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8.陛下の思惑

last update 最終更新日: 2025-07-04 15:40:01

 王宮からの予期せぬ陛下の来訪は、公爵邸に緊張感をもたらした。

 アシュトン様は、陛下と執務室で面会している。私は、その間、公爵邸の図書室で、不安な気持ちで過ごしていた。

 一体、陛下は何の用でアシュトン様を訪ねてきたのだろう?

 そして――この来訪が、私とアシュトン様の関係に、どのような影響を及ぼすのだろうか。

 数時間後、アシュトン様が図書室に姿を現した。

 彼の表情は、いつも以上に険しく、その瞳には、深い怒りのような感情が宿っているように見えた。

「アシュトン様……」

 私が声をかけると、彼は私に視線を向けた。その視線は、まるで獲物を睨みつける猛禽類のようだった。

「陛下は、一体……」

 私が尋ねようとすると、彼は私の言葉を遮った。

「余計な詮索はするな、セリーナ」

 彼の声には、強い拒絶の響きがあった。

 しかし、その夜の夕食の席で、私は陛下の来訪の理由を知ることになった。

 アシュトン様は、いつも以上に無口で、食事もほとんど進んでいないようだった。

 私が不安に思っていると、彼は突然、口を開いた。

「陛下は、俺に、貴様との婚約を破棄しろと命じてきた」

 その言葉に、私は息を飲んだ。

 婚約破棄? 陛下が? なぜ今になって。

「……どういうことでございますか?」

 私が震える声で尋ねると、アシュトン様は私を冷たく見つめた。

「陛下は、貴様を、次期王妃候補として考えているらしい」

 彼の言葉は、私の頭を真っ白にした。

 次期王妃候補……? 私が?

