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明月が一度も来なかった
明月が一度も来なかった
Author: 飛べないライスヌードル

第1話

Author: 飛べないライスヌードル
「お義母様。この契約、もう終わりにしたいんです。おっしゃいましたよね、もし深志が五年以内に私を愛することがなければ、契約は無効になる、と」

浅間静子(あさま しずこ)は、深志の母だ。静子は芽依の言葉に、わずかに眉を寄せた。

「確かにそう言ったわ。でも、あなたには風初がいるじゃない。あんなに可愛がっているのに、他の女を『お母さん』と呼ばせても平気なの?」

「ええ、平気です」

芽依の返答は、一切の迷いもなく、揺るぎないものだった。

「深志との結婚は、もともと契約で始まったかりそめのもの。風初を産んだことも、その契約の一部に過ぎませんでしたから」

そこまで言って、芽依はふっと遠い目をした。

「それに、いま夏寧さんが戻っていらした。深志も風初も、もう私を必要としていません」

この五年という歳月の中で、芽依も確かに深志に心を寄せた時期があった。だが、その想いは幾度となく裏切られ、残ったのは失望ばかりだった。

息子が引き起こした騒動を思い出すように、静子が深くため息をつく。

「……契約はあと七日。その書類にサインすれば、一週間後には浅間家を出て、あなたはもう自由の身よ」

芽依は迷うことなく、提示された書類に筆を走らせた。そして振り返ることもなく、浅間家の門を後にする。

車を走らせていると、芽依のスマートフォンの通知が鳴った。幼稚園から送られてきた写真だ。

画面の中には、満面の笑みを浮かべた深志がいた。その体は自然と夏寧の方へと傾き、風初は夏寧の手をしっかりと握っている。

彼らが身につけていたのは、風初の運動会のために、芽依が奮発して買ったお揃いの親子コーデだった。

運動会には夏寧が代理で出席し、そして親子ペアの服までもが、夏寧に奪われていた。

……

浅間深志と白坂夏寧の恋は、かつて世間を大きく騒がせた。

一方は、莫大な資産を継ぐ名家の御曹司。もう一方は、学業を捨てて芸能界という荒波に飛び込んだ新進気鋭のスター。住む世界の違う二人が結ばれたのは、ひとえに混じりけのない愛ゆえだった。

しかし、夏寧の人気が絶頂に達した頃、彼女は深志に別れを告げた。すべては自分のキャリアを守るため。

深い絶望に叩き落とされた深志の精神は、崩壊寸前だった。連日泥酔しては荒れ、ついには自ら命を絶とうとするまでに追い詰められる。「名家の跡取り、愛に破れ自殺未遂」――そのスキャンダルは、一夜にしてネット上を駆け巡った。

同じ頃、芽依は人生のどん底にいた。父が手術室で生死を彷徨う中、重くのしかかる高額な医療費を前に、なす術もなく立ち尽くしていたのだ。

そんな彼女に救いの手を差し伸べたのが、深志の母・静子だった。

提示された条件は、芽依が深志と結婚し、彼の立ち直りを五年間支えること。その対価として、父の手術費用を全額負担するというものだった。

後日、芽依は深志に紹介された。

「深志、芽依さんを妻に迎える気はないかしら?」

静子の問いに、芽依は祈るような心地でその答えを待った。もし彼に拒絶されれば、契約は成立せず、父を救う道は絶たれる。

だが、深志は死人のような顔で、ただ短く頷いた。

「……勝手にしてくれ。彼女じゃないなら、誰が相手でも同じだ」

そうして、契約から始まった関係。最初はただの利害関係に過ぎなかったが、献身的に尽くす日々の中で、芽依はいつしか深志に本気の恋をしてしまう。

けれど、深志の態度は氷のように冷たいままだった。芽依にまともな眼差しを向けることさえなく、二人の関係を証明する唯一の絆であるはずの婚姻届さえ、「仕事が忙しい」という理由で、いつまでも出されることはなかった。

そんな生活が五年目を迎えた、ある日の深夜。

深志がひどく酔った様子で帰宅した。虚ろな目で芽依をじっと見つめ、彼は低く呟いた。

「……子供、作ろうか」

その夜、二人は初めて体を重ねた。

芽依は、それがようやく芽生えた愛の始まりなのだと信じて疑わなかった。だが、残酷な真実を知ったのは後になってからのことだ。ちょうどその日、夏寧が新しい恋人の存在を世間に公表していたという事実を。

それでも、息子の風初が生まれてからというもの、深志の態度は少しずつ軟化していった。芽依の献身的な支えも、以前のように無下には扱われなくなっていた。

この穏やかな日々がずっと続く。そう思っていた――夏寧が恋人との破局を宣言するまでは。

破局報道が出たその日の夜、深志と夏寧が川沿いで手を繋いで歩く姿が週刊誌にすっぱ抜かれた。見出しには『世紀のカップル、復縁か』の文字が躍っていた。

それを機に、二人は堂々と連絡を取り合うようになり、あろうことか深志は夏寧をこの家にまで頻繁に招き入れるようになった。

そして、普段は母親である芽依にすら素っ気ない態度をとる風初も、夏寧に出会ってからはまるで別人のように変わってしまった。

すっかり彼女に懐き、事あるごとに「夏寧おばちゃんと遊びたい」と甘えて離れなくなったのだ。

家の中には、深志と夏寧、そして風初の三人が笑顔で写る写真がどんどん増えていった。

深志はもともと写真に撮られるのを極端に嫌う性格で、結婚してからの五年間、芽依とのツーショット写真など一枚たりとも存在しないというのに。

だが、夏寧が家に出入りするようになってから、深志は最新の一眼レフカメラを買い込み、あまつさえ自分たちを盗撮した三流のゴシップ記事すら切り抜いて、丁寧にスクラップするほどだった。

夏寧のこととなると、彼の中の常識やルールなど、すべてが特例として覆るのだ。

芽依は痛いほど思い知らされた。これから先、どれだけ長い時間をかけようとも、彼が自分を愛してくれる日は絶対にこない。深志の心の中には、永遠に夏寧しかいないのだから。

――けれど、幸いなことに、これはただの契約だ。

あと七日。そうすれば、尊厳をズタズタにされたこの家から離れ、海外で小説家になるという長年の夢を追うことができる。

そう思うと心が少し軽くなり、芽依はスマートフォンを取り出して海外の出版社に連絡を入れ、七日後に発つ航空券を予約した。

車を走らせ、自宅に戻ってきた芽依は、いつもの定位置に車を停めようとした。

だが次の瞬間、すっと横から割り込むようにして、見慣れた夏寧の車が芽依の駐車スペースを鮮やかに奪い取った。

そして、その車から楽しげに降りてきたのは、他でもない芽依の夫・深志と、お腹を痛めて産んだはずの息子・風初だった。

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