LOGIN——ここは。
かつて私と新、朔夜の三人で、何度も休日を過ごした場所だった。
深瀬リゾート株式会社のCEOでもある新は、あちらこちらに旅館や別荘、リゾートホテルなどを持つ、れっきとした御曹司である。
名門校のほど近く、山々に抱かれるように建つモダンな邸宅。
外観は控えめで静か。けれど一歩足を踏み入れれば、そこは別世界だった。 内部は豪華なラグジュアリー・ログハウスである。冬の山景色をそのまま取り込む開放的なリビング。北欧のビンテージ家具と、無垢材のテーブルが置かれ、中央の壁際には大きな暖炉もある。暖炉には、まだかすかな余熱が残っている。 昔はよくここで、三人で笑い合い、様々なことを語り合った。何も疑わずに未来を信じていた頃の——居場所。……それなのに。
今の私は、その「思い出の場所」に、素性不明の女として連れて来られた。かつての名前も、立場も、居場所も失ったまま。まるで、ここに足を踏み入れる資格すらないかのように。(……皮肉ね)
変わったのは、人生だけじゃない。
私はもう、ここにいた“私”ではなかった。 あの時――新は、「倒れた」私を一切の躊躇もなく抱き上げた。まるで私の身体が、重さなど持たないかのようにごく自然と。その瞬間、はっきりと感じてしまった。彼の胸の温度や、規則正しい呼吸のリズムを。その後、新は、意識のはっきりしない私を車で近くの病院へと連れて行った。
診察した医者は、私に『軽い貧血』だと告げる。 あまりにも都合のいい診断だった。結果的に疑わ契約書を交わすと、またふと、朔夜の刺すような視線を感じた。だが、今度は気づかないふりをする。「なぜあなたが、鷹司ホールディングスの芸術投資に関わりたがるのか、理解できない。こんな情報を流してまで……」彼は低い声で口を開いた。抑えた調子だが、その奥に鋭い刃を秘めている。「理解できなくても構いません。私の目的は意外とシンプルなんです。……純粋にビジネスに関心があり、利益を得たいから、とでも言っておきましょう。」そう答えれば、朔夜はやはり不満げに唇を尖らす。――突然現れた女。――会社の基盤を揺るがすほどの情報を携えた。――目的は不明、だが一歩一歩確実に迫る。彼の目には、間違いなく私は危険な存在として映っている。実際、鷹司ホールディングスにとって不利な証拠を握っているのは、偶然ではない。あらゆるものを駆使して、三年前のファンド事件を徹底的に調べたのだから。朔夜、この会社、誰かに狙われているわよ。そんな私の意思とは無関係に、粘着質な視線がいつまでも肌にまとわりつく。「それで、次はいつお会いできますか?」とにかく必死に話題を振って、彼の目線から逃れた。……なぜ、そんな風に見つめるの?まだ二回しか会ったことのない“光咲”を。それが、なぜかとても不愉快だった。理由は、この男が――かつて私の弁明に耳を貸すことなく、自らの手で私を深淵へ突き落とした張本人だからだろう。……だが今は、感情に流されるわけにはいかない。とにかく、朔夜を含めた
あの日以降、朔夜に会うのは久しぶりだった。オークション会場で名刺と、連絡先を交換し、今こうして私は鷹司ホールディングスにいる。日本でも最大手の、複合企業体。鷹司一族が経営するグループの本社。悠然と聳え立つ巨大なビル。まるで、揺るぎない権力そのものを象徴しているかのようだった。つい三ヶ月前まで、ここで私が朔夜の秘書をしていたなんて、どこか信じられない。そして今――「月島光咲」という名を名乗り、私は再びこの場所に足を踏み入れていた。すれ違う社員の中には、見知った顔も。――でも、誰も“私”に気づかない。私は歩みながら、さりげなく彼らの表情を窺った。この中にも、私を裏切った人がいるんだろうか?誰もが、私の容姿に目を奪われた顔をする。特に男性社員の目線は分かりやすかった。確かに、光咲は振り返りたくなるほどの美人だ。凛音より背は低い。それに垂れ目で、始めは頼りない見た目だったが、磨けば変わる。髪は清楚感のある、黒のミディアムヘアにし、化粧は強い女性を演出するために、少し濃くし、服装はブランド品に。常に優雅さを保っている。私は歩みを整えながら、静かに前へ進んだ。豪華ホテルのようなエントランスホールから、一度地下駐車場に降りて、専用のエレベーターで一気に上階まで駆け上がる。つまりこのエレベーターに、他に社員が乗り込んで来ることはない。案内した秘書の女性が、頭を下げた。この女性は、私がいた三ヶ月前にはいなかった。「しばらく、こちらでお待ち下さい。」応接室。彼のオフィスではない。……いまの私はそこへ「迷いなく入る
