FAZER LOGIN朝食を終え、それぞれ食器を片付ける。「洗い物、私やりますね」 「じゃあ拭く」 いつものように役割分担を決めて、二人でキッチンへ立つ。 食器の触れ合う音と、スポンジが陶器の上をすべる音。それから梅本先生が私が洗い終えた食器を拭く音、水道から流れる水音……。そういう音たちが静かにキッチン内に響いている。 うなちゃんは少し疲れちゃったのかな? リビングで寝そべっていた。 こんな何気ない時間なのに、今日は隣に梅本先生がいると意識しただけでなんだか落ち着かない。 食器を洗い終え、水を止めたところで。「穂乃」 「は、はいっ」 また、下の名前。 反射的に振り返ると、梅本先生が布巾を持ったまま不思議そうにこちらを見ていた。「もしかして……緊張してる?」 「えっ。あの……少しだけ……。なんかすみませんっ」 「別に謝ることじゃねぇけど」 ふっと笑う。 その笑顔だけで、また胸が忙しくなる。 「なぁ」 「はい?」 「それってさ……俺のこと、少しは意識してくれてるって思っていい?」 「えっ……!?」 「違うの?」 「あ、えっと……違……わない、です」 私がしどろもどろに言ってうつむいたら、梅本先生が「だったら……」ってつぶやいた。 何を言うつもりだろう?って思ったと同時。 「穂乃もさ、俺のこと、下の名前で呼んでよ」 まるで名案を思い付いたみたいに梅本先生がニヤリと笑う。 私はそんな彼の顔を見上げて言葉に詰まった。 「ほら、俺はずっと穂乃って呼んでる。だからさ……穂乃にも同じようにして欲しいんだけど」 当たり前のように言われて、また心臓が跳ねた。 「俺だけ『梅本先生』って……なんか距離感じて寂しいじゃん?」 「そ、それは……」 「家にいるのに職場か! って思うんだけど」 「うっ……」 確かにそんな風に感じてしまったら、帰宅しても寛げないかもしれない。 でも……私にとって梅本先生は梅本先生だし……。 今さら学校と違う呼び方なんて出来ないよ。 何より――。「急に下の名前でなんて……」 「恥ずかしい、とかいうつもりだろ。これはもう慣れるしかねぇから諦めろ」 「……でも……」 「プライベートん時くらい、別にいいだろ?」 何を言い募ってみても、梅本先生には譲る気はないみたい。 そ
梅本先生と初めてのキスをした翌朝。 心中は穏やかではないけれど、私は極力いつも通りにふるまった。 食卓には、いつもと同じ朝の光景――。 トースト。 サラダ。 スクランブルエッグ。 孝夫さんと暮らしていた時、朝食は和食オンリーだった。彼が、一汁三菜にこだわる人だったからだ。 でも、梅本先生はご飯でもパンでもどちらでもいいと言ってくれた。 むしろ、お気に入りのパン屋で買ったちょっと高級なふかふかの食パンにバターを乗せて焼いたトーストが結構お気に入りらしい。 私もパンは大好きなので、喜んでお付き合いすることにした。 「穂乃、ジャム取ってくれるか?」 「ふぇっ!?」 突然名前を呼ばれて、私は思わず変な声を上げてしまう。びくっと肩を跳ねさせた拍子に、手にしていたトーストがお皿の上に落ちた。 向かいに座る梅本先生が、そんな私を見て眉をひそめる。「そんな驚くことか……」 「だ、だって梅本先生が……」 いきなり〝穂乃〟とか呼ぶんですもの! そう言いたいのに、そこを取り沙汰してしまうと、余計に意識しそうで、私はゴニョゴニョと口ごもった。「俺がなんだって?」 「……なんでもありません」 ソワソワとジャムを差し出しながら、私は顔が熱くなるのを感じた。(なんでそんなに自然に呼べるの?) いや。そういえば、昨日も呼ばれていた気がする。 気のせいではない。 けれど、改めて聞くと心臓に悪かった。 忙しなく鼓動を刻む私のハートとは対照的に、梅本先生は何事もなかったかのように受け取ったジャムをトーストへ塗り伸ばしている。 そんな私たちの間で、うなぎは平常運転。 