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優しさという名の罠​

優しさという名の罠​

By:  あらあら​Completed
Language: Japanese
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妊娠28週目。夫の湯山泰輔(ゆやま たいすけ)が私を妻に選んだのは、彼が最も愛する女、善如寺由衣(ぜんにょじ ゆい)に、出産の苦しみを味わせないための身代わりに過ぎなかったのだと知った。 ​ 彼の甲斐甲斐しい優しさの裏には、緻密に仕組まれた罠が隠されている。 ​ 離婚を決意し、海外へ渡ろうとした矢先、由衣の手によって私はお腹の子を失った。 ​ 絶望の中、私はすべてを捨てて遠い異国の地へと旅立ったが、泰輔は狂ったように私の後を追った。 ​ 雪の中に膝をつき、涙ながらに許しを乞う彼。 ​ けれど彼はまだ知らない。私がすでに、逃げ場のない復讐を企てていることを。 ​ 今度は私が、彼と由衣に相応の報いを受けさせる番だ。我が子の無念を晴らすために。 ​

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Chapter 1

第1話 ​

湯山泰輔(ゆやま たいすけ)との結婚は、人生で最も幸せなことだと信じていた。そのために、海外留学のチャンスさえも投げ捨てたのだ。

彼はどこまでも甲斐甲斐しく、妊娠中の私が自分で靴下を履くことさえ許さないほど大切にしてくれた。

妊娠35週目のある日。私は期待に胸を膨らませながら、健診の結果を彼に報告しようと書斎へ向かった。

けれど、ドアの前で足を止めた。中から彼の親友・半沢寿紀(はんざわ としき)のからかうような声が聞こえてきたからだ。

「泰輔、由衣ちゃんがもうすぐ帰国するんだろ?いつまであの子供を産む機械に付き合ってやるつもりだ?」

泰輔の声は、驚くほど冷淡だ。

「子供が生まれるまで演じきって、それから別れるさ」

寿紀が口笛を吹いた。

「さすがだな。よく耐えられる。俺たちの仲間で、妊娠中期まで演じきった奴なんていねえぞ」

泰輔が鼻で笑った。

「完璧に演じてみせるさ。由衣に、あんな苦しい思いはさせたくないからな」

私は書斎に踏み込んで問い詰めることもせず、ただ静かに背を向けた。

そして、海外留学の準備に必要な書類を揃え始めた。

……

書斎の外に立ち尽くす私の手には、印刷されたばかりのエコー写真が握られている。

赤ちゃんの輪郭がはっきりと写っている。小さな手、小さな足。それは、芽吹いたばかりの種のように見えた。

湯山楽夢(ゆやま らむ)――それは泰輔が名付けた子供の名前だ。愛に包まれて楽しく夢を見られるように、と言って。

今となっては、その願いを込めたはずの名前が、あまりにも忌々しい。

私は震える手で写真を握りしめた。爪が、手書きで記された【楽夢】の二文字を無惨に引き裂いた。

――なんて滑稽なのだろう。我が子の名を呼ぶ時でさえ、彼の心には別の女がいるのだ。

突然、胃の底から込み上げるものがあり、喉の奥が酸っぱく感じられた。

私はたまらず隣の洗面所に駆け込んだ。

洗面台に顔を伏せ、前かがみになって何度もえずいたが、何も出てこない。

ふと見ると、先ほど握りつぶしたエコー写真が床に転がっている。心臓が締めつけられるような思いがした。

そこに映る小さな命の姿ははっきりしているが、その小さな手や小さな足が、鋭い刃物のように私の心臓を深く突き刺した。

泰輔にとって、私はただの「子供を産む機械」でしかなかったのだ。

……

背後から急に足音が近づいてきた。

泰輔の手が私の背中に添えられた。ミントの香りにタバコの匂いが混じり、鼻を突いた。

「また具合が悪くなったのか?」

