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愛はそこで途切れた

愛はそこで途切れた

By:  ちょうどよいCompleted
Language: Japanese
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幼稚園に新しく来た女の先生・西村真由(にしむら まゆ)が、息子・渡辺拓海(わたなべ たくみ)にピーナッツを食べさせて減感作療法を試すよう勧め、拓海はショックを起こして救急搬送された。 怒りに任せて私はすぐに幼稚園へ電話をかけて苦情を伝えたが、翌日の保護者会では、私が授乳している写真が掲示板に貼り出され、みんなの目にさらされてしまった。 「人は見かけによらないな。スタイルいいじゃん、胸が白くてまん丸だ!」 「向こうから遊ばせてくれるなら、金払ってもいいよ、ははは!」 大勢の前で恥をかかされ、私は取り乱して家に逃げ帰った。 ところが、拓海が得意げに話すのを偶然耳にしてしまった。 「パパがくれた写真、僕は掲示板に貼ったよ。クラスのみんなのパパとママも見たんだ。ママすごく怒って、帰るときずっと泣いてた。とっても悲しそうだったよ!真由先生、このいいニュースを知ったら嬉しいかな?」 夫・渡辺直樹(わたなべ なおき)は拓海を抱き上げてくるりと回し、満足げに言った。 「とても喜んでいたよ。週末にママがおばあちゃんの世話をしに行ったら、俺たちは一緒に遊園地に行こう!」 部屋の中から笑い声が何度も高く響くのを聞きながら、私は玄関先で全身を震わせて立ち尽くした。

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Chapter 1

第1話

幼稚園に新しく来た女の先生・西村真由(にしむら まゆ)が、息子・渡辺拓海(わたなべ たくみ)にピーナッツを食べさせて減感作療法を試すよう勧め、拓海はショックを起こして救急搬送された。

怒りに任せて私はすぐに幼稚園へ電話をかけて苦情を伝えたが、翌日の保護者会では、私が授乳している写真が掲示板に貼り出され、みんなの目にさらされてしまった。

「人は見かけによらないな。スタイルいいじゃん、胸が白くてまん丸だ!」

「向こうから遊ばせてくれるなら、金払ってもいいよ、ははは!」

大勢の前で恥をかかされ、私は取り乱して家に逃げ帰った。

ところが、拓海が得意げに話すのを偶然耳にしてしまった。

「パパがくれた写真、僕は掲示板に貼ったよ。クラスのみんなのパパとママも見たんだ。ママすごく怒って、帰るときずっと泣いてた。とっても悲しそうだったよ!真由先生、このいいニュースを知ったら嬉しいかな?」

夫・渡辺直樹(わたなべ なおき)は拓海を抱き上げてくるりと回し、満足げに言った。

「とても喜んでいたよ。週末にママがおばあちゃんの世話をしに行ったら、俺たちは一緒に遊園地に行こう!」

部屋の中から笑い声が何度も高く響くのを聞きながら、私は玄関先で全身を震わせて立ち尽くした。

扉を隔てて、拓海が指を折りながら、私の欠点を真剣に数え上げていた。

「ママは連れて行かないで。いつもこれ食べちゃダメ、あれもダメって言うんだ。真由先生は違うよ。おやつは子どもの本能だって言ってくれる。ママはいつもまずいものばかり作って、僕の本能をつぶしてるんだ!

真由先生は、僕のピーナッツアレルギーは軽いだけで、たくさん食べれば慣れて治るって言ってくれたんだ。先生は僕のことを思ってくれているのに、ママはひどいよ!わざわざ真由先生を苦情で責めに行ったんだから!

パパ、真由先生がね、ママは家で仕事もなくて暇だから、初めての育児でちょっと権力があると僕に向けるんだって。パパ、ママって替えられないの?」

中から聞こえる無邪気な声に、私は頭を殴られたような衝撃を受けた。

息子は酷いアレルギー体質で、普通の子が食べられるものの多くが口にできない。

そのため私は仕事を辞め、家で世話をし、食べたいという願いをできる限り叶えてきた。

けれど、幼稚園に新しく来た先生真由が現れてから、すべてが変わった。

私のしてきたことは、彼の目には自由を奪う行為にしか見えず、ついには私の授乳写真までさらして、恥をかかせて仕返ししようとした。

五歳の子どもが分からないのは仕方ないとしても、直樹まで分からないの?

