LOGIN柚香は、自分の手を遥真の手の中からそっと引き抜いた。手のひらから温もりが消えた瞬間、遥真は胸にぽっかり穴が空いたような気がした。「離婚するときに約束したこと、忘れたの?」柚香は彼との距離を取る。表情はよそよそしく、冷たかった。「何を?」遥真は尋ねる。柚香は過去の話を持ち出した。「私のことに干渉しないこと。私の前に現れないこと」遥真は頷く。「覚えてる」「だったら、どうして……」「陽翔の誕生日の夜、君が約束の内容を更新しただろ」遥真もまた、その時の話を持ち出した。「条件を全部、『離婚した後、赤の他人でいよう』に変えた。思い出せないなら、俺が思い出させてやってもいい」「あれは、あなたと友達になるのが嫌で適当に言っただけ」柚香は反論した。「でも、その前に話していたのは約束の内容だった」遥真の視線が彼女の顔に落ちる。柚香は黙り込んだ。だからあのとき、彼が唐突に「ありがとう」と言ったのか。「じゃあ今、その内容を元に戻す」柚香はもともとごねる性格ではなかったが、この状況ではそうでもしないとどうにもならない。「最初の約束どおりにして。私の生活に干渉しないこと。私の前に現れないこと」遥真は淡々と言った。「何度も都合よく変えられると思うな」柚香は眉をひそめて彼を見る。遥真はまっすぐ視線を返した。しばらくして。彼を説得できないと悟った柚香は、仕方なく新しい約束の内容に話を戻した。「でも今のあなたの行動、どう見ても他人のすることじゃないよね」「好きな相手なら、赤の他人だろうと俺はこうする」遥真が言いたかったのは、大人になってから再会したあの日のことだった。だが柚香は気づかなかった。「ずいぶん誰にでも優しいのね」遥真は即答した。「君だけだ」「……」「子どもの頃からずっと、君だけ」絶望の底にいた自分を救い出してくれた少女。そして大人になり、パーティーで再会したとき、一目見ただけで目を奪われた女性。彼女はいつだって、遥真にとって特別な存在だった。だが柚香は信じなかった。一度離婚を経験した今、甘い言葉にはもう簡単に心を動かされない。「行こう」遥真は今度は手をつながなかった。彼女が嫌がると分かっていたからだ。「帰ろう」柚香は彼の横を通り過ぎ、そのまま歩いていく。だが分かれ道に差
常和は視線をそらし、彼と目を合わせるのを避けた。株式譲渡となれば、DNA鑑定は欠かせない。本人が望もうと望むまいと、必ず踏まなければならない手順だ。恨むなら、柚香が黒崎家で育たなかったことを恨むしかない。「遥真はまだ来ないのか?」常和は外へちらりと目を向け、ゆったりした口調で言った。「柚香に聞いてみなさい。着る服が見つからなかったんじゃないか」昭彦は何も言わなかった。だが遥真がいない隙を見て、ほかの者たちが次々と質問を始めた。「常和様、遥真がここに来たのには何か特別な意味があるのか?」「彼と柚香は一体どういう関係なんだ?」「二人は離婚したんじゃなかったのか?」結局のところ、この場にいる連中は皆、自分の利益が最優先だ。遥真という大物を目の前にして、簡単に手放す気などない。昭彦や安江が柚香のために将来への道を整えてやるのと、遥真とのつながりでは話が別だ。比べるなら、彼らは目に見える利益のある未来のほうを好む。「今の若い子は離婚なんて遊びみたいなものだからな」常和ははっきりとは言わなかったが、言葉の端々に誘導する意図が滲んでいた。「二人の様子を見てみろ。離婚したように見えるか?」一同は顔を見合わせた。見えない。むしろ喧嘩中の恋人同士にしか見えなかった。「好きに遊ばせておけばいい」常和は気楽そうに言った。「気が済んだら、そのうち復縁するさ」昭彦はちらりと彼を見た。利益優先の考え方は、何年経っても変わらない。もし柚香が最初から遥真と何の関係もなかったら、この人はまた昔のように、自分のやろうとすることを全力で邪魔していただろうか。「何だ、その目は」常和は彼の視線など意にも介さず言った。「柚香には聞いたのか?何て言ってた?」「聞いてない」昭彦が答える。常和はわざと怒ったふりをした。「君は……」昭彦の胸の中には苛立ちが渦巻いていた。「もう大人なんだ。戻る気があるなら、こちらが言わなくても戻ってくる」「戻ってこないなら、二人で話したいことがあるんだろう。邪魔をしないのが礼儀だ」もともとは遥真の力を借りて、柚香の目的を叶えようとしていた。なのに食事の席で、目の前で娘を連れ去られた。どう考えても割に合わない。そう思った昭彦は、こっそり柚香にメッセージを送った。【着替え終わったか?】
