LOGIN朝は来た。けれど街の匂いは昨日のままだった。
焦げと水と、冷えた鉄。 ギルドの戸口をくぐると、最初に目に入ったのはリリィの腕組みだ。小柄なドワーフの少女は金床の前で眉を寄せ、ふん、と鼻を鳴らす。作業台の上には濡れた布と焦げた釘。昨夜の名残。 ヴァルドは窓際で新聞を丸め、牙を少し見せてうなった。黒い耳がぴくり。 「見出しが変わった。『英雄たち、火中から救出』が――」 紙面をひっくり返して、乾いた指で叩く。 「『王都南区で“禁忌印”発光 異常魔力現象として調査』だとよ」 ノエルが椅子の背にもたれ、片耳の小鈴を指で弾いた。ちり。 「英雄ってのは便利だ。次の日には“異端”に書き換えられる。字面は軽いのに、落ちる影は重い」 言い合いを止めたのは、ガロスの靴音だった。 ギルドマスターは何も言わず、厚い封筒を机に置く。封蝋は青。王城の印。 中身は一枚の呼び出し状――『協力要請』の文字が、きれいなほど冷たい。 「行け」 ガロスの声は低く短い。片目の古傷が朝の光を細く跳ね返す。 「今なら“まだ”話を聞く耳があるうちに、な」 リオンは頷き、外套を取る。胸ポケットの紙片が、皮膚の熱に応えるみたいに一瞬だけぬくくなった。 (また、始まる) 戸口の向こう。灰の街路に、鐘の余韻がまだ薄く残っていた。 ◇ 王城の地下は、地上より静かだ。音が石に吸われ、声がよく届く。 白い石の廊を抜けた先、鉄格子の影が床に縞模様を描いている。 セリアは鎧を外され、簡素な拘束服に身を包んでいた。背筋はまっすぐ。目も。 取調室の卓をはさんで、ルークともう一人の上官が座る。羊皮紙、羽根ペン、淡い魔力の灯。 「命令違反」 上官が項目を読み上げるたび、ペン先が乾いた音を立てる。 「禁印への接触」 「ギルドとの共謀の疑い」 セリアは淡々と、しかし逃げずに答えた。 「命令は理解していました。状況を見て、人命を優先しました」 壁に、爪で引いたような細い線が残っている。 橋のかたち。燃えた石に白い痕だけが沈んでいた。セリアの視線は、そこに一度だけ止まる。 ルークが口を開く。副団長の声は低く、まっすぐだ。 「火の中で見た“白い橋”……あれは、君の意思か?」 セリアはひと呼吸、息を整えた。 「もしそうなら、あなたはもう私を見ていないはず」 目だけで続ける。“私が橋を出せるほどの者なら、この部屋の秩序は今ここにはない”――そんな意味。 しばし、静寂。ルークの喉がわずかに動く。反論は、論理の上で立たない。 セリアは続けた。 「秩序は、人を守るためにある。けれど……秩序が人を縛るなら、それはもう秩序じゃない」 ペン先が止まり、また動いた。 石の壁に、遠くの鐘がにじむ。 ◇ 謁見室は、思っていたよりも小さかった。 窓から落ちる光は白く、埃は少ない。飾りのない机と椅子。 そこに座っていたのは、三十代くらいの男だった。色のない笑み、縁の細い眼鏡。 「司書官、アーベル・カノン」 男は名乗り、手を軽く持ち上げる。背後には、光るペンを持つ魔導官が一人。 「昨日の封鎖区での件、ありがとうございます。――まずは、事実の確認から」 質問は無駄がなかった。 火の勢い、救出の順序、ギルドと騎士団の動き、そして―― 「あなたの左腕の包帯、見せていただけますか?」 リオンは瞬きもせずに答える。 「負傷です。あなたが見る必要はない」 アーベルは笑わない。 「“橋の印”があなたの皮膚に出ている、という報告があります」 魔導官のペン先が、淡く光を増した。書き記す音が、紙の上で細く転がる。 