Masuk「あなたは、鷹司ホールディングスの、鷹司朔夜さんですよね。よければ私と――」
言い終える前に、彼の冷淡な声がそれを遮った。
「悪いが、個人的に女性と付き合うのは控えている。」
距離を感じさせる口調で、容赦はなかった。
私が名刺を出しても彼は受け取らず、ただ前方へ視線を移した。 まるで、私など最初から存在していないかのように。――やはり、そういうこと。
さっきは興味を示していたのに、燈が現れた途端、彼は即座に高い壁を敷いた。彼にとっては――燈の存在が何よりも最優先なのだ。昔も今も。
でも、いいわ、あなたがその気なら。
あくまで、私は余裕のある姿を見せる。焦りは悪手だ。この間も、朔夜と燈は、次々と訪れる有名な資産家や著名人たちとの雑談に追われていた。
挨拶、持ち上げ、探り合い――こうした場ではお決まりの光景。一方の私は、身動き一つせず、静かに席に座っていた。
まもなく、中央ステージの大スクリーンが一気に明るくなった。 最初の作品情報が映された瞬間、私は微笑む。出来すぎるほどの偶然だ。
続く二点目も、まさに彼が好む作風だったから。予想通り、朔夜がすかさず手元のパドルを掴んだ。
「その作品は、やめておいた方がいいですよ。」
声は低かったが、彼には十分聞こえたはずだ。
朔夜の動きが、ぴたりと止まる。「――理由は?」
彼がようやく私の方に顔を傾けた。
だがその視線は冷たく、じっと計るように私を見ている。 それらを冷静に受け止めつつ、私は淡々と、だが決して怯むことなく告げた。「これは――鷹司ホールディングスを狙った罠です。」
空気が一瞬で凍りついた。
「……何を言ってる。」
彼の声は低く、威圧感を伴っていた。
しかし私はすぐに答えず、視線をスクリーンに戻し、映し出された作品を指し示す。「よく見てください。あの作品の制作年代と、サインの様式が一致しません。
彼のカタログ・レゾネを参照にすると、この時期の作品には技法の変換が見られますが、あの作品のマチエールは、その後の様式を模倣しようとして、失敗しています。 サインはその決定的な証拠です。」かつて私は、朔夜が懇意にしている美術商の先生と、二人が円滑な関係を築けるよう努力していた過去がある。
朔夜のために彼に気に入られようと、私も美術品に関してたくさん勉強した。
その一環として、彼には美術品に関する目利きを教わっていたのだ。 よく先生は、私を褒めてくれた。『凛音さん、君は偽物を見抜く力があるね。』
朔夜の瞳が、ほんのわずかに細まった。
些細な彼の反応を見ながら、私は言葉を続ける。「その贋作は、三年前に海外ファンドのマネーロンダリング事件に関わっていました。
当時は有罪にはなりませんでした――なぜなら直接的な証拠がなかったからです。」少し間を置き、決定的な一言を重ねる。
「ですが、もし今夜――鷹司ホールディングスの名義でこの作品を落札すれば、明日の朝には必ず、関連報道が経済欄のトップに載ります。」
――マネーロンダリングの疑い。
――資本移動。 ――企業の信用失墜。 これらの言葉は、彼にとって最も致命的なものとなるだろう。「……」
朔夜は、険しい顔で沈黙した。
こういった大手オークションでも、贋作が出回るのは珍しくない。 間違いなくあれは偽物だ。「兄さん、今ネットで、この女性の名前を調べたんですけど……!
確かに彼女は新鋭の資産家みたいです! それもかなりの!なるほど、美術品に投資して成功したって……」燈が朔夜の袖を引いた。
どうやら、餌に食いついたようね。彼女が、利用価値の有無で人を選ぶ女でよかった。
「しかも、すごいですよ……!
