己紹介を交わした。そこで、お互いに日本人である事が分かり意気投合して、故郷の話に華が咲いた。緊張が解れたのか、自然と笑顔になる柚を見て煌も笑みがこぼれた。 「良ければ落ち着くまで俺の所に来ないか?」 「え?」 「あぁ!変な意味じゃないぞ!身重の体では何かと大変だろう?それに妹が君と同い年だから、いい話相手にもなってくれると思う。嫌になったらすぐに出て行ってくれて構わないから」 捲し立てるように説明してくれた。 明らかに訳ありの女だと言うのに、この人は何も聞かずに受け入れてくれると言ってくれた。それだけで充分誠実さは分かった。 そんな煌の好意を断ることも出来ず、煌にしばらくの間お世話になっていた。 煌の妹である神谷桜とは、同年代という事もあってすぐに打ち解けた。毎日のように連絡を取り、他愛のない話で盛り上がった。その時間が楽しくて、学生に戻った様にも感じた。 当時、煌の仕事が忙しく、家に仕事を持ち帰ってくる事も多かった。その度に頭を抱える煌を見ていたので、少しでも力になれればと助力してみた所、目を見開いて驚かれた。 「驚いた……君は聡明な人だな」 そこまで驚かれるとは予想外だったが、力になれた事が嬉しかった。その後、煌に能力を買われて仕事を斡旋してもらえた。 現在は、仕事の都合で同じ時期に帰国している。上司と部下として…そして、家族のような存在として側にいてくれる。 「俺がこの子の父親になるよ」 父親のいない結花を心配して、自分が父親になると言ってくれたが、それは煌の未来を奪うことになってしまうからと断った。 これ以上、この人達に迷惑はかけられない。感謝してもしきれないほどの恩がある。 (いつか返せたらいいな) *** 奏は、朝倉遥乃が亡くなったと言う報せにしばらく呆然としながら、7年前のことを思い出していた。 彼女と付き合っていた二年間は、奏にとっても穏やかで幸せな時間だった。彼女のぽっちゃりとした容姿させえも可愛らしいと思っていたが、みんなの前では言えなかった。 遥乃の誕生日、初めて身体を重ねた。心も身体も満たされ、最高に幸せだった。当然、彼女も同じ気持ちだと思っていた。 それなのに、彼女は卒業パーティーに来なかった。 最後まで待っていたが現れず……会場を出る時、扉の前に綺麗に包装された箱を見つけた。 「なんだ?」 そこには、彼女からの卒業を祝うメッセージと、自分の為にと贈られた万年筆が入っていた。 彼は慌てて探したが、目の前には誰もいなかった。それ以来——奏はずっと遥乃を探し続けていた。 周囲の人々は「もう諦めたほうがいい」と言ったが、彼は頑なに拒んだ。今も独身で誰とも交際していない。 この数年、彼はすべての近づく温情を拒み、周囲の思いやりも拒絶し、一度の本当の恋愛も始めなかった。孤独だけが彼の伴侶となり、夜の静寂の中で、思い出が針のように心を刺し、息が詰まるほどの痛みを与えた。 無数の人混みの中で、彼は彼女に似た背中を何度も見かけた。 そのたびに胸の中に希望の火が灯るが、毎回、絶望で終わった。どれほど馴染みのある輪郭でも、結局は彼女ではなかった。 しかし先ほど、偶然にその母親の背中を目にした瞬間、強烈な既視感が潮のように押し寄せ、彼は思わず足を止めた。心の中で思った——たぶん、ただ自分の思いが過ぎたせいだろう、と。 奏はそれ以降、遥乃を探した。周りからは「いい加減諦めろ」と言われたが、頑なに拒否しつづけた。その結果、未だに独身を貫いて彼女すらいない。 「そう言えば、さっきの母親……何処かで見たような」 診察室から出る柚の背中に懐かしさを感じた。気のせいかもしれないが、何故だろうか……脳裏に焼き付いて離れない。 「次の診察は……一ヶ月後か」 次に会えば、この違和感の原因が分かるだろうか。そう思いつつ、仕事へと戻った。奏はジッと柚の瞳を見つめていた。「……君の気持ちは分かった」 呟くような言葉に、ぎゅっと拳に力が籠る。「要は、僕が実家と縁を切ればいいんだろう?」「は?」「結花ちゃんを守りたいのは僕だって同じさ。その為には藤原を捨ててもいい。そう言ってるんだよ」「いや、おかしいでしょ!?」 声を荒らげ、テーブルを思い切り叩きつけた。コップに入った水が溢れるが奏は気にせず真顔で「何が?」と問いかけてくる。「自分の親をそんな簡単に切り捨てるなんて正気じゃない」「それだけの覚悟があってここに来てるんだ」「ッ!」 鋭く光る眼光に息を飲んだ。 奏は本気だ。何もかも捨てでも私と結花が欲しいという想いが伝わってくる。ドキドキと胸が高鳴る。(私、嬉しいの……?) 困惑でも戸惑いでもない。心が喜んでしまっているのに気が付いた。「柚、嫌いになれないって事は好きって事だよ」「……ううん。違う」「違わない。