胸ポケットの紙片が、じい、と微かに震えた。見せるわけにはいかない――けれど、隠しても消えない。 アーベルは資料を閉じ、指先で机を一度だけ叩く。 「あなた方は“渡した”。では――何を渡したのです?」 リオンは言葉を探す。 火の中の光。足裏の感触。空白にかかる細い橋。 “渡した”のは、子どもだ。命だ。それで十分のはずだ。 「道です」 リオンは短く答えた。 「燃えるものと、燃やしたくないもののあいだに、ひと呼吸ぶんの」 アーベルは目を細める。理解したのではない。別の引き出しを開けただけの目。 「なるほど。……本件は引き続き、王国として調査します。あなたには後日、改めて連絡を」 礼を言うように軽く頭を下げて、もう視線は書類に戻っていた。 リオンは踵を返す。扉に手をかけたとき、背に声が落ちる。 「オリオン殿には、世話になりました」 言葉だけで温度のない声。 「亡くなられても、その名は記録の上で生きています」 返事はしなかった。扉の向こうの空気のほうが、まだ息がしやすい。 ◇ 牢の前には衛兵が二人。ギルドの仲間はそこで足を止められていた。 「面会は許可が必要だ」 「じゃ、許可を」 ノエルが笑ってみせるが、小鈴は鳴らない。ガロスは肩で制した。 しばらくして、リオンだけが通された。 鉄格子の向こう、セリアは立っていた。姿勢は朝と同じ。目も。 「体は?」 リオンが先に言う。 「問題ないわ」 短い返事。そこだけは、騎士団の報告書に書かれない種類の言葉の柔らかさがあった。 壁の上の方に、薄い筋が残っている。 昨夜の橋と同じ、細い線。光の名残。セリアはそれを一度見上げた。 「……あなたも見たでしょう。橋は一度、眠っていた」 「眠らせるって、誰が?」 セリアは柵の向こうで、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。 「“黎明”の名を持つ者たち。千年前の、最初の橋守――ブリッジャー」 「封印、ってことか」 「封印でもあり、道でもある」 セリアはうなずく。 「橋は世界をつないで、同時に切り離した。危ういものを“向こう側”に押しやるために。そして眠らせ続けるために、言葉と返礼が要った。……でも、眠らせることは終わり。今度は、目覚めさせる番よ」 リオンは返事を飲み込む。 ポケットの紙片が、相槌を打つみたいに一度だけ熱くなる。 (再起動。――あれは、偶然じゃない) 「君は、どうする」 「私は秩序を守る。けれど、それが人を縛るなら、切る」 セリアは静かに言った。 「いまの私は“青”に属している。だから、正面から争わない。……でも、目の前の命は並び替えない」 鉄格子の向こうの眼は、昨夜と同じ色だった。 炎の前でも、規律の前でも、揺れない青。 衛兵が咳払いをして、面会は終わった。 別れ際、セリアはひとことだけ付け足す。 「あなたの左腕――隠すなら、理由を持って」 リオンは頷き、振り返らずに廊を歩いた。 石の冷たさが、頭の熱を少し下げる。 ◇ 王城の屋上には、誰もいなかった。 夜明け前の空は薄く、街の息は重い。鐘が鳴る少し手前の、音のない時間。 外套の内側で、紙片がまた光る。 取り出すと、淡い火が走った。燃やすのではなく、書く。 今回は、はっきりとした文字だった。 〈第二接続:南端・渓谷都市ノクス〉 ノクス。聞いたことのある地名だ。南の端。渓谷の底に街がある、風の強い土地。 (第二接続。じゃあ第一は――昨日の橋) 心臓がひとつ跳ねる。呼び出し状より、こっちの方がよほど命令らしい。 