ここ一ヶ月ほどで、複数の個人資産家のプライベート・アート・アドバイザーとして、専属契約を結んでいるみたいです! 『贋作を見る目も確かで……』って、かなり優秀な目利きができるみたいですね…… 兄さん、これなら彼女と親しくしておいて、損はないのでは?」大興奮したように、燈が私を持ち上げる。
気づかれないよう、私は微笑した。 朔夜。例え女性に興味はなくても、ビジネスとしてなら、断る理由はないはずだ。空気が一瞬で完全に逆転した。
私はあえて勢いに乗らず、ゆっくりと立ち上がり、ドレスを整える。
「もちろん、信じるかどうかはあなた次第です。」
柔らかい口調で、しかし淡々と付け加える。
「もし余計なお世話だと思うなら、私が初めから何も言わなかったことにしてください。」
そう言って席を離れようとした――その瞬間。
「……座ってくれ。」背後から朔夜の声が響く。
短く、だが拒否の余地のない命令だ。 私は足を止め、再び席に戻る。 しかしすぐには朔夜の方を見ない。彼の興味をどこまでも引くように。「知っていることを、すべて話して貰おう。」
先に彼の視線が私を捉える。
冷静さの中に、これまで感じたことのない鋭い観察が混ざっている。 私はようやく顔を上げ、彼と目を合わせた。「すべてを説明するつもりはありません。
ただ、賢いあなたなら、私が嘘をついていないと分かるはずです。」それでも朔夜はまだ、怪訝そうな眼差しを浮かべる。
「だが、これだけでは、信頼に値するかどうかはまだ――」
考える余地を与えないよう、私は彼の言葉を遮った。
「信頼できるかどうかは、これから付き合ってみれば分かるのではありませんか?
――鷹司朔夜さん。 私とビジネスパートナー契約を結びましょう。 そうすれば、必要な答えを聞けるはずです。」まるで蜘蛛の巣に、餌がかかるのを待つかのように。
上品な笑顔を浮かべて、私は朔夜を誘惑する。断れるはずがない――あなたが、鷹司の、グループのすべてを背負っている限り。
私は静かに告げる。
「今夜のオークションは、ただの始まりです。
鷹司グループを狙った動きは、これからも続きますよ。」 少し離れた場所で、燈が息を飲むのが分かった。 朔夜は数秒の沈黙の後、ようやく口を開く。 「あなたは、一体何を望んでいる?」――来た。
「長期契約は望みません。」
声は落ち着いているが、一語一語が明瞭だ。
「いきなり信頼しろとも言いません。」
私は彼を見据え、ゆっくりと、しかし確実に言葉を紡ぐ。「ただ、しばらくの間――‘臨時のビジネスパートナー’として、鷹司ホールディングスの芸術投資に関わる意思決定に参加させてほしいだけです。」
これは踏み込んだ要求だった。
しかし、今の彼には、間違いなく拒めない条件だと分かっている。 なおも朔夜は、探るように私をじっと見つめる。 その視線は冷たく、深く、静かに心を抉るようだった。「分かった。――だが、勘違いしないで欲しい。いきなり本契約を結ぶわけじゃない。
まずは仮契約を結び、あなたの資質が証明されたら、本格的にビジネスパートナーとして認めよう。」無愛想に朔夜が手を差し出す。
しかし、私は一瞬、触れるのをためらった。 この手はかつて私を奈落へと突き落とした。 なのに今、私は再びその手を握らなければならない。 その葛藤に、揺れる。だが、こうしていても始まらない。私は躊躇いを捨て、彼と握手を交わした。
「ありがとうございます。鷹司朔夜さん。これから、よろしくお願いします。」
私は朔夜に最高の笑顔を向ける。
最後まで、朔夜は冷たい対応だったけれど。だけど、これで第一歩を踏み出せた。
次は――……小さい頃から、私は兄さんが嫌いだった。「さすがは鷹司グループの後継者!鷹司朔夜くんは天才だな!」「本当に、まだ小さいのに賢くて、将来が有望ね。」「それに比べて、妹の燈さんは……」大人たちは、ことあるごとに私と兄さんを比べ、一方的に私を批判した。兄さんが先に生まれたから優れているのは当然――苛立ちが募っていった。年齢だって、兄さんは私よりたった二歳上なだけだというのに。確かに兄さんは、同年代の子供たちと比べても頭が良く、冷静で、大人びたところがあった。「大丈夫か? 燈。」石につまずいて転びかけた私に、兄さんはいつものように手を差し伸べる。「ありがとう、兄さん。」私は笑顔でそう言ったけれど、心の中では、いつも余裕たっぷりに振る舞う兄さんに対して、言い知れぬ苛立ちを覚えていた。それに、鷹司グループの後継者の座だって――。