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7.秘密の部屋

last update Last Updated: 2025-07-03 15:15:57

 アシュトン様が私に見せる歪んだ執着は、公爵邸での私の生活を大きく変えた。

 私は彼の監視下にあるような息苦しさを感じつつも、彼が私にだけ見せる、微かな人間らしい感情の片鱗に、抗えない興味を抱き始めていた。

 そんな中、私はある日、公爵邸の裏庭にある古びた離れに、ふと足を踏み入れた。普段は立ち入り禁止になっている場所で、使用人たちも近づかない不気味な雰囲気の場所だった。

 好奇心に駆られ、私がその扉を開けると、そこには思いがけない光景が広がっていた。

 埃を被った家具の数々、古びた肖像画。そして、壁にはびっしりと、色とりどりの植物の押し花が飾られていた。

 それは、まるで時が止まったかのような、忘れ去られた部屋だった。

 その中で、ひときわ目を引いたのは、部屋の隅に置かれた年代物のピアノだ。鍵盤には埃が積もり、音を奏でることはもうないだろう。

「……誰の部屋だろう?」

 私は、思わず呟いた。

 その時、背後から冷たい声が聞こえた。

「何をしている、セリーナ」

 振り返ると、アシュトン様が、いつの間にかそこに立っていた。

 彼の顔には、普段の冷徹さに加えて、微かな怒りのような感情が浮かんでいるように見えた。

「アシュトン様!ここは……」

 私が言い訳をしようとすると、彼は私の言葉を遮り、冷たい視線で部屋全体を見回した。

「ここは、立ち入り禁止だ。知っていたはずだろう」

 彼の声には、私を責めるような響きがあった。

「申し訳ございません……好奇心に駆られて、つい」

 私が謝罪すると、彼はゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れた。

 彼の視線は、部屋の中の物すべてをなぞるように動き、やがて、壁に飾られた押し花に止まった。

 アシュトン様の表情が、わずかに揺らいだように見えた。

 その瞳の奥に、深い悲しみのような感情が浮かんだのを、私は見逃さなかった。

「この部屋は……」

 彼の声は、いつもの冷徹な響きではなく、どこか感傷的な響きを帯びていた。

「……俺の、母の部屋だ」

 その言葉に、私は息を飲んだ。

 アシュトン様の母親。彼が幼い頃に亡くなったと聞いている。

 私は、壁に飾られた押し花を見上げた。どれも、繊細で美しい花々だ。

「お母様は、植物がお好きだったのですね」

 私がそう言うと、アシュトン様は何も言わずに、押し花に手を伸ばした。

 彼の指先が、押し花の表面をそっと撫でる。その動作は、まるで大切なものを慈しむかのような、優しいものだった。

「母は、体が弱かった。ほとんどこの部屋から出ることがなかった」

 アシュトン様の声は、小さく、そして、どこか遠い記憶を辿るようだった。

「そして、俺に、愛情を注ぐこともなかった」

 彼の言葉に、私は驚きを隠せなかった。

 彼は、愛を知らずに育った。その言葉が、私の脳裏を駆け巡った。

 彼の冷徹さの根源は、ここにあったのだろうか。

「愛など、不確かなものだ」

 アシュトン様が呟いた。

「母は、俺に愛を与えることもなく、この部屋で、一人、朽ちていった」

