LOGIN神殿の修練場は、いつになく穏やかな空気に包まれていた。
木剣が打ち合う乾いた音と、騎士たちの威勢の良い声。 それは普段と変わらない日常の風景だが、決定的に違うことが一つだけあった。 「……今日は、平和だな」 修練場の隅で腕を組む騎士団長が、深い安堵の息を吐き出した。 「ええ。午前の修練が半分終わりましたが、木剣の消費はゼロです。経費係が泣いて喜んでおりました」 隣に立つ副団長も、まるで嵐が過ぎ去った後のような穏やかな顔で頷いている。 二人の視線の先には、若き新任騎士ユーロスの姿があった。 彼は三人の先輩騎士を相手に、流麗な剣捌きで立ち回っている。 恵まれた体躯から繰り出される剣撃は重く鋭いが、そこには一切の力みがない。相手の隙を的確に突き、次々と木剣を弾き飛ばしていく。 「参った! 相変わらず強えな、ユーロス」 「いえ、ケイロン先輩の今の踏み込み、非常に鋭かったです」 地に倒れたケイロンに爽やかな笑顔で手を差し伸べるその姿は、どこからどう見ても『非の打ち所がない完璧な騎士』そのものだった。 「ユーロス、今日は妙に落ち着いてるわね」 短く結った髪を解き、汗を拭いながら、先輩騎士のサティが声をかけた。 「いつもなら、渡り廊下の方をチラチラ見ては、勝手に木剣を握り潰してるのに」 そのからかい半分の言葉に、ユーロスは剣を納め、涼やかな顔で答えた。 「当然です。本日はシルフィ様は東の街へ巡礼に出向かれておりますから。お姿が見えないことは、朝から承知しております」 「ああ、そうだったわね」 「はい。シルフィ様がこの神殿にいらっしゃらない以上、私の心は凪いだ水面と同じです」 「へえ」 「今朝もお見送りした後、三十七回ほど深呼吸を行い、動揺は完全に鎮めました」 「全然凪いでなくない?」 シルフィが視界に入ると途端に頭のネジが吹き飛んで狂気的な握力を発揮する彼だが、彼女が不在であれば、ただの『最強の若き騎士』に過ぎない。 「なるほどな。お前、シルフィ様がいないと普通に超優秀な奴なんだな……」 先輩騎士たちは、どこか遠い目をしながら納得した。 平和だ。 誰もがそう思った。 修練場には爽やかな風が吹き抜け、木剣がへし折れる不穏な破裂音に怯える必要もない。 シルフィ不在の神殿は、ユーロス本来のポテンシャルを遺憾なく発揮させ、騎士団に平穏な日常をもたらしていた。 「よし、午前の修練はここまで! 各自、休息をとれ!」 副団長の号令が響き、騎士たちが三々五々、日陰へと向かっていく。 ユーロスもまた、木剣を定位置に丁寧に戻した。 そして、昔馴染である先輩騎士の元へと歩み寄り、至って真剣な表情で口を開いた。 「ケイロン先輩」 「ん? どうした、ユーロス」 「シルフィ様がお戻りになる夕刻まで、あと五時間と十二分あります」 「お、おう。そうだな」 「……十一年待てたのです。五時間など短いものです」 「じゃあ何でそんな顔してんだ?」 「心が耐えません……」 「…………」 修練場に、気まずい沈黙が降りた。 涼やかな顔で、とんでもない極論を大真面目に相談してくる期待の新人。 「……お前、やっぱり変わってんな」 「え?」 「いいから休め。頼むから、大人しく飯を食って普通に休んでくれ」 「しかし、シルフィ様への愛がこの胸を焦がして……ッ」 「副団長ー! ユーロスがまた滝に行こうとしてまーす!」 「行かせるな!」 「しかし副団長、これは試練なのです!」 「何がだ!?」 「あと五時間と十二分あります……」 「だから何だ」 「あと五時間十一分になりました……」 「知らん!」 騎士たちが昼食へ向かった後、ユーロスはふと空を見上げた。 東の空。 シルフィが巡礼に向かった方角だった。 「……あと、五時間」 十一年待てた。 それでも今日という一日は、どうしようもなく長い。 「早く、お顔が見たいな」 誰にも聞こえない声は、風に溶けた。 その直後―― 「ユーロス!」 「はい?」 「空見てないで飯食え!」 「失礼しました」柔らかな朝の光が、カーテンの隙間から寝室へと滑り込んでいた。 かつては神聖な孤独が支配していたその空間も、今では一人の男の体温と、穏やかな安らぎに満たされている。 シルフィは微かな重みを感じて目を覚ました。 隣では、夫となったユーロスがまだ深い眠りの中にいた。以前の彼なら、彼女が目覚める一時間前には起きて護衛の準備を整えていただろう。 