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第8話:帰りたくない

작가: Sunny
last update 게시일: 2026-05-09 22:14:25

【優】

<<……今、誰とどこにいるの?>>

画面を見た瞬間。

心臓が、少しだけ跳ねた。

——なんで?

思わず、画面を見返す。

何度も。

短い文。

でも。

違和感だけが残る。

今まで。

そんなこと、一度も聞かれたことなんてなかった。

私が誰と会っていようと。

何時に帰ろうと。

飲み会で遅くなろうと。

体調を崩して一人で病院へ行こうと。

優は、基本的に聞かなかった。

興味がないわけじゃない。

そう思おうとしていた時期もある。

仕事が忙しいから。

疲れてるから。

男性ってこういうものだから。

でも。

四年も経つと、わかる。

違う。

ただ、見てなかったんだ。

見なくても困らなかっただけ。

気づけば、隣から声。

「旦那さん?」

綾瀬先生だった。

私は少し迷ってから、小さく頷く。

「……はい」

綾瀬先生は何も聞かなかった。

責めることも。

覗き込むことも。

ただ。

画面をちらっと見て。

小さく息を吐いた。

「……帰りたくないって顔してるよ」

図星だった。

胸の奥が、小さく痛む。

私は少し笑おうとして。

うまくできなかった。

帰りたくない。

優と咲子さんがいる家に。

私だけ少し浮いている場所に。

帰れば。

また当然みたいに、二人の空気がある。

でも、帰らない理由もない。

まだ、私は妻で。

まだ、あの家に住んでいる。

「……大丈夫です」

苦笑いを浮かべる。

「帰ります」

そう言った。

言ったのに。

自分でも、声が薄いと思った。

綾瀬先生が少しだけ眉を寄せる。

「大丈夫そうに見えない」

低い声で、呆れるように呟いた。

でも。

責める感じじゃない。

ただ、本当にそう見えている声。

私は少し目を逸らした。

「……まぁ」

少し笑う。

「元々こういう結婚だったので」

言いながら、自分で少し傷つく。

“こういう結婚”。

便利な言葉。

全部を飲み込むための言葉。

綾瀬先生は少し黙った。

そして、静かに言う。

「契約結婚だっけ」

私は小さく頷く。

すると。

少しだけ困った顔をする。

「でも」

言葉が、少し詰まった。

慎重に選んでいる感じで。

「既婚者なのに、そんな顔してる方が問題でしょ」

息が止まりそうになる。

...まただ。

この人は

人が欲しかった言葉を。

当たり前みたいに言う。

私は視線を落とした。

...危ない。

こういう時の優しさって。

弱ってる人間には、少し毒だ。

期待してしまうから。

だから、慌てて空気を変えた。

「さすがに」

少し冗談っぽく笑う。

「既婚者なので、帰らないと」

軽く言ったつもりだった。

でも。

綾瀬先生は笑わなかった。

少し考えるような顔をして。

「……うん」

短く言う。

でも。

どこか納得していない顔。

その時だった。

ぐうう……

静かなクリニックに響く音。

時間が止まる。

……最悪。

私は固まった。

数秒後。

綾瀬先生が吹き出す。

「……お腹空いてる?」

顔が熱くなる。

「違います」

反射的に否定する。

でも、違わない。

昨日から、ほとんど何も食べていない。

結婚記念日のディナー。

楽しみにしていたのに。

結局、何も食べられなかった。

今日は朝も昼も適当だった。

綾瀬先生が少し笑う。

「東郷先生」

少し間。

「ちゃんと食べてから考えよう」

軽い声。

妙に真っ当だった。

「逃げる準備って、空腹だと無理だから」

思わず、少し笑ってしまう。

「なんですか、それ」

「結構大事」

さらっと言う。

「寝不足と空腹の時、人って変な判断するし」

少し間。

「今日はもう、ちゃんと食べる日」

その言い方が。

押しつけがましくなくて。

でも、自然で。

少しだけ肩の力が抜けた。

***

連れて行かれたのは、クリニック近くの小さな定食屋だった。

派手じゃない。

でも。

なんとなく落ち着く店。

カウンターと木のテーブル。

仕事終わりの人が数人。

「ここ、よく来るんですか?」

「たまに」

綾瀬先生がメニューを開く。

「ちゃんとしたご飯食べたい時」

“ちゃんとしたご飯”。

その言葉が少し沁みる。

気づけば。

私はちゃんとご飯を食べなくなっていた。

優が帰らない日。

咲子さんがいる日。

食卓が苦しい日は。

コンビニで済ませることが増えた。

「東郷先生、痩せた?」

急に言われて止まる。

「え?」

「なんか顔」

少し考えて。

「ちゃんと食べてなさそう」

まただ。

なんでそんなに気づくんだろう。

でも、不思議と嫌じゃなかった。

結局、説得されて頼まれた定食を。

半分以上食べた頃には、少しだけ身体が温かかった。

久しぶりに。

“ご飯を食べた”感じがした。

ちゃんと話を聞いてもらって。

医者の仕事の話もして。

昔の研修医時代の話を少し笑って。

それだけなのに。

少しだけ、呼吸が楽だった。

***

店を出た頃には、夜十時を回っていた。

外は少し冷えていた。

スマホを見る。

通知。

8件。

全部、優。

思わず足が止まる。

……こんなこと、初めてだった。

一番上を開く。

【優】

<<何時頃帰る?>>

【優】

<<会食の資料、確認した?>>

【優】

<<まだ外?>>

<<そこから少しずつ、文面が変わる。>>

【優】

<<遅くない?>>

【優】

<<電話出て>>

【優】

<<どこいる?>>

胸がざわつく。

最後の通知。

数分前。

【優】

<<迎えに行こうか?>>

時間が、止まる。

——迎え?

優が?

四年間。

飲み会帰りでも。

熱を出した時でも。

終電を逃した夜でも。

そんなこと、一度もなかった。

その時。

綾瀬先生がこちらを見る。

「……何?」

私は少し迷った。

でも。

なぜか、隠したくなかった。

スマホを差し出す。

綾瀬先生は数秒、画面を見る。

そして。

少しだけ表情が変わる。

「これ」

低い声で、冷たく聞こえる。

「旦那さん、いつもこうなの?」

私は小さく首を振る。

「……初めてです」

正直に答える。

「こんなの」

綾瀬先生が黙る。

何か考えるみたいに。

少し視線を遠くに置く。

そして。

呟くように、言った。

「じゃあ」

少し間。

「今日、何かがおかしいんだ」

その瞬間。

スマホがまた震えた。

【優 着信中】

暗い夜道に。

画面の光だけが、妙に明るい。

止まらない着信。

私は動けなかった。

綾瀬先生が静かに聞く。

「……出るの、それ?」

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