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愛が冷めたのに、離婚を告げたら泣くの?
愛が冷めたのに、離婚を告げたら泣くの?
Author: 柚乃

第1話

Author: 柚乃
江藤紗季(えとう さき)は、まさかパーティー会場で夫の浮気を目の当たりにすることになるとは思ってもいなかった。

黒田怜司(くろだ れいじ)は白いシャツに黒いスラックスという姿で、肩幅は広く腰は細い。背筋の伸びた立ち姿は凛としていて、眉は鋭く、鼻筋もすっと通っていた。薄い唇をわずかに吊り上げるその表情には、雪をまとったような、冷たく近寄りがたい雰囲気が漂っていた。

その隣には、細いストラップの赤いドレスを着た女がいた。怜司の黒いジャケットを肩に羽織り、ゆるくウェーブした茶色のロングヘアを肩に垂らしている。どこか気だるげで、知的な雰囲気のある女性だ。

四歳の黒田奏太(くろだ そうた)は二人の間に立ち、それぞれの手を握っていた。「パパ、美月お姉さん。もうすぐパーティー始まるよ。中に入ろう」

紗季の頭は真っ白になった。

まさか、息子までここにいるとは思わなかった。

口を開き、息子の名前を呼ぼうとした。けれど喉が塞がれたようで、声が少しも出てこない。

奏太は紗季の視線に気づいたのか、振り返った。騒がしい人混みの向こうから、その目がまっすぐ紗季を捉える。

紗季は指先が白くなるほど両手を強く握りしめ、胸の奥にかすかな期待が芽生える。

パーティーの主催者らしい女性が、奏太の視線を追うようにして、警戒した様子で尋ねた。「奏太、あの人、さっきからずっとあなたを見てるけど、知り合いなの?」

奏太は俯き、小さな声で答えた。「知らない」

女性は不満そうに顔をしかめた。「誰が連れてきた人なの?うちの大事なお客さんを、さっきからずっと見てるじゃない」

「さあ。どこかの家の使用人じゃない?」別の人がそう口を挟んだ。

「ちょっと様子を見てきて」女性は使用人にそう命じると、嫌そうな目で紗季を一瞥した。

その騒ぎに気づいた怜司が、ふとこちらを振り返った。

紗季を見ても、浮気を見られた気まずさなど、少しも感じさせなかった。紗季のことを説明しようとする素振りもなく、赤いドレスの女の背中に手を添えると、そのまま彼女を連れて立ち去っていく。まるで、紗季の姿を彼女に見せたくないかのように。