だが今、彼は「妻」の隣で、無防備で穏やかな寝顔を晒していた。(……本当に、幸せそうな顔ですね) この歳で初めて知った、誰かと共に目覚める体温。 シルフィはそっと手を伸ばし、彼の跳ねた薄茶色の髪を指先で整えた。「……ん……。おはようございます、シルフィさん」 微かな感触に気づいたのか、ユーロスがゆっくりと目を開けた。 寝起きの少し掠れた甘い声。彼はもう彼女を「女神様」とは呼ばない。対等な一人の男として、愛おしそうに彼女の名前を呼ぶ。「おはようございます、ユーロス。……さあ、起きてください。朝食にしましょう」 厨房からは、香ばしい……というには、少々「行き過ぎた」匂いが漂っていた。 今朝の当番だったユーロスが、気合を入れすぎて朝食のパンを焼きすぎてしまったらしい。 食卓に並んだ、見事なまでに黒ずんだパン。 シルフィはそれをジッと見つめ、至極真面目な顔で分析を始めた。「……表面の炭化率、およそ四割。これはもはや、主食というよりは燃料に近い状態ですね」「……すみません。シルフィさんの横顔に見惚れていた
風の神殿を包む春の夕暮れは、いつになく鮮やかで、そして穏やかだった。 『風の柱』としての激動の日々を越え、己の内の「名付けられぬ痛み」の正体が「恋」であると認めてから、幾月。 シルフィは、神殿の最上階にあるバルコニーの縁に手をかけ、オレンジ色に染まる世界を見渡していた。 背後から、慣れ親しんだ、けれど聞くたびに胸の奥を甘く焦がす足音が近づいてくる。「シルフィ様。……お茶が冷めてしまいますよ」 歩み寄ってきたユーロスは、かつて泥だらけの少年だった面影など微塵もない、立派で精悍な大人の男の顔をしていた。 彼はシルフィの隣に立つと、言葉を交わさずとも彼女の僅かな震えを察し、ふわりと温かい上着を彼女の肩にかけた。 その不器用で、けれど絶対的な慈愛に満ちた仕草に、シルフィは思わず目を細める。 かつての二人は、完璧な女神と、盲目的な騎士という役割の影に隠れて生きていた。 けれど今は、互いの弱さも、醜い執着も、全てを曝け出した一人の女と男としてここにいる。 不意に、ユーロスがシルフィの正面に回り込み、静かにその場に片膝をついた。 何度も見てきた、儀式のような所作。 けれど、夕陽を背負った彼の瞳は、かつての狂信的な熱ではなく、一人の女性の人生を背負おうとする、静かで重い覚悟を宿していた。「シルフィ様。……この春の良き日に、改めて、言わせてください」 彼の低く、よく響く声が、春の澄んだ空気に溶けていく。「十一年前、貴女に救われたあの日から、俺はずっと貴女を見つめてきました。最初は『慈愛の風の柱』として。けれど今は――ただの、不器用で愛おしいシルフィさんという女性を」「……ユーロス」「俺の過去も、現在も、そし
神殿の執務室。副団長は、珍しく静かな午後のひとときに深く椅子に背を預けていた。 あの「分かりやすすぎる二人」――ようやく想いが通じ合ったシルフィとユーロスが、揃って視察に出かけているおかげだった。(……平和だ。胃が、痛くない) 窓の外から流れてくる穏やかな風。これこそがかつての神殿だった、と感傷に浸りながら温かい茶を啜ろうとしたその時。『失礼します、副団長』 短いノックと共に、サティが入ってきた。 二十四歳の優秀な女性騎士。ユーロスへの失恋を凛とした態度で乗り越えた彼女の姿には、近頃、以前にも増して逞しさが加わっていた。「ああ、サティか。どうした、視察の留守を預かる分隊の報告か?」「いえ……。個人的な、相談が」「…………」 副団長は、口に運ぼうとしていたティーカップを静かにソーサーへと戻した。 嫌な予感がした。 この神殿で「個人的な相談」と言えば、ろくなことが起きた試しがない。「最近、その……ちょっと気になる人が、できまして」『……ッ!』 副団長は音も立てずに己の柔弱な腹部を強く押さえた。急激な胃の収縮。「……サティ。お前まで、ユーロスのような恋愛事故を起こすつもりか?」「違いますよ! あんなのと一緒にしないでください!」 サティは顔を赤くして反論したが、すぐに視線を彷徨わせ、不器用に髪を掻いた。「ただ、その相手が…&hel
