愛は遠ざかる

これは私――伊藤奈緒（いとうなお）の3度目の採卵手術だった。しかし、夫の中村智也（なかむらともや）はまたも残業で、病院に付き添ってはくれなかった。

真夜中、激しい痛みで私は目が覚めた。手足はパンパンに腫れ、お腹には大量の腹水が溜まり、まるで妊娠八ヶ月のような大きさだった。

息が詰まり、うまく呼吸ができなかった。私は慌ててスマホを取り、智也に電話をかけた。

一分ほど呼び出し音が鳴り続け、ようやくつながった。

だが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、智也の声ではなく、見知らぬ女の声だった。

「もしもし？」それはとても若々しく、艶やかな声だった。

「どちら様？智也、私は息が苦しいの！」

「まだ服を着てるの？やばいわねぇ......」

その甘ったるい女の声が聞こえた直後、電話が切られた。

......

電話が切られたとたん、私は目の前が真っ暗になり、お腹の痛みが激しくなり床に倒れた。

今までテレビのニュースでしか見たことがない、あんな怖いことが、私の身にも起きたんだ。

私は最後の力を出して、必死に玄関まではって行き、やっとドアを開けて「助けて！」と叫んだ。そして、気を失った。

目が覚めたら、ベッドのそばに背の高い人が座っていた。

その人は隣に住んでいる若い医者、小林陽太（こばやしようた）だ。彼は一晩中寝ていなかったようで、目の下にクマができていた。

「奈緒さん、どうして一人だったんですか？ご主人は？昨夜、たまたま犬の散歩に出ていたからよかったけど、物音に気づかなかったら、もっとひどいことになっていましたよ」

私の元気がない様子を見て、陽太は途中で言葉を止めた。

私はあの時のことを決して忘れなかった。

今も、妊娠7、8ヶ月のように大きくなったお腹を見ると、私はとても怖くなった。

昨夜の電話で聞いた、あのとても艶やかな声が、幻聴だったらいいのにと願う気持ちが、まだ心のどこかに残っていた。

でも、スマホを開いて十五秒の通話記録を見た時、私はついに泣き出した。

「小林先生、病院まで連れてきてくださって、ありがとうございます。お金は後で払います」

私は彼に帰ってもらうよう、夫の智也もすぐに来るはずだと言った。

陽太が帰った後、やっとメッセージを見る勇気が出た。

陽太の前ではそれらのメッセージを見なかった。気持ちが抑えられなくなるのが怖かったからだ。

智也は一晩中帰らなかった。あの電話から約一時間後から、彼は次々とメッセージを送ってきていた。

百通を超える未読メッセージが並んでいた。

【奈緒、どうした？電話あったけど出られなくて。同僚が代わりに出たみたい。大丈夫か？】

【一人で不安になったか？もうすぐ仕事終わるから帰るよ】

【俺も奈緒に会いたい】

......

画面いっぱいのメッセージとやさしい言葉の後ろに、お金を送った記録があった。

送った時間は朝の六時だった。

突然、私は涙が出てきて、やがて泣き声をあげた。

智也はすべてを知っていたんだ！

彼は昨夜、私が何を聞いてしまったかを分かっていたんだ！

人は理由もなく急に懺悔したり、急に愛を伝えたりしない。

普段はあまり話さない彼が「愛してる」なんて言うはずがない。

【悪い夢でも見たのか？大丈夫だよ。花を買って玄関に置いておいたから、ちゃんと取っておいてね】

【帰ったらすぐ病院に行くから】

私はこれらのメッセージを見つめながら、何も返信しなかった。ただ、とても吐きそうになっただけだ。

理由もなく愛を言うのは、ただやましい気持ちをごまかしたいだけなんだ。

私がぼんやりとお腹を押さえていると、医者が部屋に入ってきた。

「奈緒さん、卵巣過剰刺激症候群を起こしています。症状はかなり重いです。胸に水がたまり、お腹にもたくさん水がたまっていて、アルブミンという、体に大事な物質の値が下がっています。心臓の筋肉にも影響が出ています。昨夜、緊急手術をしましたが、覚えていますか？」

静かな病室で、私は医者の落ち着いた声がとてもはっきり聞こえて心に刺さった。

その時、私は昨夜の危ない状況を知った。

智也に連絡が取れず、手術の承諾書にサインする人が見つからなかった。

私の状態はとても悪くて、採血することさえ難しかった。

手術台から降りられないかもしれない危険さえあった......

意識がぼんやりしている中で、私は医者に強く揺すられ、自分で手術承諾書にサインした。

今年で私と智也の体外受精は三度目だった。

前の二回は子供のもとが育たなかった。彼の子どもを産みたいという気持ちで、私は毎回歯を食いしばって頑張ってきた。

子供を作るための注射は何度も打ち、お腹には注射の跡がたくさんある。

私は毎日いっぱい薬を飲み、冷たい機械の上で一人で不安に耐えてきた。

貯金はどんどん少なくなり、智也の母の言葉は次第にきつくなっていった。

そして何度も失敗した後、智也の目にがっかりした色が浮かんだ。

この数年間、私は何も手に入れられなかった。でも少なくとも、私たちの間には愛があると信じていた。

今思えば、それはただの思い込みだったのかもしれない。

手術は終わったというのに、私のお腹は相変わらず大きくふくらんだままだ。

医者は私を見て、ため息をついた。

「こんなに具合が悪くて、もう午前九時を過ぎているのに、ご主人はまだ来ないんですか？とても無責任ですね。私から電話しましょうか？」

医者に迷惑をかけたくなかったので、私はていねいに断った。

医者は続けて言った。「今のあなたの状態はとても危ないです。入院して様子を見る必要があります。誰かそばにいてくれる人がいたほうがいいでしょう」

私はうなずいた。医者が去り、私は一人きりの病室で一日を過ごした。

智也からの電話は一本もなかった。

結局、私は自分でお手伝いさんを頼んだ。丸一日何も食べていなかったが、やっとの思いで少しだけおかゆを食べた。

夕方になってようやく、智也があわてた様子で病室に走って入ってきた。