「そのような……まさか」

 私は信じられない思いで、アシュトン様を見た。

「俺は、拒否した」

 アシュトン様は、きっぱりと言い放った。

「貴様は俺のモノだ。誰にも渡すつもりはない」

 彼の言葉には、今まで以上に強い執着が込められているように聞こえた。

 私は、彼の言葉に、戸惑いと、そして微かな喜びを感じた。

 彼は、私を離したくないと思ってくれている。それは、私にとって、愛のない結婚から解放されたいと願っていた私にとって、複雑な感情を抱かせるものだった。

 しかし、その翌日、私の元に、王宮から一通の書状が届いた。

 それは、陛下からの直々の命令書だった。

 『セリーナ・フェルティア嬢を、次期王妃選定試験に参加させること』

 私は、その書状を握りしめ、呆然と立ち尽くした。

 その書状をアシュトン様に見せると、彼の顔は、見る見るうちに怒りで歪んだ。

「陛下が……この俺に逆らうというのか!」

 彼は、その書状を握りつぶし、怒りに満ちた目で私を見た。

「セリーナ、貴様は、絶対に王妃選定試験など参加するな」

 彼の言葉は、私を守ろうとしているようにも聞こえたが、同時に、私を彼の支配下に置こうとする、強い命令でもあった。

 私は、アシュトン様の言葉に、従うべきなのか、それとも陛下の命令に従うべきなのか、深く悩んだ。

 もし陛下の命令を拒否すれば、フェルティア公爵家は、王家からの怒りを買うことになるだろう。

 しかし、アシュトン様の執着も、私をどこまでも追い詰めるだろう。

 そんな悩みを抱えたまま、私は公爵邸で過ごしていた。

 アシュトン様は、私の行動を今まで以上に監視するようになり、私が公爵邸から一歩でも外に出ようとすると、必ず彼の護衛が立ちはだかった。

 私は、完全に彼の「檻」の中に閉じ込められてしまったかのようだった。

 ある日の夕食後、アシュトン様は珍しく、私の部屋を訪れた。

 彼は、何も言わずに私の部屋に入ると、私のベッドの傍に置かれた椅子に腰掛けた。

 私は、彼の突然の訪問に驚きながらも、静かに彼を見つめた。

 アシュトン様は、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。

「セリーナ。俺は、貴様を手放さない。たとえ、陛下が何を言おうとも、だ」

 彼の声は、低く、そして、どこか悲痛な響きを帯びていた。

「なぜ……そこまで、私に執着なさるのですか?」

 私は、勇気を出して尋ねた。

 アシュトン様は、私の問いかけに、ゆっくりと視線を上げた。

 彼の瞳は、私を深く探るように見つめ、その奥には、私が今まで見たことのない、複雑な感情が渦巻いているように見えた。

「……貴様は、俺が初めて感情を動かされた女だ」

 彼は、そう呟いた。

「幼い頃から、俺は感情を殺して生きてきた。愛などというものは、俺には無縁だと思っていた」

 彼の言葉は、まるで彼の心の奥底に秘められた、痛みを伴う告白のようだった。

「だが、貴様は違った。貴様が俺に背を向けた時、俺は初めて、失うことへの恐怖を知った」

 彼の言葉に、私の心臓が小さく跳ねた。

 失うことへの恐怖。それは、愛とは違うのだろうか。

「俺は、貴様を、俺の傍に置いておきたい。それが、この俺の唯一の望みだ」

 アシュトン様の言葉は、まるで子供が初めて手に入れた宝物を守ろうとするかのような、純粋な感情のように聞こえた。

 しかし、同時に、その言葉は私を彼の「モノ」として扱い、私の自由を奪おうとする、歪んだ執着でもあった。

 私は、彼の言葉に、戸惑いと、そして、彼への微かな憐憫を感じた。

 彼が私に見せる執着は、愛を知らない彼なりの、不器用な愛情表現なのかもしれない。

 そう考えると、彼の行動が、以前よりも少しだけ理解できるようになった気がした。

 だが、陛下の命令は、私を王妃選定試験へと導くだろう。

 そして、アシュトン様の執着は、私を彼の「檻」の中に閉じ込めようとする。

 私は、この二つの強大な力の間で、どのように生きるべきなのだろうか。

 私の心は、複雑な感情の渦の中で、答えを見つけられずにいた。

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     アシュトン様の執着は、日を追うごとにその度合いを増していった。 彼は、私の行動すべてを把握しようとするかのように、公爵邸での私の滞在時間を延ばし、私がどこへ行くにも、誰と会うにも、常に彼の許可を求めるようになった。 初めは、彼の唐突な変貌に戸惑いと警戒心を抱いていた私だが、彼の執着は、どこか幼稚な独占欲にも似ていて、妙な居心地の悪さを感じていた。「セリーナ、今日の社交会には参加するのか?」 朝食の席で、彼は唐突に尋ねた。「はい。叔母様からお誘いを受けておりますので」 私が答えると、アシュトン様は眉をひそめた。「誰と会うのだ?」「……ただの社交です。特に意味はございません」 私の返答に、彼は不満げな表情を浮かべた。「無意味な社交は必要ない。俺の許可なく、公爵邸を離れることは許さない」 彼の言葉に、私は思わず反論した。「アシュトン様!私はまだフェルティア公爵家の娘です。社交の場に出ることは、貴族としての務めでもございます」 私の言葉に、アシュトン様の瞳が鋭く光った。「務め、か。貴様はもうすぐ俺の妻となるのだ。フェルティア公爵家の務めよりも、ヴァルター公爵家、ひいては俺の隣にいることが貴様の務めとなる」 彼の言葉は、まるで私を囲い込もうとするかのような響きだった。 私は、彼の執着に息が詰まる思いだった。 以前は私に興味すら示さなかった彼が、今では私のすべてを支配しようとしている。それは、私を尊重する「愛」とは程遠い、ただの「独占欲」でしかなかった。 しかし、彼の執着は、時に私を驚かせるような行動にも表れた。 ある日、私が公爵邸の庭園で、足を滑らせて転びそうになった時、アシュトン様が信じられないほどの速さで駆け寄り、私を支えてくれたのだ。 彼の腕の中に抱きとめられた時、私は彼の体温と、かすかに聞こえる彼の心臓の音を感じた。「……大丈夫か、セリーナ」 彼の声には、今まで聞いたことのないような、微かな焦りが含まれているように聞こえた。「はい、アシュトン様。ありがとうございます」 私が礼を述べると、彼は私の腕を掴み、その指先が私の脈を測るかのように触れてきた。「怪我はないか? どこか痛む場所は?」 彼の視線は、私の全身を細かく確認するように見ていた。 彼の行動に、私は戸惑った。これは、単なる心配なのだろうか? それとも、や

  • 愛がないなら結婚する意味ないじゃないですか?と契約破棄したら、冷徹公爵が私に執着し始めました   4.突然の転換

     アシュトン様の言葉は、まるで雷鳴のように私の頭の中を駆け巡った。「俺は、貴様を、手に入れたいと思った。それだけだ」「貴様は、俺のモノだ。この契約が破棄されようと、俺は貴様を手放すつもりはない」。 今まで私を完全に無視し、まるで空気のように扱ってきた彼が、一体何を言っているのだろう?混乱と、わずかな恐怖、そして理解できない感情がない交ぜになり、私はその場に立ち尽くすしかなかった。「……アシュトン様、それは、一体どういう意味でございますか?」 声が震えるのを自覚しながら、私は問い返した。 アシュトン様は、私の顎を掴んだまま、ゆっくりと顔を近づけてきた。彼の黒曜石のような瞳が、私の顔をじっと見つめる。その深淵を覗き込むような視線に、私は身動きが取れなくなった。「言葉の通りだ、セリーナ」 彼の低い声が、私の耳元で囁かれる。「貴様は、俺のモノだ。これまで、俺の隣に置かれることを当然だと思っていた貴様が、初めて自分の意思で俺から離れようとした。それが、俺の心を捕らえた」 彼の言葉は、まるで獲物を追い詰める捕食者のようだった。「愛などという不確かなものではない。貴様が俺に背を向けたことで、この俺が、貴様を――」 彼はそこで言葉を切ると、私の頬を包み込むように手を滑らせた。彼の指先が、私の肌をゆっくりと撫でる。その冷たさと、微かな熱が、私の心をざわつかせた。「――貴様を、欲するようになったのだ」 その言葉に、私の全身を電流が走ったかのような衝撃が襲った。「欲する……?」 私が呆然と呟くと、アシュトン様は満足げな笑みを浮かべた。それは、先ほどの底が見えない笑みとは違い、確かな支配欲を含んだ、傲慢な笑みだった。「そうだ。貴様は俺の好奇心を刺激した。この俺が、これほどまでに興味を抱いた女は、貴様が初めてだ」 彼の言葉は、私にとっては全く理解できないものだった。 興味?好奇心? 彼は私を、まるで珍しい玩具か何かのように見ているのだろうか。「アシュトン様、私は……」 私が何かを言おうとすると、彼は私の言葉を遮った。「良いか、セリーナ。この同意書に、俺は署名しない。貴様との婚約は、継続する」 アシュトン様は、同意書をデスクの隅に押しやると、私をぐっと引き寄せた。 予想外の力に、私の体は彼の胸に吸い寄せられる。彼の硬い胸板に、私の顔が埋もれた。 

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