「……誰が、渡れと言ってる?」 問いは夜に溶け、答えは戻らない。 遠く、空の底で黒い影がひとつ、雲の裏を滑っていった。竜の名残。音はしないのに、胸の奥だけがかすかに震える。 ギルドへ戻る道は、まだ真っ暗だ。 けれど、足は迷わない。迷っても、渡る道を作ればいい。 それが、昨日学んだことだ。 灰の街は、まだ息をしている。 けれどその息は――もう、“風”じゃなく、“呼び声”だった。書けば動く。だから、書く者が刃になる。朝の露台は、まだ冷たかった。軒先に新しい布告が二枚、並んで揺れている。紙は白く、印は濃い。どちらにも同じ管理符が打ってあった――7-3-7。「昨日も来た。……同じ印。版押し番号まで、いっしょ」通りの書記見習いがぼやき、肩をすくめる。リリィが近づき、紙の縁を目の高さでそろえた。指の腹で角をなぞる。「番号、写しのくせに連番じゃない。……揃えすぎ」「偽物が“本物の速さ”を真似してる」ノエルが鈴に触れずに言う。目は布告から離れない。セリアは紙と人のあいだに視線を往復させ、短く息を置いた。「速さで本物を作らないで。……手で、確かめて」通りを抜ける風が、二枚いっしょに鳴らした。片方は「告知」、片方は「解除」。同じ印影、同じ符。違うのは、紙の肌理の細さだけだった。昼前、路地の角に人だかりができた。摺り師が台を出し、布告の写しを両方“正”だと売っている。客は首だけ近づけ、声は遠い。「口が三つ、耳が百。……今は聞くだけ」ノエルが小さく笑って、すぐ笑いをしまう。「止めるのは、呼べる時に」リオンが答えると、セリアが頷きの途中で息を整えた。「呼べないなら、そばにいる。……それだけでも」庁舎前の広場は、人の足音が揃っていた。観測隊の簡易机が並び、薄い板に線が走る。アーベルが現れる。白衣の袖口に砂、眼鏡の奥は眠らない目。距離を測るみたいに、こちらを一度だけ見て帳簿を開いた。「観測は介入だ。……だから、遅くしただけ」淡々とした声が、紙の上で止まる。セリアが視線だけ上げる。「遅らせても、刃は刃」「書かれない名は、責任を持たない」アーベルはページをめくり、さらりと指を払う。リオンは喉で一度だけ息を押し上げた。「名がないなら……守るほうを先に」読み上げが始まる。「出頭命令」――声は乾いて、印影は例の同一版。呼ばれても、誰も自分の“その名”を持っていない。署名台の前に立つと、照合票が横に置かれた。書記官は筆の先を軽く整え、視線だけこちらに寄越す。「一致率、七割未満。……規程だと、宙づり」木の札が一枚、机の端に立てられる。“未署名”。リオンは札を見て、それから空を見た。「宙づりは……立ち止まれの命令?」「立ち止まらない。歩幅だけ、合わせる」セリアの声はやわらかく、最後を言い切らずに落とした
朝の色は薄くて、風だけがはっきりしていた。灰原の縁で、外套の裾がかすれ合う。砂が靴の縫い目に入り、歩くたび少し鳴る。胸ポケットの紙片が、乾いた息みたいに一度だけ脈を打った。南西。わずかな光が指先に移る。「昨日、誰に……挨拶、したっけ」ノエルが言って、鈴には触れない。指だけで丸を作って、ほどく。セリアが目で合図する。うなずく代わりに、息をひとつ。「覚えてるのに、呼べないね」「呼ぶの、もう少し……待って」リオンは紙片を押さえ、視線で歩き出しの合図を送る。誰も名前を口にしない。けれど歩幅は揃う。◇灰の道は静かで、遠くの空だけが低く鳴っていた。前を行くヴァルドが、時々ふと止まっては鼻を鳴らす。風の匂いを確かめて、また歩く。丘を越えた先で、旅商の一団とすれ違った。