どうして兄さんが男で、長男だからというだけで、すべてが決まっているのだろう。どうして私は妹で、女だからというだけで、後継者になる資格すらないとされるのだろう。こんな理不尽、許せるはずがなかった。私は中学、高校、大学と、兄さんの影のように努力を続けてきた。幸いなことに、兄さんは頭が良い代わりに、家族に対しては無愛想だった。だから私は、わざと彼の味方であるかのように振る舞った。「可哀想な兄さん。不器用で、融通が利かない……」ある日、親戚を集めたパーティーの席で、両親が兄さんのことをこっそり愚痴っているのを耳にした。兄さんがその場にいて、すべてを立ち聞きしていたのを、私は偶然見つけた。『朔夜は頭はいいが、冗談が通じなくて困るんだよな。』父の声。『いくら後継者でも、あの性格だと先が思いやられるわ。』母の声。兄さんの表情が、青ざめていくのがわかった。
蒼史に会う日が訪れた。場所はあの時の高級クラブ。外出時は新に嘘の事情を説明するのに、少し苦労した。蒼史に会うことは誰にも言ってない。当然、朔夜にもだ。「久しぶりだな。また痩せたか?」「そうですか?」「そんな気がする。まあ、座ってくれ。」相変わらず蒼史は淡々と酒を注文した。今夜も少し髪を崩し、色気が漂っている。着ているのもスーツではなく、大人びた私服だ。目が合うと、蒼史は顔を逸らさずに見つめ返した。「あんたは飲むか?」「いえ、私は結構です。」「相変わらず固いな。たまには酒でも飲んで、日頃のストレスを発散させた方がいいぞ。」この人は、かなりお酒に強そうだ。「といっても、今は自重する時期ですから。」まだ犯人が見つかっていない以上、あらゆるリスクは避けておくべきだ。「本題に入ります。」私はバックから小型の暗号化USBを取り出し、蒼史に手渡した。今夜は取引の日でもある。あくまで私と蒼史はビジネスパートナーだ。「約束のものです。最近の鷹司グループの動きと、朔夜さんの行動パターン。わかる範囲でまとめておきました。」朔夜の弱みになりそうな情報を売る。それが私と蒼史の本来の取引内容だ。「確かに受け取った。」中身を確認し、蒼史は満足気に笑った。蒼史はそれをしまい、グラスに酒を注いだ。「あれから、爆発事故や襲われた事件について、なにかわかったのか?」私はふるふると首を横に振った。「まだ、なにも。」「そうか。なかなかに胡散臭い事件だよな。あんたが鷹司グループに関わったことが原因だろう。犯行は内部犯で間違いない。」やはり蒼史も、犯人が内部犯だって気づいているんだ。どこまでも鋭い人だ。「今度は俺からだ。凛音の事件のことで。」
朔夜がアザを持っていた。あなたが、私の死を望まなかった一人だって言うの?どうして――あんな風に、私を地獄に突き落としておきながら。私が死んで罪悪感でも芽生えたっていうの?それとも……生きて私を罪人に仕立て上げるため?刑務所に放り込むことが目的だったから?わからない。なにも。朔夜のことがなに一つ。朔夜はそのままベッドに寝かせて、私はリビングのソファに横になった。同じ空間にいるだけでも、頭がおかしくなりそうなのに。眠れるはずがない。頭の中をぐるぐると、青いケシの花びらが回り続けた。「月島さん。」明け方のことだった。朔夜が私を呼ぶ声が聞こえた。私は目を閉じ、眠ったふりをした。怖い。目を覚ましたくない。「……すまなかった。またあなたに迷惑をかけたみたいだな。」ソファがギシッと軋む。朔夜がソファに手をかけたのが、気配でわかる。「どうして俺はあなたにだけ、こんな……」まただ。また朔夜が私に近づいている。目を伏せていてもわかる。私の顔を覗き込んでいる。それから……朔夜の手が、そっと私の髪に触れた。だめだ。触らないでと言いたいのに。目を開けるのがこんなにも怖いなんて。昨夜がどんな顔をしているのか、見るのが怖い。香水なのか、ふわっと朔夜から甘い匂いがした。「月島光咲。あなたが気になって仕方ない。」切なげな声が響いた。その後朔夜は家を出て行ったが、しばらく私は動けなかった。天井を仰ぎながら、さっきまでいた朔夜のことを思い出していた。「なによ……まさか光咲に惚れてるとでもいうの?」冗談じゃない。私は唇をぎゅっと噛み
