共有

8:新しい一歩

last update 公開日: 2026-06-12 18:23:55

 街頭ビジョンの明るい光を背に、春菜は夕暮れの繁華街を歩き出した。

 目指すのは、九条不動産の資本が入っていなさそうな個人経営の飲食店や、大衆居酒屋だ。

 表通りから一本裏に入り、赤提灯や手書きのメニューボードを出している店を片っ端から当たっていく。

「すいません、求人の張り紙を見たんですけど。調理師です」

 ある居酒屋で、春菜は店主に声を掛けた。

「あー、お姉さん。ちょっとうちの雰囲気とは合わないかな。ごめんね」

 けれど恰幅の良い店長に苦笑いされて、春菜は頭を下げて店を出る。

(雰囲気、ね。フレンチの立ち振舞いが染み付いてるせいかしら。それとも、単に疲れた顔をしているから?)

 次の店はカウンターだけの小さなビストロだった。

「働かせてほしいって? うちは今、ホールしか募集してないよ。厨房は俺一人で十分だ」

 春菜は食い下がる。

「ホールでも構いません。料理の勉強にもなりますし」

「いや、いいよ。君みたいなちゃんと

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 捨てられ料理人は諦めない   13

     油の酸化した匂いと、年季の入ったステンレスの冷たい輝きが店舗の中に満ちていた。 みやこ食堂の厨房に入った佐伯春菜は、周囲をぐるりと見渡した。 換気扇は低い音を立てて回っているものの、長年の油汚れがこびりついているせいで、吸い込みがひどく甘い。 春菜はみやこ食堂の店主と交渉し、働くことになった。 とはいえ、店は閑古鳥が鳴いている。 このままでは遠からず店は潰れて、春菜は職を失ってしまうだろう。 そうならないように、まずはこの店の問題点を洗い出す必要があった。「さて、と」 春菜は腕を組んで、壁一面に貼られた黄色く変色したメニューの短冊を見上げた。 カツ丼、オムライス、ラーメン、チャーハン、アジフライ定食、ハンバーグ定食、肉野菜炒め、カツカレー、サンマ定食、冷やし中華……。 ざっと数えただけでも40種類以上ある。 春菜は思った。(いやいや、ファミレスじゃないんだから。高齢の店主1人でこのメニュー数を回せるわけがないわ)「宮本さん」 春菜が声をかけると、奥のシンクで洗い物をしていた店主の宮本泰造が顔を上げた。 年配の人物で、白い割烹着はところどころシミがあり、腰は少し曲がっている。「これ、全部の注文に対応しているんですか?」 春菜の問いに、宮本は布巾で手を拭きながら頷いた。「まあ、いつ常連さんが何を頼むか分からないからね。食材は一通り揃えてあるよ。昔は近くの工場から人がたくさん来て、毎日大繁盛だったんだ」(その常連さん、今は1人もいないじゃないですか) つい心の中でツッコミを入れてしまったが、もちろん口には出せない。 昼時だというのに、客席には誰も座っていない。 パイプ椅子の赤い座面がむなしく並んでいるだけだ。 春菜はため息を飲み込んで、厨房の奥にある業務用冷蔵庫の扉を開けた。 冷気とともに、複雑な匂いが漏れ出す。 庫内には用途の分からないタッパーがいくつも重なり、端が

  • 捨てられ料理人は諦めない   12:交差する視点

     大手IT企業・御堂ホールディングス本社ビル、最上階の社長室にて。 社長室の床は毛足の短いグレーのカーペットが敷き詰められ、壁の一面は床から天井までの全面ガラス張りになっている。 眼下には東京のビル群がミニチュアのように広がり、空には雲一つない青空が広がっていた。 徹底的に効率化された最新の設備が並ぶ室内は、機能的だが人の温かみが一切感じられない空間である。 そんな中、社長である御堂礼司(みどう・れいじ)は、手元のタブレット端末を指先でなぞった。 深く腰掛けた黒い革張りのチェアがわずかに軋む。 彼の顔立ちは彫りが深く、誰もが目を奪われるほど端正に整っている。 冷徹な知性を感じさせる切れ長の瞳が、画面のデータを無機質に追っていた。 日々のトレーニングによって鍛え上げられ、均整の取れた体には、上質な生地で仕立てられたネイビーのスーツが完璧に馴染んでいる。 頭の先から指先まで全く隙のない佇まいは、周囲を圧するような威圧感を放っていた。「社長。今月のレストランポータルサイトのレポートです。新規登録店舗数は前月比で微増。ただし、アクティブユーザーの伸びが鈍化しています」 秘書が、手元の資料をめくりながら報告する。 レストランポータルサイトは、御堂ホールディングスの事業の1つだ。 口コミを取りまとめるだけではなく、有望な店舗を見出すのも会社の仕事である。 いずれは自社開発のAI統合システム(予約、決済、仕入れの自動化)を、ポータルサイト掲載の飲食店に導入する計画もあった。 そうすれば自社で巨大なシェアを独占できる。 そのためのプロトタイプとして協業できる店舗を、礼司は探していた。(キャンペーンの打ち出し方にテコ入れが必要か) 礼司は画面をスクロールした。 膨大なデータがグラフや数値となって次々と表示される。「エリア別のワーストランキングを出してくれ」「はい。こちらになります」 秘書が手元の端末を操作すると、礼司のタブレットの画面が切り替わった。 