 その言葉には、深い絶望と、諦めが込められているように聞こえた。

 私は、彼の言葉に胸が締め付けられる思いだった。

 そして、彼が私に見せる執着の理由が、少しだけ理解できたような気がした。

 彼は、愛を知らない。だから、私を「手に入れる」ことで、何かを埋め合わせようとしているのだろうか。

「アシュトン様……」

 私が声をかけると、アシュトン様は私に視線を向けた。

 その瞳は、先ほどの悲しみは消え失せ、いつもの冷徹さに戻っていた。

「もう良い。この部屋に、貴様は立ち入るな」

 彼はそう言い放ち、私に背を向け、部屋を出て行こうとした。

 しかし、その時、私の目に、部屋の隅に置かれたピアノが映った。

 私は、無意識のうちにピアノに近づき、その埃を払った。

 そして、恐る恐る、鍵盤に指を置いた。

 ——ポロン、と、軋んだ音が部屋に響いた。

 調律されていない音は、ひどく不協和音を奏でた。

「何を企んでいる」

 アシュトン様が、冷たい声で私に問いかけた。

「いいえ。ただ、もしアシュトン様のお母様が、このピアノを弾いていらしたのなら、どんな曲を弾いていたのだろうと……」

 私がそう言うと、アシュトン様は何も言わずに、再び私に背を向けた。

 しかし、彼が部屋を出て行こうとした時、私は、彼の足が、一瞬だけ止まったように見えた。

 その夜、私は自室で、昼間の出来事を思い出していた。

 アシュトン様の母親の部屋。そこで彼が見せた、一瞬の弱さ。

 そして、彼の「愛を知らない」という言葉。

 私は、アシュトン様の冷徹さの裏に隠された、彼の心の傷に触れたような気がした。

 彼の執着は、もしかしたら、愛を知らない彼なりの、不器用な愛情表現なのかもしれない。

 そう考えると、彼の行動が、少しだけ違って見えてきた。

 翌日、私は公爵邸の庭園を散策していた。

 すると、珍しくアシュトン様が、一人で庭園のベンチに座っているのを見かけた。

 彼は、遠くの空を見つめていた。その横顔は、どこか寂しげで、いつも纏っている冷徹な雰囲気とはかけ離れているように見えた。

 私は、そっと彼の隣に座った。

 アシュトン様は、私が隣に座ったことに気づいているようだったが、何も言わなかった。

「アシュトン様は……その、音楽はお好きでいらっしゃいますか?」

 私は、昨日のピアノのことが気になり、勇気を出して尋ねた。

 アシュトン様は、私の言葉に、ゆっくりと視線を向けた。

「……音楽、か」

 彼は、つまらなさそうに呟いた。

「騒がしいだけだ。特に興味はない」

 彼の言葉に、私は少しだけ残念に思った。

「そうですか……でも、もしよろしければ、私が何か弾いて差し上げましょうか? 私、少しだけピアノが弾けますので」

 私が提案すると、アシュトン様の眉間に薄く皺が寄った。

「必要ない」

 彼はそう言い放ち、再び遠くの空に視線を戻した。

 やはり、彼は変わらない。そう思いながらも、私は彼にもっと近づきたいと願っている自分に気づいた。

 しかし、その時、公爵邸の執事である老人が、慌てた様子で私たちのもとへやってきた。

「アシュトン様!大変でございます!」

 執事の声に、アシュトン様は顔を上げた。

「何事だ?」

「それが……王宮から、陛下がお越しになられました!」

 執事の言葉に、私は驚きを隠せなかった。

 陛下が、なぜこの公爵邸に?