彼の声は切羽詰まったように響き、温かな手のひらで私の背中をさすった。

「お手伝いさんにグリーンスムージーを作るよう頼んである。もう少しで……」

私は思わずその手を振り払った。

あまりに唐突な拒絶に、彼の腕は宙で止まった。

「楽夢がまた暴れてるのか?」

泰輔は腰を落とし、汗で張り付いた私の前髪をかき上げた。指先が耳たぶに触れた瞬間、全身が震え始めた。

かつては安らぎをくれたその手の温もりが、今は毒蛇の舌のように感じられてならない。

「触らないで」

私は枯れた声で彼を突き放した。

彼は一瞬呆然としたが、すぐに困ったような笑みを浮かべた。

「ホルモンバランスが崩れて情緒不安定なのかな。白湯を一杯持ってくる」

私は答えず、彼の鎖骨にある【Only Love Y.】というタトゥーをじっと見つめた。

私が妊娠したと分かった日に、彼が彫ったものだ。

理由を尋ねた時、彼はこう答えた。

「『Y』は『You』の略さ。Only Love You、生涯君だけを愛し抜くという誓いだぞ」

けれど今、ようやく理解した。「Y」は由衣の頭文字だったのだ。

「ほら、口を開けて」

彼は白湯の入ったコップを私の唇に寄せた。

窓から差し込む日差しが、彼のまつ毛の影を長く伸ばしている。それはまるで、計算し尽くされた優しさという名の罠のようだ。

その時、泰輔のスマホが鳴った。

画面を確認した彼の眉が、わずかに動いた。

「出たら?」

私は小さな声で言った。

「仕事の話かもしれないし」

彼は一瞬ためらったが、窓際まで歩いて行き、電話に出た。

「ああ……分かった……すぐに行く」

電話を切って振り返ると、彼はすでにいつもの優しい表情に戻っていた。

「静香、急な会議が入ったんだ。お手伝いさんを呼ぶから、ゆっくり休んでてくれ」

私は彼の鎖骨にあるタトゥーを見つめ、不意に笑みがこぼれた。

「ええ、分かったわ」

彼が洗面所を出た直後、廊下の向こうからひそひそと話す声が聞こえてきた。

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第1話 ​
湯山泰輔(ゆやま たいすけ)との結婚は、人生で最も幸せなことだと信じていた。そのために、海外留学のチャンスさえも投げ捨てたのだ。​彼はどこまでも甲斐甲斐しく、妊娠中の私が自分で靴下を履くことさえ許さないほど大切にしてくれた。​妊娠35週目のある日。私は期待に胸を膨らませながら、健診の結果を彼に報告しようと書斎へ向かった。​けれど、ドアの前で足を止めた。中から彼の親友・半沢寿紀(はんざわ としき)のからかうような声が聞こえてきたからだ。​「泰輔、由衣ちゃんがもうすぐ帰国するんだろ?いつまであの子供を産む機械に付き合ってやるつもりだ?」​泰輔の声は、驚くほど冷淡だ。​「子供が生まれるまで演じきって、それから別れるさ」​寿紀が口笛を吹いた。​「さすがだな。よく耐えられる。俺たちの仲間で、妊娠中期まで演じきった奴なんていねえぞ」​泰輔が鼻で笑った。​「完璧に演じてみせるさ。由衣に、あんな苦しい思いはさせたくないからな」​私は書斎に踏み込んで問い詰めることもせず、ただ静かに背を向けた。​そして、海外留学の準備に必要な書類を揃え始めた。​……​書斎の外に立ち尽くす私の手には、印刷されたばかりのエコー写真が握られている。​赤ちゃんの輪郭がはっきりと写っている。小さな手、小さな足。それは、芽吹いたばかりの種のように見えた。​湯山楽夢(ゆやま らむ)――それは泰輔が名付けた子供の名前だ。愛に包まれて楽しく夢を見られるように、と言って。​今となっては、その願いを込めたはずの名前が、あまりにも忌々しい。​私は震える手で写真を握りしめた。爪が、手書きで記された【楽夢】の二文字を無惨に引き裂いた。​――なんて滑稽なのだろう。我が子の名を呼ぶ時でさえ、彼の心には別の女がいるのだ。​突然、胃の底から込み上げるものがあり、喉の奥が酸っぱく感じられた。​私はたまらず隣の洗面所に駆け込んだ。​洗面台に顔を伏せ、前かがみになって何度もえずいたが、何も出てこない。​ふと見ると、先ほど握りつぶしたエコー写真が床に転がっている。心臓が締めつけられるような思いがした。​そこに映る小さな命の姿ははっきりしているが、その小さな手や小さな足が、鋭い刃物のように私の心臓を深く突き刺した。​泰輔にとって、私はただの「子供を
