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第29話

Author: るるね
last update publish date: 2026-04-10 23:51:59

 紗月はすぐには動けなかった。

 血の気を失った顔のまま、自分から視線を逸らす久我を見つめる。

 数秒の沈黙のあと、ようやく勇気を振り絞るように慎一へと顔を向け、これまで幾度となくそうしてきたように、卑屈なほど低い声でそっと問いかけた。

「……慎一、今夜は……帰ってきてくれる?」

 自分をどこまでも低く置けば、彼が少しでも自分を見てくれるのではないかと願うように。

 慎一に、ほんの一瞬でもいいから、自分を見てほしかった。

 こんな状況で、なおそんな言葉を口にするとは思っていなかったのか、慎一はわずかに眉を上げた。

 深く冷えた双眸が、氷の刃のように紗月の顔を射抜く。

 この数年、紗月は彼の傍らに幾人もの女が入れ替わり立ち替わり現れては去っていくのを、ただ見てきた。

 それでも彼に何かを求めたことは一度もない。

 怒りをぶつけたことも、責め立てたこともない。

  まるで嫉妬という感情すら持たない、夫の浮ついた振る舞いさえ受け入れる“できた妻”であるかのように。

 今この瞬間も同じだった。

 慎一が由衣をあからさまに傍に置いていても、紗月はそれを見ないふりをして、ただ彼が家に帰っ
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