荷車の脇に、貼り札が重なっている。硬い紙。印が濃い。「布告が二通? 同じ印でさ。どっちが本物か……俺らにはわかんねぇ」ひげの男が苦笑いして、肩をすくめる。リリィが一歩寄り、掲げられた二枚を見比べた。目の高さをそろえて、指の腹で枠の角に触れる。「揃いすぎ。……縁が滲まない。指の脂も、ついてない」ノエルが目を細める。「真似が……上手い。上手すぎる」男は「こわい世の中だ」とだけ言って、手綱を鳴らしていった。砂ぼこりが残って、すぐに沈む。セリアが掲示の前に立つ。片方は「告知」、もう片方は「解除」。どちらにも、まったく同じ印。「同じ手で、告知も解除も。……普通じゃない」リオンは短く息を吐いた。「文で、人の足を動かしてる。――誰かが」誰のことも呼ばず、誰の名も書かれていないのに、貼り札だけが命令口調だった。◇昼過ぎ。砂丘の稜線に、黒い点がいくつも並んだ。稜線の上で、三つおきに細い旗が立つ。王都の測り方だ。ヴァルドが低く言う。「見てる。けど、来ない」セリアは横顔のまま、ひとつ首を傾けた。「来ないのも、介入の一つ」ノエルが肩を竦める。「書かれてるんだよ、俺たち。紙の上に」リオンは紙片を握り直した。布越しに、ほんのわずかな熱。「書かれる前に……こっちが、先に動く」砂に残った影は風で崩れ、形だけが目の裏に残った。◇太陽が傾き、影が長くなったところで野営にした。風の向きに背を合わせ、荷を円に置く。水袋が三つ。ひとつは軽い。リリィが袋を持ち上げ、口を結び直して
朝。同じ光が、同じ角度で落ちている気がした。水の街はよく働き、よく黙った。露店の棚を並べる手つきも、昨日と同じ音を出す。誰かが笑って、誰かが頷く。名前だけが、どこにも置かれていない。「なあ、昨日……ってあったっけ」ノエルが片手をひらひらさせて、鈴に触れずに止めた。リリィは肩をすくめる。笑いの形だけ作って、目は笑わない。「昨日は……あったと思う」リオンが答えると、セリアが横顔を見た。目だけで問い、すぐに外へ滑らせる。「“思う”って言葉、もうあてにならないかも」ヴァルドは風を嗅いで、短く喉を鳴らす。「同じ匂いだ。昨日と」言葉が薄くて、音だけ厚い。そのとき――胸の紙片が、潮の匂いを立てた。薄い面が、指先の脈に合わせて光る。〈第四接続:黒潮の門 反応率73%〉「……行くか」誰が言ったのか、はっきりしない。でも、足は同じ方向へ動いた。◇水都の外縁。海と陸の境。白いものが浮いていた。輪。波。近づくほど、音が少なくなる。呼吸だけが残る。「ここが……“門”」リオンの声は、自分の喉で小さく跳ねて、すぐに鎮んだ。「開いてるようで、閉じてる」セリアがひとつ息を置く。ノエルは縁を覗き込み、指先を引く。「見てるだけで……落ちていく気がする」輪は海に触れず、海は輪に触れない。ただ、境界のまま、そこにある。波間で、光が集まる。少女が立っていた。前より淡く、輪郭が水に溶けかけている。セリアの足が、反射で一歩出る。少女は目を細めて、笑いにもならない笑みを作った。「……また“呼んだ”のね」リオンは首を横に振って、すぐ止める。「呼んでない。ただ……届いた」「“届く”ことが、いちばん壊すのよ」言葉が引いて、沈黙が押し返す。潮の呼吸みたいに、会話が寄せては返す。「世界は、名を失って静かになった。あなたは、まだ動かそうとする」「止めたままじゃ、生きられない」「じゃあ、壊しながら生きるのね」否定の形は作らない。喉が鳴るだけ。輪の白が、海の青を少しだけ薄くする。「だから、私は記す」背から落ちた声に、振り向くまでもなく分かった。アーベルがいた。海風で外套が揺れ、眼鏡が光を拒む。「封印の構文は、あなたの父が残した。開くほどに、記録は削れる。あなたが書くたびに、世界は“修正”される」リオンは紙片を握る。光がじわ