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第2話 ​
「泰輔、由衣ちゃんが帰国した。今、空港にいるって」​寿紀が話した。​私は壁を支えにして、ゆっくりと角まで移動した。​泰輔は背を向け、声を低く抑えて問い返した。​「来週のはずじゃなかったのか?」​「早まったんだとさ」​寿紀は私のいる方向にちらりと視線を送り、泰輔の袖を引いた。​「お前は早く行け。こっちは俺がうまく誤魔化しておく」​泰輔が洗面所の方を振り返ったので、私は慌てて身を隠した。​「……急な仕事が入ったと伝えてくれ」​彼はそう言い含めた。​「感付かれるな」​足音が遠ざかっていく。私は壁にもたれかかり、スマホを取り出して連絡先をスクロールした。​まず、弁護士に電話をかけた。​「離婚手続きをお願い。できるだけ早く」​次に、かつての指導教員に連絡を取った。​「先生、マサチューセッツ工科大学の博士課程への推薦、もう一度お願いできないでしょうか」​受話器の向こうで、一瞬の沈黙が訪れた。​「本気か?君は今、身重のはずだ。旦那さんとは……」​「離婚します」​私は言葉を遮った。自分でも驚くほど、声は穏やかだ。​「一刻も早く、ここを離れたいのです」​電話を切ると、メールボックスを開いた。​下書き箱には、三年前の自分が書いた【辞退届】が眠っている。​私はそのメールを削除し、新たに打ち始めた。​【拝啓、選考委員会の皆様。​私の博士課程への入学申請について、改めてご検討いただきたく……】​……​パソコンを閉じ、ベッドに身を丸めているうちに、意識が遠のいていった。​夢の中で、私はあの雨の夜に戻っている。​12歳のあの時も、こうしてパソコンの前で遺書を綴る母の背中を見ていた。​母の背中は紙のように薄く、キーボードを叩くカタカタという乾いた音だけが響いていた。​「ごめんね、静香。お母さん、もう耐えられないの」​母は私のお気に入りだった赤いワンピースを身にまとい、18階から飛び降りた。​ひどい雨の日だった。雨水と血が混ざり合い、アスファルトを赤く染めていた。​人だかりの外で、私は母のワンピースが道端に咲いては枯れた花のように広がっているのを眺めていた。​父は葬儀の席に新しい女を連れて現れ、一滴の涙も流さなかった。​「お母さんは、心が弱すぎたんだ」
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第3話 ​
私は冷たく言い放った。​泰輔はしばらく沈黙した後、キッチンへ向かった。​やがて、一杯の味噌汁を手に戻ってきた。​「俺が作った。温かいうちに飲んで」​私が味噌汁を啜っていると、向かいに座った彼の声に苛立ちが滲み始めた。​「静香、最近の君は少しわがままが過ぎるんじゃないか?」​箸を握る手が止まった。​以前の私は、つわりで何も食べられない時、彼が趣向を凝らして料理を作ってくれた。食べたいと言えば、夜中だろうと車を飛ばして買いに走ってくれた。​「君の好きなものなら何でも用意する。君が笑ってくれるなら、それでいいんだ」​かつて彼は、そう言ってくれた。​それなのに、今の彼は私を「わがまま」だと言い放った。​私は俯き、こぼれ落ちそうな涙を味噌汁の中に沈めた。​私の様子に気づいたのか、泰輔は少し声を和らげた。​「マタニティフォトを撮りたいって言ってただろう?