「それは……」皆は顔を見合わせた。「親子鑑定の結果は見たか?」昭彦が口を開いた。その一言で、場の空気が一変した。誰も何と答えればいいのかわからない。昭彦は黒崎グループの筆頭株主だが、昭彦の手元にも相当数の株がある。少なくともこの場にいる人たちの中では、二番手と言っていい立場だ。「俺が聞いている話では、柚香は安江が京原市で別の男との間に産んだ子どもらしい」承輝はこの話を大きくしたかった。さっきまで遥真がいたから言いにくかったが、今はもう遠慮する必要がない。この話は半分本当で、半分は作り話だった。たとえ昭彦が反論しようとしても、どこから否定すればいいのか分からないはずだ。「本当なのか?」「昭彦、本当に親子鑑定はしたのか?」「そういえば、安江とはもう二十年以上も連絡を取っていなかったんだろう?どうして柚香が自分の娘だって分かるんだ?」「神崎家と黒崎家は昔から対立してきたし、柚香は神崎家が黒崎家に仕返しするために送り込んだんじゃないのか?今も神崎家とかなり親しくしているって聞くし」その場は一気にざわついた。昭彦は承輝をちらりと見た。この流れが承輝の差し金ではないなど、これっぽっちも信じていない。「昭彦、どうして黙ってる?」承輝が問い詰める。「まさか親子鑑定なんてしていないのか?昔、安江を好きだったからって、あの子が自分の娘だと思い込んでいるわけじゃないだろうな?」「柚香は俺の娘だ。信じるかどうかは勝手にしろ」昭彦はいつも通り、威圧感のある視線でその場にいる者たちを見渡した。「少しでも頭が回る人間なら、俺とあの子の関係くらい見れば分かるはずだ」皆は顔を見合わせた。確かにその通りだった。もともと半信半疑だったが、今日実際に柚香の顔を見て、その七、八割は昭彦にそっくりな顔立ちを見れば信じざるを得なかった。とはいえ、信じることと納得することは別だ。承輝側の人間が、昭彦の株を今まで黒崎家で暮らしたこともない部外者に譲るのを黙って見過ごすはずがない。「そうは言っても、株の件は慎重に考えるべきだ」「柚香は神崎家との関係が深すぎる。彼女に譲るのは確かに問題がある」「じゃあ柚香に譲らずに、承輝の役立たずの息子に譲れっていうのか?」昭彦は容赦なく本音を突きつけ、言葉も遠慮がなかった。「それとも、
「急がなくていい」昭彦が口を開いた。「食事が終わってから話そう」柚香は小さく頷いた。この食事会は、遥真がいるおかげで驚くほど気楽だった。面倒な質問もなければ、詮索や好奇の目もない。誰もが遥真の放つ圧倒的な存在感に気圧され、余計なことを言おうとしなかった。たまに一、二人が質問しても、遥真が先に受け止めてうまく処理してしまうので、柚香の出る幕はまったくなかった。そのせいで、この席は親族の顔合わせというより、ただの食事会のような雰囲気になっていた。ほとんどの時間、黒崎家の人たちが遥真にお世辞を並べ立て、お互いを持ち上げ合うような会話をしているのが聞こえていた。夕食が半ばを過ぎた頃、柚香はふと、気品に満ちた落ち着いた雰囲気をまとい、無表情で座る遥真へ視線を向けた。その視線に気づいたのか、彼は会話を切り上げてこちらを見る。その瞳には、本人すら気づいていないような優しさと気遣いが宿っていた。「どうした?」「ううん、何でもない」柚香は視線を逸らした。「席を外したくなったら言って」遥真は声を落とし、彼女の耳元で囁く。「俺が何とかするから」柚香の表情が一瞬揺れた。昔も彼は、どんな食事会でもいつもそう言ってくれた。時には彼女が口にする前から、彼女を連れてその場を離れていたことさえあった。ガタン。カラン。その時、遥真の前に置かれていたグラスが突然倒れた。中の酒が彼の服に派手にこぼれる。「申し訳ありません!久瀬社長、大丈夫ですか!?」酒を注ごうとしていた相手は顔色を変えた。これは黒崎家の家族の宴とはいえ、遥真がこの業界でどれほどの地位にいるかは誰もが知っている。酒を注いでいる最中に誤って酒をかけてしまい、遥真が黒崎家からの挑発だと受け取るのではないかと、皆ひやひやしていた。「大したことじゃない」遥真は立ち上がり、服についた酒を軽く払った。「着替えてくる」「はいはい」皆が慌ててうなずいた。「俺、この辺りはあまり詳しくないんだ。柚香、案内してくれないか」遥真の視線が柚香へ向く。低く穏やかな声だったが、その目が何を言いたいのかは柚香にも分かった。彼女は周囲を見回した。常和が軽く頷く。「行ってきなさい」ほかの人たちも、先ほどまでのよそよそしさが消え、彼女を見る目にいくらか丁寧さが混じっていた