テーブルの下から可愛いお顔をぴょこんとのぞかせて、「わふ」と鳴いて尻尾をブンブン振った。「うなちゃん、もう少ししたらお散歩行こうね」 私が声を掛けると、嬉しそうに口元がヘラリと笑っているように開いた。「俺も行く」 当然のように梅本先生が口を挟む。「えっ!?」 当然のようにそう告げられて、私の心臓はドクドクと大騒ぎを始めてしまう。全く平和ではない。 昨日の夜。 梅本先生とキスしてしまったことを思い出す。 ちらちらと視線を梅本先生に向けたら、彼がジャムのついた唇をペロリと舐めるのが見えて、私は思わず「ダメっ」と叫んで慌てて視線
「梅本先生が怖いんじゃないんです」 「……ん?」 「その……体調不良で、ここへ泊めていただいたことがありましたよね?」 「ああ」 「あの翌日、私……マンションに戻ったじゃないですか……」 「ああ」 あの時、梅本先生はマンション近くまで私を迎えに来てくださっていた。 あの時は気が張っていて、孝夫さんにされたことなんて、大したことないと思っていたはずだった。 だけど――。 そこまで言ったところで声が詰まる。 思い出したくない、と思ってしまった。 でも、ちゃんと伝えなきゃいけない。「あの時、私、浮気を疑った孝夫さんに……押さえつけられて」 梅本先生の表情が変わる。「な、何もされてません!」 慌てて首を振る。 「その……本当に、何も……」 「そうか」 「……はい」 そう。 実際には確かに未遂だった。「でも……いま、急にあの時のことを思い出しちゃって……それで……」 声が震える。「梅本先生は違うのに」 「……」 「全然違うのに、梅本先生に腕をつかまれた瞬間、身体が勝手に……」 そこで言葉が途切れた。 情けなくて泣きそうになる。 すると、そんな私をなぐさめるみたいに、梅本先生の大きな手がそっと私の頭を撫でた。「穂乃」 名前を呼ばれる。「それなら余計に止まって正解だ」 「……でも」 「嫌なら言えって言っただろ? 穂乃の気持ちが整理しきれてないのに……無理して進む必要はねぇよ」 その言葉に、私は今度こそポロリと涙をこぼした。 あの時の孝夫さんとは、何もかもが違う。 私の言葉を聞いてくれる。 私の気持ちを待ってくれる。 怖いと言っても、ちゃんと受け止めてくれる。 止まってもいいと、許してくれる。(梅本先生の前なら、私、自分の気持ちを尊重してもいいんだ) そう思えたことが、何よりも救いだった。 しばらくの間、私は梅本先生の胸元に額を預けたまま動けなかった。 泣くつもりなんてなかったのに。 安心した途端、張り詰めていたものが一気にほどけてしまったみたいだった。 梅本先生はそんな私を急かさなかった。 ただ時折髪を撫でながら、静かに側にいてくれる。 その優しさがまた涙を誘って、なかなか泣き止むことが出来なかった。「……ごめ、なさっ」 鼻をすすりながら呟くと、 「
梅本先生との初めてのキスは、思っていたよりもずっと静かだった。 そもそも私は婚姻歴があって、夫だった孝夫さんとはキス以上の行為だってしたことがある。 でも……なんでかな? ただ唇が触れ合っただけなのに、胸の奥がいっぱいになる。 梅本先生が離れる。 ほんの少しだけ――。 けれど完全には離れない。 ちょっと動いただけで、唇が掠めてしまいそうな近い距離でじっと見つめられて、私は思わず視線を伏せた。「……平気か?」 低い声。 私は小さくうなずく。 それを見て、梅本先生は安心したように息を吐いた。 それから、そっと私の髪に触れる。 優しい手だった。 壊れ物に触れるみたいな手。 その優しさが嬉しくて、少しだけ切ない。 こんなふうに大事に扱われたことが、ここ数年の私にはなかったから。 もう一度唇が重なる。 今度は少し長く。 気付けば、私は梅本先生の服をぎゅっと握っていた。 離れたくない。 もっと近くにいたい。 そんな気持ちが胸の中で膨らんでいく。 梅本先生も同じだったのだと思う。 