ドアの隙間にのぞく、上品で端正な横顔を見つめながら、朝には私の靴ひもを結び、頬にそっとキスをして「愛してる」と囁く男が、いま目の前のこの人だとはとても思えなかった。

いまこの瞬間の私の屈辱は、すべて彼ら親子が作り出したものだ!

私はよろめきながら階段を下り、手にしていたアレルギー薬を思いきりゴミ箱に放り込んだ。

保護者会から帰ったとき、拓海は首をかきながら「アレルギーの症状が出た」と言った。

私はまた何か口にしたのだと思い、悲しむ間もなくアレルギー薬を買いに走った。

だが、私を早く家から追い出したのは、直樹に「いい子ぶる」ためだったのだと後から知った。

悲しみに気づいたのか、家の犬ポチが私の膝に飛び乗り、うるんだ瞳で私を見上げた。

やがて親子は楽しげに笑いながら階段を降りてきた。

拓海は私に飛びついて、今にも泣き出しそうな顔で謝った。

「ママ、ごめんなさい。先生がいちばん感動した写真を一人一枚持ってくる宿題を出したから、パパとママの部屋から適当に一枚持っていったんだ。これがダメだなんて知らなかったよ。ママ、怒らないで?」

私は二人を見た。似た色の瞳に、同じ種類の「心配」が浮かんでいる。

私は淡々と口を開いた。

「首がかゆいって言ってたよね。もう平気なの?」

拓海の幼い顔に戸惑いが走り、思わず直樹を見上げる。

直樹は笑って説明した。

「さっき上で薬を見つけて、飲ませたんだ」

「うん、もうだいぶ良くなったよ。ママ、心配しないで」

拓海はすぐさまうなずいて相槌を打つ。

互いにかばい合って嘘を重ねる光景に、胸の中に刃物で裂かれたようなひびが走った。

二人ともアレルギー体質。

だからこそ家の薬の在庫は私が一番よく知っている。

薬箱を一度でも開ければ、そこにアレルギー薬が一つもないことぐらい、すぐに分かるはずだ。

これほど真剣に向き合ってきたのに、返ってきたのは二人の恩知らずだった。

直樹は私の隣に腰を下ろし、何気ないふうを装って切り出した。

「明日は金曜だし、母さんのところに行ってくれ。俺は会議で一緒に行けない。拓海は会社に連れていくから、君の手を煩わせないようにね」

直樹の母・渡辺美穂(わたなべ みほ)は体が弱く、郊外の療養施設で暮らしている。

毎週、拓海の休みには、私は彼を連れておばあさんを見舞ってきた。

けれど三か月ほど前から、拓海が一緒に行く回数は目に見えて減り、前日になると決まって直樹が「拓海は会社に連れていく。君に面倒をかけないように」と言うようになった。

その言葉に、私はかつて心の底から感激した。

だが今なら分かる。思いやりなんかじゃない。

拓海を口実に、真由に会うための言い訳を作っていただけだろう。

私が黙っていると、直樹は私の頬をつまんでみせた。

「なあ、今日はどうした?上の空だぞ」

その視線にはいつものように優しさが満ち、黒い瞳には私だけが映っている。

そんなふうに見える。普段の私なら、その表情がたまらなく好きだった。

けれど、今は拍手して叫びたい。

直樹、よくもまあ、そこまで演じられるね!