彼女がなにかを必死で叫んでいる。「朔夜…お願い、私を見て!見てよ!どうして……どうして私を見ようとしないの?」だが、俺の耳にはもうなにも届かない。「高遠凛音、お前の部屋の資料だ。会社の核心データを競合に流し、入札を失敗させ、数百人の努力を踏みにじった。」俺のコンサルである御堂が、凛音が働いた不正の証拠を突きつけた。どうしてこんなことになった?まさかあの凛音が俺を――鷹司グループを裏切るなんて。一体なぜなんだ?「兄さん、凛音の言うことに耳を貸してはいけません。彼女が言うことはすべてでたらめです。」「どうして――」燈が気の毒そうに俺の腕を引き、慰める。凛音は、警察に連行されそうになりながら叫んだ。「愛してる!子どもの頃からずっと……!あなたはわかってるはず、私はそんなことしないって……!」わかってるか、だって?ああ、わかっていたつもりだった。それなのにお前は最低な形で、俺を裏切った。もういい。もう見たくない。声も聞きたくない。「兄さん。辛いでしょうけど、ここは耐えて。」燈がこの場にいてくれてよかった。そうでなければ、今頃俺はどうにかなっていたかもしれない。凛音は抵抗を続け、ずっと俺の名前を呼び続けていた。ようやく彼女を乗せたパトカーが走り始めた。心が焼け付くように痛い。引き裂かれそうだ。もう二度と会いたくない。永遠に。俺の前から消えてくれ――凛音。次の瞬間、甲高いブレーキ音が聞こえた。振り返った時、すでに凛音が乗った車はぐしゃぐしゃになっていた。原型も留めないほど、凄まじい事故だった。「え……?」凛
朔夜がおかしいのは、それだけではなかった。「必要なものは新じゃなく、俺に言ってくれ。可能な限り、揃えるから。」家具に家電。必要な物はもう充分揃っているはずなのに、なおも朔夜は執拗に聞いてきた。「あの、もう充分です。新さんに揃えてもらったのもありますし……」慌てて私が断ろうとすると、朔夜はむっとしたような表情を浮かべた。なんなのよ……もう。調子が狂うわ。「それでも、なにかあれば言ってくれ。」私がなにか買ってくれと言うまで、引かなそうな勢いだ。「とにかく、ありがとうございました。」お礼を言って、私は朔夜を無理やり部屋から追い出そうとした。あのことについて話さないなら、これ以上朔夜と一緒の空間にいたくない。だって、いつ正体がバレるかわからないのに。そろそろ、背中のアザも疼いてきた気がする。まさか、また花びらが消えた……なんてことはないわよね? 「月島さん。また後で伺う。あなたは充分に用心して過ごしてくれ。」玄関越しに、真剣な目で見つめられて――「わかりました。」そうやって、私は素直に頷くしかなかった。 ともあれ、私の利用価値は朔夜に情報を提供することだ。新しいパソコンも手に入ったし、ネット環境も整ったから、情報を収集しないと。「えっと、確か蒼史さんに聞いた取締役員の名前は……」例の海外コードにまつわる役員の名前を調べ、謎の架空会社の実態を調べ始めた。その時、ちょうど蒼史から連絡がきた。 「もしもし!光咲!お前、大丈夫なのか!? アパートが爆発したって聞いて……」電話越しの彼はすごい勢いで、私の安否を聞いてきた。 そういえば、彼のことすっかり忘れていた……「あ、はい。大丈夫で……」「あんたの“大丈夫”は信用できない。 今どこにいるんだ?」「実はその……話せば長くなるんですが
私が朔夜に近づいたのは、決して無駄ではなかった。いよいよ、あなたが“凛音”について語るのね――かすかに体が震えたが、朔夜には気づかれないように努力した。「高遠凛音――それが俺の元婚約者だ。彼女は、馬鹿なことをして死んだ。」どくんと、心臓がうるさいくらいに音を立てた。本人を前にして、よくも……!一瞬で、私の脳裏にあの日の記憶が蘇ってきた。それでも私は真剣に話を聞くふりをして、憎しみに耐えた。耐えなければ、真相に辿り着くことができないからだ。「凛音は、会社の信頼を失墜させ、横領事件を起こして――事故に巻き込まれて死んだ。それまで俺は彼女を――心の底から信頼していたのに。裏切られた……あの日から、俺は余計に誰も信じられなくなった。」え……?それは衝撃の言葉で、私は一瞬耳を疑った。朔夜が……私を、信じていた?いいえ、違う。きっとなにかの間違い。そう言って、自分の犯した罪を、都合よく無かったことにするつもりだろう。だってそうじゃないと、辻褄が合わない……「その婚約者さんは、なぜ横領事件を起こしたんでしょうか?動機はわかったんですか?」私は声が震えないよう最新の注意を払いながら、朔夜に尋ねた。あくまで穏やかに。ちょっとした好奇心を装って。「わからない……ただ、周りが言うには、鷹司グループの持つ財力に目がくらんで、犯行に及んだのではないかと。」……私がそんなこと、思うわけないでしょう!私はただ、あなたの隣にいられるだけで幸せだった。あなたの働いている横顔が好きだった。好きな人を裏切ってお金を