いつの間にか、互いの吐息が混ざるほど、私たちの距離は近づいていた。 梅本先生の手が、そっと私の腕に触れる。 優しい手だった。 力なんて少しも入っていない。 怖がらせないように気遣ってくれているのが分かる。 それなのに、その瞬間、身体がびくりと震えた。 脳裏によみがえったのは、ほんの少し前の出来事。 不倫疑惑のあった孝夫さんと話し合うため、あのマンションへ戻った日のことだった。 本当は――。 私が仕事をしている間に女性を家へ連れ込み、してはいけないことをしていたのは孝夫さんの方だった。 それなのに、ショックのあまり一晩家へ帰れなかった私を、孝夫さんは〝朝帰り〟だと責め立てて、乱暴に腕を掴んだ。 そのときの、痛いくらいの手指の感触。 ソファへ押し倒された時の恐怖。 孝夫さんの、怒りに歪んだ顔。『何の小細工もなしに外泊するようなバカ嫁が、浮気してないか確認してんだよ!』 耳の奥で、孝夫さんの苛立った声が生々しく蘇る。 違う。 梅本先生は、孝夫さんじゃない。 そんなことは分かっている。 分かっているのに――。 胸の奥から不安がせり上がる。 大丈夫なはずなのに。 嫌じゃないはずなのに。 それでも怖くて呼吸が浅くなる。
気まずい沈黙が落ちる。 普段なら、こんな空気になった時は私の方から話題を探していた。 でも今日は違った。 何を言えばいいのか分からない。 梅本先生も同じらしく、手にしたマグカップを見つめたまま黙り込んでいる。 窓の外では、夏を知らせるみたいに蝉が鳴いていた。 まだ朝なのに、空気がすでに少し蒸し暑い。「……桃瀬先生」 不意に名前を呼ばれて、肩が跳ねる。 「は、はい」 「その……眼鏡がない姿」 「はい」 「似合ってる」 改めて言われてしまって、今度は私が固まった。 胸の奥が一気に熱くなる。 ちゃんと、褒められた。 逃げるみたいに誤魔化されるんじゃなくて、真っ直ぐ――。「……ありがとう、ございます」 余りのことに頭が追い付かなくて、私はようやくそれだけ返したのだけれど、梅本先生はどこか不機嫌そうな顔をして視線を逸らした。「だからっ。その顔で礼言うの、やめろ」 「えっ」 「心臓に悪い」 そう言われてしまって、私はますます何も言えなくなる。(もしかして今の不機嫌そうなのって……照れてらしたり……?) そんなことを思ってドギマギしてしまう私と、相変わらずどこかぎこちないくらいにつっけんどんな梅本先生。 そんななか、うなぎだけが何も知らない顔で私たちの足元をうろうろしている。 しばらくして……梅本先生とふと視線が合った。 逸らしてもいいはずなのに、何故かそらせないまま梅本先生のお顔をじっと見上げてしまう。 いつもなら、『梅本先生のお顔、怖いですっ』とか冗談まじりに言い置いて、先に逃げていたはずなのに……今日はなんだか逃げたくなかった。 私が彼を見つめているみたいに、梅本先生にもちゃんと私を見てほしいと思ったから。 梅本先生の瞳が少しだけ揺れる。 ゆっくりと……本当にゆっくりと……。 そうして彼が一歩だけ近づいてきた。 胸がドキドキとうるさいぐらいに脈打っている。(あ、これ……) もしかしたら逃げた方がいいのかもしれない。 でも……私の足は微動だにしなかった。「……穂乃」 桃瀬先生、じゃなく……下の名で甘やかに呼ばれる。 低い声。 少し掠れた色っぽい声。「嫌なら……言え」 その言葉に、私は目を見開いた。 嫌じゃない。 怖くもない。 ただ、胸がいっぱいで…