翌日、私は療養施設には行かず、かつて勤めていた法律事務所へ向かった。

元の上司からはっきりした答えをもらって、ようやく少し安心できた。

親子二人の本性を知ってからというもの、思いは渦のように湧き上がった。

結局、夫にも子にも頼るより、自分を頼るほうが確かだということ。

これから先、私は私のためだけに生きる。

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第1話
幼稚園に新しく来た女の先生・西村真由(にしむら まゆ)が、息子・渡辺拓海(わたなべ たくみ)にピーナッツを食べさせて減感作療法を試すよう勧め、拓海はショックを起こして救急搬送された。怒りに任せて私はすぐに幼稚園へ電話をかけて苦情を伝えたが、翌日の保護者会では、私が授乳している写真が掲示板に貼り出され、みんなの目にさらされてしまった。「人は見かけによらないな。スタイルいいじゃん、胸が白くてまん丸だ!」「向こうから遊ばせてくれるなら、金払ってもいいよ、ははは!」大勢の前で恥をかかされ、私は取り乱して家に逃げ帰った。ところが、拓海が得意げに話すのを偶然耳にしてしまった。「パパがくれた写真、僕は掲示板に貼ったよ。クラスのみんなのパパとママも見たんだ。ママすごく怒って、帰るときずっと泣いてた。とっても悲しそうだったよ!真由先生、このいいニュースを知ったら嬉しいかな?」夫・渡辺直樹(わたなべ なおき)は拓海を抱き上げてくるりと回し、満足げに言った。「とても喜んでいたよ。週末にママがおばあちゃんの世話をしに行ったら、俺たちは一緒に遊園地に行こう!」部屋の中から笑い声が何度も高く響くのを聞きながら、私は玄関先で全身を震わせて立ち尽くした。扉を隔てて、拓海が指を折りながら、私の欠点を真剣に数え上げていた。「ママは連れて行かないで。いつもこれ食べちゃダメ、あれもダメって言うんだ。真由先生は違うよ。おやつは子どもの本能だって言ってくれる。ママはいつもまずいものばかり作って、僕の本能をつぶしてるんだ!真由先生は、僕のピーナッツアレルギーは軽いだけで、たくさん食べれば慣れて治るって言ってくれたんだ。先生は僕のことを思ってくれているのに、ママはひどいよ!わざわざ真由先生を苦情で責めに行ったんだから!パパ、真由先生がね、ママは家で仕事もなくて暇だから、初めての育児でちょっと権力があると僕に向けるんだって。パパ、ママって替えられないの?」中から聞こえる無邪気な声に、私は頭を殴られたような衝撃を受けた。息子は酷いアレルギー体質で、普通の子が食べられるものの多くが口にできない。そのため私は仕事を辞め、家で世話をし、食べたいという願いをできる限り叶えてきた。けれど、幼稚園に新しく来た先生真由が現れてから、すべてが変わった。私のしてき
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第2話
家に戻った途端、耳をつんざくような音楽が聞こえてきた。ポチは怖がって、庭の隅で震えながら身を隠していた。私は無表情のまま扉を開けると、五段重ねの大きなケーキが目に飛び込んできた。本来なら会議にいるはずの直樹は、拓海を抱きかかえ、人混みの中央に立っていた。大人と子ども、よく似た二つの顔には同じ喜びが溢れていて、その隣には真由の姿があった。「真由先生、お誕生日おめでとう!」拓海が勢いよく拍手すると、直樹と真由は彼をはさんで目を合わせ、ほほえみ合った。まるでテレビCMに出てくる、幸せそうな「家族三人」の一幕だ。私は前へ進んだ。直樹が反射的にこちらを見て、みるみる顔色を変えた。拓海も拍手の手をぴたりと止めた。「ママ、今日はおばあちゃんのところにいるはずじゃなかったの?どうして帰ってきたの?」直樹は落ち着き払って言う。「母さんのほう、ちゃんと済んだのか?」私は笑って返した。「実の息子も孫も顔を出さないところへ、嫁の私が三年通って看病してきた。もう十分、務めは果たしたよね?」【真由お姫さま、お誕生日おめでとう!】ケーキに書かれた文字を見つめ、私はそれを指さして、鼻で笑いながら直樹に問うた。「これが子どもを連れて会議に行くってこと?息子の幼稚園の先生の誕生日を、家で祝うタイプの会議なの?」直樹は潔癖で、清潔にうるさい人だ。