 そして、アシュトン様の表情が、今まで見たことのないほど、険しいものへと変化した。

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     アシュトン様の呟きは、重い沈黙となって執務室に広がった。 その間、私は彼から視線を逸らさなかった。彼の言葉に動揺を見せないように、という私の最後の意地だった。 契約破棄の同意書に目を落としたままの彼は、まるで時が止まったかのように微動だにしなかった。その横顔は、普段と変わらない冷徹さを保っているように見えたが、私には確信があった。彼の内側で、何かが確かに動き出している。「……セリーナ」 やがて、アシュトン様が、私の名を呼んだ。 それは、今まで聞いたことがないような、少しだけ掠れた声だった。「貴様が、本当にこの婚約を破棄したいと?」「はい。私の意思は固うございます」 私は、きっぱりと答えた。もう後戻りはしない。「王家との関係や、フェルティア公爵家の体面は、私の父と母が然るべき対応を取るでしょう。ご心配には及びません」 そこまで言い切ると、彼の視線がゆっくりと書類から私へと移った。 その黒曜石のような瞳が、先ほどよりも鋭く、そして、何かを試すかのように私を見つめてくる。「……愛など、いずれ消え去るまやかしだ。政略結婚に、そのような不確かなものを求めること自体が愚かではないか?」 アシュトン様の声には、わずかながらの動揺が含まれているように聞こえた。今まで私を無視し続けた彼が、私に語りかけている。その事実が、私の心をほんの少しだけ揺さぶった。「たしかに、アシュトン様のおっしゃる通りかもしれません。愛は、いつか形を変え、あるいは消え去るものかもしれません」 私は静かに答えた。「ですが、私は、人生を共に歩む上で、互いへの尊敬や、少なくとも相手を人として気遣う心がなければ、共にいる意味はないと考えております。アシュトン様は、私にそのような心をお見せになったことは一度もございません」 私の言葉に、アシュトン様の表情が、さらに硬くなった。 彼は私から視線を外し、デスクに置かれたペンに手を伸ばした。「同意書、か」 彼は、ゆっくりとペンを手に取り、同意書に署名する体勢に入った。 私は、息を詰めてその様子を見守った。 ああ、これで終わる。この冷たい結婚から、私は解放されるのだ。 安堵と、ほんの少しの寂しさがない交ぜになった感情が、私の胸に去来した。 ――カツン。 ペン先が、紙に触れる寸前で止まった。 アシュトン様は、顔を上げ、再び私

  • 愛がないなら結婚する意味ないじゃないですか?と契約破棄したら、冷徹公爵が私に執着し始めました   2.決意の破棄

     その日、私は公爵邸の図書室にいた。 普段は滅多に人が訪れない、静かで落ち着く場所だ。埃一つない書架には、貴重な書物がずらりと並んでいた。 そこで私は、とある一冊の恋愛小説を読んでいた。身分違いの二人が、数々の困難を乗り越え、真実の愛を育んでいく物語。登場人物たちの情熱的な言葉や、互いを想い合う気持ちが、私の心を強く揺さぶった。「馬鹿げている」 読み終えた時、そう呟いたのは自分自身だった。 愛なんて、貴族の政略結婚には必要ない。そんなことは、頭では十分に理解している。けれど、心はどうだろう? 毎日のように突きつけられる彼の冷淡な態度。まるで空気のように扱われる日々に、私の心は悲鳴を上げていた。 私は、愛を求めてはいけないのだろうか? たとえ政略結婚であっても、少しの優しさや、人間らしい温かさくらいは期待しても良いのではないか? そんなことを考えていると、ふと、彼の言葉が脳裏をよぎった。「貴様が愛を求めるのであれば、今すぐにでも破談にする」 そうだ。彼は、そう言った。 つまり、破談の選択肢は、私にも与えられているのだ。 私は、ゆっくりと立ち上がった。 今まで、私はフェルティア公爵家の娘として、与えられた役割を果たすことだけを考えてきた。それが義務であり、貴族としての矜持だと思っていた。 けれど、もう、限界だった。このまま彼の隣で、心まで凍えさせるような人生を送るなんて、私にはできない。 私は、決意した。 この結婚を、私から破棄する。 それから数日後。 私は公爵邸に赴き、アシュトン様との面会を求めた。執務室で彼と向き合うのは、婚約が決まって以来、数えるほどしかない。 彼の執務室は、相変わらず冷たい空気が張り詰めていた。窓から差し込む陽光さえも、どこか凍りついているように見える。 アシュトン様は、書類に目を通したまま、私に視線を向けることもなく言った。「何の用だ」 その冷たい声に、私の決意は揺るぎないものとなった。「アシュトン様にお伝えしたいことがございます」 私は深呼吸をし、背筋を伸ばした。「私、セリーナ・フェルティアは、アシュトン・ヴァルター公爵様との婚約を、本日をもって破棄させていただきたく、参りました」 私の言葉に、アシュトン様の手がぴたりと止まった。 そして、ゆっくりと顔を上げ、私にその黒曜石の瞳を向けた。

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