  • 捨てられ料理人は諦めない   11

     華やかなフレンチの世界とは全く違う。 けれど、ここには料理の基礎がある。(この店の料理人は、料理への情熱を持っている) 情熱と技術は、今の春菜にとって何よりも大切なものだ。 婚約者だった翔太が投げ捨てたそれらを大事にして、自分自身を立て直す。 最初の仕事場として、この古びた食堂はふさわしく思えた。 春菜は深く息を吸い込んだ。 ここから自分の足で立ち上がるのだ。誰の影にも隠れない、自分自身の人生を始めるために。 春菜は錆びついたアルミの引き戸に手をかけ、少しの力を込めて横に引いた。 ガラガラッ、と重たい音が、静かな下町の通りに響いた。 店内に足を踏み入れると、昭和の時代から時が止まったような空間が広がっていた。 床は油と長年の歩行ですり減っっている。 壁には日焼けして黄ばんだ短冊メニューがずらりと貼られている。実に多種多様なメニューだった。「肉野菜炒め定食」「サバの味噌煮定食」「カツ丼」。値段はどれも都心の相場より2、3割は安い。「いらっしゃい……」 厨房の奥から、くぐもった声が聞こえた。 声の主は、白い割烹着を着た年配の男性だった。 背中を丸め、大きな寸胴鍋の前に立っている。 顔には深いシワが刻まれ、どこか疲労の色が濃くにじんでいた。「あの、表の求人の貼り紙を見て来たんですが」 春菜が声を張ると、男性はゆっくりと振り返った。 その手には長年使い込まれて、柄が黒ずんだお玉が握られている。「求人……ああ、あれか。もう何ヶ月も貼りっぱなしで、すっかり忘れてたよ」 男性は自嘲するように笑い、コンロの火を止めた。「見ての通り、客も来ないし、もうすぐ店を畳もうかと思ってたところなんだ。だから、あんたみたいな若い人が来ても、払える給料なんて……」「お給料は、お店の売り上げを伸ばしてからで構いません」 春菜は男

  • 捨てられ料理人は諦めない   10

     翌日の午前10時。春菜は都心から電車で数駅離れた、下町の商店街を歩いていた。 駅前のロータリーを抜けると道幅が狭くなり、個人経営の八百屋や精肉店が並んでいる。 アスファルトは舗装のひび割れて、その上を自転車がベルを鳴らしながら通り過ぎていく。 九条不動産のような巨大資本が入り込む隙間のない、昔ながらの生活の場だ。 ぐぅぅ、と春菜のお腹が遠慮のない音を立てた。 一昨日の昼のまかないから、口にしたのはおにぎり1個とネットカフェのコーンスープだけだ。夕食も朝食も抜いている。(エネルギー不足で頭の回転が落ちてきたわ。でも、お金は節約しないと) 空腹で足元がふらついた。 春菜は意識を逸らすため、両側の店に注意を向けた。 ショーウィンドウには、庶民的な惣菜が並んでいる。 魚屋の店先に並ぶアジの目のは、思いの外輝いていた。(キャビアやトリュフなんて高級食材がなくても、料理の本質は変わらない。温度の緻密な管理と、塩分濃度の正確な計算。食材の良さを最大限に引き出す腕があれば、人は笑顔にできる) 商店街の店からは、コロッケを揚げるラードの匂いや、醤油の焦げる香ばしい匂いが漂ってくる。 春菜は五感をフルに使って街の空気を感じ取った。 やがて商店街の中心を抜けて、少し外れたエリアに足を踏み入れた。 シャッターの閉まった店舗が目立ち始め、人通りもまばらになる。 その一角に、一軒の古びた定食屋があった。 店の上部にあるプラスチックの看板には、『みやこ食堂』と色褪せた文字が書かれている。 入り口には紺色の暖簾がかかっているが、端が少しほつれていた。 ガラス張りの引き戸に、セロハンテープで無造作に貼られた紙がある。『スタッフ募集・委細面談』 時給も、労働時間も書かれていない、あまりにも大雑把な求人票だ。 外から店内を覗き込んでみる。 壁に沿ってカウンター席があり、中央にパイプ椅子のテーブル席がいくつか配置されている。 時刻はもうすぐお昼時だとい