芳美さんは、心配そうに私の顔を覗き込む。 彼女の視線は穏やかで、どこまでも節度がある。「俺は深瀬新といいます。こちらは、家の家政婦で、芳美さんです。」 新たちから、それぞれ軽い自己紹介を受ける。でも、彼と同様、彼女もまた“私”には気づかない。 当然よね……彼女にとって私は、たまたま倒れ、御曹司に連れられてきただけの、素性不明の女にすぎない。 こんなにも近くにいるのに、完全に「他人」として扱われている。 またそれが、寂しくもあり、時々胸を締め付けた。「私は月島光咲と言います。」わずかな隙を見計らい、私は名刺を取り出し、新に自分の身分を明かした。「これは……?」彼は一瞬視線を落とし、名刺に目を通すと、わずかに眉を上げた。 「美術品のプライベートアドバイザー、ですか?」 聞き慣れないのか、新が物珍しそうな顔をした。 「はい。と言っても、つい最近始めたばかりですが…… 主に資産家の方に、美術品の専門知識などをアドバイスする仕事です。」 「なるほど。全く聞かないわけではないですが、珍しいお仕事をされているんですね。」名刺を見つめながら、新が感慨深そうに頷く。「美術品が好きな友達が身近にいるので、興味はあります……もしかしたら、改めてご紹介できる機会があるかもしれません。」 考えるまでもない。それが誰を指しているのかは、はっきりしていた。その時ふと、芳美さんは思い出したように「お茶を淹れますね。」と、奥に備え付けられているカウンターキッチンに向かった。 急に二人きりになり、しばらく静まり返る。が、先に口を開いたのは私の方。 「その、何から何まで、ありがとうございました。」私はそっとまつ毛を伏せ、やわらかく、けれど感情を押し殺すように声を整えた。「ここ最
懐かしい匂いが、胸の奥を強く刺激した。温もりを残した木の香り。乾いていて、どこか安心させる空気。——ここは。かつて私と新、朔夜の三人で、何度も休日を過ごした場所だった。深瀬リゾート株式会社のCEOでもある新は、あちらこちらに旅館や別荘、リゾートホテルなどを持つ、れっきとした御曹司である。名門校のほど近く、山々に抱かれるように建つモダンな邸宅。外観は控えめで静か。けれど一歩足を踏み入れれば、そこは別世界だった。内部は豪華なラグジュアリー・ログハウスである。冬の山景色をそのまま取り込む開放的なリビング。北欧のビンテージ家具と、無垢材のテーブルが置かれ、中央の壁際には大きな暖炉もある。暖炉には、まだかすかな余熱が残っている。昔はよくここで、三人で笑い合い、様々なことを語り合った。何も疑わずに未来を信じていた頃の——居場所。……それなのに。今の私は、その「思い出の場所」に、素性不明の女として連れて来られた。かつての名前も、立場も、居場所も失ったまま。まるで、ここに足を踏み入れる資格すらないかのように。(……皮肉ね)変わったのは、人生だけじゃない。私はもう、ここにいた“私”ではなかった。あの時――新は、「倒れた」私を一切の躊躇もなく抱き上げた。まるで私の身体が、重さなど持たないかのようにごく自然と。その瞬間、はっきりと感じてしまった。彼の胸の温度や、規則正しい呼吸のリズムを。その後、新は、意識のはっきりしない私を車で近くの病院へと連れて行った。診察した医者は、私に『軽い貧血』だと告げる。あまりにも都合のいい診断だった。結果的に疑わ