亡くなった母から私が引き取ったポチも、何度も頭を下げてやっと家に置かせてもらい、活動は庭に限定。家に入ったら、私は隅から隅まで大掃除をしてきた。彼に不快な思いをさせないよう、機嫌を損ねないよう、私はいつも気を張っていた。それなのに、いまここは他人の誕生日会場になった。もう汚れも散らかりも平気ってこと?じゃあ、これまで私が飲み込んできた悔しい思いは、全部当然の報いだったの?直樹は私より先に動き、真由をかばって背後に下がらせる。「結菜、今日は真由の誕生日だ。拓海がいちばん好きな先生だろ。君がクレームを入れて職を失わせた。その埋め合わせをしているだけだ」息子までが両腕を広げて真由の前に立ちふさがり、まるで私が悪事の限りを尽くす悪魔であるかのようだ。「ママ、真由先生をいじめないで。先生を元気づけたくて、家でお誕生日会してあげただけだよ」二人には見えていないのだ
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第3話
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第4話
SNSで真由が新しく上げた自撮りの一枚目は、法律事務所の玄関だった。【ある人のおかげで、やっとまた仕事が見つかりました】その自撮りの写真の隅に、見覚えのある男性の手首と腕時計が写り込んでいる。それが直樹がいちばん愛用している時計だと、私はすぐに分かった。私は一気に力が抜けた。長いあいだ必死に積み上げてきたものを、彼はあっさり別の女の前に差し出して見せたのだ。なんでよ?私は納得できない!こみ上げる涙を仰いで押し戻し、私は携帯を取り上げてパートナーに電話をかけた。ほどなくして見ると、真由の入社投稿はSNSから削除されていた。直樹は慌てで家に戻ってくるなり、私を頭ごなしに責め立てた。「結菜、いつまで騒ぐつもりだ。働きたいなら、うちの会社の法務顧問にすればいい。でもあのチャンスは真由にとってものすごく貴重なんだ!彼女は俺の命の恩人で、拓海がいちばん好きな幼稚園の先生だ。俺たちのために一歩譲ることはできないのか?」直樹は以前、アレルギー発作を起こしたとき、通りがかった真由に助けられ、彼女は新卒と知ると、拓海の通う私立幼稚園に彼女を先生として入れたのだ。「資格ひとつ取れないくせに、私を押しのけてまで大手の法律事務所にねじ込む?直樹、前に私へ何て言ったか覚えてる?」かつて私が実習弁護士になったとき、コネ枠に押されて居場所が危うくなった。私は直樹に助けを求めたが、彼は「俺の人脈で君を入れたら、コネに頼る連中と同じになる」と言ったのだ。なのに今の彼は、堂々と別の女を中へ入れている。私はもう彼を相手にせず、仕事に気持ちを切り替えた。後で聞いた話では、直樹は結局、真由を回り回ってまた幼稚園へ戻したらしい。仕事が安定してから私は事務所の近くに部屋を借り、ポチを連れて行くつもりでいた。ところがその日、直樹の家中を探しても、ポチの影すら見つからなかった。空気の中に反響するのは、張り裂けるような私の声だけ。「監視カメラ!そうだ、まだ監視カメラがある!」拓海の安全のために家へ設置しておいたことを、このときほど感謝したことはない。けれど映像を再生した瞬間、私の目の前が真っ白になった。映像の中で、ポチの甲高い悲鳴が私の背筋を氷のように冷たくし、全身を震え上がらせた。拓海はハサミでポチの毛を滅茶苦茶に
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第5話
直樹の顔色がさっと変わった。「いや、君はいま冷静じゃない。この言葉は聞かなかったことにする。真由の髪を切ったことで俺が責めるのが怖いなら、心配はいらない。彼女に謝りさえすれば追及はしない。これで済ませよう!」私はこれ以上聞きたくなくて、リビングのローテーブルを持ち上げて床に叩きつけ、もう一度言った。「私は離婚するって言ったの。直樹、人の言葉が分からないの?あの女を家に招き入れて、息子を歪ませ、私のポチを死なせたあなたと、どうしてまだ一緒にいられると思うの!あれはポチ!私の母が遺してくれた大切なものよ!彼女に、そしてあなたの息子に、何の権利があるの!」「ポチが……どうしたって?」直樹が問い返そうとした、そのとき。