  • 捨てられ料理人は諦めない   9

     ディスプレイには、見知らぬ市外局番が表示されている。  通話ボタンを押す前に切れてしまった。画面上部に留守番電話のアイコンが点灯する。  イヤホンを耳に押し込み、再生ボタンをタップした。『もしもし。こちら、中央債権回収センターのヤマダと申します。山岡春菜様のお電話でよろしいでしょうか』 抑揚のない、事務的な男の声だった。『ご実家の家屋と土地を担保とされましたご融資の件で、ご連絡いたしました。主債務者である株式会社一ノ瀬からの支払いが滞っておりまして、連帯保証人である春菜様に返済の義務が生じております。つきましては、至急折り返しのご連絡を……』 春菜はスマートフォンの画面を伏せた。 背筋に鳥肌が立つ感覚がする。(こんなに早い時間から、電話を掛けてよこすなんて) 両親が遺してくれた、思い出の詰まった実家。家族の温かな記憶が残る場所だ。 それを、翔太の店のために担保に入れた。  あの時は婚約したばかりの翔太を信じ切っていた。『この店を必ず大きくして、2人で栄光を掴もう』 彼の言葉を信じて、2人の未来のために実家を抵当に入れた。 現在の負債額は数千万円にのぼる。(数千万円……。順当にどこかの厨房で雇われて、キャリアを積んだところで、一生かかって返せるかどうか) 途方もない金額に、胃が重くなる。  薄暗い個室の中で、翔太の冷たい声が脳裏に蘇った。『君一人で大成するなんて絶対に無理だ』『君の料理は、僕というブランドがあって初めて価値が出る。身の程を知れ』 あの見下すような目は、今でも春菜の心に突き刺さっている。  梨沙の勝ち誇った笑みは、目に焼き付いている。 心細さが、じわじわと胸の奥に広がっていく。頼る人は誰もいない。  家も、仕事も、肩書きも何もない。奪われてしまった。  残っているのは借金だけだ。 春菜はブランケットを握りしめ、顔をうつむかせた。  視界に入ったのは、自分の両手だった。 長年の仕込みでついた小さなタコがある。  オーブンで火傷した痕もある。  包丁を握り続けたことで、皮膚は厚くなっている。 お世辞にも美しいとは言えない手だ。  梨沙の社長令嬢として整えられた指先と比べれば、いっそ笑ってしまうほどの違いがある。 しかし、これこそが春菜の勲章だった。  この手は、ミリ単位の厚さで食材を切り分け

  • 捨てられ料理人は諦めない   8:新しい一歩

     街頭ビジョンの明るい光を背に、春菜は夕暮れの繁華街を歩き出した。 目指すのは、九条不動産の資本が入っていなさそうな個人経営の飲食店や、大衆居酒屋だ。 表通りから一本裏に入り、赤提灯や手書きのメニューボードを出している店を片っ端から当たっていく。「すいません、求人の張り紙を見たんですけど。調理師です」 ある居酒屋で、春菜は店主に声を掛けた。「あー、お姉さん。ちょっとうちの雰囲気とは合わないかな。ごめんね」 けれど恰幅の良い店長に苦笑いされて、春菜は頭を下げて店を出る。(雰囲気、ね。フレンチの立ち振舞いが染み付いてるせいかしら。それとも、単に疲れた顔をしているから?) 次の店はカウンターだけの小さなビストロだった。「働かせてほしいって? うちは今、ホールしか募集してないよ。厨房は俺一人で十分だ」 春菜は食い下がる。「ホールでも構いません。料理の勉強にもなりますし」「いや、いいよ。君みたいなちゃんとした経歴の人が来ると、逆にやりづらい。それに、なんかワケありっぽいしね」 鋭い視線で見定められて、春菜は返す言葉を持たなかった。 実際にワケありの身だ。事情を深く聞かれれば、嘘をつくか口をつぐむしかない。 結局、5軒の店を回ってすべて断られてしまった。 夜が深まるにつれ、飲食店の活気は増していく。 美味しそうな肉を焼く匂いや、酒とニンニクの混ざった香りが鼻をくすぐる。 昨日の昼過ぎにまかないを食べて以来、ろくに食事をとっていない。夕食を食べるタイミングも逃してしまった。 空腹はそろそろ限界で、足がふらつく。 靴の中で足の指がじんじんと痛む。歩き回った疲労がピークに達していた。 街灯の光の下で財布を開いた。小銭と1万円札が1枚、1000円札が数枚だけ。(ビジネスホテルに泊まるだけのお金はないわ。カプセルホテルも厳しい。となると、選択肢は1つだけ) 春菜はため息をつき、駅前の雑居ビルにあるネットカフェの看板を見上げた。

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status