朝。水の匂いが、少し薄い。窓の外の光は柔らかく、音だけが遅れてやって来る。食堂の卓、木の皿の上でパンが乾いた音を立てた。ノエルが顎で窓を指しながら、言葉を手探りするみたいに口を開く。「昨日の……あの、えっと」リリィが笑う。けど、笑いが膝の上で止まる。「寝不足でしょ」ノエルは鈴を指で転がして、鳴らないのを確かめるみたいに眉を寄せる。「昨日、何を見てたんだっけ」リオンはパンをちぎって、返事を遅らせた。「……水を。いつも通り」セリアがこちらを見た。視線が一度だけ外へ滑って戻る。「でも、“いつも”って、何度目?」声が落ちて、皿の縁で消えた。誰も、すぐには拾わない。ヴァルドが背もたれを指で叩いて、短く喉を鳴らす。それで会話は一旦、終わる。◇外へ出ると、水の街は静かにあたたかかった。橋の影が水面に折り重なって、人の足音を丸くする。市場の女が手を振った。「おはよう」隣の老人も、通りの少年も、口にするのはそれきりだ。名前は、どこにも置かれていない。リリィが気づいて、指先で空中に字でもなぞるみたいに言う。「呼び名が……ない」セリアの眉がわずかに寄る。「“呼ぶ”って、橋を渡すことだもの」リオンは無意識に胸の紙片に触れた。薄い灯りが、布越しに呼吸する。「……橋が、何かを“持っていった”?」セリアがリオンの横顔を見た。問いじゃない、確かめるような息。「あなたが書いた構文、覚えてる?」「〈息せよ、すべての声〉」「“声”の中に、“名”もあった」通り過ぎていく人たちは、笑うし、頷く。ただ、誰も呼ばない。誰も呼ばれない。挨拶は水に沈んで、輪のまま広がる。◇塔の前。石段に、朝の光が浅く乗っている。アーベルが降りてきた。白衣の袖にまだ水滴。眼鏡の奥は、眠っていない目。「現象を確認しました」いつもの声。紙の温度。「発生源は、あなたです」リオンは言い返そうとして、喉に小石を入れられたみたいに言葉がつかえた。「俺は、壊してない……書き換えただけ」アーベルは頷きも否定もしないで、淡々と続ける。「壊す、創る、呼吸する。どれも“介入”です」セリアがまっすぐ立つ。髪の先が風を拾って、すぐに落とした。「観測してるだけのあなたが、一番静かに壊してる」アーベルの唇が、わずかに動いた。笑いでも怒りでもない、記号のずれ。「
朝。まだ世界が濡れている。水都の空は薄く、色だけが先に変わっていく。水面は鏡のまま、音は小さく、長い。窓辺に紙片を置く。昨日落ちた滴の跡が、細く残っていた。じっと見ていると、文字がかすかに揺れる。脈みたいに。「……動いてる」背後の気配。セリアが立った。言葉より先に視線が下りてくる。「呼吸してるのね」「橋が?」「あなたのほうが、先に」笑うほどでもないのに、口の端が少しだけ緩む。紙片は、胸の内側と同じ速さで、ふっと、またふっと。◇塔の石段に朝のひかりがのぼる。白衣が光を通して、向こうの手の形が薄く見える。アーベルが降りてきた。眼鏡の奥は、夜のまま。「……見ましたか、声を」問いの形で置かれて、空気が少し冷える。リオンは答えない。セリアだけが視線を返す。「あなたは“書き換えた”んです。封印の構文を」セリアが、短く息を吐く。「書き換えじゃなく……“応えた”」「応えもまた、命令の一種です」温度のぶつかる音がしない。ただ、言葉の輪郭がぶつかる。