昨日のオークションから一夜明けた。とにかく、やるべきことはやった。 後は朔夜からの連絡を待つのみ。時間が空いた私は、事前に調べておいた自身の墓へと足を運んでいた。墓前に立ったその瞬間――私は、確かに自分が死んだことを実感してしまう。墓石に刻まれている名は「高遠凛音」。人目につかない、山の中腹――冷たい風が木々を揺らすだけで、墓地には静けさが広がっていた。 ここは高遠家の墓所ではない。ましてや、朔夜の家とも無関係の場所。最初からここは、人々に記憶されないために選ばれた場所なのだと気づいた。「そう――。さすがに両親も、私の存在を隠したかったのね。」遺骨を引き取ったのは私の両親だと聞いた。 事故直後の遺体は、かなり損傷していたと……死んでまでこんな扱いなのかと、思わず自嘲する。けれど分かっている。実の両親も、わざとこの場所に納骨したわけではないだろう。恐らく彼らは、そうせざるを得なかったのだ。 凛音は横領を働いた挙句、事故死したとされている。「婚約者を裏切った女」。「最低な犯罪者」。世間からそう批判されている娘の遺骨を、先祖代々の墓に納めるのには抵抗があったのだろう。 周囲から、もしくは親戚からの反対があったに違いない。不思議と涙も出なかった。 まるで感情が死んでしまったかのように。 唯一あるとすれば、静かな怒りだけ。なぜ罪を犯してもいない私が、こんな目に遭わなければならないの?私を地獄に突き落とした犯人たちは、今なお、何食わぬ顔で生きているというのに。 ――しかし、よく見ると、墓には比較的真新しい花が生けられていた。 全く手入れがされていない、というわけでもなさそうだった。「これも、両親かしら……。」そっと息を吸い込む。 高遠物産の社長である父は今、一体どんな思いをしているだろう。体が弱い母も……。私と朔夜の婚約は、鷹司ホールディングスと、長年付き合いのある高遠物産との間で決められた、いわゆる政略だった。半ば、まだ若くて力が及ばない朔夜のために、婚約を通して両親が快く手を貸してくれたのだ。 二人は、私が高校時代から朔夜のことが好きなのを知っていた。 そんな私たちを、彼らは温かく、心から応援してくれていたのに。朔夜。そんな両親の善意さえ踏み躙り―― あなたも、事件に関与した一人だというのなら、絶対に容
オークションが小休憩に入ると、私は朔夜にゆっくりとした口調で声をかける。「あなたは、鷹司ホールディングスの、鷹司朔夜さんですよね。よければ私と――」言い終える前に、彼の冷淡な声がそれを遮った。「悪いが、個人的に女性と付き合うのは控えている。」距離を感じさせる口調で、容赦はなかった。 私が名刺を出しても彼は受け取らず、ただ前方へ視線を移した。 まるで、私など最初から存在していないかのように。――やはり、そういうこと。 さっきは興味を示していたのに、燈が現れた途端、彼は即座に高い壁を敷いた。彼にとっては――燈の存在が何よりも最優先なのだ。昔も今も。でも、いいわ、あなたがその気なら。 あくまで、私は余裕のある姿を見せる。焦りは悪手だ。この間も、朔夜と燈は、次々と訪れる有名な資産家や著名人たちとの雑談に追われていた。 挨拶、持ち上げ、探り合い――こうした場ではお決まりの光景。一方の私は、身動き一つせず、静かに席に座っていた。 まもなく、中央ステージの大スクリーンが一気に明るくなった。 最初の作品情報が映された瞬間、私は微笑む。出来すぎるほどの偶然だ。 続く二点目も、まさに彼が好む作風だったから。予想通り、朔夜がすかさず手元のパドルを掴んだ。「その作品は、やめておいた方がいいですよ。」声は低かったが、彼には十分聞こえたはずだ。 朔夜の動きが、ぴたりと止まる。「――理由は?」彼がようやく私の方に顔を傾けた。 だがその視線は冷たく、じっと計るように私を見ている。 それらを冷静に受け止めつつ、私は淡々と、だが決して怯むことなく告げた。「これは――鷹司ホールディングスを狙った罠です。」空気が一瞬で凍りついた。「……何を言ってる。」彼の声は低く、威圧感を伴っていた。 しかし私はすぐに答えず、視線をスクリーンに戻し、映し出された作品を指し示す。「よく見てください。あの作品の制作年代と、サインの様式が一致しません。 彼のカタログ・レゾネを参照にすると、この時期の作品には技法の変換が見られますが、あの作品のマチエールは、その後の様式を模倣しようとして、失敗しています。 サインはその決定的な証拠です。」かつて私は、朔夜が懇意にしている美術商の先生と、二人が円滑な関係を築けるよう努力していた過去がある。朔夜のために彼に気