「……びっくりした」 しゃがむと、うなちゃんは当然のように私の膝へ前脚をかけて、顔をぺろぺろ舐めてくる。「うなちゃんは、環境が変わっても変わらないね」「わふ!」 返事みたいに吠えて、うなちゃんがチャカチャカと爪音を響かせながら歩いていく。(……行かなきゃ) 私は小さく深呼吸をしてから、洗面所を後にした。 リビングへ入ると、キッチンの方からコーヒーの香りが漂ってきた。 窓が少し開いていて、湿り気を含んだ朝の風がレースカーテンを揺らしていた。「おはよう、ございます……」 声を掛けかけた瞬間、梅本先生が「おはよう」と答えてくれながら、顔を上げた。 そして――。「…………えっ?」 ぴたりと動きが止まった。 手に持っていたマグカップを持ったまま、完全に固まっている。「……あ、あの……梅本、先生?」 私は思わず立ち止まった。 梅本先生は何も言わない。 ただ、じっとこちらを見ている。 その視線に耐えきれなくなって、私はそっと目元に触れた。「あ、あの……」 (変でしたか? やっぱり似合っていませんか?) 不安が一気に押し寄せる。「……変、ですか?」 そう聞いた瞬間、梅本先生がようやく小さく息を吐いた。 それから片手で口元を覆って、視線を逸らす。「……いや」「あの……」「……反則だろ」「……え?」 意味が分からなくて聞き返すと、梅本先生はますます気まずそうな顔をした。「いや、だから……その顔で普通に接してくるの、反則だろ」「えっと、……どういう意味、です、か……?」「そのままの意味」 ぶっきらぼうに言いながら、でも視線は全然落ち着いていない。 なんだか……梅本先生のお耳が少し赤い気がする。 私は何が何だか分からな
七月に入ってから、空気が少し変わった。 雨の匂いはまだ残っているのに、窓の外を吹き抜ける風には、もう夏の熱が混ざり始めている。 朝。 洗面化粧台の前に立った私は、小さく息を吐いた。 指先の上で揺れる、やわらかなコンタクトレンズ。 (……ほんとに、やるの?) 自分で決めたくせに、急に怖くなる。 けれど。 このままじゃ、ダメだとも思った。 (あんなに眼科で練習したじゃない!) 鏡の中の私は、まだ眼鏡を掛けている。 見慣れた顔。 結婚したばかりの頃は、眼鏡に合わせて服を選ぶのも好きだった。 ゆるく巻いた髪に合うフレームを探したり、雑誌を見ながら「こ
五月に入ったばかりという今日、まだ梅雨ではないけれど、外はあいにくの雨模様だった。 「ごめんなさい、孝夫さん。今日は月に一度の委員会活動の日で残業なの」 私の勤め先の青葉小学校では、毎月大体第四月曜日の五時間目が、各委員会の定例集会になっている。 校内にいくつもある様々な委員会所属の五・六年生たちが、各々定められた場所へ集まってイベントの取り決めをしたり、日々の反省会をしたり……。月によってやることはまちまちだ。 私が担当する図書委員会の児童らは、図書室に集まって定例会をする。 基本的には教員免許を所持している司書教諭の白石先生が主体になって議事進行をなされるのだけれど、図書
「あの、そういえば私、梅本先生からお預かりした手袋をお返ししたくて。あれからも毎日同じ時間にうなちゃんと散歩してたんですけど、あれっきりお会い出来なくなっちゃいましたよね? あれって……もしかして」 ――私と出会いたくなくて避けていらっしゃいましたか? なんでかな? その言葉は肯定されるのが怖くて続けられなかった。 だって、それまではずっと変わらずその時間帯に梅本先生(と思しきランナー)と毎日のように出会っていたの。なのに、あの一件以降、ぱったりと会えなくなってしまったんだもん。
一瞬の沈黙のあと、彼がぽつりと続けた。 「……双子の姉妹とか、いる?」 思いもよらない質問に、私はぽかんと口を開けて目を瞬いた。 「……へ?」 「いや、こないだ公園で……。あー、いや、いい。なんでもない」 言いよどむ彼に、私は彼が例の片手袋紛失事件のことを言おうとしているんだと悟って、ブワリと頬が熱を持つのを感じた。それを誤魔化すみたいに、私は慌てて口を開いたの。 「そ、その節は、本当にごめんなさいっ! あのときはあんな形で怖いお顔の男性が落っことした手袋を拾ってしまったりしたから……その……〝既存の知識〟と合わせて、私……てっきり……」 慌てる余り、眼前の教師こ