そこへスタッフの一人が紗季のそばまでやって来た。「失礼ですが、招待状を見せていただけますか。お持ちでなければ、こちらからお引き取りいただくことになります」

紗季はいたたまれない気持ちで俯き、落ち着かない手つきで服の裾をいじった。

もともと高橋直樹(たかはし なおき)がドレスを用意すると言ってくれていた。けれど、自分が着ても似合わないと思い、断っていたのだ。

家を出るときも、大きめのジャケットを一枚羽織っただけ。下はジーンズで、華やかに着飾った人たちが集まるこの会場では、どう見ても場違いだった。

「彼女は私が連れてきた人です」直樹が歩み寄り、招待状を差し出した。

「失礼いたしました、直樹様」スタッフは丁寧に頭を下げると、その場を離れていった。

「何かあったの?」直樹が尋ねた。

紗季は首を横に振った。胸の奥に冷たい刃を突き立てられたような痛みが走る。

その痛みが全身に広がり、何か言おうとしても、声にならなかった。

自分が怜司に釣り合わないことは、ずっと前から分かっていた。だから、怜司が人前で自分を妻だと認めるはずがないことも、どこかで分かっていた。

ただ……

息子まで、自分を知らないふりをするとは思わなかった。

紗季が黙り込んでいるのを見て、直樹は困ったように目を上げた。

そのとき、廊下の奥へ向かう怜司の姿が目に入った。怜司は女の肩を抱き、そのまま連れ立って歩いていた。

直樹はそれを見た瞬間、すべてを察した。

「よかったら、先に家まで送ろうか?」直樹が尋ねた。

「ううん、大丈夫」紗季は無理やり笑顔を作る。

午後、怜司は息子を連れて実家へ行くから、自分はついてこなくていいと言われていた。

だから、自分も直樹と一緒に業界の集まりに参加すると伝えた。

返ってきたのは、「勝手にしろ」という冷たい一言だけだった。

自分がどこへ行こうと、怜司にとってはどうでもいいことなのだろう。

まさか、こんなところで彼らを目にすることになるなんて……

「怜司はたぶん、その場の付き合いだよ。あまり気にしなくてもいい」帰り道、直樹がそっと慰めてくれた。

紗季は唇をきゅっと結んだ。

――違う。怜司は本気だ。

あの女を見る怜司の目には、恋人に向けるような優しさがあった。そんな目を、自分に向けてくれたことは一度もなかった。

五年前、妊娠して大きなお腹を抱えた自分が黒田家を訪ねたことで、怜司は仕方なく自分と籍を入れた。

怜司はきっと、この結婚そのものが、自分が計算ずくで手に入れたものだと思っている。だからこそ、今も自分を心の底から憎んでいるのだろう。

この五年間、いつか怜司が自分を愛してくれるかもしれないと期待する一方で、怜司には外に別の女性がいるのではないかと、ずっと気にしていた。

まさか、本当に目の前でそんなことが起こるなんて……

紗季は、自分ならきっと平気だと思っていた。けれど、どうしてこんなにも苦しいのか、自分でも分からない。死んでしまいそうなほど、苦しい。

御山苑の屋敷に戻ると、怜司と息子はまだ帰っていなかった。

紗季は俯いたまま靴を脱いだ。業界の集まりはかなり早く終わったはずだから、三人にはまだ別の予定があるのだろう。

顔を上げると、山田春江(やまだ はるえ)が屋敷に置いてある高級な栄養食品をこっそり食べているところだった。

春江の顔に一瞬、気まずそうな色が浮かんだが、すぐに何事もなかったような顔に戻った。「どこに行ってたの?こんな遅くまで」春江が厳しい口調で問いただす。

紗季は疲れ切っていて、春江の横を通り過ぎ、そのまま二階へ上がっていった。

「ご飯も作らないし、洗濯もしない。それで、明日はお坊ちゃまが幼稚園に行くのに、どうするつもりなの?」背後から春江の声が飛んできた。

紗季の足が階段の途中で止まった。けれど、少しして何も言わず、そのまま上へ進んだ。

春江はただの使用人ではない。怜司は幼い頃から春江に育てられ、母親のように慕っていた。

そのため春江は、自分はほかの使用人とは違うと思っていて、紗季には何かと細かく文句をつけてきた。

子育てを手伝っていると言いながら、奏太の身の回りのことは、結局すべて紗季が一人でやっていた。

幼い頃は、オムツまで紗季が自分で洗っていた。怜司の食事から身の回りの世話まで、すべて紗季がしてきた。

「毎日ベッドでゴロゴロして、寝てばっかり。太っても知らないからね。あのときあなたに騙されてなかったら、うちの怜司様がどうしてあなたみたいな女と結婚するのよ」

春江の嫌味が階下から聞こえてきた。続いて、わざと聞こえるように物を乱暴に扱う音まで響いてくる。

バタン!

返事の代わりに、二階の部屋からドアが勢いよく閉まる音がした。その音を聞いた春江は、二階の寝室を見上げ、呆れたように白い目を向けた。

部屋に入った紗季は疲れた体を引きずるようにして鏡台の前に座り、鏡に映った自分を見つめる。

少し丸みを帯びた体つき、ぼんやりした顎のライン、目の下のクマ、そして目尻にうっすら浮いたシミ。卒業した頃と比べると、まるで三十歳も老け込んだように見えた。

これでも午後の集まりのために、わざわざ化粧をしてきたのだ。

まだ二十七歳なのに、どうしてこんなに老けてしまったんだろう。

好きな人と結婚したら、幸せに暮らせるものじゃないの?

