夜明け前、ノクスの空気は軽いのに、街の胸は重かった。昨夜の光の橋は消え、谷底には焦げたような痕と、薄い灰の匂いだけが残っている。広場の端で、兵が縄を張っていた。「異端の儀式だ」「封鎖だ」――言葉が先に歩き、事情は置いてきぼりだ。リリィが腕を組み、短く言う。「片づけは、いつも翌朝だね」ノエルは鈴を指で弾き、肩をすくめた。「道を開いたあとって、誰が掃除するんだろうね」ヴァルドは鼻で風を吸い、眉を寄せる。「谷の風が、獣の匂いをしてる」セリアは王都へ戻らなかった。青の外套は着ているが、立つ場所はもう列の中じゃない。「秩序の外でも、守れるものがあるなら、私はそこにいる」彼女はそうだけ言って、剣の柄に軽く触れた。リオンの胸ポケットで、紙片が震えた。熱ではない。小さな鼓動みたいな震え。耳を澄ますと、谷が浅く息をしている。吸って、吐いて。――呼吸音。「嫌な予感しかしない」とノエル。「燃え残りは、“次”の燃料になるんじゃない?」とリリィ。リオンは頷き、視線を谷底に落とした。「行こう。今のうちに、確かめる」◇崩れた橋の根元へ降りるには、石の階段を延々と下るしかない。風が上から下へ、下から上へ。服の裾をひゅうっと撫でていく。谷底は、思ったより広かった。石が円を描くように並び、中心に一本、黒い石柱が立っている。光を吸うみたいに、そこだけ夜が残っていた。リリィが近づき、手袋の上からそっと触れる。指先が弾かれ、火花がぱちりと散った。「……魔力じゃない。これ、“息”だよ。生きてる鉱石」ノエルが目を細める。「封印ってのは、呼吸するもんなの?」セリアは石陣を見渡しながら静かに言う。「橋が“渡す”なら、渡される側もいる」リオンの紙片が勝手に開いた。淡い光が走り、文字が浮かぶ。〈第二接続:安定化失敗〉〈再起動警告:封印層破損〉リオンは小さく息を呑む。「……開きすぎた、のか」ヴァルドが低く唸る。「だから風が、獣の匂いをした」石柱の奥から、空気が逆流した。髪が逆立つ。砂が、灰が、光の粒が、ひとところに吸い寄せられて――渦になる。◇渦は、細い骨から形を作るみたいに、空気で身を組み上げた。輪郭だけの竜。鱗はない。刃のように鋭い風と、胸の奥に響くうなり声だけがある。ノクスの谷が鳴った。高い壁が共鳴して、耳の奥がきしむ。紙片が赤く疼
朝の空気は薄く、街の声だけが濃かった。「光の橋を見た」「異端の子がいる」「青が裏切った」――そんな噂が、洗濯物みたいに通りにぶら下がっている。ギルドの前で、リリィは背負い袋の口をぎゅっと結んだ。「工具、よし。水袋、よし。――文句、なし」ヴァルドは革の帯を締め直し、短く鼻を鳴らす。「肉、少ない。途中で獲る」「道中で獲らないで。保存食あるから」ノエルはいつも通り軽く手を振り、片耳の鈴を鳴らした。「異端の旅一行、ただいま出発。――ええと、目的は“観光”ってことで押し通せる?」「観光なら、荷が重すぎるな」ガロスが地図を机に広げ、指で南を叩いた。「橋が次を指したなら、止まる理由はねぇ」彼は顔を上げ、ひとりひとりの目を見た。「行け。追手が来る前にな」リオンは胸ポケットの紙片をそっと確かめる。薄い光が、短く笑ったみたいにまたたく。〈第二接続:ノクス〉まだ“どうして”は掴めてない。けれど、呼ばれている。「……火は呼ばれた。なら、応えるのは俺たちの番だ」自分に言い聞かせるみたいに呟くと、ガロスがにやりと口の端を上げた。「その顔だ。――気をつけてな」◇南へ向かう街道は、岩と風の道だった。崖が切り立ち、影が歩幅を合わせて伸びていく。風は乾いて、舌に砂の味を残す。「ここ、地図だと緩やかな坂って書いてあるんだけど」リリィが眉をしかめながら地図を覗く。「地図は紙。坂は石。石の勝ちだ」ヴァルドが淡々と答えると、ノエルが肩をすくめた。「はい、“石の勝ち”メモっとく。