君は僕の事が好きなんだよ」「いい加減素直になりなよ!」顔を逸らそうとしたが、奏に抑えつけられて逸らせない。奏の綺麗な瞳に自分の顔が映り込む。その表情は切なくて、苦しそう…… ああ、結花が言っていたのはこの表情なのかと察しがついた。「……少し時間を頂戴……」 奏の手をそっと引き離した。ここで結論を出すには時間が足りない。仮にも今は煌と付き合っている。煌を裏切ることはできない。 奏は柚の気持ちを汲み取り「それなら」と一週間後にもう一度会おうと伝えてきた。「気持ちの整理がつかなくてもいい。その時はまた時間を作ろう?どんな結末になろうと僕は受け入れるから」「うん……分かった」 大人しく頷く柚の頭を撫でると、伝票を手に席を立った奏。「午後も仕事だろう?頑張ってね」「あ、お金」「いいよ。これぐらいさせて?」 そう言ってレジに向
お昼の休憩時間、柚は一人カフェで人を待っていた。「ごめん。待たせた?」 「今来たところだから大丈夫」 向かい合うように座ったのは奏。結花と話をした後、奏に『今日会える?』とメッセージを送っていた。「初めてじゃない?君から連絡くれるの」 「そう?」 嬉しそうに口を開く奏に対して、浮かない表情の柚。言葉も自然と素っ気ないものになってしまう。いざ、顔を合わせると何を話していいのか分からず、沈黙が続く。 こんな場面、煌に見られたら大変なことになる。早くしなきゃと気だけが焦る。「……ねぇ、なんで柚は僕に会ってくれたの?」 黙っている私を気遣ってか、奏が声をかけてきた。「それは、結花が……」 「違うでしょ」 はっきりと言い切った。「結花ちゃんに言われたか僕と会ったって?そんなのいいわけだろ。別に会わなくても適当に誤魔化せるじゃないか」 「そんなこと――」 「違うって?いつまでそんな事言ってんの?」 「!!」 まるで私が奏に会いたかったような口ぶりで責め立ててくるが、悔しいことに言葉が出てこない。「君の本当の気持ちを知りたいんだよ。本当に僕の事が嫌いだと言うんならもう二度と目の前には現れない」 まるで私の心を見透かすような眼差しに、ドキッと胸が跳ねる。(私の本当の気持ち……) 煌は好きだ。だけど、それが恋愛感情かと問われたら答えに困るかもしれない。――じゃあ、奏は? 憎しみはあるが、嫌いかと聞かれたらそうではない。初めて本気で好きになった相手で、結花を……私を母にしてくれた人。捨てられたと分かった時、辛かったし苦しかった。けれど、どうしても嫌いにはなれなかった。「大丈夫。全部受け止める。だから、話して?」 俯いたままの私の手を握り、優しく声をかけてくる。心にかかっていた靄が晴れる気がした。「私は……貴方を恨んでるし憎い。多分これはずっと癒えない傷。けど、嫌いにはなれなかった。何度も嫌いになろうとしたのに、無理だった
煌と付き合い始めたが、いつも通りに毎日が過ぎて行った。 変った事と言えば……「行ってくる」 「行ってらっしゃい。またあとでね」 「ああ。……柚」 「ん?」 チュッ「――ッ!!」 「じゃあ、先に行くな」 送り出す時に必ずキスをしてくるようになったくらい。(もう……) 火照る顔を誤魔化すように手であおいだ。元々甘やかしだったが、付き合うようになってから加速している気がする。嫌とかそう言うんじゃないけど、心臓に悪い。「――ん?」 リビングへ行くと、ニヤニヤしている結花と目が合った。「ラブラブですねぇ」 「……」 結花には頃合いを見て伝えるつもりだったのに、いつの間にか煌が伝えてしまっていた。それからと言うもの生暖かい目で見つめてくる。「でもさ、本当にいいの?」 「何が?」 洗い物をしていると、思い詰めたような顔で問いかけてきた。「煌君のこと」 「え?結花は嫌?」 「そういうんじゃいよ。ママの気持ち」 そう言われ、動いていた手が止まった。「煌君は昔から一緒だったし、なんならパパだと思ってた人だから」 「そうね」 「でも、奏先生は?」 ドキッと胸が鳴った。「ママさ、気づいてないかもしれないけど、奏先生を見る目すごく優しかったよ?」 「え」 「だから、ママが好きなの先生なんだって思ってた」 「……」 「煌君とは違う。最近のママ、凄く苦しそうに笑ってる」 結花は眉を下げて心配そうに私を見ている。こんな小さな子に心配されて……私は何をしているんだろう。「……奏先生とこの間会ったの」 「え