今日の予約を取ってあるんだ」​私は一瞬呆然とし、膨らんだお腹をそっと撫でた。そして、静かに頷いた。​彼がどんなにひどい男であっても、写真を撮って、私とこの子のかけがえのない思い出を残したいから。​……​午後三時、フォトスタジオ。メイクアップアーティストがコンシーラーの色を調整している。​「妊娠線はこの色で隠すと綺麗に見えますよ」​メイクブラシが私のお腹の上を滑っている。​「奥様、リラックスしてくださいね。きっと素敵な写真になりますから」​私は鏡に映る、自分の崩れた体型を見つめている。鎖骨の下には、点々と広がるシミが星のように散らばっている。​その時、廊下に響く高いヒールの音が静寂を破った。​泰輔の妹、湯山陽菜(ゆやま ひな)が、見知らぬ女の手を引いて土足で踏み込んできた。派手な赤いネイルが目に刺さるようだ。​「由衣さん、見て」​陽菜はわざと声を張り上げた。​「これが、お兄さんが結婚相手として選んだ産む機械よ」​善如寺由衣(ぜんにょじ ゆい)は、ウエストを覗かせたタイトなトップスに黒のワイドパンツを着こなし、しなやかな腹筋を見せている。​彼女は私のお腹を値踏みするように眺めると、唐突に指でそこを突いた。​「へえ、妊娠線って触るとデコボコしてるのね。まるで古びた樹の皮みたい」​メイクブラシが床に落ちた。​私は思
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第4話 ​
泰輔はようやく口を開いた。「由衣、もういいだろ」​泰輔の言い方は私を庇っているようだが、その視線は一度も由衣の顔から離れなかった。​私は拳を握りしめ、爪が手のひらに深く食い込んだ。​……​それからの一週間、泰輔は早朝に出ては深夜に帰宅する生活を続けた。​私は何も問いたださなかった。同じ屋根の下で暮らしているのに、私たちは赤の他人のようになっている。​今日は妊婦健診の日。​彼にメッセージを送ったが返事はなく、電話をかけても繋がらなかった。​私は仕方なく、一人でタクシーを拾い、病院へ向かった。​待合室は夫婦連れで溢れている。男性たちは皆、妻を大切に支え、優しく言葉をかけている。​私は一人で隅に座り、診察券を握りしめている。お腹の子が私の不安を感じ取ったのか、中からポコリと蹴り上げてきた。​「28番、湯山静香(ゆやま しずか)様」​看護師に名前を呼ばれた。​私は重い体を支えて立ち上がり、壁に手をつきながら診察室へと足を運んだ。​検査を終えて診断書を手に廊下を歩いていると、突き当たりに見覚えのある背中が見えた。​泰輔は由衣を支えている。その手つきは、まるで壊れ物を扱うかのように穏やかだ。​彼女は入院着を身にまとい、顔色は青白いが、それでも息を呑むほど美しい。​私は立ち尽くし、ラブラブな新婚夫婦のように寄り添う二人を見つめている。​泰輔が由衣の耳元で何かを囁くと、彼女は微笑みを浮かべて小さく頷いた。​「お兄さん!」​背後から陽菜が駆け寄ってきた。手には薬袋を握っている。​「由衣さんの薬、もらってきたよ」​彼女は私に気づくと、一瞬だけ動きを止め、すぐに冷笑を浮かべた。​「あら、お義姉さんも病院?お一人で?」​泰輔がようやく私に気づき、わずかに表情を強張らせた。​「静香……」​彼は私の方へ歩み寄ろうとしたが、陽菜がその腕を強く引き止めた。​「お兄さん、由衣さんを放っておくの?彼女、あなたを庇って怪我をしたのよ」​由衣は弱々しく壁にもたれかかり、柔らかな声で言った。​「泰輔、行ってあげて。私は大丈夫。今、あなたを必要としてるのは奥さんの方だわ」​大人しい言葉とは裏腹に、その瞳には明らかな挑発の色が宿っている。​陽菜が焦ったように声を荒げた。​「由衣さん
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第5話 ​