紗季は目元のシミを指でなぞった。

この五年間、自分は幸せだったのだろうか。

そう自分に問いかけようとした瞬間、答えが出るより先に、涙が止めどなく頬を伝った。

泣いたあと、少しだけ気持ちが楽になった。紗季はスマホを取り出し、電話をかけた。

「もしもし」直樹はまだ車を運転していた。

「先輩、前に私を会社に誘ってくれたよね。あの話、まだ有効なの?」

直樹は少し驚いたように間を置いてから答えた。「もちろんだよ」

「ただ、新しく入った社員は二、三年間の海外研修に行ってもらうことになる。その後は会社の状況を見て配属を決めることになるけど……」

「行けるよ」紗季は迷いなく言い切った。

むしろ、直樹のほうが黙り込んだ。

紗季がどれほど怜司を愛しているのか、直樹は知っている。

かつて黒田家に認めてもらうため、紗季はすべての時間と労力をこの家のために使ってきた。一日たりとも外で働いたことはなかった。

そんな環境から、そう簡単に離れられるものではない。

「月曜日に会社に来て。そこでまた話そう」直樹が言った。

「分かった。ありがとう」

「お礼なんていいよ」

電話を切ると、紗季は大きく息を吐いた。胸の奥にあった重苦しさが、少しずつ薄れていく。まるで、長い間閉じ込められていた場所から、ようやく外へ出られるような気がした。

自分がこの檻の中に長いこと閉じ込められていたことくらい、紗季自身が一番よく分かっていた。

それでも、ここから出ようとするたびに、最後の一歩でためらってしまった。

怜司を手放せない。息子も手放せない。

紗季はいつも自分に言い聞かせていた。自分がもっと頑張れば、いつか黒田家も自分を受け入れてくれるかもしれない、と。

けれど、そんなことがあるはずなかった。

五年前、目を覚ました紗季は、自分が怜司のベッドに横たわっていることに気づいた。

怜司は、まるでゴミでも見るような目で、自分を見下ろしていた。

あの目だけは、一生忘れられない。

紗季がベッドで少し休もうとしたとき、スマホが突然、「ピロン」と鳴った。

怜司の妹・黒田莉奈(くろだ りな)が家族のグループチャットに写真を一枚送っていた。

そこには、怜司とその女の後ろ姿が写っている。

怜司は白いシャツに黒いパンツ姿。隣の女は赤いドレスを着ていて、その肩には大きめのメンズジャケットが羽織られていた。

怜司は骨ばった指で、そっと女性の腰に手を添えていた。二人とも容姿が整っていて、後ろ姿だけでもよくお似合いなのが分かる。

すると、莉奈がまたメッセージを送った。【お兄ちゃん、この人って彼女?今度、私たちにも紹介してよ】

家族のグループチャットが、一気に静まり返った。

紗季がスマホの画面を見つめていると、次の瞬間、写真が削除された。

紗季の口元に、力のない乾いた笑みが浮かんだ。

黒田家の全員が、自分がこのグループにいることを知っている。

それでも、誰一人として自分の気持ちなど気にしていない。彼らにとって自分は、操り人形以下なのだ。

そのとき、スマホが鳴った。義母の黒田佳代(くろだ かよ)からだった。

「今夜、本宅に来て食事をしなさい」

紗季が返事をする間もなく、電話は切れた。

紗季が本宅に着くと、門の前に怜司の車が停まっていた。

佳代が黒田家の家族全員を呼び集めたのだから、きっとあの写真のことだろう。

紗季が片足をリビングへ踏み入れた瞬間、中から奏太の幼い声が聞こえてきた。「じゃあ、パパとママは離婚するの?」

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