結花が眠りに付き、煌と二人の時間になった。「なあ……帰りのあれ、本心か?」 「え?」 「俺と結婚を前提ってやつ」 「あ」 あの時は奏を諦めさせるために、それしか答えが出てこなかったけど、改めて考えると恥ずかしくなってきた。「今更なかったなんて言わないよな?」 「えっと……いいの?」 「当たり前だろ」 なんか売り言葉に買い言葉のようになってしまったから、納得できないんじゃないかなと思ってた。 煌からすれば、柚の口から聞けただけで十分だった。それが例え、その場限りのものだとしても……「ずっと夢見てたんだ。お前と一緒になることが俺の夢だったんだ」 柚を自分の腕に抱き寄せながら伝えた。 柚は微かに震える煌の肩に手を回した。言葉にしなくても、その仕草で煌の心は晴れやかになる。「柚……」 そっと顔を見つめると、どちともなく唇を寄せ合い深いキスを交わした。 *** 奏はホテルで酒を呷っていた。 窓に輝く街の灯りは腹が立つほど綺麗で、遥乃と付き合って頃を思い出させた。「奏くん、綺麗ね」 「そう?ただの灯りじゃないか」 「もう、乙女心がわかってない」 夜景の見えると話題の観覧車に乗った時の会話だ。素っ気ない態度を取って怒らせてしまった。 カップルばかりで、何となく居心地が悪くて夜景なんてどうでもいいから早く終われと思いながら乗っていたのを覚えてる。僕はつまらなそうにしていても、遥乃はとても楽しそうに顔を輝かせて外を眺めていたな…… 今なら共感できる。凄く綺麗だ。 そう思っても、伝える相手がいない。それがどれだけ寂しくて虚しい事か…… 奏の頬を一筋の涙が伝った。「ッ!?」
いつも通りの時間に仕事を終えた柚は、会社の前で煌が終るのを待っていた。 季節は暖かい時期を過ぎ、肌寒くなってきていた。(さむっ) 手を擦りながら行きかう人の顔を見ていると、忙しなく歩く人や笑顔で楽しそうに会話をしながら歩く人。手を繋ぎながらあるくカップルなど、いろんな人が目につく。 その中で、ある人に視線が止まった。(あ、れ?) 相手も、こちらの視線に気が付いたのか、こっちに向かって歩いて来る。まさか……という思いが頭をよぎる。「柚」 笑顔で名前を呼ぶその人は、紛れもなく奏その人……「なんで……?」 「ごめん。迷惑なのは分かってる。だけど、やっぱり君の事が諦められない」 困惑する私を余所に、自分の気持ちを伝えてくる。今そんな事を言われても、理解が追い付かない。「仕事は終わったんだろ?少しだけ話せるかな?」 眉を下げ、遠慮しがちに言われても、前に進むと決断した今、こちらには話す事など何もない。ここで奏の話を聞けば、変な期待を持たせることにもなる。「……私は貴方と話すことはない」 「少しでいい」 「やめて。こんな所までやって来てどういうつもり?」 「僕はもう君を失いたくないんだ」 「随分、自分勝手な事いうのね」 こんな所で口論していれば、嫌でも目に付く。会社の前という事もあって、知った顔もちらほら視界に入る。「本当に迷惑なの」 「どうしたら、償える?」 「二度と目の前に現れないで」 「それはできない」 一向に引こうとしない奏に、溜息しか出ない。そんな時、煌が会社から出てくるが見えた。「私、彼と結婚を前提に付き合ってるの」 煌を指しながら奏に伝えた。「え?」 それに驚いたのは奏んだけではなく、煌も同じこと。目を見
煌は苛立っていた。 奏に会った事で早朝会議には遅れ、巻き返そうとしたら手元に置いたコーヒーをこぼし、書類を駄目にしてしまった。 奏に会ったと言うだけでも憂鬱だってのに、悪い事は重なるものだと、頭を抱えながら息を吐いた。 柚が遭遇していないか心配だったが、出社して来た柚を見る限り、接触した様子はない。「なに?眉間に皺なんか寄せて……みんな怖がってるじゃない」 「ああ、すまない」 柚に注意され、寄っていた皺を伸ばすように眉間に手をやった。「何かあったの?」 「お、心配してくれるのか?」 「ち、違う!職場の雰囲気が悪くなるから!」 軽口で応対する俺に、柚は顔を真っ赤にさせて怒った風に見せてくる。だが、心配してくれているのは見れば分かる。(くくくっ、本当に嘘が付けないな) ここが職場じゃなければ抱きしめていた所だ。「今日は仕事早く切り上げるから一緒に帰ろう」 わざと耳打ちする様に言えば、更に顔を赤らめる。こうした一つ一つの仕草までが愛おしい。(もう重症だな) 自分で自覚がある分、救いがあるか。 *** 煌から告白を受けた。 驚きはあったものの、どこかで桜と私に接する態度や仕草が違う事に気が付いていたのに、気付かないフリをしていたのかもしれない。それも煌には知られていたのかもしれない。言葉にしてしまえば、私を困らせることになると……(困ったな……) いや、困ったという表現は違う気がする。だって、このまま煌と一緒になるのが私にとっても結花にとっても一番いい選択だと思っている。「はい」そう一言伝えるだけなのに、その一言が出てこない。 どうしても、奏の顔がチラついてしまう。いつまでも私の心の奥底にしがみついていて離れてくれない。……そうしているのは私自身なのかもしれない……