航空券の予約画面が読み込まれている時、ドアノブが回る音がして泰輔が入ってきた。​彼の手には温かいミルクの入ったグラスがあり、視線が私のパソコン画面を掠めた。​「こんなに遅くまで、何をしてるんだ?」​私は素早く画面を切り替え、落ち着いた声で返した。​「別に。胎教にいい音楽を探してただけよ」​泰輔は私の背後に歩み寄り、そっと肩に手を置いた。​「静香、由衣は数日間うちに泊まるだけだ。君はもうすぐ出産だから、あまり深く考えないでくれ」​私はパソコンを閉じ、立ち上がった。​「疲れたわ。もう寝るわね」​彼はその場に立ち尽くし、何か言いかけようとしたが、結局ため息をついて部屋を出て行った。​私は再びパソコンを開き、ボストン行きの航空券を予約した。​画面の光が私の顔を照らしている。膨らんだお腹を撫でると、心の中に穏やかな静寂が広がった。​今度こそ、本当にここから去るのだ。​……​翌朝早く、私はクローゼットを開けて荷造りを始めた。​隅の方に、色褪せた赤いベルベットのジュエリーケースが置かれており、角は擦れて白くなっている。​そっと蓋を開けると、中には銀のネックレスが横たわっている。ペンダントトップは小さな鈴で、花の刻印が施されている――母が残してくれた、唯一の形見だ。​ジュエリーケースをスーツケースに入れようとしたその時、由衣が突然、断りもなく部屋に踏み込んできた。​彼女の視線は瞬時にそのネックレスを捉え、瞳に鋭い欲望が閃いた。​「そのネックレス……泰輔が私にくれるって言ってたものかしら?」​私は彼女に冷ややかな視線を向けた。​「これは、私の母の形見よ」​「嘘つき!」​由衣は駆け寄り、無理やりジュエリーケースを掴み取ろうとした。​「泰輔が鈴のネックレスを贈るって約束してくれたのよ。これに間違いないわ!」​私はケースの端をしっかりと握り締め、絶対に離さなかった。​「善如寺、人の言葉が理解できないの?母のものだと言ってるでしょう!」​「悲劇のヒロインぶらないで!」​由衣は甲高い声で叫んだ。​「泰輔から聞いたわ。あなたの母親は、父親の浮気が原因で命を絶ったってね。そんな家から出た人間に、こんな綺麗なネックレスは似合わないわ!」​ショックで全身が震え、指の力がふっと抜けた。
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第6話 ​
再び目を覚ました時、刺すような白い光に思わず目を細めた。​鼻を突く消毒液の匂い。私は病院のベッドに横たわり、腕には点滴が繋がっている。​「気がつきましたか?」​医師が近づいてきた。その表情は重苦しい。​「残念ですが、お子さんは助かりませんでした」​全身が凍りついた。指先がシーツを強く握りしめた。​「どうして?」​「腹部への強い衝撃による常位胎盤早期剥離です」​医師はカルテをめくりながら言った。​「運び込まれた時にはすでに大出血を起こしており、我々も手を尽くしましたが……」​私は目を閉じ、耳の奥で鳴り続ける不快な音を聞いている。​「ご家族にご連絡なさいますか?」​看護師が静かに尋ねた。​私は首を振り、枯れた声で答えた。​「結構です」​病室は不気味なほど静まり返り、モニターの電子音だけが響いている。​自分のお腹に手を当ててみた。以前のような膨らみはなく、平らになっている。けれど、そこにはぽっかりと穴が開いたような喪失感だけが残っている。​「楽夢……」​私は小さく呟いた。涙が音もなく頬を伝った。​「ごめんね」​……​三日後、私は空港の保安検査場に立っている。搭乗券を握る指先が白い。​アナウンスが響いた。ボストン行きの便の搭乗がまもなく始まる。​突然、スマホが震えた。画面には泰輔の名前が表示されている。​一瞬の迷いの後、私は通話ボタンを押した。​「静香!君、正気か!」​彼の怒りに満ちた声が響いた。​「あの離婚届は何のつもりだ?君はもうすぐ出産なんだぞ。いい加減にしろ!」​私はスマホを握りしめた。​「泰輔……私たち、もう終わりよ」​「終わりだと? 勝手なことを言うな!」​彼は鼻で笑った。​「由衣の顔があんなに腫れてるのを知ってるのか?彼女は俺を助けて怪我をしたんだ。それをあんな風に扱うなんて、人としてどうなんだ!」​私は目を閉じた。耳の奥で、またあの不快な音が聞こえた。​「彼女が怪我?彼女が私を突き飛ばした時、私のお腹に子供がいるなんて、彼女は考えもしなかったでしょうね」​泰輔は数秒間絶句したが、すぐに激しい口調で遮った。​「いい加減な嘘をつくな!​由衣がそんなことするはずがない!彼女はいつだって俺の前で君を庇ってたんだ。それに比