柚香の手に渡るなら、黒崎家の将来についてもそれほど心配はいらない。昭彦と安江が娘を溺愛していることを考えれば、きっと柚香にふさわしい縁談を用意し、将来は一緒に黒崎家を支えてくれる相手を見つけるはずだ。そんな彼らの考えを、昭彦は見抜いていた。だが、どうでもよかった。どうせ彼が狙っているのも、そうした連中の思惑と、これから遥真が現れた時の影響力を利用して、株式譲渡をよりスムーズに進めることだったからだ。……四十分あまりが過ぎた頃。柚香が到着した。ちょうどその頃、黒崎家の晩餐会の準備も整い、一族の長老たちの大半が顔を揃えていた。一族の晩餐会の席順は、年長者と立場によって決まる。主卓には和雄と昭彦のほか、黒崎家の大株主たち、そして遅れてやって来た承輝が座っていた。柚香は和雄の左隣に座り、その隣には一席だけ空席が残されていた。それに気づいた者が、周囲を見回しながら尋ねた。「その席は誰のために空けてあるんだ?」年長者としての立場や地位を考えても、あそこに座れる一族の人間は他にいないはずだった。「まさか遥真じゃないだろうな?」同じ卓の誰かが口を開く。「遥真って?」「今日の集まりは家族の晩餐会だけじゃなくて、京原市から大事なお客様も来るって、先代当主が言ってたんだ」「久瀬家と黒崎家に接点なんてないだろう。なんで来るんだ?」「いやいや、接点がないってことはないだろ」そう言ったのは和雄の弟だった。柚香に聞こえるのを気にしたのか、わざと声を潜める。「名目上は、昭彦の元婿だからな」柚香にも聞こえていた。けれど蒼海市に来てから、そんな話は何度も耳にしている。今さら心が揺れることもなかった。ただ、遥真が来るなんて話は聞いていない。昭彦か和雄に呼ばれたのか、それとも自分から来たのか。そう考えていた時だった。入口から数人の男たちが入ってきた。先頭を歩く男は、仕立てのいい黒のオーダースーツに身を包み、端正な顔立ちには感情がなく、圧倒的な存在感を放っている。後ろに続く者たちも整然としていた。遥真は落ち着いた足取りで歩み寄ると、和雄に軽く挨拶した。「少し急な用事が入ってしまって。お待たせしました」「ちょうどいいタイミングだ」和雄は昭彦のような露骨な嫌悪感を見せることなく、比較的丁重な態
安江に別れを告げたあと、柚香は車に乗ってその場を後にした。同じ頃、安江はスマホの連絡先を開き、昭彦にメッセージを送る。【柚香がそっちに向かったわ。もし黒崎家で少しでも嫌な思いをさせたら、私は遠慮なくあなたたちの会社にハッキングして、いろいろ暴露するから】二人が連絡先を交換して以来、安江から昭彦へ自分からメッセージを送ったのはこれが初めてだった。昭彦の返信は早かった。【安心してくれ】安江はスマホをしまい、それ以上は見なかった。昭彦は常和に尋ねる。「みんなにはちゃんと話してあるんだろうな?」常和は答えた。「いや」昭彦はわずかに眉をひそめた。その返事に不満を覚えたのは明らかだった。柚香を家に招こうと言い出したのは常和だ。事前にみんなへ話を通し、柚香が嫌な思いをしないようにすると約束したのも常和だった。それなのに今になって、何の準備もしていないと言うのか。「一時間前には来るよう伝えてある」常和は年齢を感じさせる顔つきながらも、目には力があった。「時間を考えれば、もう全員そろってるはずだ。言いたいことがあるなら直接言ってくればいい」昭彦はじっと父を見た。嫌な予感がする。「何をぼーっとしてる。もう少ししたら柚香が来るぞ。あの子が聞きたくない話を聞かせるつもりか?」常和は急かした。「何を企んでるんだ」昭彦は、今回は敬意を込めた言い方すらしなかった。常和は顔色ひとつ変えずに答える。「ただあの子を家に呼んで食事をするだけだ。親族の叔父たちや年長者たちに顔を合わせてもらう。それ以外に何をするっていうんだ」昭彦はその場から動かなかった。常和のほうが少し焦り始める。こんな時に限って、なぜさっさとみんなに話をしに行かないのか。「まだ行かないのか?」さらに催促する。「目的を話さない限り行かない」昭彦は幼い頃から、策略と駆け引きの中で生きてきた。黒崎グループの株式のような大きな話から、日常の些細なことまで。二十年以上、冷静に生きてきた。その間、父子でまともに会話をすることもほとんどなかった。そんな父が急にこういう態度を取れば、疑わないほうがおかしい。「いつも父親をそんな悪人扱いするな」常和が口を開く。「昔、君と安江に対して少し強引な手を使ったのは認める。だが柚香は君の血を引く子だ。黒崎家の人間でもある。そ