彼の腕の中の真由が、苦しげにうめき声を上げた。「直樹さん、頭がすごく痛いの。さっき結菜さんのハサミが刺さったみたい。病院へ連れて行ってくれる?」直樹は私など顧みず、しゃがみ込んで真由をお姫さま抱っこすると、そのまま慌ただしく玄関を出た。「結菜、話は戻ってからにしよう」拓海も急いであとを追った。その場には私ひとりが取り残された。けれど今回は、もう胸が痛むことはなかった。私はポチの骨と残された体の欠片を拾い集めて焼き、小さなひと握りの灰をガラス瓶に収め、いくつかの普段着と一緒に新しい部屋へ持っていった。ポチは本当にいい子で、気持ちの通じる犬だった。なのに最後まで守り切れなかったのは、私だ。私は離婚届を直樹に送った。彼はメッセージに返信せず、翌日になって法律事務所に現れた。「離婚の話はラインでやればいい。今の私は、あなたと顔を合わせたくない」直樹は昨日のスーツのまま。真由のところから来て、着替える暇もなかったのだろう。直樹は私をまじまじと見つめ、諦めたように言った。「結菜、もう俺と話すことさえしたくないのか?」私は顔を上げ、冷ややかに笑った。「ええ。あなたたちの顔を見るだけで吐き気がする」私の言葉に、直樹は詰まった。しばし沈黙したのち、彼は話題を変えた。「昨日の件は最初から最後まで確認した。拓海の行為は確かに行き過ぎだったし、真由にも非がある。彼女には辞めてもらい、拓海から遠ざける」そこまで言うと、彼はふいに私を見上げ、非難めいた口調に変わった。「結菜
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第6話
法律事務所に戻った。私は直樹との離婚訴訟の準備に取りかかった。「結菜、ボスがね、君が小さな案件ばかりじゃもったいないって。大きいの、受けてほしいってさ!この離婚の件、妻側に財産の半分を取らせられたら、彼女にとっては朝飯前、うちは一か月バケーションだって!夫側はどうやらうちの宿敵の事務所が受任。ボスは言ったよ、何があっても負けるな。金はともかく、格が落ちるのが一番まずいって」私は一気に重圧を感じた。直樹への離婚提訴はいったん脇に置き、資料に没頭した。妻と夫は、いわばシンデレラと王子の物語だった。二人は家族の反対を押し切って結婚し、妻は双子を出産、夫の両親にも認められ、自然な流れで妻は夫の会社に入った。やがて妻は夫の不倫を疑い、離婚を求めたが、夫は応じない。妻は決定的証拠をまだ掴めていないが、夫の不倫を確信している。周囲は口々に思いとどまるよう諭した。「不倫くらい誰でもする、男なんてそんなものだ」と。それでも妻は離婚を貫いた。裁判当日の最後の場面で、男の不倫相手が突然現れて、彼の浮気を裏付ける証拠を突きつけた。依頼人・鈴木は見事に財産の半分を手に入れた。「結菜さん、本当にすごいですね。みんなは私を欲張りだって言うけど、誰も知らないんです。これは全部私が当然もらうべきものなんですよ。あの人は遊ぶことならなんでもできるのに、商売だけは全然ダメ。あの家を支えてきたのは全部私なんです。私は前で必死に働いて、彼は後ろで女遊びばかり。こんなの、どんな女が我慢できますか?」私は笑って言った。「最後の一押しで、あの方を動かしたのが勝因ですね」鈴木は髪を払って、同じく笑った。「彼女は愛人にすぎないのよ。その後ろには別の女も控えている。私が去った後、彼女が本当に結婚するかどうかなんて分からない。だったら、目の前にある確実なお金の方がずっと価値があるでしょ」半月の疲れがどっと押し寄せたけど、ようやく休めると思った。事務所に戻ると、ちょうどボスがホテルでの宴席を決めていた。食事の途中で、私は少し外に出て空気を吸った。今回の案件で、私・結菜の名前は再び業界で知られることになった。次から次へとグラスが差し出され、酒が回っていく。「結菜?」名を呼ばれて振り向くと、直樹と真由が拓海を連れて、
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第7話
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第8話
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