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第7話 ​
私は泰輔の手を振り払い、氷のように冷たい視線を向けた。​「楽夢は今、天国にいるわ。会いに行けばいいじゃない」​一呼吸置いて、私は口角を吊り上げた。​「ああ、違ったわね。あなたみたいな人間は、死んでも地獄に落ちるのよ。私の子供に会えるはずなんてないもの」​彼の顔から一瞬で血の気が引き、よろめきながら一歩後退した。​「そんなはずはない。一ヶ月前、君はあんなに元気だったじゃないか。君が拗ねて勝手に海外へ行かなければ……」​「湯山泰輔」​私は彼の言葉を遮り、嘲るような声をぶつけた。​「あなたに子供のことを口にする資格があるの?善如寺に付き添って病院へ行ってた時、子供のことを考えた?彼女を私たちの家に住まわせた時、子供のことを思い出しもしなかったくせに」​彼は口をパクつかせたが、言葉が出てこないようだ。​私が背を向けて家に帰ろうとすると、彼は無理やり止めようと飛びかかってきたが、マンションの警備員に阻まれた。​「静香!」​泰輔は雪の中に膝をつき、声を枯らして叫んだ。​「子供に会わせてくれ、頼む……」​私はドアを閉め、吹き荒れる雪と彼の絶望に満ちた叫びを外へ締め出した。​家では、弁護士が私を待っている。​彼はメガネの縁を押し上げ、重苦しい口調で告げた。​「証拠はすべて揃いました。ですが、現状では私たちにとって不利な点もあります。首尾よくいって懲役十年以下、悪ければ三年以下になる可能性もあります」​「それに」​彼は言葉を区切った。​「あなたの元夫と善如寺さんの間には男女の関係がありました。もし彼が家族としての示談書に署名すれば、裁判で減刑される可能性があります」​私は窓辺に歩み寄り、雪の中に跪く泰輔を見下ろした。​体を震わせながら、彼は狂ったように何かをつぶやき、頑なにその場を離れようとしない。​「楽夢、パパが来た……」​「足りないわ。楽夢の命に比べれば、あいつらが受ける罰なんて軽すぎる」​私は奥歯を噛み締め、凍りついたガラスを指先でなぞった。​「あの二人には、死ぬよりも辛い思いをさせてやるわ」​弁護士は呆然とした表情を浮かべた。​「それは、どういう意味で……」​窓の外で雪にまみれる泰輔を見つめる私の心は、冷え切っている。​「彼を中に入れて」​私はそう告げた
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第8話 ​
私は冷ややかに鼻を鳴らし、洗面所へと向かった。​「もう帰っていいわよ」​泰輔はふらふらと立ち上がり、玄関でふと足を止めて振り返った。​「静香、俺は……」​「消えて」​冷淡な声で遮った。​彼が去った後、私は洗面所に駆け込み、狂ったように手を洗った。​蛇口を全開にし、冷たい水で肌をゆすぐが、その吐き気を催す感覚はどうしても拭い去れない。​鏡に映る青ざめた顔を見つめ、私は小さく呟いた。​「楽夢、お母さんがあいつらに報いを受けさせてあげるからね」​……​泰輔が去ってから、私は窓の外を眺めている。彼の背中が吹雪の中に消えていくのをじっと見送った。​それから数週間後、国内のニュースの見出しが世間を騒がせた――【湯山グループ元幹部・善如寺由衣、巨額のビジネス詐欺および業務上横領の疑いで逮捕】。