アーベルは一枚の古紙を取り出した。角の丸い、触れば崩れそうな紙。端に、見慣れた筆跡が走る。〈封印構文:第零式〉「これが、“起点”です。彼は……これを最後に、書くのをやめた」墨の行が胸の中で音を立てる。〈終息せよ、すべての音〉喉が乾く。言葉が出ない。視界の端で、水が細く跳ねた。◇塔を離れる。水路の匂いは冷たくて、指先から肩へと戻ってくる。紙片が勝手に開いた。内側に灯りを入れたみたいに明るい。〈第四接続:黒潮の門〉〈転送構文:未起動〉水面に映ったのは、自分の顔じゃない。昨日の影。口を開かない、銀の瞳。〈……開くたびに、失われる〉耳ではなく、胸の奥に触れてくる声。リオンは息をひとつ置いて、指を紙に落とす。父の文字の並びが、掌の内で蘇る。けれど、途中で止めた。「終わらせるために書いたなら……俺は、始めるために書く」指先が、光を引く。墨ではない、呼吸の色。〈終息〉の字が、内側から滲んで崩れる。そこへ、細い線を一本ずつ足していく。――〈息せよ、すべての声〉音は鳴らないのに、水面が震える。街の水が、いっせいに小さく吸って、吐いた。橋の桁がきしむような、でも柔らかい響き。窓のガラスが細かく震え、塔の腹のどこかが低く応える。胸の中の紙片と、街の水が、同じ速さで呼吸してい
夜と朝のあいだ。水の音だけが生きている。眠れずに外へ出ると、街が鏡のなかに沈んでいた。足音はすぐに丸くなって、どこかへ消える。桟橋の板は冷たく、手すりに残った夜露がゆっくり落ちていく。「……音が、やまないな」背中で衣擦れ。セリアが並んだ。頷く代わりに、息がひとつ。「水は、止まらないもの」「止まらないのに、閉じようとした」彼女は目だけで空を探して、それから水面へ戻した。「……あの人、そういう人だったのかもね」「あの人」――父の名を出さないで、二人とも口を閉じた。言葉より先に、紙片が胸の内側で震える。小さく。呼ぶみたいに。セリアが気づいたのか、視線だけ落とす。「行く?」返事はしなかった。足が先に、静かな方へ向く。◇街外れの水路は、細くて深い。灯りの届かない底で、何かがたしかに息をしている。覗き込むと、こちらを覗き返す“影”があった。誰もいないのに、人の形が揺れている。風はない。波紋だけがゆっくり広がって、戻ってこない。声ではない声が、内側に触れる。〈……開くたびに、失われる。〉〈それでも、開くの?〉背筋の毛が、ひとつずつ立つ。振り返る。そこに、少女がいた。白い外套。濡れた髪。瞳は淡い銀。水気をまとったまま、こちらの温度を測るみたいに立っている。「……あなたの音、聞こえた」声というより、息。言葉の端が、水滴みたいに落ちる。「音……?」「水が鳴いた。あなたが、触ったから」触れない距離。水のこちらと、向こう。でも、呼吸はどこか似ていた。「封印はね」少女は目を伏せ、指で外套の端をつまむ。「壊すためにあるんじゃない。……守るために」リオンは反発の言葉を探して、見つけられずに息を整えた。「それでも、閉じたままじゃ……何も届かない」少女はすこしだけ笑った。笑みにも届かない、口角の温度。「届いたあと、誰が残るの?」喉が動いて、音にならない。紙片が胸の内で光を増す。水面に細い輪が走る。「……父さんは、何を守りたかったんだ」聞かせる声じゃないのに、少女のまつげが影を落とす。「“声”よ。 ――届くたびに、消える声」水面がふっと崩れて、影がほどけた。リオンの手の中、紙片の縁に冷たい滴が落ちる。その滴が、光の中で滲んで、文字になった。〈第四接続:南西端 “黒潮の門”〉読むより先に、