――ところで、あれ見て」指差す先で、灰色の鳥が群れになって空を裂いた。風を嫌う鳴き声。火を恐れる鳥、だとどこかで聞いた。左腕が、じんわり熱を帯びる。包帯の下で心臓がひとつ跳ね、ポケットの紙片が小さく共鳴した。リオンの口から、思わず言葉がこぼれる。「……眠ってるんじゃない。待ってるんだ」「今なんて?」「なんでもない」「いや、“なんでもない”って顔じゃないね」ノエルが覗き込む。リオンは笑って首を振った。「風の音が、少し大きくなっただけだ」そのとき、風の中にかすれた声が混じった気がした。〈……眠りは終わり、風が渡る〉聞き間違いかもしれない。けれど、足が少しだけ速くなる。◇渓谷都市ノクスは、底に眠っていた。切り立った崖のあいだを、白い家々と石の階段が縫っている
朝は来た。けれど街の匂いは昨日のままだった。焦げと水と、冷えた鉄。ギルドの戸口をくぐると、最初に目に入ったのはリリィの腕組みだ。小柄なドワーフの少女は金床の前で眉を寄せ、ふん、と鼻を鳴らす。作業台の上には濡れた布と焦げた釘。昨夜の名残。ヴァルドは窓際で新聞を丸め、牙を少し見せてうなった。黒い耳がぴくり。「見出しが変わった。『英雄たち、火中から救出』が――」紙面をひっくり返して、乾いた指で叩く。「『王都南区で“禁忌印”発光 異常魔力現象として調査』だとよ」ノエルが椅子の背にもたれ、片耳の小鈴を指で弾いた。ちり。「英雄ってのは便利だ。次の日には“異端”に書き換えられる。字面は軽いのに、落ちる影は重い」言い合いを止めたのは、ガロスの靴音だった。ギルドマスターは何も言わず、厚い封筒を机に置く。封蝋は青。王城の印。中身は一枚の呼び出し状――『協力要請』の文字が、きれいなほど冷たい。「行け」ガロスの声は低く短い。片目の古傷が朝の光を細く跳ね返す。「今なら“まだ”話を聞く耳があるうちに、な」リオンは頷き、外套を取る。胸ポケットの紙片が、皮膚の熱に応えるみたいに一瞬だけぬくくなった。(また、始まる)戸口の向こう。灰の街路に、鐘の余韻がまだ薄く残っていた。◇王城の地下は、地上より静かだ。音が石に吸われ、声がよく届く。白い石の廊を抜けた先、鉄格子の影が床に縞模様を描いている。セリアは鎧を外され、簡素な拘束服に身を包んでいた。背筋はまっすぐ。目も。取調室の卓をはさんで、ルークともう一人の上官が座る。羊皮紙、羽根ペン、淡い魔力の灯。「命令違反」上官が項目を読み上げるたび、ペン先が乾いた音を立てる。「禁印への接触」「ギルドとの共謀の疑い」セリアは淡々と、しかし逃げずに答えた。「命令は理解していました。状況を見て、人命を優先しました」壁に、爪で引いたような細い線が残っている。橋のかたち。燃えた石に白い痕だけが沈んでいた。セリアの視線は、そこに一度だけ止まる。ルークが口を開く。副団長の声は低く、まっすぐだ。「火の中で見た“白い橋”……あれは、君の意思か?」セリアはひと呼吸、息を整えた。「もしそうなら、あなたはもう私を見ていないはず」目だけで続ける。“私が橋を出せるほどの者なら、この部屋の秩序は今ここにはない”――そんな意味。
朝の市場は、乾いていた。パンの湯気より先に、粉っぽい空気が喉にふれる。布張りの屋台は風を弾き、誰もいないのに喧嘩腰みたいにきしんだ。リオンは外套の裾を結び直し、胸ポケットを指で確かめる。紙片が、ぬくい。火に近づけたわけでもないのに、皮膚の下からじわりと熱が押し上げてくる。「昨日より、空が軽いな」隣で縄を巻いていたヴァルドが、顎で北を示す。獣人の黒い耳が、ひとつ、ぴくりと動いた。「軽い空は、火を呼ぶ」リリィが工具を肩に担いで、ぶっきらぼうに言う。「湿り気ゼロ。火の勝ち」ちり、と小さな鈴。ノエルが紙束をひらつかせ、片耳の鈴を指先で弾いた。「はい、朝の娯楽。王国より“緊急通達”。封鎖区で異常熱反応、だそうで。