​報道では、由衣がいかに職権を乱用して契約書を偽造し、会社の資金を私物化し、さらにはマネーロンダリングに関与していたかが詳細に語られた。​泰輔は、彼女が偽造した財務諸表や不正送金の記録、さらには海外の不法組織とのやり取りを記したメールなど、完璧な証拠一式を警察に提供したのだ。​法廷で由衣は顔をひきつらせ、声を荒げて弁明した。​「全部、湯山泰輔に指示されたことです!これを手伝えば、離婚して私と一緒になると言われました!私は彼に嵌められたんです!」​証人席に座る泰輔は、表情を一切変えずに答えた。​「善如寺さん、君は会社の金を使い込んでおきながら、今さら俺を貶めようというのですか?」​裁判官が下した判決は、ビジネス詐欺および業務上横領により、懲役20年の実刑。併せて、すべての不当利益の没収。​判決が出たその日、泰輔は私のマンションを訪ねてきた。​彼は玄関先に立ち、白い菊の花束を抱えて掠れた声を出した。​「静香、楽夢の仇は討ったぞ」​私は何も答えず、ただ冷ややかな視線を送った。​彼はうなだれ、苦しげに言葉を絞り出した。​「俺が間違ってた。由衣を家に住まわせるべきじゃなかった。君とあの子を放っておいた報いだ」​私は彼の言葉を遮った。​「泰輔。あなたがやったことは、結局、自分の罪悪感を軽くしたいだけでしょう」​彼は顔を上げ、縋るような目で私を見た。​「静香、もう一度チャンスをくれないか。や
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第9話 ​
私はボストンのある生殖医療クリニックで、精子提供による受精の同意書に署名した。​医師から渡されたドナーの資料には、身長185センチ、アイビーリーグ卒業、家族に遺伝病なしと記載されている。​「本当にお一人でお子さんを育てるおつもりですか?」​医師の問いに私は頷き、首元のネックレスに触れた。​「ええ。今の私には、この子を裕福に育てる力がありますから」​しかし、泰輔は私の生活から完全に消えたわけではない。​彼は密かに私を監視し続けていた。マンションの防犯カメラやスマホの位置情報を通じて。​さらに、私が行きつけのカフェの店員まで抱き込んでいた。​暗闇に潜む獣のように、彼はずっと私の出方を伺っていた。​だから、私がクリニックに足を踏み入れた瞬間、彼はすべてを察知した。​彼は私の家に押し入り、顔を強張らせて叫んだ。​「静香、正気か? 他の男の子供を産むつもりか?それは楽夢への裏切りだぞ!」​私は彼を冷たく見据えた。​「湯山泰輔、私を監視してたのね?それに、これは不法侵入よ。警察を呼んでもいいのよ」​彼は私の肩を掴み、震える声で言った。​「そんなことはさせない。楽夢は俺たちの子供なんだ。他の誰かの子で代わりを作るなんて許さない」​私は彼の手を振り払い、冷徹な口調で返した。​「忘れないで、泰輔。楽夢を殺したのはあなたよ。そのあなたが、私の体のことに口を出すなんて……片腹痛いわ」​彼はうなだれ、消え入りそうな声で呟いた。​「俺はただ……君に楽夢を忘れてほしくないんだ」​私は冷笑した。​「忘れる?忘れるはずがないでしょう。でも私は前を向くの。あなたみたいに、いつまでも罪悪感にすがって生きるつもりはないわ」​すると、彼は突然感情を爆発させ、私をソファに押し倒した。両手で私の首を絞め、その目には狂気が宿っている。​「静香、俺を怒らせないでくれ。他の男の子を身ごもるなんて、絶対にさせない!」​私はもがき、息ができず、視界が暗くなっていくのを感じた。​「泰輔……あなた、狂ってる……」​彼は顔を寄せ、苦しげに呻いた。​「ああ、狂ったんだ。楽夢を失ったあの日から、俺はもうまともじゃないんだ」​その時、玄関のドアを激しく叩く音が響いた。​「おい、静香!中で何があったんだ?」​隣人の
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