冬の柔らかな陽光が、風の神殿の庭園を黄金色に染め上げていた。 恋人という、未だに背筋がむず痒くなるような関係になってから数ヶ月が過ぎた。シルフィとユーロスは、公務の合間のわずかな休息として、静かな散策を楽しんでいた。 ふいに、ユーロスが庭園の隅にある、何の変哲もない植え込みの前で足を止めた。「……ここです。俺のすべてが始まった場所は」 感慨深げに目を細める彼とは対照的に、シルフィは小首を傾げ、記憶の糸を懸命に手繰り寄せた。「……ここ、でしたか? 確かにあの頃、私はこの庭園で祈りを捧げるのが日課でしたが……」 正直に言えば、彼女の記憶はひどく曖昧だった。 二十歳という若さで『風の柱』を継承してからというもの、彼女は目の前の責務を果たすのに必死だった。 日々の公務の中で、泥だらけで迷い込んできた子供を救うなど、彼女にとっては「慈愛の女神」としての、呼吸をするのと同じくらい当たり前の、数多く救った子供たちとの一幕でしかなかったのだ。「すみません、ユーロス。……あの日、貴方を助けたことは覚えているのですが。……正直に言えば、貴方がどのような顔をして、どんな声を上げていたかまでは、あまり鮮明には……」 申し訳なさに眉を寄せるシルフィに、ユーロスはショックを受けるどころか、どこか誇らしげに、そして愛おしそうに微笑んだ。「それでいいのです、シルフィ様。貴女にとっては、救うべき大勢の中の一人に過ぎなかった。……けれど俺にとっては、泥の中に差し込んだ唯一の光だったのですから」 ユーロスは一歩踏み出し、シルフィの細い手を両手で包み込んだ。
恋人という関係に昇格してから、シルフィの胸には新たな、そして重大な悩みが居座っていた。(……いつも、彼にばかり尽くさせてしまっています) 絶妙な温度の紅茶、冷えないように掛けられるひざ掛け、そして過剰なまでの賛辞。 ユーロスから与えられるばかりの自分に、シルフィは「年上の恋人」としてのプライドを刺激されていた。「たまには私の方から、彼の心身を労う何かを……そう、手料理など作って差し上げるべきではないでしょうか」「柱」としての膨大な知識から、シルフィは一つの結論を導き出した。「『胃袋を掴む』。古今東西、愛を繋ぎ止めるにはこれが一番の近道と聞きます。幸い、私には風の精霊を操る緻密な魔力制御があります。料理など、容易いことでしょう」 そう自信満々に、神殿の厨房の片隅を借りたのが一時間前。 現在のシルフィは、目の前の「玉ねぎ」という名の強敵に、かつてない戦慄を覚えていた。「……おかしいですね。なぜ、切れば切るほど涙が止まらないのでしょう。魔族による精神干渉魔法の類でしょうか……っ」 碧い瞳を潤ませ、鼻先を赤くしたシルフィは、震える手で包丁を構える。「ええい、こうなれば風の魔力で……! 精霊たちよ、この野菜を極薄の輪切りにしなさい!」 風の柱としての、超精緻な魔力制御。 本来なら数千の風の刃で敵を微塵切りにする魔法が、狭い厨房で発動した。『シュババババッ!!』 凄まじい風切り音と共に、玉ねぎが空中へ舞い上がる。 しかし、料
その日、風の神殿の接見の間には、不穏な「華やかさ」が満ちていた。「おお、ダイタニアの至宝、美しき風の柱シルフィ閣下。貴女の瞳を拝見しただけで、我が故郷の青い海を思い出します」 大仰な仕草で跪き、シルフィの白手袋を嵌めた手に唇を寄せようとしているのは、隣国の特使として訪れた若き伯爵、ジュリアンだった。 金髪を揺らし、香水の匂いを漂わせる彼は、大陸でも名の知れた浮き名を流す色事師である。 シルフィは完璧な女神の微笑みを貼り付けたまま、内心で静かに悲鳴を上げていた。(……近いです。非常に、距離感がおかしいです、この方は) いつもなら、ここで「シルフィ様!」と危急の声が飛んでくるはずなのだが、今日は後ろに控えている「彼」が、驚くほど静かだった。 シルフィがおそるおそる背後を振り返ると、そこには「発光する大型犬」の面影を完全に消した、氷の彫像が立っていた。「……特使閣下。我が主君の御手は、外交の調印のためにあるものです。貴国の親愛を示すのであれば、その唇は、あちらに用意した羊皮紙にのみ捧げていただけますか」 ユーロスの声は、シルフィが聞いたこともないほど低く、冷ややかだった。 彼の周囲だけ、物理的に気温が数度下がったのではないかと思えるほどの、絶対零度の威圧感。「おや、厳しい護衛殿だ。シルフィ様、これほど野暮な男が隣にいては、貴女の慈愛が曇ってしまう。どうでしょう、この会談が終わった後、月の見えるテラスで口直しに……」 ジュリアンがさらに甘い声を重ねようとした、その瞬間。『メキッ』 静寂の中に、不穏な破砕音が響いた。 ユ