言葉は熱い、財布は寒い」「文句はあとだ」ガロスが通りの真ん中で声を張った。片目の古傷が朝日に細く光る。「“青い列”が動く前に、こっちが行く。――誘導、消火、救助。ぶつけるな。守れ。それが自由の稼ぎ方だ」「了解」リオンは短く頷き、紙片をポケットの奥へ押し込んだ。胸の鼓動と、熱の脈が妙に合う。封鎖区――旧街区。竜の夜の傷跡が、まだ地面の奥でうずく。傾いた壁、焦げた梁、積み木みたいに崩れた家。立ち入り禁止の札は灰を被り、風にこすれて音だけ大きい。「水を回すよ。路地に一本、広い通りには二本!」リリィがバケツの列に短く指示を飛ばす。言葉は鋭いけれど、手は優しい。ヴァルドは鼻で空気を嗅ぎ、浅くうなった。「人の匂い。…奥だ」ノエルは綱を張りながら、ぼそり。「“封鎖区”って、封が甘いほどよく燃える」路地の先、黒く焼けた壁に、焦げの輪郭が残っていた。丸い印のはずなのに、片側だけ細く伸びて――橋のかたち。リオンの胸で、紙片が微かに脈打つ。ポケット越しに、熱が指先に移った。「見たんだよ、ほんとに」避難してきた老婆が、指を震わせる。「きのうの夜、火の上に細い道が光ってさ…夢じゃないんだよ」リオンはうなずき、目を細めて路地の奥を見た。風が一度、逆さに吹く。火の匂いが濃くなる。蹄の音。砂を巻く短い風。騎士団が到着した。行進ではない、仕事の足音だ。鎧に煤がつき、馬の鼻息は白い。先頭の馬から、女騎士が降りた。セリア。金の髪は高くまとめられ、額にほどけた一束を指で払う仕草まで整っている。青い小さなリボンが、煤の空の中で水面みたい
空が、赤かった。夜なのに、朝よりも明るい。王都の屋根が溶け、風は火の匂いを運ぶ。炎は大きな獣の息みたいに地面をなめ、石畳をやわらかくしていく。瓦礫の上に、ひとりの男が立っていた。オリオン。左腕には白い包帯。右手の剣は、炎の色を拒むように淡く光っている。空を覆う影がうねる。火竜だ。その咆哮に、鐘楼の鐘が震えた。誰かが逃げ、誰かが叫び、誰かが祈っている。オリオンは背を振り返らない。仲間はもう退いた。いまはただ、ここを“つなぐ”だけだ。包帯が、焦げた。白が黒へ、黒の隙間から白い光が滲む。オリオンは足をひらき、剣の切っ先を地へ。声は、驚くほど静かだった。「倒すんじゃない。――眠らせる」言葉は風になって、火に触れた。炎の尾がほどけ、竜の瞳に薄いまぶたが落ちる。地面に光の線が走った。川みたいに分かれては合わさり、やがて橋の形を描く。赤い夜が、少しだけ冷えた。竜の息がゆっくりと弱まり、街の泣き声が遠のく。オリオンは剣に体重を預け、うっすら笑う。「誰かが、もう一度渡ってくれるといい」剣からこぼれた光が夜を切り裂いた。その瞬間――鐘が鳴る。……そして、何も残らなかった。鐘の音で、朝が来た。灰色の空。屋根は薄く白く、雪の代わりに煤が積もっている。王都の片隅、古い井戸の前で、リオンは手袋をはめ直した。灰色の外套、包帯を巻いた左腕。年は若いが、背中に“英雄の影”がついている――その重みを、少し持て余している顔だ。「……よし。もう一回、引き上げてみるか」桶が石肌を擦る、ぎい、とした音が小さく響く。水面には白い埃が浮いている。底に引っかかっていたのは石くずだけ――そう思って手を伸ばした指先に、紙の感触が触れた。細い紙片。濡れて、ふやけて、それでも中心に小さな印が残っている。印は、わずかに歪んでいた。丸のはずの輪が、橋のかたちに引きのばされている。その瞬間、紙片がかすかに温かくなった。指先に、微かな熱。目に入らないほどの光が、紙の繊維を通って脈を打つ。リオンは顔を上げ、空を見た。灰が舞い、鐘の余韻が薄く残っている。「……夢の続き、か」言葉は誰にも届かない。彼は紙片をそっと包み、道具袋の奥にしまった。ギルドの朝は、いつも火花から始まる。鍛冶場の奥で、小柄なドワーフの少女リリィがハンマーを振るう。髪の先に火花が散っても気